6月23日 Den grimme Ælling(2)

「ごめん、しくじった」


 起き上がった公良キミヨシは小さな声で昼間寝ヒルマネに囁いた。何も言わず、小さく頷いて返す。昼間寝は鋭い目つきのまま、目の前にいる人物に、明確な敵意を込めて見つめていた。


 対して『仮面殺害者カメンスレイヤー』は氷のような無表情を貼りつけたまま、手元にある筋引き包丁を弄んでいた。その先端には赤い液体......昼間寝の血液が付着していた。しかしその量の少なさから、昼間寝の傷が浅いことが伺える。


「他の仲間さんに応援を頼めないんですか」


 真正面に姿を捉えたまま、公良に近づいて耳打ちした。


「そんなことしたら本末転倒でしょ。今私と昼間寝くん以外のメンバーはこの住宅街を包囲してる。それは中にいる『仮面殺害者』を閉じ込めるためと、同時に外から一般人を入れないようにするためでもあるの。だからうかつに包囲する人数を減らしてこっちに人員を割くと、包囲がもろくなっちゃう可能性が高いの。だから何とか私と昼間寝くんで押さえ込まないと、ね」


 人数の少なさが仇になったのか、と昼間寝は不満を思い苦い顔を浮かべた。


「じゃあ僕たちで何とかしなくちゃ......ですね。責任重大だ......」


 はは、と乾いた笑いを吐き出した。昼間寝の全身からは汗が噴き出て、膝はがたがたと小刻みに情けなく震え恐怖を訴えていた。しかし、一種の拒絶反応ともとれるそれらを一喝で全て散り散りにさせた。


 昼間寝華に残ったのは、命知らずで向こう見ずな度胸と、恐怖を打ち消した先にある逆立った野心だけだった。



 最初に二人へ向かってきたのは『仮面殺害者』だった。厚着をした上に視界が遮られているとは思えないほどのスピードで接近し、持った凶器を膝の高さまで下ろし、昼間寝めがけて振り上げた。その動きはボクシングのアッパーを思わせるような鋭さだった。


 右足を一歩引き、最小限の動作で奇襲を避ける昼間寝。大振りだったことによって生じた隙を、公良は見逃さなかった。素早く足払いをし、『仮面殺害者』のバランスを崩したのだ。片方の足が宙に浮いてしまった仮面の人物は、バランスを取ろうと足腰に意識を集中させた。


 そうなることを見越していた公良はにやりと微笑み、どこからか取り出した警棒を構えた。格闘ゲームのコンボ技のようになめらかで硬直のない動きで警棒を横に薙ぎ『仮面殺害者』の手の甲に命中させた。


 護身武器とはいえ金属製。相当な激痛だったのだろう。凶器の筋引き包丁を落とした末に転倒した。


 包丁と地面が接触した甲高い音がした。仮面を付けていたことが裏目に出たのか、包丁の落下地点が見えていないようだった。落とした包丁を拾うという単純な行為に手こずっている間に、昼間寝は地面に寝転がったままの包丁の柄を蹴り飛ばした。


 包丁は柄を軸にして回転しながらアスファルトの地面を勢いよく滑り、どこかの家の壁にぶつかって音を立てた。


「今だっ......公良さん!」


 凶器を弾き飛ばして、物理的な脅威を排除したことによって作り出された数秒間で昼間寝は、『仮面殺害者』を上から押さえ込んでいた。


 昼間寝の呼びかけに公良は二秒の間を置いて応えた。


 デニムのジャケットのポケットからスタンガンを取り出した。本来の目的である『仮面殺害者』の拘束に最も有効な武器と言えるだろう。


 トリガーを引くと、すかさず電極部から青白い電流が絶え間なく発された。公良はスタンガンを『仮面殺害者』の首筋に押し付けようと近づいたが。


「あッ......⁉︎」


 突然昼間寝が拘束を解いてしまい、自由の身になった『仮面殺害者』は軽い身のこなしで起き上がると、すんでのところで公良のスタンガンをかわした。その手にはダガーナイフが二本握られていた。


