『終わりの先のカーテンコール』

1.

「あひる? あひるッ‼︎」


 私の名前を呼ぶ声が聞こえる。ぼんやりと、モヤがかかった声は、私のことを呼んでいるという直感的な事実だけしか判別できない。体を動かそうとするけど、大きな岩が重しみたくのしかかっているように重く感じた。あるいは今私の体は首から上を残して無くなってしまっているのではないか、そうとも思ってしまった。


 しかしどうやらどれも杞憂だったようで、時間が経つにつれて私の四肢は自由を取り戻していき、やがて私の意識が完全に覚醒する頃には私の体は私の体として機能していた。


 起き上がった私が最初に体感したものといえば、強烈な吐き気と劣等感。そして全てを投げ捨ててしまいたくなるくらいの倦怠感だった。純白のベッドが天井の蛍光灯を反射して目覚めたばかりの私の視界をまばゆく照らしている。


 わんわんと泣きながら私に抱きつく母、安心の表情を向けて微笑する白衣に眼鏡の男性。私は今しがた自分が寝ていた場所は病院だとすぐに理解に至った。


 記憶が混濁し、今まで何をして、どういった経緯でここにいるのか、母や医者の先生は順を追ってゆっくりと、しかし焦るような、どこか落ち着きのない様子で説明してくれた。


 私は小学校の昼休み中、普段から私をからかって遊んでいるA子ちゃんに呼び出され裏庭に向かった。


 いつもみたく私をからかって終わりだろう、と私は何の期待も絶望もせずに指示に従い裏庭へ足を向けた。一方丁度同時刻、呼び出し人であるA子ちゃんと他数人は私を呼び出した場所の真上......校舎の四階の窓から私を見下ろしていたらしい。その手に持っていたのはなみなみと水が注がれた花瓶。それは私のクラスで育てられていたシロツメクサが入っていた花瓶だった。


 彼女たちは花瓶に入っていた水を私にかけ、笑い者にする予定だったらしいが、幸か不幸か(不幸であってほしいけれど)花瓶を落としてしまった。水を真上から被ると同時に私の後頭部に花瓶が、自由落下の助走をつけて激突した。割れやすい、比較的怪我をしにくい花瓶と言えども、物理学を味方につけた物質は何であれ凶器となる。私は頭から血を流しながら倒れ、気を失った。



 先生や母はどこかへ行ってしまった。恐らく病室の外で何かを話しているのだろう、だとしたら私の退院時期の相談だろうか、と勝手に思案する。


 病室を見回すと、どうやら私以外に病人はいないようだった。相部屋じゃないというのはプライベートが確保される一方、誰かと話す回数が極端に減るというデメリットも含んでいた。ベッドから降りずに、手を伸ばして仕切りのカーテンを掴んで横へと引く。シャッという音が聞こえ、隣にあるベッドが露わになる。


 シワ一つない純白のベッド。本当に誰も使っていないようだった。私はほっとした反面ちょっとだけ寂しい気持ちに晒された。


 その時。心臓が大きく跳ねた。ドクン、と私の体中に、何か良からぬモノが紛れ込んできたのがわかった。いや、それは外側から流れてきたのではなく、元々私の中にあったものだった。


 視界が徐々に、端の方から赤く染まってきた。頭はこめかみ辺りが締めつけられているように鈍い痛みが波になって襲ってくる。私は苦痛に耐えるために歯を食いしばり、ベッドのシーツを強く握った。そのせいでしわくちゃになってしまったが構わない。今の私の頭の中はシーツとは比べ物にならないくらいグシャグシャなのだから。


 しばらくすると、波の満ち引きよろしく痛みが引き始めた。その事実に心底安堵した私は今まで痛みに意識を集中していた間、気がつけなかった違和感を感じ取った。


 体が何だか窮屈に感じる。


 どこかの偉い人が肉体は精神の牢獄だとか何とか言っていた気がするが、この時の私は多分『そういう』感覚に陥っていたのだろう。私という牢獄に、私以外の誰かが一緒に収監されている。みたいな......そんな言葉にしづらい、ふわふわと足のつかない感覚。


 この頃は対して気にも留めない些細な違和感だったけれど、それは案外すぐに頭角を現すことになる。


2.

 頭の包帯も外れ、退院した私。本来なら学校に行ける程度まで回復していたが、母が大事をとって、と言って聞かなかったのでしぶしぶ学校を休むことにした。とはいえ、別に私は学校が好きではないし、むしろ好きか嫌いかを問われたら何も言わずに嫌いを指さすだろう。よく言えば達観、悪く言えば卑屈なんだ、私は。


 私が家にいると、母が買い物に行ってくると言って家を出て行った。やる事がないというのは思っていたよりも数倍苦痛だと理解したので、気分を変えるために家の外へ散歩に出かけることにした。


 外に出ると、鼠色の雲が空をすっぽりと覆い尽くしていた。天気予報を見ずとも雨がもうすぐ降り出すことがわかる。雨に降られることはする事が何もないよりも嫌だったので、散歩は玄関までで切り上げて私はキビスを返した。


 ふと、か弱く今にも生き絶えそうな小さな鳴き声が耳に入った。視界の端にピントを合わせると、道端にぐったりと横たわった猫がいた。地面には真っ赤な血が溢れ、アスファルトの凸凹オウトツの隙間に流れ込んでいる。


 私は考えるよりも先に猫のもとへと駆け寄った。抱きかかえると、予想外に重い猫の体が私の両腕にずしりと圧を与えた。力を抜いた生物はこんなにも重いのかと痛感する。


 ヒュー、ヒューと隙間風程の小さな呼吸。かなり衰弱しているのが見て取れる。とにかく何とかしなくちゃ、と私は猫をそっと慎重に地面へ寝かせると家へと駆け込んだ。


 家の中......救急箱は確かキッチンの横の棚にあったはず。いまいち信用ならない曖昧な記憶を頼みの綱として進む。スライド式の棚を開くと、白色の箱があった。救急箱だ。急いで箱を開き、包帯やら消毒液やら、とにかく使えそうな道具を片っ端からかき集めた。両手に抱え、外に出ようとしたとき。


「あっ」


 それを見つけた、見つけてしまった。ついに、とうとう、やっと、見つけてしまった。キッチンのシンクの上に乱雑に置かれていたのは包丁だった。どこの家庭にもあるごく普通のモデル。何故だかはわからない。けど、今の私は無性にその存在に魅かれていた。シンクに置かれていたからか、少し濡れた柄を持つと、その瞬間、頭を金槌で思い切り横殴りにされたような強い衝撃が襲った。


