初めてのおつかい

 なんとか翌朝までに和訳を提出した文吉は、眠い目を擦りながら踵を返したところで今度は入江文郎に捕まった。

「文吉くん、今からフランス公使館へ行ってくれないかい?」

「公使館ですか?」

「ああ、教授方の皆さんは事件の関係で手が空けられなくてね。君なら言葉に不自由ないし、こちらの事情もわかっているだろう? 書面での質問の回答には時間がかかるから、とりあえず公使館に状況を説明してきてほしい。ついでに情報収集も頼むよ」

 わかりましたと文吉が頷くと、文郎は一枚の紙を差し出した。今の時点で言えることなどが書かれた応答要領のようなものだ。

 仏学の事務室で文吉が指示を受けていたのと同じ頃、椿もまた雨宮からお使いを頼まれていた。

「これを届けるだけで良いんですか?」

 椿は両手に抱えた5冊の本に視線を向けた。色とりどりの動植物の絵が描かれていて、仏学に関係する本とは随分趣が違う。

「そうだよ、ワーグマンというイギリス人に返してほしい。それでわかるから。あんたがうちの女中だってことを書いた紙も渡しておくよ」

「ワーグマンってどういう人ですか? 見た目とかわからないと……」

「さあね。私も物産学の教授から依頼されたものだから直接そのイギリス人のことを知っているわけではないんだよ。なに、公使館の衛兵か誰かに取次ぎを頼めば問題ないさ」

 そんなに適当で良いのだろうかと不安になったが、椿は本を若竹色の風呂敷にきちんと包み、行き先が示された地図を一瞥してから巾着袋に入れた。

 ここ数日は洋書調所の中が慌ただしい雰囲気で、教授たちは皆忙しそうだ。

 お菊ばあさんは足腰が弱い上に物忘れが酷いので所外に出る用事はできないし、一番しっかりしているお満さんは運悪く別の用事でしばらく不在だ。他の女中たちもそれぞれやらねばならない仕事があるらしく、新入りの椿にお使いが回ってきたというわけだ。

 椿は正門を出て淡く広がる青空を見上げた。この空の先が異国に繋がっていると考えると妙にわくわくしてしまう。こんな考え方ができるようになったのも、文吉が貸してくれた『仏蘭西図鑑』のおかげだ。

 届け物をする場所はイギリス公使館、高輪の東禅寺の一部を占めている。江戸城内をつっきることはできないので、城外の東側を回って、南町奉行所を越え、さらに増上寺を通り過ぎて南下する必要がある。

 無事にたどり着ける自信はあまりないが、何事も経験だ。

「椿さん、どちらへ?」

 正門を出たところで貞一郎に声を掛けられた。貞一郎は両手いっぱいに本を抱えている。

「イギリス公使館よ! 雨宮さんに頼まれたことがあるの」

「そうですか。事件の直後だし、あの辺りはちょっとぴりぴりしているかもしれない。僕が手伝えれば良いんだけど、奉行所の役人と面会しないといけないんだ。気をつけてくださいね」

「ええ、わかったわ。貞一郎さんもご苦労様」

 事件というのが何なのか気にはなるところだが、本当に危ないのであれば不慣れな女中をお使い役にしたりしないはずだ。椿はそう考えて、風呂敷を持ち直した。

 そして、椿が意気揚々と神田橋方面に向かって歩き始めたのを、文吉はそっと伺っていた。隣には城次郎もいる。

「あれ、椿さんに声掛けなくていいの?」

「行くぞ」

 城次郎の質問には答えず、文吉はすたすたと歩いていってしまう。

 2人が揃ったのはほんの偶然のことだった。医学所の見習いである城次郎には決められた仕事はない。基礎は一通り習得しているので他の稽古人と共に講義を聞く必要もないので、指示された仕事を終えてしまえばあとは自習をするなり見聞を広めるなり好きに過ごして良いのだ。

 それで頻繁に洋書調所にも顔を出しているのだが、今朝は中に入る前にちょうど外出しようとしていた文吉に出くわしたのだった。

「大丈夫かなぁ、椿さん。箱入り娘なのに高輪まで行けるのかな。僕たちが出会った時も道に迷ってたよね」

「ジョージ、うるさいよ」

 顔をしかめた文吉の視線の先は前を歩く椿の姿だった。

 険しい目つきで彼女を見つめ、付かず離れずの位置を保ちつつ文吉は進む。効率の良い道順があるにも関わらず、文吉は椿が選ぶ少し遠回りの道を同じように歩いていった。

 城次郎は友人の意図を正確に汲み取ったので、椿のことには触れず、ありきたりの雑談をしながら友人に歩を合わせた。

 イギリス公使館は高輪の東禅寺であり、フランス公使館は三田の済海寺にある。赤穂浪士たちの墓地がある泉岳寺を挟んで、それぞれ南と北に位置していた。つまり、椿の行き先は文吉の行き先とほぼ同じであり、イギリス公使館の方がフランス公使館から少し離れているだけのことだった。

(椿さんの護衛のつもりなんだろうけど、方向は同じだし、声を掛けてやればいいのに)

 フランス皇帝にまつわる話を熱く語る文吉を見て、城次郎は苦笑した。

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