6月23日 原題(1)

「篠原刑事」


「は............は? は、はいっ」


 誰かに自分の名前を呼ばれ、篠原調シノハラシラベはしどろもどろになりながら返事をした。力なく体を起こすと、自分がスーツ姿だと気がついた。


 そして、今しがた自分が寝ていた場所は家のベッドではなく、署内の自販機の横に設けられたソファーだということにも。


 篠原を見下ろすように自販機の前に立つ山下は、篠原を心底心配しているように、慈悲と哀れみの混ざった目を向けていた。


「大丈夫ですか本当に。根を詰めすぎです。やる気があると言っても、それは体が健康であるという前提での話でしょう」


 篠原の目元には濃いくまが出来ていた。風呂にも入っていないのか、スーツや中のワイシャツにはいくつものしわが、そして髪の毛も例に漏れずぼさぼさだった。


「......そんなに疲れているように見えますかね」


「そんななりでよく言えたものです。疲れているように見えないなんて言う輩がいたら、十中八九そいつの方が疲れてますね、間違いないです」


 山下の説教じみた話を、篠原は目をしばたたかせながら聞いていた。


「いつから風呂に......いえ、自宅に帰ってないんですか」


「......ここに飛ばされてきてから、ですかね多分」


 篠原は言う。頭をぽりぽりと掻きながらさも当たり前のことのように。


「さっさと帰って、風呂入って休んでください。今は......朝の六時ですから電車もあります」


「いや、ですが」


「言い訳は無用です。休むのも仕事のうちですのでね。後始末は僕がやっておきますからご心配なさらず」


 一度にまくしたてると、山下はぐいぐいと篠原の背中を両手で押し始めた。


 本人の顔を見るとかなり強い力を篠原の背中にかけているようだが、ほとんど動いていない。背丈だけなら少しの差だが、体格は山下よりも篠原の方が一回りも二回りも大きい。


「うわっ......押さないでくださいよ......。分かりましたから」


 まだ意識がはっきりしていないのか、何とも覇気のない返事を残し篠原は歩き出そうとした。


 と、背中......もとい、依然両手で張り手をするように背中を押し続ける山下を見た。


「山下さん、手小さいんですね」


 そんなことを言われるとは思いもしなかったのだろう、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、目をぱちくりとさせた。


「べ......別に手が小さくとも、華奢な体つきでも刑事は務まります。ハンデにもなりませんのでお気になさらず!」


 意表を突かれたからか、上ずった声で告げると、「お疲れ様でした」と一方的に残し、廊下を歩いて行ってしまった。


 廊下には山下の声が何度か跳ね返り、そしてすぐに吸収されて消えた。半覚醒の意識のまま立ち尽くす篠原は、豆鉄砲を食ったような顔をしていた。





 *





 昼間寝華ヒルマネハナは時計を見た。短針と長針が示していたのは午後八時。初夏を過ぎ、暦の上で仲夏と表される季節になったとは言え、午後六時を回ると外には夜の帳が下りる。


 自室へと向かい、小型のクローゼットを開くと、黒色のジャージを上下揃えて引っ張り出した。ジャージのチャックを閉め終えるやいなや、おもむろに屈伸運動を始めた。


「お......落ち着かない」


 約束の時間まで二時間近くある。有り余った隙を埋めようと家の中を考えなしに歩き回るが、何をしてみても、今の彼の間隙を埋めるモノはなかった。


 そして、彼はリビングへと足を向けた。壁のスイッチに手をあて、部屋に明かりを灯す。部屋の中には昼間寝の姿しかない。母親は京都へ出張中で、父親は特殊な仕事柄、日本中を飛び回っている。兄弟もいない彼は疑う余地なく一人だった。


 何という不幸。いや、今の彼にとってはむしろ幸運であった。筆舌に尽くしがたい皮肉である。


 ついに無音に耐えかねたのか、昼間寝はテレビの電源を入れた。映っていたのは、数人のキャスターと見られる男女と、机を指でとんとんとん、と小さく叩き続ける老年の男性だった。




