6月23日 日本語訳(3)

『みにくいアヒルの子』


 *


 小さい頃の話。私はひどい嫌がらせを受けていた。上履きを隠された。給食に飲みかけの牛乳を入れられた。空気の入ったバレーボールをわざとぶつけられた。教科書を水に投げ込まれた。髪に液体のりをつけられた。全て挙げたらその前に私が壊れてしまうだろう。


 どうして私がいじめられるのか、なんていう至極人間らしい感情は存外すぐに枯れ果てて塵になった。感情をうっかりどこかに落としてしまった私は、特に何を考えるということもなくただただいじめを正面から受け続けた。それが私の受けるべき罰。生まれてきたことが罪なのだと自己犠牲に走って。そんな連続する日の中、連続を断ち切る不連続な出来事が起こった。


 校舎四階から落下してきた花瓶に無防備にも激突したのだ。


 例に漏れず、私をいじめていたグループの犯行だった。彼女ら曰く花瓶をぶつけるつもりはなく、中に入っていた水を上からかけて、私をずぶ濡れにしてやろうという魂胆だったらしい。しかし手を滑らせて、水だけでなく花瓶そのものを落としてしまった、と。


 彼女たちから突然呼び出されて何の疑問も持たずに何の気概もなく待ちぼうけだった私が上空からの落下物に気がついて、なおかつ避けられるほど優秀なわけがなく、案の定後頭部にガラス製の花瓶を直撃させて、潔いほどにあっけなく意識を霧散させてしまった。


 そこからは私自身に記憶がなく、担任の先生や医師から言伝に聞いたことだけど、かなり凄惨な現場だったらしい。ガラスの破片が頭に刺さって辺りは血の海、数分はおろか数秒処置が遅れていたらどうなっていたかもわからなかったみたい。


 医師さんの迅速な対応の甲斐あり、私に外見的にも内面的にも後遺症は残らなかった。


 と、『私以外』の人間は思っている。その判断は七割正解だけど、三割間違い。


 病院のベッドの上で目が覚めたあの瞬間、私の中には、私以外の誰かの意識が芽生えていた。


 *



 住宅街付近に自家用車を停めた篠原調シノハラシラベは勢いよくドアを開け、脱兎の勢いで外へと飛び出した。びりびりと良くない不穏な雰囲気を肌が感じ取り、彼の意識に警告を発している。ちらりと左右を見回すと、二台の見覚えのある車が停車していた。既に彼の同僚が到着しているようだ。


 スーツのボタンを外し、白いワイシャツを露出させる。「仕事帰りの父親」を演出するためらしいが、八割方意味を成していなかった。


 夜間とはいえ、本物の「仕事帰りの父親」に遭遇しても不自然に思われないように、酔っ払ったように千鳥足で進むが、動きに反して口を一文字に結んだ真剣そのものの表情がシュールさをより際立たせていた。


 住宅街のコンクリートの角を曲がると、数人の警官(ただし私服)が地面や壁をしげしげと眺めていた。


「犯人......来なかったんですか。今回もデマってことですかね」


「いや。ここには来てたみたいだが......」


「来てた? と、すると......」


 意外な返答に困惑して、篠原は走り寄り、地面に顔を寄せた。目立った痕跡ではないものの、わずかに赤く滲んだものが残っている。それは確かに血痕であった。


「十三人目の犠牲者......の血ではないな」


「概ね正解です。篠原さん」


 篠原の独り言に律儀に反応したのは山下だった。軽い身のこなしで篠原のそばにしゃがみ込み、手袋をした手で地面をなでた。


「概ねってことは不正解の部分もあるってことですか」


「そうですね......。この血は、間違いなく犯人のものなんですよ。今までの事件現場にわずかに残った犯人と思われる人物の血痕と照らし合わせましたが、ドンピシャ一致です」


 ですが、と山下は一拍置いて、


「あそこ......この先の道にある血の跡は、犯人の血液ではありません。DNAも一致しませんでした」


 離れたところにある血痕を指さして告げる。それだけで篠原は何かを理解したようで表情を変えた。


「新しい被害者になる予定だった誰かが犯人と争った結果......ということか」


「今まで『仮面殺害者』から逃げきったって人は聞きませんからね、多分初なのではないでしょうか。あ、でも単に被害届を出していないって可能性も......いや、凶器持った不審者に襲われて警察に行かない物好きなんていないか」


