新しいお仕事

 文吉は等間隔に並べられた机の間を行き来して、時々、手を挙げる稽古人たちの隣に立ち止まって何かを話していた。

 ざわついていた教場がいつしか静かになり、文吉は前方の机の前に立った。机の前にどっかりと腰を下ろしているのはおそらく教授手伝だろうが、思ったよりも若い。目鼻立ちがくっきりしていて少し憂いのある顔が印象的だ。

「あれは入江文郎先生だよ。まだ30歳にもなってないらしい」

「ふぅん」

 小声で会話を交わすと、教場に一人の声が響いた。それは椿が知らない音で成り立っていた。まるで絹の糸がするすると紡がれるような、強くて儚い言葉だった。未知の旋律は、文吉が生み出していた。日本の言葉とは違う音の流れと抑揚が、静寂の中に生まれては消える。

 もちろん何を言っているのかわからない。だが、椿はその音の流れに魅力を感じた。

 文吉は手にした冊子を閉じると、入江先生に手渡し、稽古人たちに向かって一礼をした。そして、先生が学習すべきことを2、3告げて立ち去ると、稽古人たちはまたがやがやと好き勝手に勉強を始めた。

 その様子を眺めていると、こちらを振り返った文吉と目が合った。文吉は少し驚いたような表情をしたが、すぐに愛想のない顔で椿と城次郎に近寄ってきた。

「こんにちは。また会えたわね。お礼を言いたくて……文吉さん、どうもありがとう。今日から住み込みで働けることになったの」

「そうか。箱入り娘がどこまで役に立つのか知らないけど、がんばって」

 急に文吉が軽く会釈をしたように見えたので椿が振り向くと、雨宮と牧野が中庭を歩いてこちらに向かっていた。

「これはこれは、皆さん既に仲がよろしいようで。新入りの椿さんに色々と教えてあげてくださいよ、先生方」

 雨宮は仰々しく言って文吉ににやりと笑顔を向けた。もちろん雨宮は文吉と椿に交流があったということは知っていたが、文吉のためを思って何も知らない振りをしたのだ。そして、牧野は椿を事務方詰所に連れていき、洋書調所が何をする機関なのか、椿にやってほしいこと、やってはいけないことなどを半刻ほど説明し、女中用の宿舎へ案内した。

「本当に相部屋で大丈夫か? あの小川屋のお嬢さんがこんなところでやっていけるのかねぇ」

 牧野は意地悪く言ったのではなく、本当に心配しているらしい。雨宮と違って牧野は何事も心配せずにはいられない性分なのだった。

 椿は戸口に荷物を置くと、牧野を見上げた。

「もう何日も長屋で暮らしてたんですよ。お世話してくれる人がいなくて、すごく大変だし全然慣れないけど、でもやるしかないからやってみせます。とりあえず、お裁縫ですよね? それならお母様から教えてもらって得意だから大丈夫!」

「わかったよ」

 娘の意気込みに引き気味になった牧野の肩をちょいちょいと叩いた者がいた。相部屋の住人の女だ。

「おっと、おみつさん、ちょうどいいところに。昨日も話したけど、この娘が新人の椿だ」

「よろしくお願いいたします。小川屋の松と申します。皆からは椿と呼ばれています」

「はいよ、よろしく」

 満は小柄な女性で、亡くなった椿の母親よりも少し若いくらいの年に見えた。背筋がぴんとしていて品がある。その辺の町人というわけではなさそうだ。

「後は女どうしやるから、牧野さんはお仕事に戻ってくださいな」

 牧野が立ち去ると、満は椿を部屋の中へ手招きした。

「おっかさんのことかわいそうだったね。私も旦那を病気で亡くしてここに雇ってもらうようになったから、少しはあんたの気持ちはわかるよ」

「そうなんですか……」

「私は川越藩士の妻でね、江戸のお屋敷勤めをしてたんだけど、夫が亡くなって、それで偶然、蕃書調所に雇ってもらえることになったのよ。ああ、蕃書調所っていうのは洋書調所になる前の名前だよ。私には子もいないし、故郷の両親も他界してるから、ここが終の棲家だと思ってる。今まで一人部屋だったけど、それも寂しいし、あんたが悪さをしなければ好きに暮らしていいよ。まぁ、困ったことがあったら言いな。最初のうちは仕事も見てあげるから」

「ありがとうございます!」

 淡々とした口調が満の特徴だった。あまり深く干渉されるのを好まないような感じだが、突然の新入りの椿を受け入れてはくれるらしく、椿はほっと安心した。満に渡してもらった着物に着替え、たすきを掛けた。こうして、蝶よ花よと育てられた商家の娘はあっという間に女中になった。

 裁縫は昼間のうちにはやらないと告げられ少し残念に思ったが、満の後ろについて仕事を見るのは好奇心を刺激されて面白い。

 職員に食事を出すための台所や厠、洗濯場、作業場、厩舎など一通り案内され、そこで働く人たちに紹介してもらう。その途中、職員からお願い事を頼まれたりした。満によれば、事務方職員に言うまでもない先生方の雑多な御用聞きを受けるのも女中の仕事で、実はこれが一番多いという。なかなか重労働だ。

「わりと我儘なんだよ、先生方は。外出する暇もないような忙しい人もたくさんいるしさ」

 満は洋書調所のことを詳しく教えてくれた。さっきも牧野から説明してもらったが正直言ってあまり頭に入ってこなかったのだが、満の言葉はわかりやすく、だいたい理解できた。椿は洋書調所を外国語の学校か塾のようなものだと思っていたが、それは一面に過ぎなかった。

 ペリー提督が艦隊を率いて日本にやって来てからというもの、幕府は外国の文書を多数扱うようになり、外交文書や洋書の翻訳作業が急務となった。外交文書は機密に該当するので、教授など限られた職員だけが翻訳作業などに従事している。外国との交流が増えると洋書が日本に入ってくるようになったが、むやみに世間に出回らないように検閲するのも洋書調所の役目だ。逆に、辞書や教本を作成し、印刷することも行っていた。

 そしてこうした業務を担う人材を育成するために、英学、フランス学、ドイツ学の講座が設置されて幕臣の子弟が年齢にかかわらず学んでいる。数学、動植物や鉱物に関する物産学の講座にも稽古人が来て勉強しているらしい。

「私たちが日頃関わりが多いのは、こういう人たちね。他にも、稽古人はいないけど、絵図調方、活字方、精錬方、器械方なんていう分野もあるのよ。専門的な道具があったりして、私たちは言いつけられない限り、その辺りは入っていかないようにしてる」

 兵学に関係するのだろうけど何をやってるのかさっぱりわからない、と満は肩を竦めて言った。

 途中で、女中の一人の菊さんという老女にも会ったが、椿が挨拶をしても耳が遠いようで一方的に話をしてきてすぐにどこかへ行ってしまった。菊さんは物忘れも激しいのだが、大変きれい好きなので掃除については重宝がられているらしい。

 満と一緒に大講堂の廊下に雑巾がけをして、筆記用具の補充を済ませると、今日の仕事は終わりということになった。

「でも、先生方から呼び出されたり、呼び止められたりするから、そしたら対応してあげて。食事は適当に食堂でとってね」

「わかりました」

 この時、盛大にお腹の音が鳴ったため、椿は食堂へ向かうことにした。

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