「昼間寝くん、気をつけて! コイツ......多分だけどまだまだ武器を隠し持ってる!」


 公良が叫ぶ。その通り、ご名答と言わんばかりに『仮面殺害者』は、水から上がった鳥が身震いするみたく、身体を大きく震わせた。


「そんな」


「馬鹿なことが」


 ガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ! 耳障りな音が雪崩のように。


 徐々に勢いを増して、支えどころを失った「無数の刃物」は自由落下に従って落下していった。


 見る間もなく、足下には形や大きさ様々な刃物が散乱していた。出刃包丁やバタフライナイフ、果てには脇差しや日本刀までが転がっていた。


『仮面殺害者』はその中から一本の鉈を引っ張り出し、昼間寝へと向けて投げた。勢いなく投げられた鉈は回転しながら宙を舞い昼間寝の目の前に落下した。


「......どういうことだ」


 尋ねることが無意味とわかっていながら昼間寝は聞く。仮面は何も語らない。無言を貫くだけだ。この反応を、昼間寝は自由に受け取ってもらって構わないと解釈した。


 鉈を強く掴み持ち上げると、かなりの重さを持っていた。少なくとも、油断していた昼間寝の片腕を思い切り引っ張る程度には重く、上質な品なのだろう。


 鉈を持った昼間寝と、ダガーナイフを二本両手に携えた『仮面殺害者』。両者が互いを見据え、対峙する。さながら巌流島の宮本武蔵と佐々木小次郎のよう。


 両者が牽制し合う中、公良は耳に付いた小型の無線機で誰かと話していた。


「十字路を二つ抜けた先に『仮面殺害者』を誘い出して。誘い出した後は、合図があり次第その場から離れて。いい?」


 話を終えた公良は、すぐにその内容を小声で伝えた。昼間寝は反応を示さなかったものの、その代わりに二回瞬きをした。



 公良とのコンタクトを終えた途端、昼間寝は全速力で駆け出した。その方向にはもちろん『仮面殺害者』が立っている。両手で持った鉈を振りかざし、助走付きで振り抜いた。


 助走によって勢いが増した鉈の軌道を、『仮面殺害者』は持っていたダガーナイフの一本の刃先を使って簡単に変えてしまった。振り下ろされた鉈の「平」を、軽く刃先で突いただけ。たったそれだけのアクションで、迫り来る脅威を退けたのだ。


「うわっ......!」


 一体何が起きたのか、何をされたのか理解が追いつかない昼間寝は、鉈に逆に振り回されて転倒しそうになった。明確な隙を見せてしまったのは圧倒的な悪手。『仮面殺害者』は姿勢を低く保ち、鋭い横蹴りを繰り出した。


「ごッ」


 脚を直に脇腹にもらい、くぐもった苦痛の声があがる。肺から空気が抜ける気持ち悪い感触と共に、昼間寝の全身は横へと弾き飛んだ。


 危うく殺されそうになった昼間寝は、蹴りの勢いを殺すように道を転がった。蹴りによる衝撃が止み、手をついて起き上がった彼は、背後に尋常ならざる殺意を直感して、飛ぶようにのけぞった。


 すんでの回避行動が功を成したようで、背後から迫っていたダガーナイフは彼の皮膚を切り裂くことなくアスファルトに弾かれた。


 鉈を構え直すと、『仮面殺害者』の二本のダガーナイフを的確に捌いていく。刃物と刃物とがぶつかり合う音が何度も反響し、やがて刀身の大きな鉈がダガーナイフを宙へ吹き飛ばした。ダガーナイフが手元から離れたことで凶器を失った『仮面殺害者』。


