6月22日

 黒板に図形を描き、教室中の視線を浴びながら問題の解説をする教師。黒板に次々とチョークで書かれる文字を目で追いつつ、手元にあるノートに書き取る昼間寝華ヒルマネハナ。そうしつつも、頭の片隅には、必ず別のことを考えていた。


 澄輿スミコシあひるの連続欠席。烏取のどこか違和感のある対応、そして、『仮面殺害者』......。


 もやもやと、釈然としないままの思考。考えても解決の糸口が見えないそれらを、昼間寝は保留して隅へと追いやっていた。


 しかし、「この箱は開けてはいけない」と言われれば尚更開けたくなるように、解消されないままの疑問はいつのまにか元の何倍もの大きさに増幅され、昼間寝の頭を圧迫していた。


「っつ......」


 痛みと共に、昼間寝は手元を見る。どうやらシャープペンシルの上下を間違えていたようだ。本来ノックするべき部分が下側にあり、誤ってペン先をノックしてしまったようだ。親指の皮膚にペン先がわずかに食い込み、ぷっくりと球状の血液が滲んでいた。


 顔をしかめると、何を思ったかペン先を更に深く親指に突き立てた。


「痛......っ」


 すぐにやめる。球状に留まっていた血液はダムの堤防が決壊したようにその形を崩し、親指全体に広がった。


 すぐに指に付いた血を拭う。ハンカチには拭った血が当然のことだが付着し、いやに痛々しかった。


『人を殺すと......これの何倍も、何十倍もたくさんの血が流れる。どこの誰かは知らないけど............やるからには意地でも止めてみせる』


 ハンカチを制服のポケットにしまい、昼間寝は決意を固める。ポケットの中に入れられたばかりのハンカチはくしゃくしゃになっていた。


 突然スマートフォンに通知が来た。手に取り内容を確認する。


「............え?」


 それは、意外な人物から、意外な時間に、意外な場所への招待状だった。昼間寝は文面をまじまじと眺め、考える。どうやらからかわれているわけではないようだ。そうだとわかると昼間寝はゆっくりと自分の席を立った。





 *




 駅周辺には、平日の昼間だというのに人であふれていた。会社の昼休みを使って昼食をとりにくる会社員。寝坊でもしたのか、焦った表情で駆ける制服姿の学生。携帯を耳に当てて、営業先へ向かう途中の営業マン。これからデートなのか、にこにこと笑顔を見せ合うカップル。


 出で立ちも年齢も目的も違う人々が行き交う中、私服に身を包み、辺りをきょろきょろと見回している少女......澄輿あひるは、駅から少しはずれた場所にある映画館の入り口の前に立っていた。ガラス張りの扉には、新作映画のポスターがいくつも貼られていた。




「おま............たせ......あひるちゃん」


「あっ」


 聞き覚えのある声、振り向くと、昼間寝が膝に手をついてぜえぜえと息を切らしていた。彼も同様に私服である。


「ごめん華。急に呼び出して......」


「いや大丈夫だよ。気にしてない」


 実のところ昼間寝は早退をしてここまで来ている。しかしその過程にはほとんど苦労を必要としていない。理由は簡単で、最近学校を休みがちになっている昼間寝はどうやら病弱な体質だと思われているらしく、それより......と昼間寝は話の流れを変えた。


「具合はどうなの? 何日も連続で休んでるけど、外に出ても?」


「う......う、うん。体調はほとんど万全......なんだけど......」


 何か言いたげな様子の澄輿。まばたきの数が多く、ちらちらと昼間寝から視線を外してはまた見るを繰り返している。それにすぐに気がついた昼間寝は「どうしたの」と投げかけた。


「......いや、平日の真っ昼間に呼び出したことよりも私の体調を気にかけてくれるんだなぁって」


「あぁ。誰でも面倒になって、魔が差してさぼっちゃうときくらいあると思ったからさ。あひるちゃんは今まで真面目にやってきたんだから、一回や二回くらいバチは当たらないと思うぜ」