『......はい。と、一通り仮面殺害者カメンスレイヤーについて説明しましたが......本日は犯罪者の心理に詳しい○○大学教授の篠原卓郎シノハラタクロウ氏にお越しいただいております』


 篠原という男はカメラに向かって小さくお辞儀をした。その最中にも指の動きは止まなかった。


『篠原氏。今まさに世間を恐怖に陥れている仮面殺害者カメンスレイヤーですが、その動機は一体どんなものなのでしょうか』


『その前に、その仮面殺害者カメンスレイヤーとかいう俗称を改めなさい。相手はただの連続殺人犯だ、犯罪者だ。そんなゴシップに振り回されているようならキャスターなんてやめて週刊誌の記者にでもなればいい』


 篠原という男は悪びれもせず言う。まさかこんな答えにもならない返答が来るとは思ってもいなかったのだろう、スタジオはものの見事に凍りついた。


『し、失礼しました。不適切な表現でした』


『それで、この犯人の動機ですがね。金銭目的の犯行でないのは確実です。被害者の持ち物には金目のものが全て残っていた上、それ以外にも何かを盗られたという形跡もない。犯人が行ったのは殺人という行為のみ。ここまで条件が出揃っている以上、快楽殺人という可能性すらあるわけです』


 そこで篠原卓郎は一度言葉を止めた。眉間にしわを寄せカメラを思い切り睨んだ。その形相は、比喩するまでもなく鬼のそれであった。


『きっと犯人は今もこの番組を観ている。私を見ている。そしてほくそ笑んでいる! また変なこと抜かしてるぞこのオッサンと嘲笑っている! だがな、何と言われ世間に後ろ指をさされても、私はお前をブタ箱にブチ込んでやるッ! 絶対だッ!』


「え............!」


 昼間寝は唖然とした。それは彼だけでなく、テレビ画面の向こう側にあるスタジオも同じく、いや、それ以上に騒然としていた。カメラの外側にいた何人ものスタッフが篠原卓郎を取り囲み、暴れる彼を抑え、画面外へと強引に連れて行った。まるで台風の去った後のように、紙が乱雑し斜めにカシいだ机を一瞬写し、画面はコマーシャルへと切り替わった。


『エサヒィ! スーパードラ』



 昼間寝はすぐにテレビの電源を切った。流れていたコマーシャルはぶつりと音を立てて途切れた。





 *





 マンションのエレベーターを降りた昼間寝は慣れたような足取りで廊下を歩く。しかし依然としてその一歩一歩は重く、決して軽くはなかった。


 そして一つの部屋の扉の前に立ち、インターホンすら押さずに中へと進んだ。


「烏取さん」


「えっ。華クン、ちょっと早すぎやしないかい? 約束の時間まで一時間はあるぞ。約束事に遅れるというのは人間として駄目な行いだけど、なら早く到着していればいいのかと言われたら、それはそれで対応に困るね」


 約束の『事務所』には烏取が既に到着していた。あるいは泊まり込みなのかもしれない。膝までの高さしかない机の上には、やたら仰々しい形の銃が一丁置かれていた。昼間寝はそれを見るなり、ぎょっとした。


「......凄い銃ですね」見たままの、ありのままの感想を口にした。


「M24-Kだ。誰にでもわかるように言えば、スナイパーライフルだね」


 烏取は言う。その言葉を聞き、昼間寝はほぼ反射的に自分が知っているであろうスナイパーライフルを思い浮かべた。しかし、それと比べても烏取のそれは、いささか地味に見受けられる。


「M24という米軍のスナイパーライフルをベースに、僕仕様に改造を施したオリジナルケースなんだ」


 得意げに話す烏取を、昼間寝は微妙な面持ちで聞いていた。




 それから数十分後、次々と人が『事務所』へと入ってきた。人数およそ八人。烏取の同業者であるのはこの場所にいる時点ですぐに理解したが、格好は皆ラフな私服であり、外にいたなら誰か見分けはつかないだろう。