「だあああああァっ!」


 鉈が振るわれた。が、その刃は肉を喰らうことはなく無念にも空を切った。空振りだった。


「うっそだろッ......⁉︎」


「危ない......昼間寝くん避けてッ!」


 今まで傍観していた公良が突然叫んだ。昼間寝が「それ」に気がついた頃には、事は全て終了していた。


「......が」


 昼間寝の腹部に、深々と一本の「刃物」が突き刺さっていた。それは、『仮面殺害者』の着る黒いジャンパーの袖から飛び出たものであり、疑う間もなく隠し持っていたものだ。


 昼間寝は驚愕と恐怖の入り乱れた表情で刃物が刺さっている腹部を見下ろした。じわじわと血が滲み、服を真っ赤に染め上げていくその様を目の当たりにしている。


「............」


 途端に、刺さったままの刃物が、突いたときと同等かそれ以上の速度で引き抜かれた。


「う......⁉︎ だああああああああああッ⁉︎ いッだああああああ!」


 じわじわ、などという生易しいものではなかった。多量の鮮血が引き抜いた刃物と同時に溢れ出た。それは噴射と呼ぶにふさわしい勢いと量で、現実味のない光景だった。


 飛び散った血液は行き場を失い地面に血だまりとなり、痛々しい跡として残った。その上に力なく倒れ込む昼間寝。彼の顔や服は血で塗れている。


『かえしが付いている......何なの、あれ』


 凄惨な光景を目の前で見ていた公良は『仮面殺害者』のジャンパーの裾に見え隠れする刃物の異質さに恐怖していた。


 先端と全体のフォルムはただの包丁のそれだが、側面には細かくも鋭い「かえし」が大量に付いていた。似通った形ののこぎりは、かえしの付いた刃で木材の繊維を切断するが、あれは間違いなく、対人間用に処理の施された特別製であった。人の肉を絡め取り、引きちぎる為に存在する凶器。正気の沙汰とは思えない代物であった。


 状況の悪化により撤退を余儀なくされた公良は耳の無線で連絡を取り始めた。


「まっ............てくだ......さい......」


 振り返った公良の目に映っていたのは血だまりに手をつき、生まれたての子鹿のように両脚を震わせ、緩慢とした動作で立ち上がった昼間寝華の姿だった。腹には風穴が開き、傷口が露出しているが出血は止まっているようだった。


「昼間寝......くん?」


「撤退は......しないでください。僕が必ず何とかします......から......」


 血の海に沈んだ鉈を引き上げ、血が染みついた柄を持ち構えた。が、肝心の『仮面殺害者』に背を向けおぼつかない足取りで歩き始めた。


 無論、それを黙って見過ごす『仮面殺害者』ではない。昼間寝の血が大量に付着した凶器を再び袖から出現させ、昼間寝の背中目がけて走り出した。


 片腕に巨大な凶器を装備した状態でありながら、異常な速度での疾走。ほんの数秒で二人の距離はゼロになった。間髪入れずに凶器が振るわれるが、足を引きずりながらの昼間寝はその場を逃れる術を持たず、避けることすら叶わないまま背中を引き裂かれた。


「ぐうゥっ............‼︎」


 服の破片と一緒に真っ赤な液体と肉片が弾け飛んだ。その拍子に昼間寝もうつ伏せに転倒してしまう。転倒時に顔面を強打しないようにと、とっさに両手を腕立て伏せのような形に伸ばすも、転倒の勢いに負けて右頬を打ちつけてしまった。


「昼間寝くんから離れろッ......!」


 公良が『仮面殺害者』と昼間寝の間に割って入った。持っていた警棒で牽制しつつ、血塗れの昼間寝を担ごうとするが、やはり力は性別相応なようで、踏ん張る仕草をしても動くのは数センチ。担ぐには程遠かった。


「痛いッ......!」


 戸惑っている間に『仮面殺害者』の持つ凶器は、公良という次の獲物を捉えたようだった。公良の右肩から対角線上に振るわれた一撃は、彼女の薄い生地の服を容易に裂き、その先にある肌すらも容赦なく食らいついた。


 あまりの痛みに気を失って倒れそうになる公良は、持っていたスタンガンを右の二の腕に押し付けた。青白い閃光が瞬間、皮膚の中に吸い込まれるようにして光った。


 全身か、あるいは体の一部に走ったであろう電流を受け、公良の目は完全に覚醒した。意識を明瞭にするだけでなく、負傷した傷の痛みを紛らわす目的もあったようだ。


「昼間寝くん............この先の十字路まで死に物狂いで歩いて。あそこまで辿り着ければ私たちの勝ち」


 その言葉だけで、昼間寝の中の歯車がサビつきながらも音を立てて回り始めた。一体なぜ公良が、最初に二つ先の十字路まで行けと言ったのか。それは今も依然として継続されていて、その先に待つものに昼間寝には心当たりがあった。