「つっ......あァァァあああ⁉︎」


 時空が歪むみたく視界が歪曲ワイキョクし、目の前の景色がぐにゃぐにゃと不規則に形を変えていくのを目の当たりにした。


 この突発的な発作を抑えるために意識を鮮明にしようと頭を手で叩くが、徐々に私の意識は黒色を帯び始め、ある時点を境に暗転した。




 ......体がびくり、と震え、そのはずみで私は意識を取り戻した。机に突っ伏して寝てしまったり、夢の中で階段を踏み外したりした時に起きるあの現象によく似ている。


 一体どれくらいの時間この場に立ち尽くしていたのだろう。一秒? 一分? 一時間? それ以上? ただ一つわかるのは。


 意識がない間、私は鬼になっていたということだった。



「ひッ」


 あまりの恐怖に、私は手に持っていたモノを落とした上に腰を抜かして尻もちをついてしまった。お尻の骨がズキズキと痛んだけどそんなことはどうでも良かった。目の前にはもっと凄惨で悲惨な地獄絵図が広がっていたのだから。辺りにぶち撒かれているのは真っ赤な血液。クリーム色のフローリングの床を赤一色に染め上げていた。


 血だまりの中心にあるのは猫......今しがた私が応急処置を施そうとした猫じゃないだろうか。いやきっとそうだ、間違いない。そう確信する。


 腰を抜かしつつも、何とか四つん這いの姿勢になり、震える四肢を支え猫のもとへと向かった。背中だけが見えている猫を両手で掴み、ひっくり返すと。


「............!」


 猫の皮膚は大きく横に裂かれ、中にある臓器がいくつも露出していた。ぷっくりと丸みを帯びた臓器は、この猫が紛れもない生き物だという事実を生々しい現実と共に私に示していた。鮮血がまるで際限がないように溢れ出して私の両手をみるみる内に染めていく。


 家の中に広がる血だまり。いつかの時まで猫だった肉の塊。そしてその死骸を両手に膝立ちで佇む私。これではまるで。


「私が............ッ、猫を酷く殺したみたいじゃん............⁉︎」


 恐怖が一瞬にして私の全身を覆い尽くした。しかしこの恐怖は、私が猫を殺してしまったのではないかという不安からくるものではなく、「もしかするとこの光景を何らかの偶然で目撃してしまった誰かが猫を殺したのは私だと早まった結論を出してしまう」のを忌避するものなのだ。どこまでも自己防衛に走る自分の姿に私はつくづく腹が立つ。


『オイオイ、勘違いしないでもらいたいんだけど。この猫を殺めたのは疑う間も無くアンタよ、私』


「えっ......だ、誰? 誰?」


 どこからともなく声が聞こえてきた。周囲を見ても誰もいない。家の中に私以外の誰かがいればそれはそれで問題なのだけれど、それ以上に......誰かが私の近くで語りかけている事実以上に......比較にならないほどおぞましく、不気味な蟲が背中一面を這い回っているみたいな、表現するならそんな感覚だった。


『今言ったでしょ。私はアンタ。イコールで繋げることができる関係。理解した?』


 背中で蟲が這い回っている......この表現はオオムね間違っていなかった。この謎の声は、まさに私の背中から発されている。いや、もっと正確に表現するなら私の背中よりももっと深いところから発されているのだ。


 喉が干上がったかのように乾く。無性に水が欲しくなった。恐怖に負けじと私は既に重しと化した腰を上げ、血だまりを踏みながら冷蔵庫の前に立って扉を開けた。麦茶のペットボトルをひったくるみたく掴み取り、一気に飲み干した。


「んくっ............んく......ぷはッ」


 コマーシャルに出る俳優がするような飲み干し方だったと思う。普段ならやろうにもできない量だったが今の喉の乾きは『渇望』する規模の衝動だった。


『んだよセワしないなぁ。自分のことながら恥ずかしい』


「......あなた誰なの」


 私は一呼吸置いて、落ち着いてから口を開いた。家の中、血だまりが側にある状況での独り言。明らかに危ない人だった。


『だぁかぁらぁ。何度も言ってるだろう? 私はアンタ。もっと狭義的キョウギテキに言えば、アンタの意識の中に住むもう一つのアンタ。ペルソナって言えばわかりやすいか』


 何を言っているのか理解が及ばなかった。私の頭が悪いのか、それともこの......ペルソナとかいう奴が言ってる内容が難解なだけなのか。後者であってほしい。


「......それで。何のためにあなたは私の意識に住み着いたの。まさか理由もなしに、なんてことはないと思うけど」


『私は好きでアンタの中にいるわけじゃあないの。私という存在を生み出し、一つの人格として確定させたのはアンタ自身なんだぜ』


「え......?」


 今の言葉。まるで私が自らこの口の悪い存在をつくり出して好き好んで体の中に住まわせてるみたいに聞こえた。そんな気はこれっぽっちもありはしないが彼女(彼?)にとってはそうなのだろうか。


「私はあなたをつくった気もなければ、住まわせてる気もないんだけど」


 私の言葉に対し、返ってくるのはけらけらと乾いた笑い声。このお腹の底から振動する感覚はあまり好きじゃない。というか嫌いだ。


『いいや、確かにアンタは願った。意識を失っている間、自分をオトシめた連中に復讐したいと心の奥底から願ったんだ。だから私が現れた。私という悪魔も裸足で逃げ出すような悪に拠り所を与えた。それがアンタ史上唯一の汚点だな』


 皮肉を言ってのけた私のもう一つの人格は私に後ろを見るように仕向けてきた。冷蔵庫の側に立っていた私が振り返ると、どこまでも非情な現実が大口を開けて待っていた。


 血みどろのフローリング、バラバラにされたいつか猫だった肉の塊。部屋の奥にポツンと置かれていた、しかし凄まじい存在感を放つ刃に血液の付着した包丁。あまりに非現実的なそれらの要素は刑事ドラマやスプラッター映画の殺人現場を彷彿とさせるまでに『完成』されていた。


「............」


『ホラよく見ろよ。よく見て、まぶたの内側にまで目の前の光景を焼き付けろ。猫はアンタが......私が「殺した」んだ』


 夢から覚めてしまったみたいな、そんな気持ちだった。足がつかない水中で漂う浮遊感に包まれていたはずが、実際のところ崖から落下している最中に見ていた現実逃避の夢だった、みたいな。


 崖から落ちてしまった場合、待っているのは死亡するという一つの結果。


 私が今置かれている状況は、一見しなくても絶体絶命に事足りる。けれど前者と絶対的に違うのは、結果でなく可能性が二つ用意されているという点だ。一つは行き止まり......買い物から帰ってきた母にこの惨状を目撃されてしまったり、たまたま偶然忍びこんだ強盗に目撃されたり、つまるところ私以外の第三者に見られてしまうこと。


 もう一つは先へ繋がる可能性......私が垂れ流された血を全て処理し、一連の出来事全てをなかったことにしてしまうこと。


 私は、残された可能性に賭けてみることにした。幼い頭脳を必死で回し、一切合切塵すら証拠に残さないように処理に走った。包丁を洗面台で洗い流し、床を雑巾で何度も何度も拭き直した。血は臭いが残るから消臭スプレーをこれでもかというまで吹きつけた。猫は家の近くに生えている木の根元に埋めた。私が殺しておいて都合がいいのは重々承知しているが、安らかに眠ってねと手を合わせた。



