源氏のいない二度目の年が明けた。

 新年の盛儀は賑々しく行われたが、どことなく寂しい気配は拭えない。

 貴子の顔色を伺いながらも、だれもが源氏を恋しがっていた。

 その様子に貴子は何とも言えない哀れみを覚える。彼らのどれだけが源氏をわかっているだろう。

 それは源氏の考えや嗜好のようなものではなく、単に源氏もまた年相応の若者であるという事をどれだけの者がわかっているのかと思うのだ。

 源氏は決して達観した青年ではない。

 特に思慮深いと言う事もない。

 彼は多くの才と能力、そして極めて美しい容姿に恵まれた、ごく年相応の青年なのだ。

 むしろ思慮という意味で言えば、源氏の思慮は同年代に比べて浅いのではないか。言動だけを見れば年齢のわりに子供っぽい青年だと言えそうな気がする。

 誰かとうまくやって行こうとすれば、他人に好かれたいと願えば、人は必死に考えるだろう。失敗や挫折は正に成長の糧だ。

 逆に言えば挫折を知らない源氏には成長の機会などないのではないか。

 誰からも愛され、大切にされてきた故院の愛児。

 あやかしや見鬼を魅了する強い天孫の力。

 何事もすぐに上達する、神童のごとき才。

 見鬼でなくとも見とれずにはいられない美貌。

 これではまるで、呪われているようなものだ。

 源氏には本当に大切なものとそうでないものの区別がおそらくついていない。 

 きっと本当には他人の気持ちを推し量れない。

 今回の須磨行きが、源氏の成長の糧になればいい。

 貴子は心からそう願っているが、同時にそれが難しいであろうこともわかっている。生まれたときからひたすらに愛されるだけで育った源氏には、自分は優遇されているのが当たり前で、優遇されているのだという意識もないだろう。

 誰もが源氏に魅了される。

 それは源氏にとってとても不幸なことだと貴子は思う。

 きっと源氏は永遠に子供であり続けるのだろう。大人になるために学まねばならないことをほとんど学んでいないのだから、大人になれる道理がない。

 それは源氏にとっても、源氏をとりまく人々にとっても不幸なことだが、今更どうしようもない。

 もっと、源氏をきちんと育てるのだった。

 いっそ手元に引き取ってしまえばよかった。

 源氏の養育に関わった一人として、貴子の胸を後悔が焼く。

 幼い頃の源氏は後宮を好きに走り回って過ごしていたが、逆に言えば誰も源氏の養育に責任を持っていなかった。

 無責任にただ可愛がる事を育てるとは言わない。


 どん

 衝撃を感じた。

 貴子は歯を食いしばって衝撃に耐えた。

 結界が破れた。

 端がほつれた程度の話ではない。

 封じ目そのものが破れている。

 貴子の身体から無数の紅い蝶が飛ぶ。

 破れた封じ目を目指して飛んでいく。

 なまじ源氏という存在があったせいで引き寄せられた多くのモノたち。

 源氏がいなくなって暴走しかねないそれらを貴子は宮廷の結界を強化して押さえ込んできた。

 その封じ目の一つが破れたのだ。

 対処を急がなければ次々封が弾けてしまいかねない。

 異常に気づいたのか宮廷中にざわめきが広がる。

 あやしみ

 訝しみ

 怖れ

 怯え

 ああ、やめて。

 結界が、揺れる。

 弾ければ、源氏に魅了されたモノたちは一斉に源氏のいる場所へとなだれこんで行くだろう。

 京も、途中のすべての場所も、躊躇うことなくなぎ倒して。

 それは避けなければ

 それを避けるために、貴子のこれまでの日々があったのだ。

 配下の僧も陰陽師もすでに動き出している。

 せめてもう少し持ちこたえて、なんとか被害を小さくしたい。

 ぱあんっっ

 叩きつけられるような衝撃を感じて、貴子は意識を手放した。


 誰かがいる。

 いや、貴子にはわかっている。

 わからないはずがない。

 貴子の背の君。

 貴子にとって誰よりも、何よりも大切な方。

 なだれてゆくモノどもを故院が見ている。

 そのモノたちを押しとどめ、勢いを削ぐ。

 「紅姫。」

 泣き出したいほどに懐かしい声が貴子を呼んだ。渇ききった土に水が染み入るように、その声に満たされる。

 「大丈夫だ。光は他へ移す。よく耐えた。」

 「みこさま。」

 故院の指先が貴子の髪に触れて、消えた。


 貴子が気を失っている間に、京には嵐が吹き荒れていた。

 目が覚めて後も雨が続き、とよもすうねりが京をおし包んでいる。

 結界はその殆どが吹き飛んでいた。

 貴子は配下と共に早速その復元に励んだが、一度吹き飛んだ結界の影響をなしにできるわけではない。  

 人々の心は激しく動揺し、貴子の作業を妨げた。

 嵐は京だけにではなく、源氏のいる須磨の浦にも吹き荒れたという。防ぐもののない海辺の嵐は、京育ちの源氏には堪えたことだろう。

 京から放たれたモノたちは源氏を目指して飛んだのだろうが、貴子はあまり心配してはいなかった。

 源氏の持つ天孫の光に期待したということもあるが、なによりも故院の言葉を信じていた。

 あれほどに我が子源氏に魅せられ、愛していた故院が、源氏を危険に晒すはずがない。

 むしろ貴子が今やるべきなのは、結界の復元と、結界を破った当人を突き止める事だ。

 特に結界の復旧は急務で、出来る限り急ぐ必要があった。

 宮廷は多くの気持ちが揺れ動く場所だ。早く安定させて仕舞わないと、何が起きるかわからない。

 実際、帝が目の不調を訴えるようになっていた。

 結界が破れた時に、数多の妖かしが源氏を追って行ったことと関係があるようには思うが、実際のところはよくわからない。

 帝は目の不調を覚える前に、故院の姿を見たそうで、この嵐は故院が源氏の処遇を憂いておられるせいだと、またも貴子に源氏の召喚を言い出していた。

 だめだ。

 結界は明らかに破られた。

 誰かが策動している。

 この状態でどうして源氏を呼び戻せよう。

 源氏がいないことによって、人々が変事でないことまでを変事であるかのように受け止めてしまっているところに、この度の正真正銘の変事だ。

 もしも今、東宮の出生の秘密が漏れるような事があれば、すべての変事の責任は東宮に被ることになり兼ねない。

 源氏は明石に居を移したのだという。

 もとは三位の中将だった男が、何を思ったか播磨の国司に身をやつし、そのまま明石に住み着いているのだが、その邸に引き取られたらしい。

 その男は確か、源氏の生母である更衣珠子の従兄弟にあたるはずだ。故院が仰った源氏を移すと言っておられたのがおそらくその邸なのだろう。

 貴子も今は明石の入道と呼ばれているその男が、優れた見鬼で琵琶の名手であったことは覚えていた。ならば源氏の身をあやかしであれそれ以外にであれ、危うくさせるような事はあるまい。

 それなら貴子は源氏にまで気を配らずともよくなったわけで、宮廷の結界さえ戻すことが出来れば、結界を破った者を追うことに専念できる。

 宮廷を揺らせたい者。

 流れを変えたい者。

 そして宮廷の結界に手を出すことのできる者。

 そんな者は多くはない。

 つきとめるのは難しくはないはずだ。

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