 山下はぶつぶつと一人で呟き、やがて自己完結に至ったようだった。


『被害者未遂に陥った人物がいるのは明確だが、本当に逃げきった「だけ」なのか......? 今までの十二件の中にも、一度は逃走に成功したと思えるケースも存在した。だが最後は捕まり、無惨にも殺害されてしまった。今回はそれとは根本的な部分が違う気が』


 脳内で思考を巡らせる途中、彼の頭の中でぶつ切りにされたままの思考の糸が掃除機で吸われたように突然引き寄せあい、一つに繋がった。脳の意思に引っ張られるように篠原は駆けだす。


「えっ......ちょっ、篠原さん!」


 山下が声をかけるも、その声は全く届いていないようだった。


 数分後、息を切らせて山下の前に戻った篠原は、開口一番にこう告げた。


「山下さん......。恐らくですが、『仮面殺害者』事件は終わったんだと思います」


 唐突な事件終結報告に頓狂トンキョウな顔を余儀なくされる山下。対して篠原の表情は真剣のそれだった。


「篠原さん、まだ疲れが取れてないみたいですね。さあここは任せて、早く帰ってください」


「つ、疲れておかしくなってるわけじゃありません! 今見てきました。......血が落ちてないんですよ」


「はい? 落ちてるじゃないですか。そこかしこに」


 山下は呆れた顔を崩さずに、周辺に付着している血痕を指さした。


「言い方を変えれば、ここ以外の場所には血液が一切付着していないんです」


「そんなの、拭き取れば見かけの上では隠ぺいできるでしょう。ここの血液も拭き取られているから......あっ」


 そこまで言いかけ、山下は言葉を詰まらせてしまった。驚きを隠せないといった様子で目の前に立つ篠原を見上げた。


「もう気づいたみたいですね。そもそも拭き取るという行為そのものが不自然なんです。十二件の現場で、犯人が血痕含め、証拠を隠滅しようとした試しがないんです。もちろん我々警察の捜査ミスという可能性もゼロではありませんが、そんなまめな犯人だとしたらそもそも血痕なんて残さないでしょう」


「じゃ......じゃあ、これらの血を拭き取ったのは」


「恐らく十三人目になるはずだった被害者でしょうね」


 篠原は某名探偵ばりの流暢な話し口調で語った。馬鹿なと一蹴しようにも、一応の辻褄は合っているのでできずに黙り込んでしまう山下をよそに、篠原は話を続けた。


「仮に被害者が走って逃走を図った場合、とてもじゃありませんが地面の血液を拭き取りながら走るなんて芸当が不可能に限りなく近いことは想像に難くありません。では、歩いて逃走したのかと言われればノーです。逃走でなく逃歩になってしまいますし、何より、自分の前をのそのそと歩く獲物を逃す狩人はいません」


「......では篠原さんはこの場所で、一体何が起こったとお考えですか。どんな絵空事でも机上の空論でも構いません」


 問いを投げかけていながら、山下の表情は全てを察したと語っている。そんな矛盾する行動には、自分の考えが見当違いだったと否定してほしいという願いが込められているのだろう。篠原はわずかに躊躇した後言った。


「被害者である何者かが犯人である『仮面殺害者』を殺したか、あるいは拘束してどこかへと遺棄した可能性があります」




 数十分後、本格的な捜査班や鑑識が現場に到着し、現場検証が行われた。篠原の予想通りある一帯を除いて血液は一切検出されず、かつ地面に新しいタイヤ痕が発見されたことから、逃走する際には車を用いたのだろうという見解がなされた。


 また、被害者が犯人を殺害し遺棄したという直接的な証拠は見つからず、あくまで一つの可能性として処理されることとなった。


 後日行われた近隣住民への聞き込み調査では特に目立った有力な情報は得られなかったものの、数人の住民から「金属音が聞こえた気がした」という証言があったという。この証言が今回の一件に関与しているのかは保留のままである。


 事件自体は終結したものの、『仮面殺害者』は依然見つかっていない。事件現場の近隣住民からの苦情は絶えず、被害者遺族は遺憾の意を示している。当然今後も警察による犯人探しは行われるが、その成果が実ることは十中八九ないだろう。