『お〜おォよくやったなァ。私のことながら尊敬しちまうよ。火事場の馬鹿力よろしく火事場の思考力ってな。全国の殺人犯の皆様はこうやって事件を浮き上がらせないように四苦八苦してるのかねェ』


「......うるさい。元はといえばあなたが私の意識を乗っ取って活動したからでしょ」


『仕方ないだろ? 私はアンタの内に棲む悪そのものなんだぜ。生を謳歌するモノを殺すことを良しとし、それを生きがいにする醜悪で最悪な悪なんだよ。もっとも、すべからくこの世界で一番の悪は人間だがな』


 一番の悪は人間......。意味が私にはわからなかったけど、反論する気は起きなかった。


『お前ら人間は他の生物を殺し過ぎていると思わないか? 美味いからという理由で牛や豚や鳥を際限なく殺し、物を作るのに必要だからという至極身勝手な考えで植物を殺す。果てには何となく気に入らない、口論になったからなんてどうでもいい結論で同じ人間をいとも簡単に殺している。人間を一番殺しているのは蚊だとデータが出ているが、実際は人間を最も殺しているのは同種である人間に他ならないんだ。これを悪と呼ばずして何と呼ぶ?』


 その言葉には確かな重みがあり、質感があった。少なくとも私が何も言えなくなるくらいには。


 *


 不幸にも生まれてしまったもう一つの人格はその後も私の意識の中に巣食い続けた。時折表面に現れては、私の体を使って殺しを働いた。その対象は人間ではなく、モッパら蟻や蝶などの虫に限られた。いくら虫とはいえ、意図的に殺していることには申し訳なさというかいたたまれなさを感じるうえ、どこか子どものような無邪気さと残酷さを含んでいるように思えて身震いしてしまった。



『あ? 殺人鬼だァ? なんだそりゃ、もしかしなくても私のことじゃねェかよ』


「違う。と思う。なにせ名前の通り殺しの相手は人間だから。私たちとは違うでしょう」


 高校一年生になり、世間......主にZ市内で話題になっているのは不謹慎にも殺人鬼の噂。なんでも、仮面を付けて顔を隠し、人を殺すらしい。仮面なんて目立つ物を付けている時点で顔を隠したいのか目立ちたいのかわからないけれど、その奇妙さから『仮面殺害者カメンスレイヤー』なんて通称がつけられてしまったみたいだった。


 自分に危害が及んでいないのをいいことに殺人行為をゴシップとして楽しんでいる。どこまで行っても人間は醜悪な生き物だと思う。それこそもう一人の私が言うように、悪という言葉が相応しく似合っていた。


 言い終えてから気がついたけど、私もこの数年の間に相当感覚が麻痺してしまったらしかった。慣れたなんて言えば聞こえがいいだけで本当のところはあまりに大量の虫を殺し過ぎた結果、行為そのものが当たり前になってしまっているのだ。つい最近には小動物......ネズミや小鳥なんかも殺してしまっているときがあった。意識を取り戻すと目の前に体を四散させた虫や動物の死骸があることを気味が悪いとも不思議とも思わなくなってしまっている。私自身、もしかしなくとも他の人間と等しく悪なのだろう。


『まァそんな奴のことよりも、だ。アンタ、最近体の調子はどうよ』


「えっ......?」


 意外にもかけられた声は皮肉でも非難でもなくただの心配だった。数年の付き合いで一度も言われたことのない言葉だったのでうっかり答えにつまってしまう。


『何だ、自分のことすらわからねェのか。アンタの体、どっかしらオカシイみたいだな』


「おかしいって......具体的にはどこが」


『............イヤ、アンタが異変を感じないなら恐らくその程度の異変なんだろうな。忘れてくれ』


 もう一人の私は一方的にまくしたてると口を閉ざしてしまった。その後何度か話しかけたけれど一切反応せずにだんまりを決め込んでいた。異変、という言葉が私の中でやけに反響している。どうにも気のせいだと一蹴できないのだ。まがいなりにも私からの忠告だから無下にできないのか、それとも自意識の奥深くではその異変とやらを既に察知しているのだろうか。どちらであれ、あぁそうですかと放り出すわけにはいかなかった。


 後日、それなりに大きな大学付属病院に診察を受けに赴いたが、特に異常は見られないとの結果。やっぱりとんだ杞憂だったのだと半ば強引に自分を納得させてこの件は『一旦』終わりを迎えた。


3.

 陸上部に所属している私は、一年生ながら大会の代表として選ばれた。選抜になるというのは名誉なことであると同時に、他の部員から妬みソネみを買う最たる原因でもある。二年生の先輩からは生意気だといった視線を向けられることも多いが、期待の裏返しだと考えて、嬉しくも恐ろしくもある不安定な心情を抱いたままがむしゃらに練習を重ねていた。


 この日は五時過ぎに練習を終えて、彼氏くんとの待ち合わせ場所である昇降口前に向かっていた。その途中で先生に呼び止められ頼まれごとをされてしまい、嫌々ながら引き受けて渡されたプリントの束をいくつかの束に仕分ける作業をこなした。


 全部片付けると時計は五時十五分を指していた。駆け足で昇降口に向かうと、一人だけポツンと自動販売機の前に、まるで寂しがるように寄りかかる人がいた。


「やっほ、華」


 哀愁漂う横顔を眺めつつ、少し申し訳なさそうに声をかけた。彼氏......昼間寝華は私に気がつくとスマートフォンを制服のポケットにしまい、朗らかな笑顔を見せた。


「やっほあひるちゃん」


 遅れたことについて怒っているか聞くと、その程度で怒るほど小さな男じゃないと言っていた。けれど私としては申し訳なさが圧倒的に勝っていたので、ファミレスで奢ることにした。財布の中身的に余裕はほとんどないけれど、それで華と私が満たされるなら安い出費なのかもしれない。



 ファミレスで軽い食事を済ませた後、華が家まで送ってくれた。華の彼氏らしい行動は珍しく、喜ばしいことではあったが、今の私には手放しで喜ぶことはできなかった。華の口から『仮面殺害者』の話が出てきたのだ。


 やはり、彼も他の人と同じように『仮面殺害者』をいい話のタネだと思っているのだろうか。


『ほおほお。仮面......ペルソナねえ。建前の元型か......アンタそんな風に例の殺人鬼の事を考えてたのか。


「別に......。いつか読んだ本の受け売りよ。パッと頭に浮かんだから長々と語っただけ」


 そうかい、と小さく笑いながらもう一人の私は意識の最深部に消えていった。邪魔者がいなくなって奇妙なことに、一人部屋に取り残されたような気分になってしまった。


「......どうなってるのやら」


 壁かけ時計を見る。長針と短針が一定の速度で規則的に動いている。じっと見つめていると、秒針が凄まじい速度で進み長針や短針を何度も追い越していった。その光景が、『仮面殺害者』が獲物である人間を追いかけている瞬間に見えてしまい、ほんのちょっぴり怖くなった。