 あっけらかんと言う。それにと続けて、


「僕からしたら平日だったことよりも昼間だったことよりも、あひるちゃんが元気になってかつ僕を呼んでくれたって事実の方が重要だからね」


 彼からしたら時間や曜日は些事なことなのだろう。しかは、そんな意図しない心遣いが、澄輿にはこの上なく嬉しかった。紅潮した顔を見られたくないのだろう、そっぽを向く。するとすぐに鞄に手をかけ、財布を取り出した。中から二つに折りたたまれた紙を取り出して昼間寝に手渡す。


「チケット?」


「そ、映画のね。親戚のおじさんからもらったの。......もらっただけで使わないっていうのも悪いと思ったから」


 持ったチケットをひらひらと左右に振っている澄輿は、どこか投げやりな様子で言う。渡された二つ折りのチケットを広げ、そこに印刷された文字とイラストを昼間寝は眺めた。


「えっと......何て読むんだこの映画」


牡丹一華ボタンイチゲだよ。ミュージカル映画なんだって。最近テレビでも取り上げられてること多いよ、知らないの?」


「あはは......テレビはあんまり観ないから」


 まあいいけど、と言うと、澄輿は手持ち無沙汰になっていた昼間寝の左手を掴み映画館の中へと連れて行く。


 平日の昼間ということもあり、映画館の中には人の数は少なくまばらだった。ポップコーンやジュースを適当に見繕った昼間寝は澄輿のもとへと向かった。


 彼女はチケットの半券を持ち、上映するスクリーンの入り口に立っていた。昼間寝はポップコーンやその他諸々が入ったバスケットを見せ、中へと促した。




 その後はほとんど流れるように席に座り、流れるように映画の上映が始まり、流れるようにスタッフロールに至った。ほんの一瞬だったような気がすると彼は思った。言葉の通り、時間が流れたのだ。


 やがてスタッフロールが終わると、暗転していたスクリーンには小規模な劇場が映し出され、壇上にら数十人の人影があった。スクリーン内の劇場からスポットライトの光が飛び人影を煌々と照らした。その光景に昼間寝は見覚えがあった。


『カーテンコール......ミュージカル映画だから当たり前......なのかな』


 演者が舞台に上がり、観客の前に姿を見せるカーテンコール。ミュージカルやオペラなどではほぼ恒例だが、映画の中でもやるのか、と、ミュージカル映画は今回が初体験の昼間寝は思わずにはいられなかった。




 カーテンコールも終わり、今度こそ上映を終了したのだろう、真っ暗だった劇場に、明かりがつきはじめた。ふと映画の感想とともに、本編を振り返ろうと目をツムる。


 舞台は中世後期のヨーロッパ。世間を震撼させていたのは、正体不明の殺人鬼、怪人ダンジェ。その素顔はおろか、年齢、性別すら判明しない怪人を退治するために呼び出されたのは、探偵のアルベール。彼は秀逸な推理と抜き出た行動力で、怪人ダンジェを追い詰める。


 しかし、追い詰めた先に判明した怪人ダンジェの正体は、密かに想いを寄せていた友人のカナールだった。彼女はとある理由で心に深い闇を抱え、誰の手にも追えない怪物になっていたのだった。