 今更だが、烏取もその例に漏れることなく私服だった。


「さてさて、これで全員だね。集まってくれてありがとう。任意の参加だったのに」


「ボーナス出ますからね」


 中の一人が言った。ところどころから笑いが生まれた。


「そうだボーナスだ。だからそれを対価としてキミたちには命を張ってもらうよ。頑張ってくれ」


 それでは、と切り出すと、机の上に置いたままのスナイパーライフルを地面に落とし、代わりに地図を広げた。それを昼間寝たちは覗き込んだ。


「今作戦の概要と順序だけど。目的は単純明快。『仮面殺害者カメンスレイヤー』の拘束だ。もし拘束が困難だと判断した場合、その場で即殺害してもらって構わない。その判断は君たちに委ねる。後処理は他がやってくれるからね」


 拘束だったり殺害だったりと、物騒な単語がいともたやすく並ぶ。その非日常さに昼間寝は身震いすると同時に、自分がどんな環境に身を投じているのか、ソリッドな感覚をもたらした。


「すいません。疑問に思ってたんですけど、どうしてわざわざ人の多い住宅街を作戦地にしたんですか」


 冷静になって自然と浮かび上がってきた疑問を、前から気になっていたという体で烏取に問いかける。


「今まで一連の犯行十二件のうち、五件はこの住宅街で起こっている。警察もそれを知った上で一帯の警備を強化していたはずだけど知らなかったのかい」


 昼間寝は決まりの悪そうな顔で頷いた。周りからはため息が漏れていたが、昼間寝は聞こえないふりをした。


「ま、まあいいよ。次は細かい順序だ。まず君たちには例の住宅街に向かってもらう。ここから一キロもないし、まあすぐに着くと思う。重要なのは到着してから、だ。華君には公良ちゃんとペアで行動し、『仮面殺害者カメンスレイヤー』を誘い出してもらう」


 公良? と昼間寝が疑問を口に出すよりも前に、一人の女性が軽い返事と共に八人の小さい群衆の中から出てきた。


 背丈は昼間寝よりも頭一つ分大きい。デニムジャケットに横ストライプのシャツ、くるぶしが隠れるかどうかの丈のロングスカート。そしてふわりと毛先が軽くカールしたボブヘアー。その見てくれは、近所のお姉さんを想起させるものがあった(昼間寝の近所にそのようなお姉さんはいない)。


「はじめまして昼間寝くん。公良キミヨシヨシノっていうの、よろしくね。といっても、私はきみのことを前から知ってるんだけどね。きみが私のことを知らないと思って一応自己紹介」


 公良は愛想よく笑った。わずかに口角が上がった唇に塗られたリップグロスが妖しく艶めいた。完全なる不意打ちに昼間寝の心臓は鼓動を早める。


「そんなに緊張しないでよ。獲って食おうってわけじゃないんだからさっ」


 何気なく差し出された握手に、昼間寝は何気なく応えた。



 *



 ごろごろ......。とはるか遠くから音が聞こえた。雷だった。しばらくしたらこの一帯にも雨が降り注ぐだろう。


「雨が降る前に色々終わらせたいね」公良は言う。


 その言葉には、緊張など一寸たりとも含まれていないような気がした。



 目的の住宅街まで、三つのルートに分かれて向かうことになった。昼間寝と公良の二人は先ほどいた部屋から一番近い直通のルート、残りのメンバーは二つのグループで、それぞれ住宅街を大きく迂回する形で住宅街を一つの円で覆うように展開する。


 件の作戦においての最終目標は、『仮面殺害者』の無力化、拘束。そのため、昼間寝含め作戦参加者の全員が行動を制限させる程度の威力しか持たない武器のみを携帯していた。


 また、目標に反するというだけでなく、住宅密集地で純粋な銃火器の発砲音は、近隣の住民の不安を煽るだけでなく、作戦の実行に支障をきたす可能性を孕む。それらを考慮した上での判断だった。


 合理的でかつ理にかなっているものの、その代償と言わんばかりに昼間寝の不安は徐々に大きく膨らんでいった。




「ねぇねぇ昼間寝くん。きみって......何歳なの? 高校生なのは知ってるけど」


 公良はわずかにその身をかがめ、昼間寝の顔をのぞき込んで言った。その仕草は、まるで小さな子どもに接するときのそれによく似ていた。


「十六です」


「十六かぁ! いいなぁ、若いって素晴らしいよねぇ......。私、今年で二十二なんだけどね? きみと同じく今年十六になる妹とますます差が広がっちゃってるなぁって。肌年齢的な意味で」


