探偵は安楽椅子で休めない
小早敷 彰良
安楽椅子電車
平日の夜、二十一時頃、忙しくて昼ご飯抜き。
これだけで私がどのような状態にあるか誰しもわかってくださると思う。空腹が過ぎると頭が痛くなるというのは、就職してから初めて知ったことだった。出来れば一生知らないままでいたかったが、全く、世間の波は荒い。
電車に揺られながら私はそう独りごちる。手にはスナックバー。チョコと蜂蜜、名前も知らないナッツを混ぜて固めたもの。噛めば噛むほど歯につき、しばらくのあいだ歯を噛みしめるだけで味が染み出してくるようになる、ザ固形食。晩ご飯の代理にはとてもならないけれど、電車に乗っている数十分を保たせることは出来る。
行儀が悪いとは思うけれど、ただぼんやりと電車に乗っているだけでも体力は使う。ましてや何時でも混んでいる都会の電車は尚更だ。ともすれば。倒れそうになる。
例えば、隣の彼みたいに。
彼は同年代の二十代前半くらいのように見えた。少し彫りの深い顔立ちで長めの癖毛。夏場にコートという点を除けば、身なりの良い、洒脱なエリートといった見た目だ。
隣に座っただけとはいえ、貧血だろうか、この世の終わりかのような真っ青な顔をしている相手を放って置くことは私には出来なかった。もしかしたら少しお腹が膨れて機嫌が良かったから、というのも関係あるかもしれない。
とにかく、手持ちの食料を彼に渡しながら話しかけた。
「大丈夫ですか、フリスクでも食べて落ち着いてください。」
誓って言うが、普段からこんな頓珍漢な言動をするわけではない。この時は疲れで頭が回っていなかった。
「え、はい? いただきます。」
受け取る方も変人だ。
そのとき手渡したのは食べ物とは思えない青い小粒、口の中が氷河期になるミント味だった。これで意識をつなぎとめて働くことは何度もあった。というより、今日がそうだ。
「随分と辛そうでしたが大丈夫ですか。」
「ええ、大丈夫です。」
人は大丈夫かと問いかけた時点でその相手が大丈夫だとは思っていないという話がある。まさにそれだ。
「平気そうには見えませんよ。何かあったのですか。」
肩が跳ねたのを横目で見る。こんなにわかりやすくて今までの人生大丈夫だったのだろうか。
「お気になさらず! 」
「そんなに力まずとも、私はただの行きずりの他人ですよ。」
呆れたように笑ってみせる。
「だから如何です、話してみては? 」
「無理です、話したら迷惑がかかります。」
「ではこうしましょう。私はこれから一つ、友人の話をします。その後に貴方も一つ、何か面白い話をしてください。架空でも構いませんよ。」
「それは…。」
「電車にただ乗ってるのは味気なくて。暇つぶしに付き合ってくださると有難いのですが。」
「暇つぶし、ですか。」
「ええ、だって私には貴方の話の真偽はわからないのですからね。あ、本当の話なら真剣に聞きますが。」
「…ご友人のお話を聞かせてください。」
「では話に乗って下さるのですね。」
「僕が話すとは限りませんよ、その前に目的の駅に着くかもしれませんから。」
「なら、話す内容も慎重に選ばなきゃですね。食べるものも。」
「食べ物は関係ないでしょう、それに電車内です。」
「私は実は悪い人なんです。」
そう言いながらパイン飴、甘酸っぱく穴の開いた小さな飴を差し出す。
「飴ですか、話の友には実力不足ではありませんか? 」
「では貴方の話の時にはもう少し豪華なものにしましょう。」
「よく食べる人ですね。」
仕事のせいで昼飯抜きなんです、だなんて暗いことは黙っていることにした。ネガティヴな話は最低限に、円滑な人間関係の基本だ。
※
この話の始まりはそうですね、彼らが友達グループになったこと、ではありませんね。そこは問題ではないです、唯の青春です。
やはり、そのうちの一人が一人に恋をしたことでしょうか。
友情と恋愛は相性が良くないですね、恋愛感情がどうしようもないのと同じくらい、それを拒否する嫌悪感もどうにもできないですから。友人だからお願いを聞いてくれても、なんて思ってしまうことすらありますし。友人にするには良いけど恋人にしたくない人っていますのにね。
ともあれ、よくある話ですが我慢出来なくなった彼女は彼に告白して、振られ、友情は終わりを告げました。ままある話です。仕方ない、ちゃんちゃん。
