ジーボルトの息子
斉海寺を過ぎ、高輪の大木戸を抜けると左手は一面海の景色に変わる。近くの小舟は漁師を乗せてゆらゆらと漂い、遠くの廻船は動いているのか止まっているのかわからないほどゆっくりと海上を滑っていく。
頻繁に足を止め恥ずかしい気持ちなどおかまいなしに道を尋ねてきたおかげで、椿はなんとかイギリス公使館に到着することができた。こんなに自分の足で歩いたのは初めてかもしれない。
潮風を胸いっぱいに吸い込み、しばらく漁師が操る網の動きを眺めていた椿は、東禅寺の山門と対峙した。
山門は二階建てで柱は朱塗り、屋根は瓦葺である。
具体的な内容は知らされていないが、ここで殺傷事件が起きたらしい。立派な山門から見える境内へ続く通路には白い衣装に身を包んだ異国の兵士の姿があった。
街道をさらに下ると品川宿で、椿はそちらにも興味があったが今日は残念ながら東禅寺が終着点だ。
いざ、山門の中へ足を踏み入れようとしたところで、椿は両脇から恐ろしく背の高い兵士2人に挟まれたことに気付いた。おずおずと見上げると鼻が高く髭を生やした異国の青年たちが口元を緩めて椿を見下ろしている。
右側の兵士が何かをしゃべったが、椿には全くわからない。眉を寄せ、瞬きをするのが精いっぱいだ。
椿が一歩下がると、左側の兵士もまた椿の動きに従って前進する。異国の男の人は睫毛がすごく長いのねなどと思いながら後ずさる。
「えーっと、私、お使いに来たんだけど……」
雨宮が渡してくれた紹介状の存在をすっかり忘れしどろもどろになった椿の目の前に、兵士の大きな手が差し出された。
「あ、お金が欲しいの? でも、私、あなたにあげる物は何もないわよ」
どうしたら良いかわからず表情を曇らせていると、右側の兵士の手が伸び、あろうことか椿の肩に腕を回してきたのだった。
この様子を2つの別の場所で見ていた少年たちがいる。
東禅寺から江戸寄りの脇道の物陰から椿と英兵のやり取りを監視していたのは文吉と城次郎だ。どうも様子がおかしいと気づいた文吉は視線で城次郎に行くぞと伝えて物陰から駆け出した。
ところが、それよりも早く文吉たちの真逆、つまり横浜方面の道から現れた少年が椿を英兵からやんわりと引き離した。
「だいじょうぶですか、お嬢さん?」
椿は息を飲んだ。少年の髪は亜麻色ですっきりと額が見えている。椿を心配そうに見つめる瞳は信じられないことに浅縹色だった。正真正銘の異国人の少年が、まるで日本人のように日本の言葉を話している。
少年は今度は別の言葉で英兵たちに話しかけ、彼らは苦笑しつつも未練を顔に浮かべながらその場を離れていった。
「ありがとう、助かったわ。あなたは……?」
すると変わった色の瞳を持つ少年はにっこりと笑い、恭しく腰を折って挨拶をした。その仕草につれてそこはかとなく爽やかな良い香りが漂う。
「僕はアレキサンダー・フォン・ジーボルト。アレックスと呼んでください。英国公使館の通訳生をしてるんだけど、君はお寺に用があるのかな?」
「はじめまして、アレックス。私は椿というの。この本をワーグマンさんに返したいんだけど……」
「ああ、チャールズにね。あいにく今日は不在だから僕が預かるよ」
アレックスという少年は風呂敷包みをほどいて中身を確認し、栞のように挟まれていた紙切れに書かれた文字に目を走らせると、顔を上げてこう言った。
「で、そこの彼らもあなたと一緒に来たのかい?」
アレックスの視線を追うと、椿の背後にはよく見知った少年、文吉と城次郎が立っていた。文吉はいつもよりも苦々しい顔で、城次郎はいつでも同じ微笑を浮かべて。
「あら、文吉さん、城次郎さん! あなたたちもイギリス公使館にお使い?」
「まぁ、そんなところだ」
短く答えた文吉は、アレックスと名乗った同じ年頃に見える異国の少年を観察した。初対面の相手は特に念入りに観察するのが文吉の癖だった。
アレックスはごく自然に椿から風呂敷包みを受け取り、笑顔を絶やさず椿の歩調に合わせて山門の中へ入っていく。こざっぱりとした服装と丁寧な身のこなし、そして会話に支障のないほど達者な日本語力からすれば、通訳生というのは本当だろう。
それに、この少年の父親は洋書調所の関係者ならば知らない者はない著名人だ。
フィリップ・フォン・ジーボルトというドイツの医師で、若い頃、長崎のオランダ商館で医者をやっていた。日本人に洋学を教授していたが、一度追放されている。数年前に長男を伴って再来日したことは文吉も耳にしていたので、椿と並んで歩いている少年がジーボルトの息子なのだということはすぐにわかった。
文吉は椿の護衛という自主任務を忘れ、むくむくと沸き起こった好奇心に従って椿たちの後を追った。そもそも事件後のイギリス公使館に潜入して情報収集を行うことができるのだから、何も問題はない。