 *

 夢を見た。凄く苦しい......夢だ。夢は基本的に覚えてないことがほとんどなのだけど、この夢だけは忘れたくても忘れられない夢。脳の裏にこびり付いて、ジリジリと私の脳を焼き焦がしているみたいな苦痛を伴った夢。それでもってぬめついた触手に全身をナブられているみたいな生理的嫌悪感を抱く夢。


 私は夢の中で、醜い怪物になっていた。私は顔中を血で汚しながら、人を殺していた。私は自らのあまりの醜さに吐き気を催して、仮面を付けた。他人からも、私自身からもその醜い顔を遠ざけるために。


 いくら洗っても顔に付着した血液を拭うことはできなかった。まるで烙印だと言わんばかりに、罰だと言わんばかりに世界は私を拒絶した。


 私は抗った。夢の中で。『自分の本能からくる殺人行動』という不変の事実をひた隠しにして「これは正当な制裁だ」と叫び続けた。自らの行いを正当化するために。しかし世界は決して私を許さなかった。私という偶発的に出現した『歪』を看過しない。できたシワを伸ばすみたいに、修正を促す存在が私の前に現れた。


 夢はここで終わったが、私は直感で理解してしまった。『歪』は修正しようとする力には絶対に勝てない。抵抗する間もなく無様に消されてしまうのだと。それから逃れる手段はおおよそ存在しないだろう。



 *

「..............................‼︎」


 目の周りが焼けるような苦痛を感じた。目を開けようにも、どういうわけか、私は既に目を見開いていた。つまり、目を開けたまま意識を失っていたということになる。


『おい............と......きた......が......て』


 遠くから、最近よく聞く声が聞こえてきた。数秒考えるとすぐにもう一人の私自身の声だと合点がいく。何て言っているかわかんないよ、と言ったつもりだった。そう、つもりだった。私の言葉は体の内側を駆け巡るように反響して四散してしまっていた。声になっていないのだ。


 もやもやとした不明瞭な視界とふわふわとした浮遊感のある五感。寝ぼけているときとよく似ている気がする。


『よお、やあっと目が覚めたか』


「あっ............え」


 急に耳元ではっきりと芯を持った声が聞こえた。その声は私の全身に波及し、五感を研ぎ澄ませ、目前に深くかかった霧を散り散りにした。一度瞬きをすると、私の意識は完全に覚醒していた。


『しっかし一体どうしたんだよこの数日間のアンタは。魂抜かれたみたいに朦朧としてさ、アンタの「フリ」を余儀なくされた私の苦労も考えてくれよ』


「え......えっと。ご、ごめん......?」


『まあいいけどな。その代わりというわけじゃねェけどさ、衝動は好きに発散させてもらったよ』


 もう一人の私は軽い口調で言った。そう、と普段通りに相槌だけ打って流そうとしたときに、ふと変な言葉が混じっていたことに気がついた。


「ねぇ。衝動は好きに発散って............何? どういう意味?」


 嫌な予感がした。心臓の活動が活発になり、血液が尋常ならざる速さで全身の血管を流動している。じわりじわり、おでこ辺りから滲み出た汗が目の横を通って顎先に溜まっていた。顔を虫が這い回っているみたいな、神経を逆なでする感触が気持ち悪くて指先で拭った。


 しかし指先に付着していたのは透明ではなく、赤い色の水滴だった。


「............は」


 指先でこねくり回すと、少しねばつきがあることに気がついた。人差し指と親指にしつこくまとわりつくその赤い液体は、生臭い鉄の臭いがした。


『どういう意味もなにも............そのままの意味だよ。周りをよく見てみろよ』


 もう一人の私はイブカしげな感情を含んだ声色で私に告げる。呆れるような様子なのは私が原因なのだろうか。視線を左右に彷徨わせた刹那、私は言葉を失ってしまった。


「ひ......」


 私が立っていたのはどこかのビルの屋上だった。体に吹きつける風はやけに冷たく、どこかから車のクラクションの音がいくつか聞こえた。


 そんなごく普通の現実味のある風景の中に、極めて不釣り合いな要素が紛れ込んでいた。地面にぶちまけたように撒き散らされた真っ赤な血液。屋上からビル内の階段に続く簡素な装飾の灰色の扉にもたれかかっている自分とほぼ同じくらいの年の女の子。首はぐったりと垂れ下がっていて顔は見えず、腹部には風穴が開き、制服に痛々しい血の染みをつくっていた。


「ちょ......ちょっと! 大丈夫っ......⁉︎ 救急車呼ばなきゃ............!」


 私は突然の出来事に焦燥を隠しきれず、大声をあげながらどこかにしまったスマートフォンを探した。しかしどこにもその影はなかった。


『やめとけやめとけ。そいつはもう助からねェよ。私が殺したんだから間違いねェ』


「私が............殺した?」


『ああ。アンタが殺したんだ』


 私が......殺した? 私が?


 私が殺した。私が殺した。私が殺した。私が殺した。私が殺した。私が殺した。私が殺した。何度頭の中で反芻ハンスウさせてもその言葉は、その結果は、その事実は、がん細胞みたいに私の脳を黒く汚染し侵食していくだけだった。


『それに救急車を呼んだら当然警察も飛んでくるぜ。この有様を見たら、警察のヤツらは考える間も情状酌量の余地もなくアンタの手に手錠をかけるぜ。......おい? ちっ、また意識が吹っ飛んでるのか。相変わらずなよなよした野郎だな。いや、女だから違うか』


 この言葉を最後に、私は再び意識を失ってしまった。


4.

 次に私が目を覚ましたのは六月の二十日だった。数日間眠ったままだったようだ。しかし周囲の人間からすれば、私は普通に生活をしているように見えただろう。正確には私という人格が眠っていただけで、悪の塊である私のもう一つの人格が私の体を操って生活を送っていた。皮肉なことに、もう一人の私は私以上に『澄輿あひる』という人間を上手に演じていた。その裏で何人もの人間を、誰の目にも留まることなく殺しながら。


「どうして人を殺したのか」と私は私に詰問した。


『殺したくなった、それだけだ』


 そんな風に、いとも簡単にもう一人の私は人殺しの理由を述べた。私自身としても人間としても度し難い横暴だ。


 どんな理由があっても人を殺すという行為は、人が人として生きる上で最も愚かな行為であり、咎められるべき大罪だ。私はすべからく殺人という行為を許さないし、それを犯した私自身が腹わたが煮えくりかえるほど憎かった。しかし憎いという感情がありながら、警察に逮捕され、この年にして世間的、社会的に死ぬことを恐れる私がいるのもまた揺るぎのない事実だった。


『数日前、私の中に何かおぞましい感情がいきなり沸き出したんだ。悪である私がおぞましいと思っちまうくらいドス黒いモンだ。そいつが私の中に入り込んできて以来、虫や小動物なんかじゃ我慢ならなくなっちまった。最初はその衝動を抑え込んでいたさ。私に残ったプランクトン並みの理性を働かせてな。けれどついに抑えられなくなって、本能の赴くままに持ち出した包丁でブサリ、ブサリとやっちまったわけよ』