…これだけで終わるなら、貴方に話すのには力不足です。必要ありません。
ここから話が拗れます。起承転結の転ですね。
拗れたのは告白された男が留学に行った後、告白した女にメールが届いた頃からです。其処での彼は情熱的、かつ愛情深く、元々彼に恋をしていた女にとっては最高の美食だったのです。若しくは毒薬ですね。河豚だとか軽い毒は美味しいと聞きますが如何なのでしょう。
貴方は一度振られた相手からメールが来たらどう思いますか? もし私だったら困りつつも嬉しくなってしまうだろうなって。都合のいい相手になると友人には叱られましたね。…ええ、この話は他の人にも話したことのある、私の鉄板ネタというやつなのです。何せ私、口が軽いもので。我ながら社会人に有るまじき性格ですね。
この話の女は男からのメールを喜んだようです。それはもう、歓喜と言って良いもので、友人にその嬉しさについて、三時間の長電話をしたほどです。
メールアドレスが変わりましたというメールからやり取りが始まって、話が弾んで。それだけでも素敵なのですが、メールのやり取りをするうちに、「好きになった」だとか、「帰ったら会いたい」だとかの愛の言葉が混じるようになったのですから、喜びもひとしおだったでしょう。
それが嘘だとわかるまでは、毎日が薔薇色だったでしょうね。しかも嘘だとわかったのは男の、彼の結婚式の招待状が届いたからです。これが地獄の具現化ですかと笑ってしまいました。
こんなことをする男です、結婚式の招待状を出した数日後に他殺体で見つかるのも仕方のない話でしょう。
さて、ここで問題です。この話に
※
「は?」
間抜けな声と共に男は、変な女、いきなり話しかけてきてお菓子を振舞いつつ奇妙な話をしていた女をまじまじと見つめた。
女はただにやにやと男を見つめ返す。恰も、さあ問題を解いてみろ、と言わんばかりの笑みであるが、男に問題を解く義理はない他人であることを失念している。
男は尋ねた。
「えっと、友人の話っていうのはそれで終わりですか。」
「一旦は終わりですね。」
正に何を言っているのだこいつは、である。殺人事件を突然話しだすだなんて、まるで推理小説の登場人物のようではないか。
もしそうだったとしたら、俺は安楽椅子探偵の位置付けなのだろうかと男はしばし考え込む。
「そんなに難しい話だったでしょうか。ヒントはご入用ですか。
もちろん、この話で行動が描写された人が全ての人数ですよ。
そうでないと最大値は無限大ですし、全て女の妄想、最低値は零人です、何てこともありません。」
女が喧しく話しかけてくるが、男が考えているのは問題の中身ではない、外側、この女の意図を考えていた。
正攻法で考えれば簡単な問題だ。問題はそこじゃない。正解をこの人物に話して良いのだろうか、そこだけだ。
※
「そろそろわかりましたか。」
女の声に男は顔を上げる。自分で思っていた以上に深く考え込んでいたようだ。
相変わらず周囲は混んでいて、
「一駅過ぎましたね、ずっと黙っているから退屈でしたよ。」
先程からずっと、ぼりぼりと異音がすると思っていたが、女がフリスクを次から次へと噛み砕く音だったとは。男は隠そうともせず眉をひそめる。
先程成り行きで受け取りはしたが、この男はフリスクが嫌いだ。歯磨き粉の味もさる事ながら、舌にピリッとくる感覚に違和感があり、娯楽でもあるはずの食事に何故そんな刺激が必要なのか疑問だからだ。
「わからないならギブアップでも良いですよ、この話は閃きが必要な類で、推理には向かないのですよ。」
女は飄々と言う。
男はプライドを傷つけられたのか、むっとしたように言葉を返す。
「いや、答えはもうわかってる。」
「では解答を。行きずりの他人が話す作り話です、そんなに思い悩ませてしまったならすみません。」
女は的確な言葉を選んで話していた。もし正解だったとしても貴方に危害が及ぶことはないと、そう錯覚させるように。
本当に疲れていたのか、話を終わらせたかったのか、ともかく、男は言い放った。
「この話の人数の最大値は三人、最低は二人です。」
女は噛み砕く動作をやめて問うた。
「ほう、その根拠は。当てずっぽうはなしですよ。」