 公良はあはははは! と朗らかに笑った。ほのかに自虐めいた冗談なので、昼間寝は笑うに笑えず、微妙な笑みを返した。


「じゃあ......昼間寝くんはどんな料理が好きかな? この作戦が終わったらお姉さんが労いの意を込めて作ってあげよう」


「それ、死亡フラグってヤツですよ」


「違いない! あははははは!」


 希望通りのツッコミが返ってきたからか、ご満悦といった風に上機嫌になる公良。


 このとき、昼間寝はようやく気がついた。公良は、あえて場違いな話題で大笑いしていたのも、気を抜けば潰されてしまいそうな重圧や不安を払拭するためなのだと。そして、彼女の気遣いに気がつくとほぼ同時に、どうしても彼女に聞きたいことを「思い出してしまった」。


 しかし、これを聞くということは、彼女の気遣いを払いのける行為に等しいのではないだろうか。厚意をないがしろにしてまで聞くべきことなのだろうか。そんな逡巡が彼の脳裏をよぎる。


「何か言いたげな顔だね? お姉さんに聞きたいことでもできたのかな?」


 公良は目を細める。その表情は笑っているようにも、何かを勘ぐる懐疑的な表情にも感じられた。そこに含まれる意味は恐らく後者だろう。


「......」昼間寝は目を何度もぱちくりとさせて、彼女の顔を見た。まるで自分の考えたことが全部顔にマジックペンで書かれていて、それを読んだと言わんばかりの彼女の態度に驚きを隠せなかったのだ。


 やがて観念したように目を伏せると、申し訳なさそうに口を開いた。



茶川雀子サガワスズメコさんって、どんな人だったんですか」



 質問があまりに予想を外れていたのか、公良は数秒の間口を閉ざした。腕を組み、「......そうだなぁ」と唸る。態度は悩んでいる風だったが、その実彼女自身は悩んでなどいないのだろう。強いて言うならば、彼女......茶川雀子に関する情報をどう伝えればいいのかを悩んでいるようだ。


「雀子ちゃんはね、変な娘だったよ。良い意味でね」


「変な......?」


「何で彼女は『雑貨屋』なんてものに所属しているんだろうなって、疑問を抱くくらいには変だったね」


 二人は歩きながら話を始めた。先ほどまでとは変わり、昼間寝が聞き手、公良が話し手だった。


「私含め『雑貨屋』って組織はね、他のメンバーに情を持たないように、極力関わらないようにしているの。顔は知ってるけど話したことはないくらいの距離感をとってね。けれど、彼女は積極的に私たちに絡みにかかったの。好きな食べ物から、付き合っている恋人はいるのかまで、とにかく何でも知りたがっていた」


 ふいに風が吹き、髪や服が左右に大きくなびいた。ビルとビルの間の隙間風だろう。歩道の脇に植えられた木は枝や葉が轟音を鳴らして大きくしなり、路肩に置かれた飲食店の看板が風にあおられ転がった。


「メンバーとの交流や雑用だけじゃない。命に関わるような現場も何度も体験してた。それこそ命がけでね。......て、それは昼間寝くんも同じか、あはは。それに、年だって君とほとんど変わらなかったんだよ」


「おいくつだったんですか」


「十八だね。君より二つ上」


 それじゃあまだ高校すら卒業していないじゃないかと驚く昼間寝だったが、自分というそれ以上の特例がいることを思い出し、すぐに押し黙ってしまった。


「友達と一緒に帰ったり、駅前で寄り道したり、ハンバーガーショップでアルバイトに精を出したりせずに、わざわざ泥を被るような汚れ仕事をこなす理由は、きっと烏取さんなんだろうなぁ」


「烏取さんですか」


「そ。あの二人付き合ってたのよ。もちろん内密にだろうけど、雀子ちゃんの烏取さんを見る目には尊敬だけでなく......こう......月並みな表現だけど、愛みたいなものが含まれていたね」


