こぼれ萩

 夏が暑くなりそびれた年は冬も寒くはなりきらないという。

 実際、涼風のありがたみも薄く、だらだらと季節の移る中で、夏の半ばに咲き出した萩が満開に咲きこぼれた。萩は貴子にとっては思い出深い花だ。

 女御として暮らした弘徽殿には萩の花が群れ咲き、故院のお召を待った清涼殿の弘徽殿の上の御局にも萩を描いた戸があった。

 そういえば、輝子内親王を見かけたのは萩の戸ごしだ。萩の戸の向こうは藤壺の上の御局。場合によっては戸一枚を隔てて、貴子と輝子内親王が控えているような折もあったのだ。

 貴子がはしたなくも戸の向こうを覗いて見る気になったのは、そのころ光が大量の藤の花房を運んで来たことがあったからだ。

 子供たちばかりか女房たちまで面白そうに騒いでいるので、気になって覗いてみると、老猫が首に巻いた赤い紐に、沢山の花房を挿されて座っていた。澄ましかえって座っているのが妙におかしい。

 それだけ大量の見事な花房をどうしたのかと問えば、藤壺でもらったのだという。光は花をくれた人に見せるのだと、老猫を抱いて運んでいった。

 藤壺に新しく若い女御が入ったことはもちろん知っていた。 

 輝子内親王。

 あの、長時の娘昌子所生の内親王で、斎仲親王と立坊を争った明善親王の同母の妹宮に当たる。貴子と故院の最初の子である明子内親王と同い年のはずだった。

 最初に入内の話を聞いたとき、なぜよりにもよってと思った。

 輝子内親王の祖父は孫が東宮位を逃したことで憤死した人物なのだし、当の本人は娘と同い年という若さ。しかも母親の女御昌子は反対しているという。

 貴子は諌めようと思って、けれど故院にお会いして諦めた。貴子が輝子内親王の名を出した途端、故院はギラつく目で貴子を見た。

 「内親王は珠子に生き写しだそうだ。どの女官を遣わしても皆そう言う。」

 珠子が出仕などしなければ良かったのにと思う。

 それは嫉妬からではなくて、彼女の出仕によって誰も幸せにならなかったと思うからだ。

 当人は恨みを買って早世し、母親は老耄して枯れるように薨じ、故院をはじめ多くが歪んだ。歪みはさらに周りを取り込んで、多くの人を不幸にした。

 輝子内親王はその筆頭だろうと思う。

 娘の入内に反対し通した昌子が亡くなると、若すぎる内親王は結局後宮に移され藤壺を賜ることになった。

 覗き見た輝子内親王はたしかに美しい少女だった。

 だが珠子には似ていなかった。

 むしろ源氏にこそ生き写しだと貴子には思えた。

珠子のあの、美しい影めいた感じは微塵もなく、自ら照り輝くような姫宮だ。

 この内親王を珠子の形代にするのは無理だ。

 それはまるで日輪を月の形代するようなもので、うまく行くはずがない。

 貴子はひっそりと、輝子内親王の入内が不幸の萌芽となるであろうことを覚悟した。

 

 作柄はあまり良くなくても実りはあり、帝は最も大切な祭りの季節を迎えている。

 新嘗祭。

 得た恵みに感謝し、来年のさらなるめぐみを祈念しつつ、祖霊とともに実りを口にする祭り。

 だらだらと冷えていったために今年は紅葉もどこかぼやけて鈍い色で、景色そのものも全体に鈍く感じる。

 それでもその祭りが終われば振る舞われる新米の味は、宮中に働く者たちをほんの少し活気づかせた。

 古い米に比べて新しい米は甘くほっこりとしている。作柄の良くないとされる今年の米でも、やはり古米に比べれば甘い。甘みは人の心を和ませる。

 貴子はほんのわずかながら、息をつくことができた。

 人の心に疑いが兆し、対象が定かでない怯えが生まれるとと暗いあやかしを呼び込みやすい。明確な何かに対する恐れの方がずっと扱いやすいのだ。

 だから貴子は恐れられるにつとめた。

 宮中に、常よりも強い結界を敷き、怪異の噂が増えることのないように心を配りもした。源氏が京を去って後、ずっと気を張っていたのだ。

 新嘗祭にまつわる仄かな和みは、その貴子にとってわずかに息をつける機会だった。

 強く張りつめているものを緩ませるわけにはいかないが、時には息を継がなければ貴子が保たない。ずっと消耗だけが続いているのだ。

 辛いのは、一時なりとも貴子の代わりをできる人間がいないことだ。宮廷の動揺を抑え、あやかしに目を配り、様々な企みをできるだけ現れる前に挫く。

 それだけの事を一人の貴子がなすためには、相当の無理をしなければならない。

 特に女御安子からは決して目を離すわけには行かない。

 貴子は謀と式神を幾重にも放ち、安子の動向を監視した。

 女御安子は今のところまだそれほど派手な動きはしていない。ただ、行律親王が優れた親王であるという評判がじりじりと広がっているだけだ。慎重で堅実な手の打ち方だが、行律親王の立坊を目指すなら、いずれ思い切った動きを見せる必要がある。その時に上手く機会をとらえられれば、決定的に安子の野望を挫けるかもしれない。

 安子の野望を挫くか、いっそ東宮が即位する。それが源氏を呼び戻すために最低限必要な条件だ。

 まだ、先は長い。

 焦ってはいけない。

 焦れば打つ手が粗くなり、どこかで綻びができるだろう。

 とは言っても、貴子の力にも限りはあり、時間がかかればかかるほど、厳しいことになるであろう事も事実だ。

 朱姫のことで懲りた貴子は、他の見鬼の妹たちにもひととおりの事しか教えてはいない。こんな時の片腕を欠くのは貴子自身の不明のせいだ。

 もっとも、たとえ妹であろうとも、貴子がうけた遺勅に纏わる事情は到底話せるものではない。父にも、惟時にも、我が子である帝にすらも、話す事は出来ないように。

 吹き込んでくる風が冷たい。

 それは身を着るような冷たさではなくて、夏に触れる清水のような、心地の良い冷たさだった。

 だらだらといつとは知れず下がった気温が、いつの間にかこの冷たさになっていたことに、貴子は少し意表をつかれた。女房に命じて御簾を上げさせて庭をみる。

 赤くなりきらないままに茶色く変じつつある楓にすでに葉を落とし始めた桜。その足元に鮮やかな赤紫が見え隠れしている。見ると庭のそこここに植えた萩が散り、赤紫の花がこぼれ落ちて庭中に散っているのだった。

 もう、秋が深い。

 必死に、揺れる朝廷を支え、帝を叱咤して、いつの間にか源氏が京を去ってから一年が過ぎようとしていた。

 

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