 アルベールは苦渋の決断を迫られ、その末にカナールを手にかけてしまう。罪悪感に苛まれたアルベールは、彼女の亡骸を抱き、いつまでも泣き続けた。



 ......といった内容で、これを日本独自の切り口と解釈でミュージカル化したのが話題を呼んだのだろう、と昼間寝は結論付けて納得した。


『でも......肝心の内容がなぁ。ストーリーも既視感があるし、何より新鮮みがない』


 目を細め、不意にかゆくなった目をごしごしと擦る。目を痛めるからやってはいけないと理解しているが、理屈でわかっていてもやってしまうのは人の性だろう。


 隣に座る澄輿を見る。彼女はとうに先に昼間寝のことを見ていた。二人は見つめ合う形になっていた。



「ど、どうしたの? あひるちゃん」



「それはこっちの台詞だって。ん」


 澄輿は自分の頰......正確には目の下辺りを指さした。まるで鏡合わせかのように、同じ仕草をしてみる。


「え」


 ......昼間寝の頰には、水滴のようなものが付着していた。何気なく口に含む。味はしなかったが、直感で涙だと理解できた。


「あ......あれっ? おかしいな......」


 慌てて拭うも、その度に目元から涙はこぼれ落ちた。それを繰り返すうちに、彼の指は涙でマミれていた。


「んっふっふ。わかってるよ、感動して泣いちゃったんだよね? 涙もろいんだねぇ華はさ」


「いやっ......別に」そう言い返すが、澄輿はどこ吹く風。取り出したハンカチを昼間寝の顔にあてた。ふわっと、柔らかい感触が彼の頰を包んだ。


 彼自身すらも、なぜ自分が泣いてるのかが理解できなかった。悲しいなんて感情も、感動したなんて同情もない。あったとすれば映画が退屈だったという至極どうでもいい感想だけだった。


 けれど彼の意思に反するように、大粒の涙はぽろぽろと流れ出し、あてがわれたハンカチに吸い込まれていく。


「............」


 結局、昼間寝は自分で自分を釈明できず、押し黙り、されるがままだった。





 *





 昼間寝はスマートフォンの電源を入れ、現在の時刻を確認する。午後九時を示していた。


 映画を鑑賞し終えた後、いくつかの店を巡りながら澄輿の買い物に付き合いつつ時間を潰すと、あっという間に(言葉の通りではない)時間が過ぎた。ファミレスで夕食をとると、「明日から登校するから支度がしたいの」と澄輿は言って帰ってしまった。


 真昼間に呼び出してとんだ言い草だと、昼間寝は少しばかり不安を募らせたが、去り際に彼女が言った「............好きだよ、華」というのろけた台詞にすっかり毒気を抜かれてしまっていた。


 一人きり、ファミレスの前に取り残された昼間寝は、どきどきと高鳴った動悸を鎮めるために、偶然目についたリサイクルショップで欲しくもない漫画とハードカバーの小説、そして知りもしないアーティストのCDを購入した。


 無駄を極めたような衝動買いをした甲斐があったか、リサイクルショップを出た時点で既に動悸は治っていて、その代償かどうかは知らないが激しい後悔に襲われた(いわゆる賢者タイムというやつだろう)。



「うわ......やっちまったなぁ......。虚無感が半端じゃない」


 買った物が入ったビニール袋を見つめて昼間寝は呟く。見れば見るほど不要な物という認識が強くなる。不要な物を買い取り売る店で不要な物を買うなんて、ミイラ取りがミイラになる以上に阿呆で馬鹿らしいので考えないようにしているようだ。


 店が建ち並ぶ通りを抜け、しばらく歩くと住宅街に入り込む。昼間寝の家はもう目前だった。


「んっ」


 その時ポケットにしまったスマートフォンがぶるぶると小刻みに震え始めた。バイブ音である。昼間寝はスマートフォンを常にマナーモードに設定していた。理由は単純で、静かな場所なんかで大音量でベル音が鳴ろうものなら赤っ恥もいいところだからだ。


 バイブ音で手を滑らせないように取り出すと液晶を眺める。


 公衆電話と表示されている。数秒の間動きが固まってしまう。明確に疑いの目を向けている昼間寝。電話の向こう側にいる何者かは自分を知っているが、こちらはその通りとは限らないからだ。


