マイ・レディ

「英兵殺傷事件の事後処理で代理公使以下は執務室で仕事中だよ。僕は別の用があって外出してたんだ。通訳生の身分だから雑用もやらなきゃいけなくてね。君たちのことはだいたい想像がつくよ。洋書調所の関係者だろう? 文吉、君はフランス語の教師見習いってところかな。城次郎のことはわからない。薬品の臭いがするからケミストかドクターかもしれない」

 アレックスの見立てに大筋間違いはなかった上、アレックスは文吉と城次郎の目的が、イギリス公使館への用事ではなく椿の護衛だということも見抜いていたし、椿の手前、あえてそれを明かしていない。文吉はそれも気づいていたので、ジーボルトの息子に感心しつつ警戒心を一層強めた。

 ちらりと横目で椿を見ると、彼女は幸せそうに甘いビスケットをほおばっている。

フランス語を教えるのは良いが、椿が必要以上に異国に親しみを覚えていくのはなんとなく面白くない。江戸っ子なんだから、みたらし団子やあられでも食えばいいんだ。

 相棒がいかにも不機嫌そうな顔で腕組みをしているので、城次郎はアレックスの見立てに答えることにした。

「君の言うとおり、文吉は仏学稽古人世話心得というお役目を仰せつかっていて、僕は医師の見習いだよ。西洋医学所って知ってるかな。そこで働いてる」

「なるほどね。それで、椿のナイトも務めてるってわけか」

「……内藤?」

 首を傾げる椿に、アレックスは微笑んだ。この娘にはフランス語で説明した方が通じるのだったと思い出し、アレックスは言い直す。

「シュヴァリエと言ったらわかるかな、マドモワゼル?」

「……ノン。ジュ・ヌ・コンプラン・パ。文吉さんなら知ってるわよね」

 習得した数少ない文章を使った椿が申し訳なさそうに文吉を見やると、文吉は興味深そうにこちらを眺めているアレックスを一瞥して答えた。

「シュヴァリエというのは騎士。騎乗した侍のことさ。まぁ、実際には名誉を示す位だと思えばいい」

 どうして文吉と城次郎が椿の名誉ある侍を務めているのか理解できないが、それはともかく、シュヴァリエという音の響きの美しさを気に入った椿はその言葉を頭の中の雑記帳に書き留めた。椿がビスケットの小皿を空にした頃合いで、今更ながらという気持ちもあったが、アレックスは優雅に立ち上がり、右手を胸に軽く当てて頭を下げる。

「もう椿に名乗った時に君たちも聞いていたと思うけど、改めて自己紹介をするよ。僕はアレクサンダー・フォン・ジーボルト、ここの通訳生で……、父は日本ではちょっとした有名人らしいね」

 流暢という語がふさわしいほど、アレックスの日本語は違和感がなかった。もとはドイツ生まれなので、ドイツ語と英語と日本語を自在に操れるということになる。

 アレックスを気取ったいけすかない男だとは思いつつ、文吉はその語学力の高さを認めざるを得なかった。本国人と同じように英語が堪能な知り合いは、洋書調所の中では箕作貞一郎くらいなものだ。

 城次郎が椿にアレックスの父親がどんな人物なのかを説明し終わると、文吉は城次郎に目配せをしてそろそろフランス公使館へ向かおうと訴えた。

「あら、本を届けに来ただけなのにすっかり長居してしまったわね」

「いや、楽しい時間を過ごせたよ、マイ・レディ」

 身支度を整えた文吉は、椿と向かい合っているアレックスに単刀直入に尋ねた。イギリス公使館に潜入できた機会をふいにしてしまうわけにはいかない。

「今回の事件でイギリス人、いや、外国人は相当立腹しているだろうね。賠償金はどれくらいになりそうだ?」

 あまりにも露骨な話題に、アレックスは椿の傍をさり気なく離れると彼女に会話が聞こえない位置へ移動し、文吉を視線で呼び寄せた。アレックスは険しい顔を作り、小声で文吉に告げた。

「申し訳ないが、僕は君たちを文明人とはみなしていないよ。襲った方も襲われた方も、公的な立場の者だ。なぜこの国は外国人を目の敵にするんだ。なぜルールに従って行動できない? 僕らが最も理解できないのは、この国の方針を定める者がどこにいるかわからないことだ」

 どこにいるかわからない、というのは居場所が物理的に把握できないという意味ではない。そうではなくて、誰が日本の真の統治者なのかということだ。ショーグンなのかエンペラーなのか、外国人はどちらを日本国の意思の出処として見ればよいのか、全くわからないのだ。