 擬音が入り混じった雑な説明だった。けれどその擬音がかえって恐怖心を煽り、妙に現実味をまとったその話は、もはや怖い以外の感想が出せなかった。


『ところがよォ。最初に殺したその男、所持品なんかを見たところ噂の「仮面殺害者」とかいうヤツらしくてな』


「......嘘でしょ?」


『嘘なモンかよ。男の持ち物は三つ。一つは血のベッタリと付いた筋引き包丁。一つは被害者のものと思われる肉片の一部。そして一つは......能で使われる白塗りの面』


 次々と挙げられた持ち物は、どれも普通の人間が持ち歩く可能性のない品々であり、その男が『仮面殺害者』であると断定するには十分な証拠となり得るだろう。


 ......『仮面殺害者』が既に死亡している。理解すればするほどに、私の頭の片隅に嫌な予感が一つ、また一つと積み重なっていっている気がした。


「ちょっと待って。......『仮面殺害者』を殺したって言うなら............今、世間を騒がせている『仮面殺害者』は一体どこのどいつなのよ」


 核心を突いた質問を私は投げかける。声が小刻みに震えていた。その震えは、これからもう一人の私が話すであろう真実が、どんなにおぞましく残酷なものかを間接的に知っているからだろうか。けれど聞かないわけにはいかない。ここで逃げ出せば私は今後も変わらずずっと逃げ続けるだろうから。


『今暗躍している殺人鬼......「仮面殺害者」の名前は澄輿あひる。私でありアンタだよ』



 悪い予想は大方的中する。杞憂で済むことなど有りはしないのだと私は痛いほど痛感させられた。


「私が........................『仮面殺害者』、か」


 めまいが酷い。立ち尽くしたままの私の視界がぐにゃりと歪曲して、危うく意識がまた飛んでしまいそうになるが、ふらつく足下に力を込めて転ぶのを避けた。......私は存外なまでにストレスに弱いようだ。ショックを受けると気を失って都合よく忘れてしまう。


 こんなに歪んでいるからこそ、『悪』というもう一人の私は生まれてしまったのかもしれない。誰かを......何かを壊してしまいたいという血生臭い本能を、嫌な出来事を、歪んだ気持ちを、全部忘れたように騙して自らの心の奥底に押し込んでいたのかもしれない。そんな破裂寸前の私の心は、花瓶で重傷を負ったあの日とうとう爆発してしまった。


 ダイエット中に溜め込んだ食べたいと思う欲望からかえって酷くリバウンドしてしまうように、私の秘匿された黒い感情はセキを切って溢れ出し、ドクドクと水音をたてて私を侵食し続ける。私の血液を黒く染め、心臓や脳を灰色に貶める。そんな現実にはありえない妄想に苛まれそうになった。


「............私は............どうすれば............いいと............おもう」


『自問自答とは相当病んでるなァ、アンタ。どうするもこうするも、アンタのやりたいようにやりゃいいだけだろ。腹が減ったら飯を食えばいいし、眠くなったら眠りゃいい。それと同じだ。本能っていうマシンに「殺人」というプログラムが埋め込まれてりゃそれを拒む方法はない......それが人間の本能であり、いくら理性で抑えても結局抗えないからこそ本能なんだからよ』


 今は、今だけは、悪である私の言うことがよく理解できる気がした。今までもう一人の私が行っていた殺人行為は、突き詰めれば「私とよく似た別人が行なっている」だけで私がやったのではなく、私のせいではないと思い込み、逃げの姿勢を貫いていた。


 しかしどうやら違ったようで、悪の私が言うように、殺人行為は、「私......澄輿あひるが心の奥の奥で密かに望んでいた本能そのものなのだ」と気づかされてしまった。


 きっともう私は自分を偽ることができないだろう。自分の本能を、自分の両腕を使って思う存分振るうために、周囲を偽るために『仮面』を付けることにしようと思う。仮面を付けた私は、誰がどう見ても『仮面殺害者』そのものだった。


 *

 みにくいアヒルの子は、最初は周りから疎まれケナされ、悲惨な人生を送っていた。しかし本当の正体は純白を体にまとった白鳥の子であり、皆に迎えられながら最後は美しい羽を広げて飛び立って行ったという。


 ......この物語にそのような幸せなハッピーエンドは存在していない。あるのはただ一つのまっすぐな道だけで、どこまで行っても変えることのできない結末の袋小路。結末を迎えると流れるのは、無機質な音楽と無感情のスタッフロールだけ。カーテンコールはいざ知らず、配役のない演劇会。


 終わりのない既に終わった物語は、じきに用意された終幕へと向かうだろう。



5.

 熱を出した。三十八度を超える高熱なんて何年ぶりだろうか、いや、もしかすると初めてですらあるかもしれない。母は尋常でない様子で取り乱し、救急車を呼ぼうと言い出したが私は拒否した。ただの発熱である以上、自分の足で病院まで行かなければいけない。


 少々過保護な挙動が目立つ母は何かあったらすぐに電話してこい、と私に何度も釘を刺して仕事に向かった。



 母の心配も思い過ごしに終わり、熱自体は翌日には平熱まで下がり、体の調子は戻りつつあった。が、精神的にまだ疲弊ヒヘイが見られたので大事をとって休むことにした。事実上のさぼりというやつだろう。


 二日と半日もの期間私は家に引きこもり、病院へ通うこと以外は一切外へと足を踏み出すことはなかった。


 三日目の残り半日、親戚のおじさんから映画のチケットを貰っていたことを思い出したので気分転換に行くことにした。チケットは二枚あったので、ついつい華を呼び出してしまった。彼は学校で勉強をしているだろうから私の身勝手な呼び出しに腹を立てるかもしれない......呆れられるなんてこともありえるだろう。


 しかし、華は走って集合場所に駆けつけてくれて、憤慨する仕草も見せなかった。学校を早退した上に遅れてごめんと謝罪の言葉もくれた。そんなどこまでも切実な彼の態度に、申し訳ない気持ちと自責の念で押し潰されそうになった。



 突然計画されたデートの日の夜、昼間寝よりも先に帰路につくことにした。学校の準備も勉強の予習復習もしなければならない。何より、これ以上長く華と一緒にいれば、私は彼の知っている私でいられなくなってしまうかもしれない。そんな気がした。


 住宅街に入り、しばらく進むと私の住む家が見えた。部屋の明かりが点いているから母は既に帰宅しているみたいだ。晩御飯はもうできているだろうか。まだだったら手伝おうかな。とんだ気まぐれだけど、たまには親孝行をするというのも悪くないと思う。そう決めると、少しだけ早歩きで家へ向かった。


「い......っ痛っ......‼︎」


 足を一歩前に出したとき、右腕の二の腕あたりに激痛がほとばしった。あまりに突然で、自分の身に何が起きたのか理解もせずにバランスを崩し転んでしまった。走り続ける痛みに目を伏せて、振り返るとそこに立っていたのは仮面を付けた人物......体格的に男の人だと思う......だった。アニメキャラクターの被り物をして、左手にはどこの家にもある肉切り包丁が握られていた。