 お姉さんの目はごまかせませんっ、と得意げに語り鼻を鳴らす公良。


 公良の話に耳を傾けるうちに、昼間寝の中でじわじわと、凍りついたままだった氷塊が溶けていく。それは疑問として今まで彼の中に留まり続けていたものだった。


 一つは、烏取が病院で昼間寝を脅迫まがいの行為を働いてまで強引に『仮面殺害者カメンスレイヤー』事件に関わらせようとした理由。そしてもう一つは、瀕死状態だった昼間寝をあの場から助け出した人物。いや、正確には「助けようと提案した人物」が誰だったのか。


 露見したこれらの事実は一本の線で繋がり、昼間寝華の記憶の断片として、あの日の夜の記憶を鮮明にした。




『烏取さん! 被害者が......っ、まだ生きてます! 助けなきゃ!』


『何言ってんだ雀子! 一旦引くぞ、そいつは助からん!』


『息があるんです! 絶対助け......ます!』


『バカ、何やって......! あぁクソっ』



 昼間寝の目に、まるで映画が上映されるように過去の残像が映り出す。『仮面殺害者カメンスレイヤー』によって致命傷を負わされ、コンクリートに倒れたまま朦朧としている意識から抽出された、ほんのわずかな情報を縫い合わせて作り上げたつぎはぎだらけのフィルム。そこには彼が今まで完全に忘却していた事柄が並べられていた。


『ここは私が抑えます......! その間に被害者さんを病院まで運んでください!』


『うるさいッ! お前を置いて逃げるくらいならこんなガキ捨ててやるよ!』


『そんなこと言わないで......電波。大丈夫、貴方を悲しませるようにはしないから。だから......早く行って......?』


『つっ............⁉︎ ............! ああああああああああああああぁっ!』




 烏取の腹の底からの慟哭を最後に、昼間寝の意識は急激に冷却され、強制的に現実に引き戻されてしまった。その場に立ち尽くし、激しいめまいを覚えるほどの強烈な倦怠感や今すぐに死にたくなるほどの尋常ならざる劣等感が、昼間寝の全身を苛んだ。


 これじゃあ、まるで僕が彼女を殺したみたいじゃないか! と叫びたくなるが、喉が萎縮して彼の発声を許さない。声を出すことを拒まれた昼間寝は、ついには絶望を顔に貼り付けたまま地面にへたりこんでしまった。


 それを目の当たりにした公良は、意外にも全くと言っていいほど動じていなかった。むしろこの反応は想定内だと言わんばかりの表情で見下ろしていた。


「思い出したんだ。やっと自分自身の罪に気がついたんだね。そう、雀子ちゃんは君を助けるために犠牲になったの、死んだの。だから君は罪を清算しなきゃいけない。でも絶対に死なせやしない、なぜなら死は償いになり得ないから」


 つい今しがたとは真逆の冷めきった口調。無能は、そこにどんな事情があれども情状酌量の余地なく切り捨てる、そんな態度の彼女の言葉を昼間寝は噛みしめる。何度も繰り返すうち、自責の念は水を含んだ服のように重さを増して、昼間寝の肩にのしかかっていく。


「......わかってますよ。僕は馬鹿だけど愚かじゃあない。自分の命と引き換えに許しを乞おうなんて思いません。......必ず、何が何でも『仮面殺害者』を捕まえてみせます」


 低い声で昼間寝は独り言のように呟いた。彼の目を見た公良は、表情にこそ出さなかったものの、その瞳に一瞬だけ映った怪物の欠片に、畏怖の念を感じずにはいられなかった。



 *



「山下さん。......ハイ、ハイ。......わかりました。今向かっています、現場で合流という形で......」


 車を走らせ、公道を抜ける篠原。今朝、実に数日ぶりに帰宅し一日休暇と洒落込んだ彼は、思わずして得た貴重な休みが終わりそうな午後十時頃、山下からの着信を受け取った。匿名で、「今夜十時半に『仮面殺害者』が現れる」といった旨の垂れ込みがあったのだという。


