追儺

 姪の典子が後宮の貴子のもとを訪れたのは、そろそろ年の瀬の支度の始まろうかという頃だった。

 「皇太后さまにはご機嫌麗しゅう。」

 典子は地味な娘だ。

 顔立ちはちんまりと整っているが、華やかな美貌と言うわけでなく、何よりあまりに大人しい性格が全身から滲み出ている。権門の娘でありながら、野の慎ましやかな花を連想させる。

 「あなたも元気そうでなにより。」

 貴子はこの姪が嫌いではない。幾度かしか会った事はないが、真面目に慎ましい話し方は好もしかった。後宮を束ねるのには向いていないだろうが、名門の北の方として本邸をまとめてゆくのならできるだろう。

 だからこそ、行律親王との縁談に、異を唱えなかったのだ。

 行律親王は東宮以外では有力な親王の一人だ。ゆくゆくは兵部卿や太宰師などの職を任された有力宮家となるだろうと考えていた。

 源氏が失脚さえしなければ、その規定の路線を進んだはずだ。

 今、こうして貴子の雑談に応える典子はわかっているのだろうか。典子の父惟時が娘の将来に立后を思い描くようになりつつあるのを。

 既に既婚の身でありながら、こうして貴子のもとに行儀見習いに出されているのもその現れだ。典子が現皇太后の姪であることを強調し、印象付けようとしている。

 典子は年をまたいで貴子の元に滞在する予定だったので、夜には行律親王も現れた。

 外見は今上ほど故院に似てはいないが、ふとした仕草に争えない血のつながりを感じる。母が安子である割には、ぎらぎらしたところのない落ち着いた若者だ。

 行律親王というよりは母の安子に、帝位を諦めさせねばならないのだが、それが中々に難しい。今のところ公然と立坊を狙ってきているわけでもないし、表立って行律親王には傷がない。

 これで行律親王が東宮よりも年下なら、東宮のさらに次という考え方もあるのだろうが、東宮は飛び抜けて幼いのでそういうわけにもいかないのだった。

 深夜に雪が降り出した。

 だらだらと寒くなりきっていなかった京は一気に冷え、朝には仄白く染まっていた。


 「おにやらい!」

 ぴんと張り詰めた寒さをさらに張り詰めた声が打つ。

 ぱんっと弾ける心地よい感触が貴子の意識を揺らす。

 埃に塗れた敷物をふるい、叩くように、穢は追儺の声に打たれて潜んだ隅から叩き出される。

 そこかしこからざらざらと鳴る振り鼓の音に、叩き出された穢は掃き集められ、よりぬきの大男に面を被せた厳つい方相氏が宮廷の、そして京の外へと追ってゆく。

 貴子はこの、新年を迎える為の清めの儀式が好きだ。

 祓い清める方法はいくつもあるが、追儺の煤払いめいたやり方は、なんとも心地よい。

 こんな風に人の悩みも掃き清めてしまえればいいのにと思う。

 悩みというものに尽きるということはないが、一時でも掃き清めてしまえれば、そのわずかな間だけでも心惑わずにすむだろう。

 実家でも触ったことはあるのだろうが、典子が面白そうに振り鼓をならす。

 ざらざらという音に小さなあやかしたちが飛び出すのを、可笑しがっていっそう鳴らす。

 あんなふうに戯れたことが何度もあった。

 自分の産んだ皇子、皇女たちと興じたことも、妹の朱姫や雪姫たちと一緒だったこともあった。

 幼い故院と一緒だったこともあったはずだ。

 あれはまだ故院が袴着をなさる前、貴子が紅姫と呼ばれていた頃。

 年が明ければ故院の袴着が行われる事が決まっていて、その準備のために故院と御母女御は里下がりをしていた。


 ざらざらざらざら

 振り鼓の音を、面白いとみこさまが笑う。

 面白いのは音だけではない。その音に小さな者たちがこけつまろびつするのが面白いのだ。

 紅姫はあわてるものたちをちょっと気の毒に思いながらも、みこさまが喜ぶのでついつい振り鼓を振ってしまう。

 追儺の方相氏の通り過ぎたあとには、穢れたものなどほとんど残らない。まして天孫の光をもつみこさまの周囲に集まるのは、美しい明るいものばかりだ。

 それでも振り鼓の音は、彼らをゆらしてまろばせる。

 ざらざらざらざら

 振っているとその内その拍子に合わせて踊りだすようなものまで現れた。 

 みこさまがいっそう喜ぶ。 

 ざらざらざらざら

 紅姫は腕がだるくなっても振り鼓を振り続けた。


 もう少し長じてからは故院と二人振り鼓を鳴らしながら、邸の穢れを払い出したりしたものだ。故院は歩き回るだけでも天孫の光で穢れを払うものなのだけど、振り鼓を使えば影に逃げ込んだあやかしも払い出せるのだとわかった。

 あの頃、貴子にとって世界はとても単純だった。

 守らなければならない故院とそれ以外。

 故院に良いものと、そうでないもの。

 それで全てだった。

 良くも悪くも貴子は故院のために存在しているのであり、自分が故院を大事にするように、故院が自分に好意と信頼を寄せてくれることを疑わなかった。

 ある意味ではそれは最後まで貫かれたと言える。

 貴子は故院にとってもっとも親しい、もっとも信頼できる人間であり続けた。

 ただ、それはかつてのような混じりけなしの喜びばかりでなく、痛みも苦さも相応以上に伴うものではあった。

 本当はどうすればいいのだろう。

 そう自分に問う時、人はわかっているものだ。

 自分が今、為している選択が、間違っているのだと言う事を。

 たぶん自分は間違っている。

 貴子は自分の行動をかえりみてそう思う。

 倫に外れた生まれの東宮をたて、同胞はらからの秘密をあなぐりたて、一族を踏みにじるような事をしてまでも、ただ故院の遺勅を果たそうとすることが、正しい事だとは思えない。

 それでも、他のどんなやり方をすればよかったのかと自分に問う時に、他に選べる道のないことに気づくのだ。

 誰を、どれだけ傷つけても、と言う願いはもう妄執と呼ぶべきだ。

 いっそ、こんな気持ちは全て、払われてしまえばいいとも思う。

 そしてこんな自分を一族の大姫として頼りにしている弟や典子に、ひどく申し訳ない気持ちが湧く。

 行律親王は良い若者だ。

 立坊するにあたって決して見劣りはしないし、典子が入内し立后するなら、決して一族にとっても悪い話ではない。母である女御安子は左大臣清成の融子ではあるが、左大臣には典子に対抗して入内させられる娘がいない。

 冷静に考えれば、十宮よりもよほど一族のためになりそうだ。

 十宮は幼すぎて当分後宮は発生しないし、後援者の源氏がいなければ、自動的に母の中宮輝子内親王の兄である彰善親王が後ろ盾ということになる。彰善親王は子福者なので、誰か女王を入内させてくるに違いない。そうなれば后の有力候補になるだろう。

 でも、それでも。

 故院がそう望むのなら十宮を当極させなければならない。

 貴子は、ただ故院のためにだけ在るのだから。

 「おにやらい」

 ピンと張った声が遠くなる。

 すでに追儺の列は宮城を出ようとしている。

 ざらざらという振り鼓の音は貴子の心を叩くが、妄念を叩き出してまではくれない。

 「おにやらい」

 声が、ざわめきが去ってゆく。

 貴子の心を、想いを取り残したままに。

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