 余談ではあるが、犯人も被害者も発見に至っていないこの一件をそもそも事件と呼んでいいのか、という意見と、事件性があるならそれは警察の仕事だという意見が警察署内で対立し、物議を醸した。




「これは解決とは言いませんよね」


「かもしれませんね」


 署内の自動販売機に硬貨を入れ、出てきた缶コーヒーを取り出しつつ山下は同意の言葉を返した。山下が取り終えたのを見届けると、今度は篠原が硬貨を投入口に入れた。


「この事件のために派遣されてきたというのに僕ときたら情けない限りですよ」


「仕方ありませんよ。誰でもミスはありますから。それに、あれから『仮面殺害者』関連の事件は一切起きていません。犯人が誰かは未だ不明ですが、今現在この世にいるかどうかもわかりません。既にどこぞの組織に秘密裏に始末されてるなんて根も葉もない噂もあるくらいです。まあ、どのみち僕にはもうどうすることも叶わないんですけど、ね」


 山下は物憂げな表情で呟く。取り出し口からペットボトルを取り出した篠原は、かがんだ姿勢のまま振り返った。唖然とした表情はこの上なく滑稽に見えた。


「えっ。何かあったんですか。まさか異動とか......ですか」


 篠原の問いに対して山下は何も答えなかったが、その沈黙は暗に肯定の意を表しているようにも見えた。二人の間に言葉がなくなり、喉を鳴らす音だけがいやにに大きく聞こえた。もしかしたら聞こえてるかも? と思わせるほどに。


「......あ、篠原さんがジュース飲んでる。カフェオレ以外も飲まれるんですね」



 雰囲気を入れ替えようとしたか否か、山下は細く、今にも折れてしまいそうな人差し指で篠原のペットボトルを軽くつついた。そう言われ、自分の持っていたオレンジジュースのペットボトルのラベルを覗き見、適当な相槌をうつ篠原。飲みかけの橙色の液体が容器の中でチャポチャポと涼しげな音を奏でていた。


「別にジュースは嫌いじゃないんです。ただ父親にジュースなんて子どもの飲むものだーだとかなんとか言われてましてね。それ以来は極力飲まないようにしてたんです。というか、体が拒否してましてね。......でも、もう好き勝手に飲むことにしたんです」


「へえ。......何か気分が変わるような出来事でも?」



「............さあ。どうでしょうかね」


 篠原は目を丸くし、そして意味ありげに微笑んだ。



 *



 昼間寝華は病室の古びたパイプ椅子に座っていた。言葉はなく、備え付けの水道の蛇口から時折水がポタ、ポタとしたたる音と、アナログ時計の針が動く音と、仰々しい見た目の精密機器、そして真っ白なベッドに横たわる澄輿あひるの呼吸音だけだった。


 ピッ、ピッ、と彼女の心拍数に合わせて鳴る電子音が、これはあくまで現実だと、彼女が危うい場所に立っていると昼間寝に囁きかけてくる。その囁きは傷心した彼にとってはあまりに重く、余りあるものだった。



 数日前。昼間寝含む『雑貨屋』メンバーに拘束され、ワゴンに乗せられ輸送されている最中にそれは起こった。『仮面殺害者』......澄輿あひるが突然苦しみ始めたのだ。車両の中というのが幸いしたか、ワゴンの行き先を急遽病院に変更し、速度違反紙一重のスピードでワゴンを走らせ病院へと駆け込んだ。


 その病院の院長は『雑貨屋』と少なからず繋がりを持っている『かかりつけ医』だったようで、事情は聞かずにただ淡々と治療を施した。しかし澄輿の容体は昼間寝たちが想定するより遥かに深刻なものだった。


 彼女の体には、全身の打撲や細かい切り傷、軽い火傷の跡はあれど昏睡に直接繋がる程度の傷は見当たらなかった。烏取が撃った特殊な麻酔弾も、病院に着いた頃には九割九分効果を失っていた。加え、医師曰く外傷を除けば彼女は健康そのものだと言う。