 もし仮にそれだけだった場合はまともに取り合ったりはしないが、今回は場所も指定してあった。クダンの殺人犯が五回も出没した住宅街に六回目の兆しが見えたというのだ。


 犯人は現場に戻ってくるとよく言うが、これでは犯人は現場に入り浸るではないか。と篠原は不謹慎ながらも笑ってしまった。そんなことにうつつを抜かしていると、すぐに指定の時間が近づいてきたので、急いで自宅を飛び出したのだった。


 車の中で同僚の山下からの通話を切り、スマートフォンを助手席にぽいと投げると、代わりに置いてあった拳銃を取り出して左手で握った。右手はハンドル、目線は正面を捉えたまま、器用に拳銃のリボルバーを露出させ、弾薬を指の感触だけで確認した。六発。弾薬が装填されていることを確認すると、動作を逆再生するような手さばきでリボルバーをしまい、スーツのポケットに滑り込ませた。


「まあ、さすがに住宅街じゃブッ放せないだろうけどな」


 自嘲気味に笑う。篠原の不敵な笑顔は、少なくとも市民の安全を守る刑事のそれではなかった。



 *



「公良さんッ......! 危ッ......ない!」


 間一髪とはまさにこのことだろう。公良の背後に煙のようにほんの気配もなく現れた黒い影。その手に逆手で握られていたのは筋引き包丁。細長く、極限まで研ぎ澄まされた先端はアイスピックと見間違うほどの代物だ。それが何のためらいすらなく振り下ろされたのを、公良の向かい側に立っていた昼間寝は気づくことができた。



 住宅街に到着するとすぐに、二人は襲撃にあった。何の前触れもなく、何の予告もなしに

 降りかかった殺意に触れる直前まで気配を察することすらできなかった。


 二人に気の緩みがあったのかもしれない。しかしそれ以上に、襲撃者の殺意が、猛々タケダケしく燃えさかる赤い炎ではなく、静かに、けれど赤い炎を上回る温度で佇む青い炎のようだったことも強く作用したのだろう。


 昼間寝は姿勢を低くし、格闘技のタックルのように公良の腰に手を回しつつ思い切り倒れた。彼女の肢体のバランスが瞬時に崩れ、重力に引かれて地面に激突しそうになる。


 昼間寝は素早く公良の後頭部に手を添えてクッション代わりにした。クッションにした右手は、落下の衝撃で地面と成人女性の後頭部とに挟まれてしまった。手の骨をかなりの勢いで強打していたが、昼間寝の表情に変化は見られない。恐らく脳内のアドレナリンが過剰分泌されていることによって、痛覚が多少なりとて麻痺しているのだろう。


 突然の刃物の襲撃から紙一重の距離で逃れた昼間寝。振り返ると、すぐ後ろに刃物を大きく上に振り上げた影があった。


「やばっ」


 彼にとって避けるのは容易だった。が、自分が避けた場合後ろで倒れている公良に刃が及ぶと考えると動くに動けなかったのだろう。


 筋引き包丁は勢いそのままに、ほんの躊躇も逡巡もなく、昼間寝へと襲いかかった。


 昼間寝は身体を左へ傾けた。狙いがズレた凶器は昼間寝の右腕の二の腕あたりをかすめただけだった。


「痛っ......あああああああああぁ!」


 叫ぶことで痛みを和らげた昼間寝は、襲撃者の肩を掴み、そして後ろのコンクリートへ力一杯押し倒した。公良のときとは違い、クッション代わりになる手など差し伸べるはずもなかった。


 パンパンに買った物を詰め込んだビニール袋を落とした時みたいな鈍く重量感のある音を伴って黒い影は思い切り地面に全身を叩きつけた。かなりの痛みに襲われているはずだと昼間寝は確信した。


「......‼︎」


「嘘だろ......」


 反射的に一歩後ずさりした。驚くことに、一瞬の硬直すらなく、むくりと起き上がったのだ。そして街灯に照らされたその姿に、やはり昼間寝は見覚えがあった。


「ち......『仮面殺害者』......」


 黒いジャンパーに黒のジーンズ、黒のフードと、闇に溶け込むためのギリースーツに身を包んだ『仮面殺害者』は、表情のない能面で昼間寝の目を見つめていた。

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