 わずかの逡巡を経て、通話ボタンを押した。


「......もしもし」


 探りを入れるように、懐疑的な声色を含ませて言った。こういった場合、フィクション作品では相手は無言、あるいは声を変えて話すものだが......。


『もしもし? 聴こえているか、華君。烏取だ』


「烏取......さん?」


 通話口から流れ出たきたのは知った声。低く取り方によっては渋い声とも地味な声とも取れてしまう曖昧な声質の彼は、受話器を通すとまた一味変わった声色を昼間寝に届けた。


 ただ、いつもの飄々ヒョウヒョウとした掴み所のない声ではなく、一本筋の通った凛とした声色だった。それに反射的に気がついた昼間寝は『何かがあった』と察し、立ち止まって姿勢を正した。何も言わなかったが、烏取には先を促しているととられたようだった。


『......落ち着いて聞いてくれよ。取り乱すなんてみっともない真似は晒すべからず、だ』


「は、はあ。それで何です? かしこまったりして」


 風が強く吹いた。髪や衣服がたなびき、ばたばたと音が鳴る。ノイズが入らないように通話口を手で覆いつつ耳をすました。




『君の彼女......澄輿あひるが襲われた。恐らく、いや、ほとんど確定しているが、『仮面殺害者カメンスレイヤー』による犯行だと思われる』





 *





 z市内にある総合病院。息を切らして向かった昼間寝は、澄輿が治療を受けているであろう診察室のスライド式の扉を思い切り引いた。中は風邪なんかを診察する、ごくごく普通の診察室だった。


 白衣の医師と、薄い桃色のナース服(こちらも白衣と呼ぶ)を着た看護師がそれぞれ一人ずつ立ち、回転式の椅子に座った澄輿の右腕に治療を施していた。


「あひるちゃんっ......」


「あぁ............華か。ごめんね面倒かけて」


 澄輿は振り返って昼間寝を見ると、やけに弱々しい声で謝った。それは昼間寝のよく知っている普段の澄輿のそれとはひどくかけ離れていた。


 萎縮した、覇気のないその目は何かに怯えるようにも、あるいは何かを勘ぐっているようにも見えた。


 その目から逃げるように目線を外すと、未だに治療の最中の彼女の右腕(正確には右の二の腕あたり)を見た。


 包帯でほとんどが覆われていたが、まだ巻かれていない一部にはえぐれた細長い傷が露見していた。それは、誰が見てもわかるまでに明確に『刃物』による切り傷だった。


「......誰にやられたの」


 昼間寝は問う。精神的にも身体的にも脆弱ゼイジャクした彼女に聞くことではないのは昼間寝自身理解していたが、どうしても知らなければならないと躍起になっていた。問いに対し、澄輿は苦い顔をした。恐怖からか唇は小刻みに震え「あ......か......かめ......」と、途切れ途切れに単語を発することしかできていない。


 そして、何度も言いよどんでいた末に、


「......仮面? みたいのを付けた人......」


 確かに、そう言った。




 *





 マンションの一室『事務所』のソファーに座る烏取を、立ったままの昼間寝は見下ろして言った。


「烏取さん............」


 今にも消え入りそうなその声は、しかしながら煮えたぎる鍋のように、ぐつぐつとどこか危うい可能性を孕んでいた。


 烏取は顔に影を落としたまま薄型のタブレットの電源を入れると、地図のアプリケーションを起動した。気になった昼間寝が画面をのぞきこむと、当然のことだが地図が表示されていた。


 その地形に、昼間寝は見覚えがあった。


「これ、ウチからすぐ近所の......」


「あぁ」


 烏取は短く言う。言いながら画面を指でなぞり地図を拡大した。拡大された場所には四角く囲われたスペースがいくつも並んでいる地域。住宅街だった。


「ここが明日の舞台だよ」


 唐突な舞台宣言に、昼間寝はどう返していいかわからずたじろいだ。しかしすぐにその言葉の意図に気がつき表情が固くなる。




「理解できたみたいだね。おおよそ君の推測通りさ。明日の午後十時、『仮面殺害者カメンスレイヤー』を捕獲し、拘束する」

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