逢瀬

 その密やかな噂を貴子に届けたのは配下の僧侶だった。

 「中宮さまが源氏の君のためのご祈祷を依頼されたよし。」

 なぜ、などと考えるまでもない。

 源氏は東宮のまことの父。

 東宮の母である輝子内親王が心にかけることになんの不思議もなかった。

 ただ、そこから不審に思われるのは困るのだ。そういう意味では迂闊なことをしてくれたと思う。

 人の口に戸はたてられぬ。

 そして下人であれ、童であれ、みな口を持っているのだ。

 貴子は特にそのような下々の「口」に留意するようにしている。下と言い、上と呼び、どれだけ違いのあるように繕ったところで、同じ場所にいる人間同士の見聞きすることに、それほどの差があるという訳ではない。秘密の漏れる端緒は、案外そんなところにあるものなのだ。

 「故院より源氏の君の幼き折の母代を頼まれた故の親心であろうが、源氏の君は罪人。中宮も今少しお立場を考えられねばならぬ。」

 貴子の呟きに、庭に立っていた僧侶が一礼して去る。僧侶はさり気なく貴子の言葉を広めるだろう。貴子の不興を知れば京雀の囀りも幾らかはおさまろうというもの。

 少なくとも、「なぜ中宮が祈祷を依頼したのか」ということへの勘ぐりはかなり抑えられるだろう。

 人は信じたいものを信じるものだ。

 それでは誰もが信じたくなる、物語を与えてやればいい。

 美しく故院に忠実な中宮と、権勢づくの太后。

 貴子が権勢を欲し、行使する太后であればあるほど、人は出家した輝子内親王に故院へのまことを見ようとするだろう。東宮の父が故院ではない可能性など、誰も気にしないに違いない。

 だってそれでは美しい物語にならないではないか。

 若く、美しく、尊い身分の寵姫。

 彼女が故院の死の床に付き添い、その臨終を見届けた。

 立后を逃した貴子は拗ねて故院を見舞おうともしなかった。

 世間では、そういうことになっている。


 密やかに闇の中を進む。

 決して人目につかぬよう灯りは持たず、月明かりを頼りに歩む。

 あの方の生命はもう長くない。

 目立たぬように式神を飛ばし、ずっと見守ってきた。弱った身体を守るために、病室に結界をかけもした。

 それでもこぼれ落ちる生命をとどめようはなく、それがつまり寿命というものだった。

 あの方は逝こうとしている。

 貴子の背の君。

 何よりも大切なみこさまが。

 そしてこの、ぎりぎりの時になって、貴子の事を呼んでいる。

 誰にも見つからず、会いに来いと。

 それがどれだけ困難な事だとしても、会いに行かずになどいられるだろうか。

 濃紫の袿を被ぎ、衣装を慣れぬ壺折にたくして、貴子は夜の庭を進んだ。

 紅の蝶が貴子を背の君の元へと導いてゆく。

 静かに階を上がり、被衣を脱ぎ、衣装をたくし上げていた紐を解いて身繕いすると、そっと御簾のうちへと足を踏み入れた。

 ひらひら舞う紅い蝶の向かう先に、故院がいた。

 「紅姫、久しぶりだな。いや、そうでもないか。」

 誰もいない御帳台の内に、故院は静かに横たわっている。

 「いつでもおそばにおりましたゆえ。」

 故院の病臥以来、貴子の式神である紅い蝶は、常にこの御帳台の内にいた。

 中宮輝子内親王が看取りについているときも、そうではない時も。

 「そうだな。そなたはいつもそばにいた。」

 そのため息のような声が余りに細いのに、貴子は胸を締め付けられる。

 貴子が誰より愛した人。

 貴子を誰より傷つけた人。

 貴子にとって、何より大切な人。

 その人を貴子は喪おうとしているのだ。

 「東宮につつがなく帝位を踏ませよ。」

 それが遺勅であるのはすぐにわかった。

 故院は後事を貴子に託したのだ。それを託されるべき者は、確かに貴子の他にはない。

 あの、五色の空を見上げた日から、貴子はただ故院のために生きてきたのだから。

 告げるべきことを告げて少し気が楽になったのか、故院が微笑んだ。

 「ああ、やっぱり紅がよく似合う。」

 貴子が濃紫の被衣の下に着ていたのは、艶やかな濃き紅の表着に紫薄様、それから紅の単。

 それはおそらくこの世での最後になるだろう逢瀬のために、貴子が心を尽くして選んだ衣装だった。

 「蓮の台で合う時にも、紅を着ておいで。」

 そうつぶやいて、力尽きたように目をとじる。

 故院が弱々しい寝息をたてるのをきいて、貴子は静かに御帳台を辞した。

 そのまま目覚めることなく、故院は崩御された。


 貴子とて看取りがしたくなかったわけではない。

 ただ、中宮である輝子内親王が枕べに付き添っているのなら、貴子が出しゃばることは出来なかった。

 あくまで嫡妻は中宮。

 我が子の即位によって太后として立后を果たしてはいても、それは単に母后、国母であるという事だ。

 輝子内親王の立后が、源氏の血を引く照継親王の立坊にあることを知ってはいても、その事に貴子が傷つかなかったわけではない。まして故院が病臥してからは、自分が嫡妻の立場ではない事を思い知らされるようで辛かった。

 式神に意識を乗せて見守りながら、どれだけ歯がゆく思ったことか。

 輝子内親王が席を外し人少なになると、故院は式神の紅い蝶を招かれるのが普通だった。

 「紅姫、ずっといてくれるのはそなただけだな。」

 どうして、と思う。

 中宮になどなれなくてもいい。

 せめて、貴子以外の中宮がいるのでなければ貴子が故院を看取る事ができたのに。

 貴子には、もう止めようもなく死へと歩み始めた背の君を、本当に見ていることしかできなかった。

 だれよりも、どの女御よりも、中宮よりも、故院をかけがえなく思っていたのは貴子であったのに。

 最後の逢瀬から貴子はまんじりともしなかった。

 遠からず知らせが来ることはわかっていた。

 蝶は院を見守っている。

 蝶を通して貴子は、院がこの世の人でいてくださる残り僅かな時間を、決して取りこぼすまいと息をつめていた。

 ふと、院の息がとまった。

 院は眠っておられると思ったからか周囲には誰もいない。

 そして、貴子のそばに院が立つ。

 「ああ、軽くなった。」

 それはすでにこの世の体を脱ぎ捨てた院の姿だった。

 「頼んだぞ、紅姫。」

 貴子は泣かなかった。

 そんな余裕はなかった。

 故院に託されたつとめを果たさなければならない。

 自分の悲しみのために泣くのは、そのあとで良かった。

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