お嬢様、採用される
今日はとても運が良いと、椿は思った。
前日、無事に洋書調所に働き口を得た椿は、長屋の父の庄二郎に一部始終を報告し、少ない荷物をまとめ、こうして家を出てきたのだが、ちょうど行き先が同じ方向だという髪結いの清兵衛さんが荷物を抱えてくれることになった。
父は世間知らずの娘をよそで働かせることに反対したものの、どうやっても今の収入ではやっていけないことも実感していた。早いうちに椿に嫁の貰い手を探さねばと思っているのだが、長屋暮らしになってしまった小川家の娘を引き取ってくれるような適当な商家はなかなか見つからない。
だから、椿の雇用先が幕府の機関、しかも自分の店の元顧客だと知って、庄二郎は渋々、娘が働くことを許したのだった。本当ならばもっと早くどこかの武家に行儀見習いのために奉公に出しておくべきだったのだが、ついつい一人娘を甘やかしてしまった。
ともかく椿は住み込み勤務のために長屋を出てきた。清兵衛さんは右肩に髪結い道具を担ぎ、空いた手で椿の風呂敷包みを持ち、人混みをうまく避けていく。そして、神田小川町あたりの武家屋敷が見えるあたりで清兵衛さんと別れると、椿は後ろから声をかけられた。
「椿さん、また会ったね。もしかして、洋書調所に向かうの?」
「あ、こんにちは、城次郎さん! おかげさまで、住み込みで雇ってもらえることになったの」
「それは良かった。文吉も喜ぶだろうな。荷物持つよ。僕も調所に用があるんだ」
それほど大きな荷物ではないが、やはり2つも両脇に抱えて運ぶのは大変だったので、ここで城次郎と出くわしたのは運が良かったというわけだ。
神田錦町の錦小路を西に抜け、土浦藩邸と飯山藩邸の間を通り抜けると、視界が開けて広大な土地が現れる。これは5万坪に及ぶ火除地で一ツ橋門外側の左右に芝生が植えられ、周辺は外堀に沿って松の並木で囲われており、庶民の憩いの場として茶屋も立っている。
この中心部に洋書調所は九段下から引っ越してきた。学生である稽古人などが増加し、元の場所では手狭になってしまったからだ。調所の正面には安中藩邸が建っており、椿は今までの活気溢れる商家の世界とは根本から異なる雰囲気を改めて味わっていた。
「なんだか緊張してきた」
「はは。単身乗り込んで奉公先を見つけたお嬢さんが何を言うんだい。面白い人たちばかりだけど、そうそう悪いやつはいないと思うから心配ないよ」
事務方の詰所まで一緒に行こうと、城次郎は自分の職場に出入りするように調所の正門をくぐっていく。昨日来た時は雇ってもらうことに集中していたため、実はどこをどうやって通ったのか椿は覚えていなかった。今は顔見知りの城次郎が前を歩いていて心に余裕ができたので、椿はゆっくりと所内の景観を眺めながら歩いた。
新しく建築された大小の建物が立ち並び、曲線を描くような道が整えられ、様々な樹木や花が植わっている。とても贅沢な空間だが、これはうっかりすると迷子になってしまいそうだ。城次郎によると、教授などの職員も多数在籍するが、100名もの稽古人が登録されていて、日々この調所に通っているらしい。
「そうだ、詰所に行く前に、文吉のところに寄らないかい?」
「あ、そうね。お礼を言わなきゃ!」
文吉は2年前にフランス学の稽古人となりフランス語を習得したため、稽古人世話心得という初学者を指導する立場に任命された。まだ正式に教える身分になったのではなかったが、文吉の語学の才能は誰から見ても申し分がない。フランス学には林正十郎や入江文郎という教授手伝がいて、最近、力をつけている学科だった。
中核となる建物は2列に並んでいる。東の建物に語学教場があり、城次郎はさらにその中の左から2番目の部屋に向かった。
いくつかある部屋からは、耳慣れない言葉が聞こえてくる。一人が大きな声で何かを話すと、後に続いて大勢の声が響く。あるいは、ばらばらに様々な言葉を発している。椿は城次郎に促されて文吉がいるという部屋を覗いた。
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