第二夜

「失礼します」と襖を開ける。

時刻は昼前。朝の厨勤めを終え、客を起こす時間だ。しかし予想に反して高見はすでに布団から抜け出し、身なりを整えていた。小さな卓袱台を窓際に寄せ、茶を淹れている。

スズランは慌てて小走りで駆け寄り、高見から茶筒を受け取った。

「おはようございます。おつぎしますわ」

焦りに目をぐるぐると回すスズランだが、高見は「別に……」と不思議そうにその様子を見ている。

茶碗を湯で温めなおし、茶を注ぐ。妹を呼び茶菓子の手配をしてから、スズランは頭を下げた。

確かに昨日の夜、初日は共寝もせず早々に寝付いたが、旅の疲れがあるだろうとこの時間に来たのは失敗だった。そもそも部屋付きの期間なのだから、平常時の勤めは他のものに代理をたてるべきだったのだ。

「申し訳ございません。布団の片付けも着付けも、お手伝いしませんで……」

情けなさに涙声になりそうだ。スズランは平身低頭で詫びだが、相変わらず高見はからっと「布団は別に重くないぞ」と流した。

「お召し物も……」

「身軽な旅装束だ。手はいらん」

「お茶も淹れていただいて……」

「今、お前が淹れなおしたじゃないか」

ちょうど妹が運んできた盆を、高見は自身で受け取り、包みを破った。子供の頰にも入るほどの小さな饅頭だ。高見はぽんぽんと口に入れて咀嚼している。あまりにも高見が気にしていないので、スズランは頭をあげた。

「明日は私がお世話いたしますわ」

「俺は朝早いぞ。旅の習慣だから気にしなくていい」

「そんなわけには……」

スズランが言い募ると、高見はふうんと相槌を打った。ついと窓の外に視線をやる。

スズランは彼がこちらを見ず、相手を欲していないことを確認すると、通常通り部屋を整え始めた。とはいっても客が出ていない間だからそう大仰なことはできない。床の間の花の挿し替えぐらいだ。

妹がもってきたハサミと藁半紙、桶を小さく広げる。一晩飾られた桃の花はすでに乾いている。飾るだけならば水を吹き掛ければ生きかけるだろうが、すでに一晩経って魔除けの力も弱まっている。桶とともに用意された新しい花を取り、枝に切れ込みを入れた。