 だからこそ、暗闇を闇雲に進む不安ではなく差し込んだ一筋の光を見出したのだ。


「......ちなみに。間に合う前に殺されたらどうなるんです」


 昼間寝にとってそんな可能性は最初から輪の外だったが、様式美だと思い尋ねる。


「失敗。けれど時間は私が稼ぐからたっぷりあるよ。心配しないで」


 自虐的な微笑みを崩さない、どこか覚悟を決めたような彼女の顔を昼間寝は血溜まりに倒れた体勢のまま見上げた。


「あぁ......じゃあ、それは却下でお願いします」


 言葉だけをその場に残し、公良から返答が発される前に、昼間寝は血と絶望の水溜まりから逃れるように飛び起きた。


 勢いを維持したまま、比較的シンプルなデザインの運動靴に手をかけた。靴底にしまわれた......いや、故意に隠された細長い物体を引きずり出し、『仮面殺害者』へと向けた。


 鮮やかな水色のフレームから伸びる奇怪な薄刃。落としたままの鉈と見比べるとどう贔屓目に見ても立派とは言えない代物だが、奇襲や土壇場に非常に有効に働く猫だましのような小さな凶器。


 カッターの刃を顔に直撃させる『仮面殺害者』だったが、見受けられた被害は白い能面の塗装が縦の切り込み状に剥がれただけである。有り体に言えば、奇襲失敗、だった。


 奇襲の成功失敗は度外視だ。とは言わない。代わりに口角を上げ、計画が首尾よく進んでいることを示すように意地の悪い笑みを浮かた。


 反応はすぐにあった。感情の有無は非常に疑わしい『仮面殺害者』だが、本能的なプライドはかろうじて残っていたようで、公良の存在など歯牙にもかけようとはせずに、正面の昼間寝へと「殺人」という、人間として最低でありながら生物として最強の力を叩きつけた。


 身をひねり、渾身の一振りをいともたやすく避け、昼間寝は歩き出した。足を引きずりながら。決して軽傷とは言えない深い傷を押し付けられながら。まるで傷ついた英雄ヒーローみたいな格好で。


『挙動に冷静さが欠けた......。凶器の振り方にも鋭さがなくなっている。どんなに業物でも、使い手自身がなまくらなら......っ!』


「斬れないし............斬らせないっッ‼︎」


 猛々しい雄叫びは、恐怖を完全に打ち払ったことを示唆していた。高く蹴り上げられた脚が凄まじい勢いそのままに、『仮面殺害者』の手に収められていた凶器に命中した。弾き飛ばすではない。吹き飛ばすという表現が適切と言わざるを得ない速度で手元を離れた。


 が、一連の動作を終えて昼間寝が顔を上げると既に次の凶器を持ち、こちらへと向かってくる『仮面殺害者』がいた。


 二度は攻撃を避けることに成功するが、体勢の不安定な状態で、かつ不規則でめちゃくちゃな動きを繰り返す『仮面殺害者』についに昼間寝はいなしきれなくなり、その場に倒れ込んでしまった。


「あぁくそ......」


 灰色のアスファルトに仰向けに寝転がり、昼間寝は悟ったような諦めを含んだ声で呟く。ぽつりと、鼻先に一滴のしずくが落ちた。夜空には厚い雲が張り巡らされ、そこに留まりきれなくなったいくつものしずくが降って来たのだろう。顔や体の至るところに雨粒が降り注ぎ、服には黒ずんだ染みを作っていた。


 彼の視界を遮ったのは黒い影。『仮面殺害者』だった。将棋の詰みと違い、投了の出来ないこのゲームは、どちらかがどちらかの王を取るまで続けられる。そういう意味では昼間寝は今まさに王手であった。


 相も変わらず顔は白塗りの能面で隠れてうかがい知れないが、その仮面の奥では邪悪なまなざしでほくそ笑んでいるのだろうと思うと昼間寝をひどくやるせない気持ちにさせた。



 しかし、今の昼間寝にはそんな悶々とした気持ちを払拭してなお余りある「勝算」があるのだった。


「あッ」



 公良は目を見張った。あまりに唐突、あまりに突然。何の前触れも前兆もなく、何の予備動作も予告もなく、『仮面殺害者』の体が突然、台風の突風に煽られた店先の看板みたいに吹き飛んだのだ。