「仮面......包丁......『仮面殺害者』......?」


 どういうことだろうか。本当の『仮面殺害者』はもう一人の私が軽はずみな心持ちで殺してしまったはずだ。そして私が『仮面殺害者』に成り代わった。この流れが嘘偽りない事実だと仮定するなら、今私の目の前に立つ人物は一体何者なのだろうか。


「............!」


 転んでいる私に向け、『仮面殺害者』は一切の躊躇も見せずに敵意をむき出しにした刃物を振りかざした。ほとんど反射的に地面を転がり、紙一重の距離でかわした。


 横目で見ると、『仮面殺害者』は今の一振りに体のバランスのほとんどを預けていたようで転倒しそうになっていた。思わずして生まれた隙を利用して、転がったときの勢いを利用して起き上がると地面を思い切り蹴り飛ばし、走り出す。陸上部としての実力がこんな形で役に立つのは何とも皮肉な話だった。


 住宅街の路地を何度も曲がって、奴から逃れると近くにあった人の家の塀に寄りかかって息を吐いた。


「ふぅ......ふぅ......ちょっと......何で助けてくれなかったのさ」


 息を途切れさせながら独り言のように呟くと体の内側から声やまびこみたく反響して返事がやってきた。


『助ける? 何言ってんだ。私はアンタの体を一方的に使っているだけで、別にアンタのボディーガードでもなければ良き理解者でもないんだよ。仮に私が気まぐれでアンタを助けようとしても、私が出れば否が応でも相手をブッ殺しちまう。そんな展開はアンタも望んじゃいないだろ』


 相変わらずドスの効いた黒い声で私に言う。トゲのある言い方ではあるが、私のことを案じての発言だと好意的に取っておくことにした。もう一人の私という人格は、良き理解者でなくても理解者には限りなく近い存在になりつつあることを確かに感じていた。


「痛った......」


 気を緩めた途端、右腕に鈍い痛みが戻ってきた。見ると二の腕にそれなりの大きさの傷ができていた。細長い切り傷だった。傷の深さは知れないがかなりの量の出血がある。生まれてはじめての規模の怪我だ。言わずもがな『仮面殺害者』によってつけられた傷だろうが、誰によってつくられた傷というよりも、傷そのものに私は生物的かつ生理的な恐怖感を覚えていた。私の体から真っ赤な血が流れ出ていることを脳が警告しているのだ。唇や肩が小刻みに何度も震えている。きっとこれが生物としての恐怖なのだろう。そう私は結論づけた。


 腕からの出血のみなら死ぬことはないだろうけど、貧血や傷口から良くないモノが入ることを危惧して、念のため病院に行くことにした。


 ......病院に駆け込み、診察室で治療を受けていると、突然華が診察室に飛び込んできた。私は驚いたが、取り乱す気力がほんの少しも残ってはいなかったので、驚くこともできずに弱々しい返答だけをしておいた。彼は私の右腕の傷を見ると表情を険しく歪めて誰にやられたのかと私に問いかけた。


 どうして病院にいることがわかったのか。どうして私が怪我をした事を華が知っているのか。疑問は結局払拭できなかったけど、震えを悟られないように必死で抑えて仮面の人物について『仮面殺害者』の正体に近づけないように途切れ途切れの単語でのみ言及しておいた。


 華は私の言葉を聞くと、そう、と反応の薄い相槌とお見舞いの言葉を返して静かに診察室から出て行った。去るときの背中は寂しげな哀愁に満ちていて、同時に何らかの覚悟を決めたように私の目に映った。



 *

 夢を見た。いつか見た、ただひたすらに苦しくて恐ろしい夢の続きだった。


 怪物は、殺戮の限りを尽くしていた。自分の目に映った生き物を本能に従い一寸の躊躇いも戸惑いもなく殺し尽くした。血で塗れた醜い顔は更に醜く赤黒く染まり、もうそこには人としての面影はなく、ただの鬼が立ち尽くしているだけだった。


 人々が見たこともないような名前だけの怪物を恐れる中、『修正する力』を世界から授けられた人間が怪物の前に立ちはだかる。怪物は自らに背く存在を決して許さない。激昂して殺そうとするが、『修正する力』にホフられ呆気なく四肢を失ってしまった。地面に転がる手足を蹴り飛ばし迫る天敵を、怪物は何もできずに迎え入れるだけだった。怪物を見下ろし勝ち誇った表情を浮かべた『修正する力』を持った人間は、その力を余すことなく行使して怪物を木っ端微塵に粉砕してしまう。


 跡形もなく、世界から排除されてしまった怪物は、何にもない真っ白な世界で一人、自らの行いは間違っていたのかと問うた。


 間違ってなどいない。との返しがあった。


 ならば、と怪物は、間違っていたのは一体誰だったのかと問うた。


 お前以外の世界そのものだ、との返しがあった。


 ならば、と怪物は、復讐を果たすにはどうすればいいかと問うた。


 憎い世界に『歪み』をつくり出せばいい。お前自身が『歪み』になればいいとの返しがあった。


 そうか、と怪物は笑った。



6.

 朝起きると私は学校へと向かった。学校の正門をくぐると色んな何人もの生徒が私と同じ制服を身にまとい、私の横を通り過ぎて学校の中に吸い込まれていく。特に指摘のしようもない普通の光景。普通なのだ、皆。


 この数年の間に、私の周りではあまりに多くの変化が起こりすぎた。普通の人はもっとゆっくり、穏やかに、何事もなく日々を重ねるはずだ。けれど私の過ごす日々は加速度的に段々周りとのズレを大きくしていくばかり。ズレはやがて大きくなり歪みになる。私はその歪みに今まさになろうとしているのだ。


「おはよう澄輿さん」


「おはよう」


 クラスの友達と普通に朝の挨拶を交わせるのも私はまだ周りから普通の女の子として認識されているからだろう。私が完全に怪物に成り果ててしまったとき、彼ら彼女らは私に今まで通り接してくれるだろうか。答えは否。人は自分と違う種を徹底的に嫌悪する生き物だ。


 私の薄皮一枚はがした姿が、見るも無惨な怪物だと知ったら、周りにはもう誰も寄りつかず、恐ろしいモノを見るような目で皆が私に石を投げるのだ。


「私は............」


「私は? どうした澄輿、悩み事か」


 はっと気がついて顔を上げた。目の前にいたはずの友達はいつのまにか姿を消し、代わりに担任の先生が私の前に立って私を見下ろしていた。


「い............いえ、特に何かあるわけではありませんよ。先生」


 私はそう言った後に、自分が伏し目がちになっていたことに気がついた。先生に向かって言ったはずなのに、私の視線は自分の履いている上履きのつま先を見つめていた。その動作を多分先生は不思議に思ったのだろう、自分の顎を指で撫でる仕草をすると、


「まあ、澄輿がないと言うなら何もないんだろうな。でも、もし今後何かあるようなら先生に言え。暇だからな、いつでも歓迎だ」


 その先生の一言は、いやに私の心に響いた。ほんの一筋だけ、真っ暗闇の空間に光が射し込んだみたいな、そんな一縷イチルの希望。私は逡巡するけれど、何かが変わるかもしれないと思えた可能性に縋らずにはいられなくなってしまった。


