紅絹
「
故院に初めてそう言われた時のことを、貴子は今でもありありと思い出せる。
あれは十五になった年の初め。庭は紅梅が盛りだった。
うっすらと積もった雪の下に咲く紅の花はいかにも気高く美しく、艶やかな香が冷たく鋭い風を甘く和らげる。
その日、貴子は紅の細長に紅梅襲の袿を合わせていた。
故院は表が白、裏が蘇芳の梅の重ね。
その故院の言葉がとても嬉しかったのは、一つにはその日身につけていた細長が、故院の御母女御から賜った品だったからだ。
公の場であれば、許しがなければ身につける事のできない貴色を、女御の御料からさいて賜ったという事実は、なんとも誇らしく面映ゆく、それだけにもっとも大切な故院からお褒めの言葉を賜ったということが、さらに尊くも感じられた。
その頃、女御は三人目の御子を身籠っておられ、貴子の母もまた身籠っていた。二人ともどういうわけか揃って悪阻がきつく、貴子と故院、それに故院の妹宮である雅子内親王は三人で一緒にいることが多かった。あの時も雅子内親王は紅梅色の細長に萌黄匂を重ねた衣がよく映えて、とても可愛かったのを覚えている。
紅梅のよく咲いた小枝を折って、雅子内親王の髪に挿すと、内親王はくすぐったそうに笑った。
ひどく明るい日だった。
雪が積もっていたせいかもしれない。
空は澄み渡った青さで、風は冷たいけれど穏やかだった。
炭櫃のなかで赤くいこった炭のはぜるのさえ、ひどく面白いことに思えるような一日。
新年の賑々しい行事はあらかた終わり、そういう意味ではなんということもない日であったはずだ。
その一日を、貴子は何度も何度も思い出した。今も、思い出す。
雪の積もった庭に出て、三人で歩き回ったこと。
その日は御母女御も、貴子の母も調子がよく、御簾越しに庭を眺めたりしていたこと。
女御のお腹はもう臨月に近くて大きく張り出して、とても重そうだったこと。
雅子内親王が、ひどく女御に甘えていた事。
女御が二人目の皇子を産んで、そのまま逝去されたのはあの少しあとだった。
故院は十二、雅子内親王が十一。
内親王は長い間泣き暮らし、弟宮にもあまり会おうとしなかった。内親王にしてみれば、弟宮は御母女御と引き換えにこの世に生を受けたように思われて、幾分疎ましかったのかもしれない。
その弟宮も難産の末に生まれたせいか、あまり丈夫な赤子ではなかった。
貴子の妹朱姫が生れたのはその半年後。
こちらは特に難産でもなかったのに、後産の最中に気を失った貴子の母は、そのまま目を覚まさなかった。
貴子には朱姫が可愛かった。
母と引き換えに生れた疎ましさより、母を知らない哀れさがはるかに勝った。
それは貴子と雅子内親王の気性の差というよりは、寧ろ年頃の差だったのかもしれない。
貴子は既に十五。
母を恋しがる気持ちはあっても、もう母にべったり甘える年頃は過ぎていた。
次の年の梅を、三人は揃って鈍色の衣をまとって眺めた。
「やっぱり、紅姫には紅が似合うよ。」
その時も故院はそう言った。
貴子がまとっていたのは淡墨を薄様に重ねた下にごく淡い薄紅の単。仏前に供えるための紅梅の枝を手にしていた。
「紅がいい。薄紅ではなくて濃い紅が。」
それはもしかしたら橡をかけた鈍い色ばかりのなかで、紅梅が余りに鮮やかで印象的だったと言う事なのかもしれない。
けれど、その日から紅は貴子の色となり、紅の似合う后になる事が貴子の目標となった。
喪中の衣に紅はもちろん許されないので、貴子はまず水晶の数珠の緒を、濃い紅に替えた。
源氏のいない新年は二度目だが、そこはかとない違和感は今もなお拭えない。源氏という存在を忘れることは、どうしてもできないのだった。
貴子が最近体調を崩しがちなのさえ、世間では源氏を冷遇したせいだと囁いているのだという。
馬鹿馬鹿しい。
それでは源氏の存在は、半ば呪いのようなものになってしまう。
今上の寵姫に手を出すことは皇統を危うくする行いだ。しかも相手は昔捨てた女ではないか。源氏の行動のどこに正義があり、その境遇のどこに問題があるというのだろう。
倫に背く行動に対する制裁を、問題あるように感じるのは、源氏が余りに力に溢れているからなのだろう。
あれもかわいそうな子だと貴子は思う。
強すぎる力というのは余りに多くのものをひきつけてしまう。
その力故に多くを当然のように得てきた源氏は、もしかしたら本当には「足りる」ということを知らないのではないか。だからこそ源氏は求めてはならぬものを得ようとしてしまうのかもしれない。
尚侍である結子しかり。
中宮輝子内親王しかり。
貴子の体調の不備は、疲労によるものだ。
源氏を失ったことで動揺する人の心は緩みを生む。
不安はすきを作り、疑念は陰を呼ぶ。
それをほとんど一人で支えようとすれば、天孫の力を持たない貴子に相応以上の負担がかかるのは致し方なかった。その負担はこの一年少しでじわじわと貴子を疲弊させ、少しづつ身体を損なわせはじめている。
あと一年はなんとか頑張れるかもしれない。
でもその先の事には自信がない。
いったいいつまで貴子は、この重荷を担い続けられるだろう。
ため息をつき、琴を手に取る。
こぼれ落ちる花びらのような、落ちて弾ける白露のような音はゆるゆると曲を作る。
自分が澄んでいくのがわかる。
曲は少しずつ早くなってゆく。
それは天の川の煌めきのように、清流のせせらぎのように、流れ、うねり、宮廷を清める。
弾いている時は清められたように自由でも、弾き終われば背負った物の重さが全身にのしかかる。そもそも、もう旋律を利用しなければ、毎日の結界を整えるのさえ辛いのだ。
それは源氏がいないという不安だけでなく、源氏は戻って来ないのではないかという不安を煽り、源氏のいない朝廷を牛耳ろうとする意思が働き始めていることも関係している。
不安が生むもの。
不安につけこむモノがひきおこすこと。
夜の宮廷に影が立つのさえ、世が乱れた印などと言い出す始末だ。
見えているかどうかはともかく影はいつでも宮廷の庭にたっている。
問題はむしろ、普段はそれを見ない者が見てしまっていると言うことだ。
それは結局不安のなせる技であり、宮廷が乱れているということにほかならない。
せめて帝が協力的であればとは思うが、事情をあかせない以上如何ともし難かった。
帝はすきあらば源氏を呼び戻そうと、貴子に働きかけてくる。帝が浮足立っていては宮廷が収まるはずもない。
出家した中宮が行いすまして静かにしているのが、せめてもの救いだった。ひたすらに故院の菩提を弔う中宮を悪く思う者も少ないだろう。その分、出家せずに権勢を振るう貴子が悪く言われるぐらいは構わない。
遺勅を。
故院の遺勅を果たさなければならない貴子が、なぜ出家など出来るだろう。
故院の遺志を守ること。
それこそが故院の菩提を弔うために貴子がなすべきことだ。
それに。
いつかそれ程遠くない未来。貴子が故院の元に向かうときに、貴子は紅をまとっていたい。
故院に似合うと言われた色をまとって、故院とまみえたいというのが、貴子の決して口には出さない強い望みなのだった。
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