山門から続く道を進むと、広大な境内に出た。警備のために配置された日本の藩士と英兵が混在し、未だにぴりぴりとした緊張感が感じられる。境内は緑豊かで、様々な植物が生息していた。
蓮が浮かんだ大きな池もある。ひんやりとした少し湿っぽい空気が長時間歩いてきた体に心地よい。
「椿、手をどうぞ。階段が急で危ないから」
「ありがとう」
アレックスは本堂の脇に並ぶ建物から庭先に掛かる急傾斜の階段を一歩上がると、手を差し出して椿が転ばないように支えた。椿ははにかみながら一生懸命にアレックスについていく。
「欧米の紳士ってのはああやって軽率に女子に触れるんだよな。アレックスもさっきの英兵も本質は同じさ」
文吉は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「そういうのを嫉妬っていうんじゃないの?」
「男女七歳にして席を同じゅうせず、という言葉を知らないのか、ジョージ」
「知ってるよ、もちろん。でも、それは僕たちの考え方であって欧米紳士は別の原則で女子に接してるのだと思うよ」
しっかりと腕組みをし仁王立ちになって建物を見上げる文吉の背中を軽く押しつつ、城次郎は階段を上った。前を行く椿の手はアレックスの手と繋がれたままだ。
「俺は今ちょっと攘夷派の連中の気持ちがわかったぞ」
文吉が城次郎の耳元で言ったが、包み隠す気などないらしいはっきりとした声である。
「女にちょっかい出されただけだろう? 自害した松本藩士も浮かばれないね」
案内された建物は外観こそ純和風の寺院なのだが、内装はすっかり西洋仕立てに変えられていた。畳の上には柔らかい絨毯が敷かれ、食卓と椅子が置かれている。物置箪笥も食器も異国から船で運ばれたものだ。
「まぁ、ターブルだわ! これはヴェルね? こんなに薄いなんて……。ヴェルに葡萄酒を注ぐんでしょう? 文吉さん、『仏蘭西図鑑』で見たものがちゃんとあるわよ!」
部屋に入るなり椿は感嘆の声を上げつつ、文吉に話しかけた。本で見た異国の品々が自分の視界いっぱいに広がっているので、椿はついつい嬉しくなってしまったのだ。
「そりゃあ、異国の公使館だからね。ただ、ここはイギリス公使館だからフランス語はそんなに通じないよ」
「へぇ、椿はフランス語を知ってるの?」
「少しね。文吉さんや他の先生たちに教えてもらってるの。今はまだ物の名前とか簡単なことだけど」
「そうか。君は偉いね。素敵なレディだよ。さて、預かりものはこっちに置いておこう。チャールズ、ああ、ワーグマンさんは明日には戻るだろうからちゃんと僕が渡しておく。ところで、君たち紅茶は飲める?」
アレックスに椅子に座るよう手振りで示され、文吉たちは丸いテーブルについた。文吉と城次郎は異国の人たちと実際に交流があるのでテーブルと椅子を使用したことがあったが、椿は椅子に座ったのは初めてで、地につかない足をぷらぷらとさせて落ち着かない様子である。
「こうちゃって何?」
「ヨオロッパでよく飲まれるお茶だよ。日本のは緑だけど、紅茶は赤っぽい。だから紅色の茶と書くんだ」
城次郎が椿に説明すると、アレックスは頷いてティーセットをテーブルに置き始めた。それから茶壺を開けて、ほらと椿に見せる。
「茶葉が赤いわけじゃないのね」
「そうだね。ちょうどフォートナム・アンド・メイソンの紅茶が手に入ったから使おう。せっかくお客様が来たんだし」
江戸の市中には紅茶は出回っていない。輸入品に含まれていないのだろうし、立派な茶文化が根付いているのでわざわざ好んで異国の茶を飲む習慣が広がるとも思えない。ただ、こうして公使館や駐日貿易商の屋敷では本国と同様に日常的に飲まれているだけだ。
椿たちにはフォートナム・アンド・メイソンが何なのかよくわからなかったが、上等な品物なのだろう。アレックスが気を使ってくれていることは理解できた。
「熱いから気をつけて」
どうぞと目の前に置かれた紅茶は本当に赤かった。
透明で鮮やかな赤い茶が、湯気を立てて茶器の中でとぷとぷと揺れて、椿の大きな瞳を映し出している。しかも、その茶器も白地に繊細な模様と花柄が描かれていてとても美しい。長屋で使っている縁の欠けた藍色の湯飲みとは趣が違う。
「どう? 渋くならないように入れたつもりだけど」
「ええ、美味しいわ。もっと変わった味がするのかと思った」
「ところで、ここには人がいないのかい? 勝手に上がり込んでしまって大丈夫かな。そもそも僕たちがどこの誰かきちんと告げていないけど」
一応警戒心を持ちつつ城次郎がアレックスに確認する。アレックスは椿にビスケットやドライフルーツを勧めてから、レディの護衛たちに状況を説明した。
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