東禅寺事件

 貸してもらった『仏蘭西図鑑』によると、フランスはヨオロッパという日本から海を隔てた遥かかなたの大陸にあるらしい。公方様のような立場には皇帝がいて、今は奈破崙なぽれおん3世という人が国を治めている――。

 こうして椿の心の地図に、第二帝政フランスが書き込まれていった。

 ある朝、椿は正門の前の掃き掃除をしようと大きな箒を担いで正門に向かった。課業時間前なので稽古人の姿はまばらだが、洋書調所は既に目覚めている。青々とした芝生の築山を横切ると、椿の視界に文郎の歩いている姿が入ってきた。

「ボンジュー、入江先生!」

 椿が元気よく挨拶し頭を下げると、文郎は思わぬフランス語に笑って挨拶を返した。異国の言葉とは無縁だった少女が早くも洋書調所に馴染んでいることに素直に驚いた。門前の小僧習わぬ経を読むということか、それとも誰かに教えてもらったのか。

「ボンジュー、マドモアゼル・ツバキ。イル・フェ・ボ・オジョルディ」

「えっ、何ですか。私の名前しかわかりませんよ」

「今はね。きっとそのうち君ならわかるようになるよ。では私はこれで。オーボワー」

 実は文郎は急いでいた。また日本人がイギリス人を殺害するという事件が起き、洋書調所でも教授方の緊急の会議が開かれることになっていたのだ。

 事件が発生したのは、高輪の東禅寺内に置かれたイギリス仮公使館である。駐日公使はオールコックだが、この時はニールが職務を代行しており、東禅寺の警備に当たっていた松本藩士が夜中にニールを襲撃しようとしたところ、イギリス兵に発見されたため、松本藩士は彼らを殺害した後に自害したという。

 ちょうど1年前にも東禅寺内で公使オールコックが狙われ、公使館員が負傷し、イギリス兵の駐屯を認めることや幕府から多額の賠償金をイギリスに支払うことで決着した傷害事件が起きていた。

 幕府にとって、この類の攘夷事件は最も頭を悩ませられるものだ。外国政府との交渉事が発生すると、通訳者である通詞の派遣や翻訳作業など洋書調所もにわかに忙しくなる。今回はイギリスが対象だが、いつ他国との間で同じ事件が起きないとも限らない。

 文吉は正式な教授方ではないが、父親の存在と自分自身の能力のために、ある程度は幕府の政治や外交案件を知ることができる立場にあった。

 稽古人が普段は入れない建物の休息室で、文吉は父親と向かい合って座っていた。外界の騒乱など嘘のように今日も穏やかに皐月の風がそよいでいる。だが、この静けさが未来永劫続くのだろうか。

「また賠償金問題で揉めるでしょうね」

「そうだな。今回殺害されたのは水兵だが、あちらさんにとっては身分が低かろうが自国民に変わりはない。賠償金の値引きなんてことは考えられないな。この事件に刺激されて、他にも攘夷派の奴らが動く恐れもある」

「うちの所だって襲撃対象になり得ますよ。なんといっても、攘夷派連中が目の敵にする洋書を調べる機関ですから。聞くところによると、小川屋が放火されたのもうちの所と取引きしてたせいらしいですよ」

 面白くなさそうな顔で言う息子を見て、兼恭は苦笑した。息子の心配事は幕府の対応と攘夷派の動向だけにあるのではないようだ。

「おまえさん、小川屋のお嬢さんに危険が及ばないか気にしてるんだろう?」

「どうしてそういう考えになるのか皆目わかりませんね。私は政治の話をしてるんですよ、父上」

「ま、どっちでもいいけどよ。おまえさんにも翻訳と情報収集の手伝いをしてもらうと所の上からのお達しがあったんだ。フランス公使館からも問い合わせが来てるようだし、林くんや小林くんの指示に従ってよろしく頼むよ」

 林も小林も仏学の教授手伝で、文吉はよく彼らからフランス語を教えてもらったり、機密性がそれほど高くない文書の翻訳の仕事などの一部を分けてもらったりしているので、今回の指示も当然の成り行きであった。

 奉行所にも翻訳方があるので、本当に重要なイギリス公使館に関する案件はそちらが引き受けているのだろうと思いつつ仏学教授方の事務室に向かうと、早速、林正十郎がフランス公使館から送られてきた書類の一部を文吉に手渡してきた。

「悪いが至急、訳してくれ。明日の朝、この書類を一式、和訳を添えて提出しなければならない。事件を受けて交易に関する質問があるようなんだ」

 林はてきぱきと文吉に必要な指示を出し、自分自身もより重要な外交に関わる書面を訳し始めた。書類の提出先はもちろん幕府の然るべき機関である。

 文吉も事務室の空いている机に座って、書類に目を通す。

 時を告げる鐘の音が何度か聞こえたようだが、完全に集中していた文吉はほとんど気にしなかった。他の教授からの用事をもらって偶然廊下を通りかかった椿がこっそり事務室内を覗いていたことも知らない。

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