 自分も似たような疑問を心のなかに抱いている文吉は、言葉に窮した。統治しているのは幕府だと胸を張って言えない自分に動揺する。

 沈黙が続いていたので、苛ついたアレックスが言い放った。椿に見せていた柔らかい表情の欠片もない態度だ。

「このままじゃ、いずれ我が国は貴国に、いや幕府に愛想をつかすぞ。我々と対等になれないというのならそれまでだからね」

 傲慢だな、という文句が出かかって、文吉は口をつぐんだ。もし日本がイギリスの立場だったら、きっと同じように考えるだろうし、方針を明確にできず実行もしない幕府に落ち度があるのは誰もが理解している。

 言いたいことだけ言って、アレックスは再び笑顔を椿に向けながら帰り支度を手伝った。

 文吉は物思いに沈みながら、公使館を出た城次郎と椿の後ろを歩く。

(幕府は賠償金の額に翻弄されるだろう。でも、本質はそこじゃないんだ。どういうふうに外国と付き合っていくか、誰も決められない……。誰が外交に責任を負うのかも、外からじゃ見えない……)

 歩くたびに砂利の固く乾いた音だけが耳に入ってくる。稽古人に毛が生えた程度の自分がいくら考えても答えが出るわけではなかった。

 東禅寺の山門を出る頃、一旦、公使館へ引き返していたアレックスが駆け足で戻り、3人に追いついた。椿の名を呼び引き留めると、振り返った椿に1冊の本を差し出した。臙脂色のベルベットで作られた表紙の縁が金色の糸で波打つように刺繍されていて、同じく銀色の糸でフランス語が記されている。

「パレ・ド・ヴェルサイユ……?」

 とりあえず、口に出して発音してみると、アレックスは微笑んで頷いた。

「フランス帝国にある宮殿の絵が集められた本だよ。本棚にあったのを思い出してさ。別に仕事に必要なものではないから、君に貸すよ」

「ありがとう! すっごくきれいね……。私、ローブを着たフランスのご婦人の絵を見るのが大好きなの」

 表紙を開き、薄い半透明の紙をめくって現れたのは、光沢のある苔色の生地で仕立てられた夜会用のドレスをまとい、少し体をひねってポーズをとる女性の挿絵だった。

 日本の服装とは異なり、ドレスはどれも腰のあたりが極端に細く引き締まっている。そしてこの挿絵では、長い袖は手に近づくにつれ喇叭状に広がり、白いレースが重ねられるようにあしらわれている点が特徴的だった。

「気に入ってもらえて良かった。実は、本を貸せば返してくれる時にまた君に会えると思ってね。次は僕が君に会いに洋書調所に行くことにするよ」

 思いがけないお土産に喜んでいる椿の手をそっと取ると、アレックスは恭しく自分の顔の位置まで引き上げ、ごく軽く椿の手の甲に唇をつけた。

「ちょっ……!? なっ、なにやってんだよ!」

 当然の行動に慌てふためいた声を上げたのは文吉だった。西洋の紳士は気軽にこういうことをするのは実際に見聞きして知っているが、何も江戸の娘にまで応用させなくてもよいだろう。密かに椿の護衛をしてきたつもりだが、完全に油断していた。

 しかし、当の椿はきょとんとアレックスの顔と自分の手の甲を交互に見つめている。

「あ、あの?」

 椿が困惑している様子なので、アレックスは椿の手からゆっくりと自分の手を引き、柔らかな目つきで彼女の瞳を覗き込みながら今の行為の意味を説明した。

「これは……キスというんだ。親愛の情をこめた挨拶さ。男たるもの親しみを抱いた麗しい婦人にこうやって挨拶をしなければ失礼にあたるからね」

 自信たっぷりな態度の上、どういうわけかアレックスは文吉に流し目を送ってきた。

 異国の少年から日本の武士にはこんなことはできまいという優越感をひしひしと感じ取った文吉は、深呼吸をしてから努めて沈着に言い放った。

「ふん、こんなじゃじゃ馬にも媚びる西洋男は本当に節操がないな。行こうぜ、ジョージ」

 椿を一瞥すると文吉は一人でさっさと歩き始めてしまう。名残惜しそうに見送るアレックスに頭を下げると、椿は少し前でゆっくりと歩いて待っていてくれた城次郎の隣に並んだ。

 それから3人は潮の香りに包まれた街道を北上し、再びフランス公使館前に戻ってきたところで文吉は本来の目的を果たすため、城次郎に椿を託して公使館へ向かったのだった。

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アカデミア・マルヴェシア 木葉 @konoha716

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