「先ず、最低値はとてもわかりやすいです。行動が描写されていて、明確に人物が指定されているのは男と女、その二人だけなのですから。二人でも団体、グループと言うとするならば、他の人物の描写もありません。少し意地悪ですけどね。」
女は無言で先を促す。男は続けて言う。
「次に最大値ですが、これは難しい。二人で完結する話ですし、他の人物の行動なんて出てこない。と思いがちですが、一箇所だけありました。長電話される友人。そして出題前に言った貴女の言葉。これは私の友人の話です。」
一息ついて言う。
「だから最大値は、男と女、そして友人である貴女を含めての三人です。
でないと、こんなに詳しく話を知っているはずがありません。作り話なら別ですけれど。」
電車の騒音が戻ってくる。また駅に着いたようで、周囲の人がかき混ぜられる。
その場において、女は何の感情も見せていなかった。間抜けな解答を出されたとしても職業柄、無表情は身についている。女は言った。
「最低値は当たり、最大値ははずれです。」
「えぇ?! 」
声の調子の明るさの割に無表情な女に、男は狼狽する。
だって他に行動が描写された人物何ていない。ノックスの十戒に合っていない。
「正解は何ですか。」
男は問いかける。
「聞きますか? 」
数十分前とは違い、女は真面目に問いかける。
「勿論教えてくださいよ、気になります。」
男は当然のように言う。女は答える。
「ではお教えしましょう。最大値は、友人グループの外側の人物、メールアドレスを変えたと連絡し、女に甘い言葉を囁いた外部犯。メール相手、彼も含めて四人です。」
「は。」
そんなのありかよ。
男の脳裏に先ず一番最初に浮かんだのはその言葉だった。
推理小説での禁じ手、外部犯。しかも根拠というには乏しい言葉。
「行動が描写された人」
やたらと強調されると思ったら、行動だけが描写されている人物がいたからとは。
してやられたなぁ、と男は笑みを浮かべる。こういった悪質な話は嫌いではない。
その次に、漸く気がついた。
嗚呼、だから最近ずっと何者かに追い回されているのか。
そして、もう一つの答えにも辿り着いた。
その何者かに追いつかれたら、俺は殺されるだろう。何故なら俺は知らない誰かに悪質な悪戯をしたのだから。
俺が、その外部犯だからだ。
男は女を見た。女はずっと男を見ていた。探偵は両方を見比べて、漸く長い仕事が終わった事実に疲れを覚え、またミント味を囓った。
※
「コートを着た癖毛の男性です。彼が外部犯で間違いありません。」
「やはりですか。今追いかけています。」
「前金でお代は頂いておりますし、ここからは我が社は感知致しません、貴女の自由です。」
「承知しました。ああ、なんとお礼を言えば良いのですか。電話だけでこんなに鮮やかに解決してくれるだなんて。」
「いえいえ私はそんなものではありませんよ。」
そんな推理力がないから、こうして足で調べなければいけないわけだ。
顔も知らない女、詳細情報も話してくれた依頼人に、心の中で独りごちる。
「またまた、ご謙遜を。」
「ではこれにて。この携帯は破棄致しますので悪しからず。」
「私がこれからすることまでわかるというのですね、流石探偵さんです。」
正直誰にでもわかると思う。例えば警察にとか。けれどこれを口に出すほど私は優しくない。電車で食べ物を出すような性根だ。
「では、さようなら。」
携帯の電源ごと切りながら、ようやく仕事帰りとなった電車の中で私は最後の食料を取り出す。分け与える男はもういない。一駅前で慌てたようにおりていった。
おにぎり。それもいくらのおにぎり、少し高価だけれど私の大好物だ。
一口頬張ると海の香りと塩辛い味が米の甘みに絡まって感じられる。何時までも味わっていたいのに次を早く食べたくなる、美味しいものを食べるといつもこうだ。食事だけで全てを満足出来れば皆幸せだろうに、何故恋なんてしてしまうのだろう。
私が最後に食べるとしたら、こういう、お腹にたまるような大好物が良い。
あんな安いお菓子が最期の晩餐だなんて、あの男も嫌だったろうな。
探偵は安楽椅子で休めない 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa
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