ぱちりぱちりと細い枝が割れる音だけが室内に響く。普段鼻が慣れて気にならない桃の香りがいやに強く感じられた。

「また桃か」

「魔除けですもの」

「鬼を払うのか」

窓の外に視線をやったまま、高見は話を始めた。

「物の怪退治の話は面白かったな。まだあるなら、また夜にでも聞かせてくれ」

高見は上機嫌にそう強請った。

昨晩は酒の肴にいくつもの話をしたが、彼が一番の興味を示したのは、勧善懲悪の化け物退治だった。

昔のお侍が、村の勇気ある一人息子が、天女の娘がーー様々な主人公が鬼や鵺、天狗を払うお伽話に膝を打った。

厄災をはねのけ村を平和にする話に感じ入れば、男が鬼と戦っているうちに妻に逃げられる話には腹を抱えて笑った。

それを思い出しているのだろう、細い目を柔らかくして窓の外を眺めている彼に、スズランも微笑んで了承した。

花の挿し替えが終わると、高見は見ていたかのように手を招いた。妹たちに古い花と道具の片付けを頼み、呼ばれるままに窓辺に寄る。


窓の外は、白々とした春の日光に照らされた街が見下ろせる。ようやく夜の酒と匂いが抜けて、少ないながらも家々の窓が開き始める頃合いだ。

まだ人通りは多くない。遠目に道をぽつぽつと歩いている男が見える。良い日和だ。

とても夜の間に鬼が通り、暴れ、男女が世を儚んだとは思えない。

それは妖し宿が街よりもずっと高く離れているからか。きっと街に降りれば、道にこびりつく乾いた血も見えるだろうが、ここからは分からない。

街に被さるように幾連も伸びた行燈はあかりもなく寂しげに吊り下がっているだけだ。

「何を見ておられるのですか」

「いやぁ、小さな街だと思って」

「高見さまがいらっしゃったところはもっと人の多い?」

いや、と高見は目を細めた。

「もっと小さい。木と藁の家と畑しかないところだ。だけど、こんなに高くからみると小さく見えるなぁ。おもちゃのようだ」

「お昼でしたら、街に降りることも出来ます」

街にあると聞く幾つかの店や舞台小屋を勧めるが、高見はまた「ふうん」と相槌をうつだけだった。

「お前は街にはよく出るのか?」

「いいえ、いままで二回しか降りたことありません。お使いで質屋に行きましたわ」

「二回か。少ないな。外に出かけたいか?」

乞えば連れていってくれるかとも思ったが、さすがにそこまで厚かましくはいられない。スズランは首を振った。

「降りなくても、街は見下すのが好きなのです」

「おもちゃみたいだからか」

「夕方と、夜の狭間を見てくださいませ。赤の行燈が好きなのです」

「行燈」

「ええ。物の怪が出る合図。街に巡らされた行燈が順々に灯って、広がってゆくのです。たいそう綺麗ですよ」

スズランはそう自信満々に述べたが、内心は少し不安に思っていた。行燈が綺麗だなんて、いままで誰にも、どの姐さまにも妹にも言ったことがない。綺麗と言えば普通は花か反物だ。高見の目にも果たして綺麗とうつるのだろうか。しかし、スズランはそのまま言葉を重ねた。

「私、もし宿の女じゃなければ、行燈に火を入れる火付けになりたいわ」

誰にも教えたことのない、到底叶わないだろう夢。嗤われてしまうだろうかと思ったが、高見はまた「ふぅん」と相槌をうってそれ以上は突っ込んでこない。スズランはほっと息をついた。





その夜、スズランは昨夜と同じく酒を注ぎ、話をし、高見の世話を焼いた。

高見は相変わらず窓際に腰掛けて外に視線をやっている。すでに日暮れ薄い闇が降りている。春先とはいえ朝と夜は冷たい風が山から下りる。高見の首元でゆるく結った黒髪もさやさやと風に揺れていた。湯浴みの後でやや湿った髪は一層黒く、外の空に溶けるようだ。

「冷えませんか」

スズランは火鉢で酒を温めなおした。おしぼりで酒瓶を拭う。

高見は応えず、ぼんやりとしている。スズランもそれ以上は何も言わず、酒の補充だけをした。

妹たちに空になった膳を下げさせて、スズランは床を整えた。慣れた手つきで自分よりもずっと大きな布団を抱え、皺を整え、枕元に香を焚く。

「桃か」

「魔除けですもの」

何度目かの応答をしているうちに、部屋に慎ましやかな甘い香りが広がった。


高見が布団に入ったのを確認し、スズランは次の間へ移った。襖一枚で遮られた四畳半。灯りも付けず手探りで、脇に畳んでいた自身の布団を敷いた。髪をほどき、長襦袢一枚の姿でスズランは一刻ぼうっと部屋の薄闇を見つめた。


閉めた窓の外、遠くからごうごうと物音が聞こえる。

百鬼夜行が列をなしているのだ。よくよく耳をすませると、男の叫び声も小さく聞こえる。

きっと酒や女の匂いで紛れなかった不安にかられて、物の怪の元へ狂い飛び込んだのだろう。声が聞こえなくなると、死んだのだろうかと思う。しばらくしたら刀音や火の手が上がる音が聞こえるかもしれない。


スズランは意を決して、戸棚の一輪挿しに挿してある桃の枝を抜き取った。湿ったそれを舐めて水気を取り、耳にかけ、紐で結わい留める。

そうっと襖を開けた。全身に力を入れて、足音を立てないように。

高見はすでに寝息を立てていた。

枕元に立ち、唇を噛む。

そっとその掛け布団に手をかけて、瞬間、腕を思い切り引かれた。

畳と布団の境目に背を打ち付ける。突然の衝撃に声も出ず、肺を潰して呻いた。恐る恐る目を開けると、高見が鋭い眼光でこちらを見下ろしている。ちらり、と赤い光が見えたような気がした。その強い瞳に怯み、息がつまる。

「スズラン? 何をしている」

ただ震えるスズランに、高見は言い募った。

「隣の部屋で、寝ていたのだろう。昨夜も。何をしようとした。何のつもりだ」

「夜の、」

声が掠れた。唇を舐めて必死に声を出そうとする。先の衝撃で切れたのか血の味がした。

「お世話をしなければ、と……」

「は?」

腕を掴む力が緩んだ。スズランはゆっくりと身を起こし、打ち付けた背に手を当てる。

「鬼を、魔を払うのです。お酒を飲み、桃の香を焚き、……共寝、を」


そうしなければ、どこかの男のように恐怖に負け、狂い、百鬼夜行になまくら刀一つで飛び込んでしまうかもしれない。

やよいの姐さまのように、儚んで首を描き切ってしまう、かもしれない。


柔らかな布団の上で、膝をついて向かい合うこの状況。そんななかでなんと情けない誘い方だろうかと、もはや涙も出なかった。

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妖し宿 伊川 @197333

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