「先生............。先生は、周りに悪影響を及ぼしてしまうような事をしてしまったとき、どうしますか。もし、誰にも自分がやったとバレないなら......どう生きますか」


 先生は私の言葉を受けてぽかんと呆気にとられていた。我ながら恥ずかしいことを言ってしまい、顔から火が出る思いだ。


「............そうだなぁ」


 しかし先生は、すぐに考え込む姿勢をとりうーんと唸り始めた。茶化したりせず至極真面目にだ。


「自分は悪くないと心の底から思うのなら、清々と生きるな俺は。......ただ、その行いに対して、自分がほんのちょっぴりでも悪いと思ったなら......謝るなり自白するなりすればいいと思う。これは人が人として生きるために絶対忘れちゃいけない必須事項なんだよ」


「............」


 私は先生の言葉に、返事をすることもできずに先生が前からいなくなるのをただ黙って待つことしかできなかった。


 *


「失礼します」


 私は緑色の公衆電話の受話器を置いて、長方形の電話ボックスから出た。たった今まで通話口の向こう側にいたのは警察の人間。今しがた私は、警察に「今夜十時半に『仮面殺害者』がいつもの住宅街に現れる」といった旨の通報をしておいたのだ。いつもの住宅街というのは、私が殺人現場によく選んでいる場所......らしい。


 車のクラクションやエンジンのうなる音、歩く人たちの雑踏に、誰かの話し声。それらの全てが私の意識下に転がり落ちて溜まっていく。喧騒を五感から遮断するために目を閉じて意識を集中させた。


 これから私が迎える『結末』は、きっと最悪のものだろう。ハッピーな結末は待っているわけはなく、向かうのはバッドの一つのみ。それでも私は受け入れなければならない。


 家から黒いフードつきのジャンパーと黒いジーンズに着替えた。これだけ黒ければ怪しさは折り紙つきだろう。台所から筋引き包丁を手に取り、タオルで刃を巻いてジャンパーの中に入れた。


『おい。どこに行くんだ』


「......このクソッタレな世界と戦いに行くのよ」


 今まで口を出していなかったもう一人の私が口を挟んだが、それっぽいことを言って受け流した。


『とんだ狂言だな。......まァ、乗ってやらない手立てはないがな。ホラ、そこ開けてみろよ』


 指定されたのは床に付いている扉......有り体に言って地下室に繋がっている扉だった。物置になっていたと思ったけど......そう思いながら渋々開けると、中には大量の包丁やらナイフやらが収納されていた。


「何これ......どうしてこんなところに」


『アンタが気ィ失ってるときにかき集めたモンだ。ちっと物騒な刀なんかもあるが、どうやって手に入れたかは察してくれな』


 そう言ってカカカと笑った。もう何を言ってもひょいひょいと軽い身のこなしで避けられてしまうと悟り、これ以上追及することをやめた。


「それで。こんな物をどうするつもり」


『持ってけ。世界サマと戦うならこれくらいは必要だろ。というかこれっぽっちじゃ足りないくらいだ』


「無茶言わないで。こんな数持っていけるわけないでしょ。紙じゃないんだから」


 ざっと見積もっても四十本はある。私が着ているのはジャンパーだ。筋引き包丁を一本隠し持つくらいなら容易いが、そう何本も隠せるほどの面積も場所もない。


『しょうがねェなァ。なら妥協案で二十本だな。これ以上は引けねェ。大丈夫安心しとけや、私に任せとけばしっかり隠せるように細工するからよ』


 彼女の言葉をなぜかはわからないが私は信じてしまった。理由も根拠もない軽率な言葉だけど、そこには並々ならぬ自信が垣間見えたのだ。



 家を出ると、どうやら雲行きが怪しいことに気がつく。ごろごろとどこか遠くで雷が鳴っているが、こちらはまだ雨は降り始めてはいないようだ。


 住宅街を歩くたびに、ガチャガチャと金属音が鳴ってしまう。もう一人の私が言ったように、あの手この手で凶器二十本を全てジャンパーの中に入れることができた。が、二十本もあれば相当な重さが体に負荷としてのしかかるので、歩くことさえも辛さを伴うものとなった。


 周りの家に視線を移すと、どこの家も窓の向こうには橙や白の蛍光灯が煌々と光を発していた。あの窓の内側では何をしているのだろうと考えてしまう。家族揃って夕飯の最中かあるいは食事を終えてテレビ番組を見ているか、それとも机に向き合って仲良くボードゲームでもしているかもしれない。


 そんな珍しくもない風景が、今の私にとってはとんだ憧憬で、虚しさを更に増幅させた。


『何だ、まだ未練タラタラってか。アンタは便宜上とはいえこの世界と戦うんだろ? ならこの調子じゃ見る間もなく殺されちまうぜ』


「............うるさい。未練はそう簡単に捨て去れないから未練って言うの。人がそうも簡単に過去を断ち切れる出来上がった生き物なら未練なんて言葉は最初から存在しない」


 へいへい、そうかよ。と半ば諦めたような声で私の黒い意識は相槌を返すと、それ以降めっきり黙り込んでしまった。


「......これは私の戦いだから。邪魔はしないでよね」


 自分にしか聞こえないような小さな声で囁くと、私は白い色の能面を慣れた手つきで顔に装着して、その上からジャンパーの黒いフードを被せた。全身黒で統一しながら、仮面だけは汚れを知らない純白の色をまとっていた。


 私はこの瞬間、初めて自分の意思で『仮面殺害者』になった。



 ......今は何時だろうか。時間を確認しようとしたけど、あいにく時間の示された物は何一つ持っていなかった。


 その時、こつ。こつ。とどこかから音がしたのを私の聴覚が捉えた。その瞬間を皮切りにして、五感が鋭敏に研ぎ澄まされる感覚。空気がピリピリと幾度となく振動して肌を逆なでしている。


 間違いない......この角を曲がった先に、『いる』と私は確信した。


 仮面の内側から目を細めて表情を険しくさせる。顔をしかめてしまうほどの悪辣な雰囲気がここ一帯を覆い尽くしていた。


「............人数は二人............?」


 足音を注意深く聴き分けると、確かに足音は二人分ある。どちらも甲高い足音ではないから、ヒールや革靴などの足裏が硬い材質でできてはいないだろう。


 ジャンパーのポケットから筋引き包丁を引き抜いて、刃を覆い隠していたタオルを取り払った。鋭い刃がぎらりと獲物を見定めるように露出する。



『ご苦労さん。後は私に任せときな。もう一人の私』


「え」


 ふいに体の内側から声が聞こえた。その声は数年前、不慮の事故により私から生まれてしまったもう一つの人格のものであったが、今まで一度も聞いたことのない、低い、黒色を存分に含んだ声だった。声に呼応するように私の意識が途端に左右に揺さぶられる。こめかみを金槌で何度も殴られているような鈍く鋭い痛み。