 つまり、『澄輿あひるが昏睡に陥る道理がない』のだ。


 傷を治療する以上手の施しようがないと医師はさじを投げ、意識が覚醒するまでは病院に入院させるという方針に落ち着いたのだった。


『どうしてあひるちゃんが......人殺しなんてするはずが......ない。ないのなら......なら何かの間違い? 間違い? いや、いや、間違いようのない。間違えるはずがない。間違えたい。でも間違えられない。あの仮面、あの凶器。あの狂気。狂気。狂気。狂気。狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気......』


 彼の中の思考は既にキャパシティを優に超えていた。熱暴走をする脳はいたずらに言葉の主体性を崩し、ゲシュタルト崩壊へと導く。


「..................今日は帰るね、あひるちゃん。また明日............来るから」


 その一言だけを言い残し、昼間寝は青ざめた顔色のまま病室を後にした。ぱたんと病室の扉がゆっくりと閉じられ、その部屋に残ったのは「絶望」と「願望」と「渇望」と「空虚」と「虚無」だけだった。



 *



 非科学的であることと、オカルト的事象であることの間の関係性は決してイコールではない。一見似通った双方の決定的な違いは「未だ証明に至っていない」か「証明することを諦めた」か、である。


 現代において、そこかしこに転がる技術は時代を遡れば魔法や呪術に帰結するものがある。スマートフォンを鎌倉時代に持ち込めばアヤカシだと迫害され打ち首に、中世のヨーロッパにテレビを持ち込めば魔女だと糾弾され裁判にかけられ、火刑に処される他はない。


 各時代では現代のテクノロジーは大方魔法や物の怪などの禁忌......今のオカルト的な立場にある。しかしそれをオカルトと言って放り投げずに、技術として証明せしめたのはいつの時代も科学に身を委ねた先駆者たちだ。


 そして人類が永年渇望し、科学者という存在が未だかつて完全証明を成し遂げていない命題が『ヒトの生き死に関わる』ことである。




 烏取電波はまばたきすら忘れて目の前で流れる映像を凝視していた。小型の薄型テレビに映し出されているのは、昼間寝華と『仮面殺害者』が刃を交えて殺し合っている六月二十三日の映像だった。同じ場所にいた公良ヨシノが気づかれないように録画したものだろうが、趣味として観るには趣味が悪いと言わざるを得ない内容のものだった。


 烏取は険しい表情を貫き、鋭い刃物のような眼光を振りまきつつテレビの画面に見入る。部屋の天井にあるはずの蛍光灯は消え、その機能を果たしていなかった。細長のテーブルに置かれたスタンドライトの拙い明かりとテレビだけが烏取のいる部屋を弱々しく照らしていた。


 烏取は呟く。一人ぼそぼそと口だけ動かして。それは誰かに聞かせるためではなく、自らの体に言葉を浸透させているようにも見えた。


「澄輿あひるは昏睡状態に陥った......。『仮面殺害者』の一件は終結したように思えるが」


 手元にあった紙に目を落とす。二枚の紙には昼間寝華と澄輿あひる、両名の詳細なデータが記載されていた。烏取はまるで汚物を見るような眼差しでその紙を見下ろし、小さくため息をついた。


「六月十日。我々雑貨屋が『仮面殺害者』と偶然居合わせ、まだ息があるからという理由で救出した昼間寝華という男は、病院で処置を施す以前......輸送の間に、『既に死亡していた』。そして病院で遺体となった彼を一時的に保管するため霊安室へと運ぼうとした矢先、前触れもなく息を吹き返した。ほんの数分までなくなっていた心拍数や脈も、全て何もなかったように正常値を示していた。死者が生き返るという現象について、噂や言伝には聞き及んでいたものの、この目で見たのは後にも先にも恐らくこれきりだろう。蘇生の副作用かは不明だが、一部記憶が入り乱れているようだった......」


 自らを律するように、落ち着かせるように極めて冷静な口調で事務的にここ数日の状況を口にする烏取。自分が狂ったのか? それとも狂ったのはこの世界の方なのか? と意識が答えようのない自問を延々と繰り返す。冷静を装っていた体が、徐々に現実を認識しだして震える。


 その震えは一種の拒絶反応。今まで我慢した反動だと言わんばかりに恐怖を烏取の全身へと伝染させていく。体が恐怖で汚染される中烏取は唇を震わせて言った。


「昼間寝華は、人間か?」



 雨は降りだした。一度降り始めてしまった雨はまだ止まない。

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