攘夷のその先
公使館への道のりはたいして面白みはない。ほぼ武家屋敷や旗本、御家人らの住宅が立ち並んでいるだけだ。やっと増上寺の周辺に来るといくつもの寺院の姿に景色が変わる。
「……椿さん、楽しそうだね」
前をゆく椿は見るもの全てが珍しいというふうに、せわしなく顔をあちこちに向けたり、立ち止まったりしている。迷子にならないようにという心がけなのか、時々、行商人や辻番人に方角を確認しているようだ。
「なぁ、ジョージ。攘夷は正しいと思うか? 東禅寺の事件の水戸浪士や松本藩士は間違ってるのか?」
「いつになく真面目な話だね」
「俺はいつでも真面目だ」
「僕は医学のことしかわからないけど、人の敵は恐怖だと思ってるよ。僕は病には必ず原因があることを学んだ。たぶん、攘夷派は異国が怖いんじゃないかな。だからある意味、自然な反応とも言える。なぜ怖いと思うのか、それはどうしたら克服できるのか。そこまでは僕にもわからないけどね」
文吉は感心したように友人の顔を見た。西洋医学を学んだ城次郎のことだから、きっぱりと攘夷は間違っていると答えるのではないかと思っていたからだ。
口には出さないが、文吉は幕府がどっちつかずの態度を取り続けていることに疑問を持っていた。非常事態だから朝廷は黙っていろということも言わず、かといって外国の要求をきっぱり撥ね付けるだけの度量もない。
じっとやり過ごして嵐が過ぎ去るのを待つような態度なのだ。
洋書調所は研究や教育を請け負う機関だが、幕府の要請に従ってそれらを行うことが前提となっている。幕府の、日本の行く末を決めるのは幕府の偉い人たち、そして将軍であって、洋書調所の教授たちではない。
(俺たちには何か進言する役割が与えられているわけじゃないし、変化をもたらしうる存在でもない……)
文吉は未だに自分たちが後をつけていることに気づかない椿の姿を見た。
おそらく雨宮か牧野が用意したのであろう地味な色合いの古着を身に纏ったこの娘は、幕府の犠牲者だとすら言える。
同じ国の者どうしが傷つけ合う今の状況はやはりおかしい。
(俺は一体何をすればいいんだ。語学の才能があっても、幕府の指示に従うことしかできないじゃないか)
フランス語にはリベルテという言葉がある。入江先生が言うには束縛や強制のない状態のことだが、それは努力して勝ち取ったものでなければならないらしい。洋書調所は束縛や強制を受けざるを得ない。いや、日本の至るところが束縛や強制で溢れかえっているのではないか。
もしそれらを取り除こうとしたら――。そこまで考えて、文吉は思考を停止させた。先のことまで頭の中に思い浮かべようとすると、背筋が寒くなる心地がする。
「あ、文吉、待って。フランス公使館はここだろ」
済海寺の門前を過ぎても歩き続ける文吉に城次郎が注意を促したが、文吉は知ってるよと答えただけで振り向こうともしない。
この寺は台地の上に建っていて、湾内や台場、江戸の町並みがはっきりと一望できた。
昨年の春先だったか、文吉はフランス公使館に滞在していたシャルル・デュ・パンという陸軍大佐がこの景色を絶賛していたことを思い出した。
公使館は手狭で窮屈だが、夜、湾に浮かぶ小船の無数の光が幻想的で、シャンゼリゼ通りやエトワール広場の明かりよりもずっと美しく、それだけで住居の狭さなど帳消しになってしまうそうだ。もっとも、文吉はパリの町並みを知らないので、相槌をうっていただけだが。
ともあれ、文吉は身を隠しつつ東禅寺まで椿を追いかけた。もうすっかり太陽が真上に昇り、小腹が空いてくる頃だ。
東禅寺で殺傷事件を起こした松本藩士は自害したので、現場はもう落ち着いているだろうが、事件が発生した場所へ世間知らずの可憐な娘を近づけるのは気が引ける。雨宮か牧野あたりが人手が足りなくて椿にお使いを頼んだのだろうが、文吉は少しばかり苦々しく思った。
谷間の奥に広がる東禅寺は東に数百歩進むともうそこは海だ。
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