「ちょ............どうした......の......⁉︎ 何やって............!」


 必死になって叫ぶけれどその声は私には届かず、やがて勢いを失ってはらりはらりと落ちてしまう。落ちる感覚......いや、堕とされる感覚、だろうか。普段重力に縛られて、いざ重力から解放されるとこの様。自分のことなのに、自分の意思ではどうにもならない......筆舌に尽くしがたい屈辱だった。


『私はアンタだからな。私はまだまだ長く生きて、より多くの生き物を殺したいんだ。だからアンタには今死なれるワケにはいかないの。わかってくれな』


 ドラマなんかで見る、主人公が手痛い裏切りにあったときに聞くセリフだった。私を生かすための裏切り......私をより長く生かしてたくさんの『生』を『死』に葬ること。それがもう一人の私の本当にやりたいことなのだ。


 残念だけどその望みは、多分、きっと叶わないと思う。何せ相手は世界なのだから。私が挑んでも、もう一人の私が挑んでも結果は同じ。息の根が止まる瞬間が少し先延ばしになる程度が関の山だ。


「............そう、か」



 とうに諦めて辞世の句でも詠もうと思ったときに気がついた。......もう一人の私もとっくに理解していたのかもしれない。この戦いに勝ち目はなくて、自分は敗北が確定していることに。それでもただがむしゃらに......ひたすらに、生きるために抗っているのではないだろうか。たった一人きりで、無数の刃を携えて。


「........................ならやってみなよ。私。最後の最後、仮面が割れるその時まで、ね」


 まるで他人事みたいに、もう会えるはずのないもう一人の私に激励に似た言葉をかけてあげた。少しだけ毒を含んでいるのもご愛嬌。これが私だから仕方がない。



「......お母さんに悪いことしちゃったな。親不孝な子どもだったなぁ......最低だ。もしここにお母さんがいたらきっと平手でひっぱたかれるに決まってる。何度親を心配させれば気がすむの! ってね。もし生まれ変わってもお母さんの子どもだったら、今度は間違えない。親孝行もするし、危ないことはしないようにする。だからこのツケはもう少し先になるかな......ごめんね」


 眠くなってきた。まばたきをしても眠気は覚めないし、体の機能が徐々に奪われているみたいな倦怠感......。


「あぁ......華には何にも話せなかったなぁ......いきなり私がいなくなったら......華怒るかなぁ。私のこと、いつまで覚えていてくれるかな。一年。十年......それはうぬぼれ過ぎか。澄輿あひるなんて女のことはすぐに忘れて、すぐに新しい彼女を見つけてくれるはず。そうで......あってほしいな」


 私の、彼に対する気持ちはもう昨日伝えてある。それが嘘になることはないよ。来年も再来年も、華が死んでいなくなっても私はあなたを想い続ける。


 眠気が格段に強くなってきた。そろそろ時間なのかもしれない。けれど走馬灯じみたものは流れなくて、流れるのは私の口から謝罪と後悔の言葉だけ。私という意識が直に消え去って、この世界は初めて修復される。本来の姿を取り戻す。たとえ一時的であっても、その歪みは正すべき由々しき問題なんだ。


 眠い。体はもう動かせないし、表情も変えられない。もう考えることすらままならなくなってきた。じゃあ......そろそろ眠ろうかな。


「うん、おやすみなさい」


 私はゆっくりと、緩慢カンマンな動作で目を閉じた。





 *

『やあ。よく来たね』


 その人物は歓迎の言葉を投げた。真っ白な部屋の中心で。いや、そもそも部屋と呼ぶのが正しいのか否か悩みどころである。壁も家具も扉も屋根もない。ただその人物と空間があるだけ。地平線も境界線もない場所。


『いきなりだけど、出る杭は打たれるっていう言葉があるだろう。あれ、専ら才能を誇示する奴は妬みや嫉みを買い、制裁を受けるみたいな意味合いで使われるじゃあないか。けどね、僕からすればあの言葉は、「整えられたモノを乱す歪みは正しく修正される」って意味だと思うんだよね。海に汚水や油を流すと、自然が汚れを取り除いてくれたり、人間が自分と違う種類の人間を排除したりするのと同じことさ。今挙げたどの現象にも「修正する力」が作用した結果なんだよ』


 その人物は一度口を閉じ、真っ白な空間を裸足でぺたぺたと音を立てながら歩き回っている。ひとしきり歩き終えると再びこちらへ向き直り話を始めた。


『澄輿あひる......ちゃんだったかな。彼女は相当の悪運の持ち主だ。いや、少し言い方に語弊ゴヘイがあるな。悪運なんて、運の良し悪しで判断するのは申し訳ないのだけど、彼女の場合はその範疇外だ。彼女は小学生の頃、同級生からのいじめによって生死をさまよった。その際に彼女のもう一つの人格が形成されてしまった。解離性同一性障害......いわゆる二重人格だね。しかし、驚くべきことに解離性同一性障害と診断された患者は世界的に見てもそう少なくない。個人大小の差はあれども、それなりの人数の人間がいくつかの人格をその身に宿しているんだ。しかし、彼女の中に生まれた人格は彼女自身の悪の部分を凝縮した最悪の人格だった。......彼女の悪運はここからだ。澄輿あひるに巣食う悪の人格と、全く別の場所で偶然生まれてしまった「歪み」が偶然にも出会ってしまった。ただ一個人の人格というだけだったのが、ある「歪み」に汚染され、侵食された結果、「仮面殺害者」たる怪物として仕立て上げられてしまった。実のところ、澄輿あひるちゃん自身が一番の被害者なのかもしれないね』


 ふう、と疲れた様子で息を吐いた目の前の人物はこちらをじろり、と見た。疑いの目にも値踏みをする目にも、見る人間によって捉え方の違う、とにかく不思議な眼差しを向けてきていた。


『そういえば、歪みについて、言葉は使ったが具体的な内容についてはほとんど触れていなかったね。すまない。キミは、自分が持っているシャツを一つのシワもつくらずに保管することができるかい? ......答えはノーだ。努めて意識すればもしかすると可能かもしれないけれど、普段の生活の中で、衣服にシワをつくらずしまうことをそんなに深く意識したことはないだろう? つまりはそういうことだ。歪みってのはさ。意識して事前に回避しようとかどうにかしようとか、そういう次元の話じゃないんだよ。気がつくともうこの世に存在している......まばたきをしたら既に目の前にあった。そのくらい当たり前に存在して、かつ本来この世界に存在してはいけないモノなんだ。......もっとも、かくいう私も歪みについてはほとんど知らないってのが本音だけどさ』


 そう言って自嘲気味にははは、と笑った。声と表情は笑っていたが、目は笑わずに真顔のままだった。


『おっといけない。自己紹介がまだだったようだ。私の名前は............何だったか。......そうだそうだ、思い出した。私の名前は「オールドマン」。この歪み狂った世界に無様にも捕らえられた、哀しくも儚き人間だよ。キミとはまたどこかで会えるような気がするよ。実に楽しみだ』

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枉氣の歪《くるいぎのひずみ》 蔦乃杞憂 @tutanokiyuu93

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