錦絵

 食堂は大講堂から北側に歩いて5分程度のところにある。弁当を持ってこない稽古人は事前に申請しておけばここで腹を満たすことができたので、昼時には結構賑わっている。

 椿は並べられた盆を取り、奥の人の少ない机に腰掛けた。豊かな商家育ちの椿にとっては質素すぎる握り飯と味噌汁と青菜だが、飢えることがないだけありがたいと思わねばなるまい。

「いただきまーす」

 小声で食前の挨拶をし、味噌汁を啜る。ちょっとぬるい気がするが、大勢が群がる食堂だからこんなものか。

「ここ、いいかな?」

「あっ、はい、どうぞ」

 正面の席に座ったのは、堀達之助という40歳に満たない英学教授と若干16歳ながら教授手伝並を務める箕作貞一郎という少年だった。満に連れられて掃除をしていた時、達之助と貞一郎には挨拶を済ませている。

 椿にとって、達之助はこの後の運命を左右する人物となったが、洋書調所で新しい生活が始まったばかりの椿はまだ達之助を偉い先生の一人としか認識していなかった。達之助は洋書調所の中でも異例の経歴の持ち主だった。ペリー提督の旗艦に浦賀奉行所の与力に同行し、通訳を務め、日米和親条約の和訳を行ったことがある。 そして、外交文書を独断で処理したため、数年間入獄した経験も持つ。英語の才能を必要とされた達之助は、蕃書調所頭取によって再び活躍の機会を与えられ、今では幕府になくてはならない存在だ。

 隣に座っている貞一郎は落ち着いた雰囲気の少年で、新入りの椿に対しても困ったことはないかと親切にしてくれる。彼は英語に天才的な能力が備わっており、10代半ばという年齢でなければ教授職に就いてもおかしくはない水準に達していた。

 食事中、達之助と貞一郎は外国の話と辞書についての話をし、それが終わると達之助は思い出したように椿に話題を振った。

「椿ちゃん、市川くんと恋仲なの? 数日前、甘味処で一緒にいるのを見たっていう人がいるんだけど」

「市川……。ああ、文吉さんのことですか。えっ、恋仲!? 違います、全然そんなのじゃないです!」

 予想もしていなかった質問に、椿は顔を真っ赤にして否定した。すると、貞一郎はそうだろうねと呟いて、お茶を啜った。

「堀先生、彼と恋仲になれる娘さんがいたら余程の変わり者だと思いますよ。悪いやつじゃないのは皆知ってますが、不愛想で、普段は口数が少ないですし」

「でも、その市川くんが笑ってたらしいじゃないか。というか、どうして2人は一緒にいたの?」

 どうも所の人たちは好奇心が強い傾向にあるらしく、達之助は子供のように話を聞きたがっている。そこで椿は長くなりますよと前置きをしてから、事の次第を語ったのだった。

「ははぁ。世の中には不思議な縁があるもんだな。君にとって良いことか悪いことかわからないけども、私は君を歓迎するよ」

 達之助は若々しい笑顔を椿に向けた。

 この日から数日間は特に問題なく、雑用係の仕事をこなすことができた。朝から晩まで意外と忙しく、文吉や貞一郎の姿を見かけても雑談をするような余裕はなかった。

 しかし、椿はよくフランス学が行われている大講堂の周りをうろついた。椿はフランスという異国の言葉の虜になってしまったのだ。時々、聞こえる文郎や文吉が教本を読み上げる声に耳を傾けると、椿は幸せな気持ちになった。その内容が味気ない文章の羅列であろうが、政治的な文面であろうが、音しかわからない椿にとっては関係がなかった。

 書庫の掃除のついでに、フランス学の教本をめくってみたものの、当然理解できず、椿は溜息をついて真面目に掃除を再開した。そもそも引っ越してきたばかりで、埃まみれというわけではなく、さっと床を掃いてしまうともうやることはない。そこで、別の棚に積まれていた冊子や紙を引っ張り出して見てみると、椿は美しい錦絵を発見した。

 錦絵は多色刷りの木版の浮世絵で、様々な絵柄のものが市中に出回っている。書庫にあったのは、外国人の姿を描いた錦絵で、椿はその中でも女の服装に目を奪われた。日本の着物と大きく違うのは上半身と下半身が別の衣類に分かれていて、特に下半身がお椀を逆さまにしたように大きく膨らんでいることだった。

 単色で縦にひだを繰り返し重ねたものもあれば、腰から足元にかけて3段に分かれたものもあり、色を重ねたり、素材が異なるような生地が重ねられたりしていて、とても華やかだ。上半身も、肩掛けのような丈の短い外套を羽織っていて、大ぶりの花柄が施されていたり、布の縁に透かし模様が現れた装飾が見られたりする。

「耳にも飾りを垂らしてるんだわ……素敵ね」

 思わず呟くと、「その錦絵、気に入った?」という声が書庫入り口の方から聞こえ、椿は床に座り込んで錦絵に見入っていたので慌てて立ち上がろうとした。

「きゃっ」

 足元がふらついて転倒しかけたところ、椿の体はさっきの声の主に支えられた。

「君は転ぶのが趣味なの? もっと慎重に行動しなよ。書物とか破損したらどうしてくれるんだ」

「文吉さん! ごめんなさい。とってもきれいな錦絵だからついじっくり見てしまって」

 椿が顔を上げると、文吉は無表情で椿を見詰め返している。文吉は両腕で支えていた椿の体をぱっと離し、床に並べられた錦絵を拾い上げた。

「こっちはアメリカ人、これはロシア人、次のはフランス人だけど、正直言って俺には違いがわからない。こういう女の着物はローブというらしい。耳飾りは、ブークルドレイユ」

 文吉は丁寧に錦絵を指示しながら、外国のものの名前を教えていく。

 椿は自分と同じくらいの年の少年が別世界を知っていること、異国の淡雪のような美しい言葉を発していることに心の底から感心した。

 もっとフランスという国のことを知りたい、その言葉を知りたい、そして自分も話してみたいという欲求が、錦絵のフランス女を見るごとに大きくなっていく。椿は夢中になって文吉に質問をした。

「フランスはどこにあるの? 日本からどれくらい遠いの? 江戸のお城みたいなものはあるの? フランス人は私たちのことは知ってるの?」

 錦絵の両端をぎゅっと握り締めながら熱心に問い詰めてくる椿に面喰いつつも、彼女の瞳は純粋な好奇心の光で溢れていて、文吉の生来の勤勉さが刺激された。今となっては異国の情報は巷に出回っているし、基礎的なことならば教えてもかまわないだろうと思った文吉は本棚から一冊の書物を取り出した。

「字が読めるならこれを貸してやる。『仏蘭西図鑑』といって、フランスについて子供でもわかるようなことが書いてある。挿絵もあるから君には面白いんじゃないか。でも、君が理解できる言葉の本はここにはないよ」

「ううん。ありがとう! あっ、フランス語でお礼の言葉は何ていうの?」

「メルシー」

「める、し?」

「まぁ、だいたいそんな感じ。ちなみに、おはようとこんにちはは、ボンジュー」

「坊主?」

「違う。坊主なわけないだろ。ボンジュー。その本、しばらく貸すから飽きたらこの棚に戻してくれ」

 文吉は講義に必要な冊子を何冊か書庫から持ち出し、講堂へ戻っていった。

「ぼんじゅ。ぼんじゅう?」

 たった今、文吉から教えてもらった言葉をたどたどしく繰り返す。それだけのことなのに、椿は嬉しさが込み上げて微笑んだ。『仏蘭西図鑑』を胸に抱いて、椿は弾むように書庫から飛び出した。

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