 綺麗にくの字型に体を曲げて吹き飛ぶことなどなく、見てくれなど一切考慮しない不格好で不細工な飛び様だった。


 黒のジャンパーの隙間から、果物ナイフやバタフライナイフ、計八本の刃物がこぼれ出てきた。これらで全てだったらしく、落下した際には耳障りな金属音は鳴らなかった。


『あ〜、公良ちゃん聞こえてる? もしもしい』


「は............はい。こちらでも状況確認しました」


『ん。それなら良し』


 無線機越しに話す烏取の声色は明るく、機嫌の良さを公良に振りまいていた。その声の裏側では使用済みの薬莢を捨てる音がしたのを公良は聞き逃さなかった。


「烏取さん。弾......何を使ったんですか?」


『......あぁ、ちっとばかし特殊な麻酔弾さ。対象に着弾する直前に弾自らが爆発して、中に詰まっている麻酔粉を周囲にまき散らす。効果が強いぶん範囲は小さいけど、対象はほぼゼロ距離にいるから命中率は九割九分ってわけ』


 烏取の説明を耳に入れながら、依然倒れたままの『仮面殺害者』を見下ろした。殺傷を目的としていない銃弾だからか、狙撃銃を用いているにもかかわらず流血はほとんどなかった。ジャンパーの右肩辺りが焼けて、露出した素肌が擦りむいたような跡ができていた。恐らくこれらが被弾痕だろう。


「公良ちゃん昼間寝くん平気⁉︎ 生きてる⁉︎」


 住宅街を包囲していた他の仲間が二人の安否を確かめるためにやってきた。


「生きてたら言い返せませんよ」公良が答える。


「とにかく無事なら何よりだ。すぐそこにワゴンを停めてあるから、ソイツを運ぼう」


 三十代くらいの男性が一つ先の曲がり角を指さして言った。


「ちょ......ちょっと待ってください」


 一人の男性が『仮面殺害者』を運び込もうと拘束用の縄に手をかけたとき、横からよろよろと昼間寝が入り込んできた。駆けつけたときは焦りと心配で服装にまで目が及ばなかったようだが、隣にいた公良は除いて、そのなりの凄惨さに一同唖然としていた。


 服は千切れたり破けたりと目も当てられない状態であり、破れた跡の隙間から覗く切り傷や刺し傷からは、真っ赤な血液が垂れ流されて、嫌というほどの生々しさを放っていた。


 出血量から鑑みて、いつ死んでもおかしくない容体だが、昼間寝は意に介さない。『仮面殺害者』のもとへと近づきしゃがみこんだ。


「おい後にしろ。いつ麻酔が切れるかもわからないんだ。すぐにでも拘束しないと」


「で、でも。せめて......誰なのか、確認させてください。名前どころか顔すら見たことない赤の他人なのか......あるいは......」


 昼間寝はそこまで言いかけて口をつぐんだ。故意にではなく自然と。彼の意識が、言いたくないと拒絶の意を示しているのだ。


 震える傷だらけの手を伸ばし、能面の縁に指をあてがった。指先に付着していた血液が乾ききっていなかったようで、白い能面に赤黒い線を走らせた。


 他の誰もが口を挟まずに、彼の挙動を食い入るように見つめていた。雨が降り続けるが、傘をさす者など中にはいなかった。まるで雨が降っていないみたいに。


「......!」


 刹那の沈黙を破り、勢いよくその白い仮面を引き剥がした。ブチ、というゴムが切れる音が響き、その「仮面」に秘匿され続けた素顔が公のもとに晒された。



 顔面がぐちゃぐちゃに崩れた、血塗れの怪物だったわけではない。目どころか鼻すらないのっぺらぼうだったわけでもない。しかし、その場の誰もが驚愕の声すらあげられず立ち尽くし唖然としていた。


 意外を通り越して有り得ない可能性。恐らく誰も思いすらしなかった第三の可能性。筋骨隆々で屈強な男でも、快楽殺人嗜好者のイメージにされる悪魔のような顔をした男でもない。意外と思うことも意外になるくらいに意外で心外な人物。



 黒のジャンパー、白い仮面の殺人鬼の皮を被っていたのは澄輿スミコシあひるだった。

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