第一夜

スズランの客は珍しく独り者のようだった。そしてさらに珍しいのはその若さか。年若いスズランがそう思うのだから大概だ。

宿の年齢層は往生間際の五十、六十が大半だ。物の怪の災が広まってからは若い客も増えたが、それにしても、三十は到底いってないように見える。


面長の顔にほっそりとした目が特徴的な男だ。眉も目に合わせるように細く、薄墨を小筆ですぅっと流したようだ。おまけに袖から覗く腕や指も、筋の浮かぶ細いものだから、遠目では背高の女性とも見紛う容姿である。

充てがわれたのは一人にはやや広いだろう十畳の本間。そんな中、脇の窓辺にゆったりと腰掛ける彼は、際立って儚げに見えた。


男は礼をしたスズランを見て、憮然とした。

「なんだ、部屋付きって」

その問いにスズランは虚をつかれ、男をまじまじと見入ってしまった。素直に「お泊まりの間、お部屋に付いてお世話をいたします」と述べると、男はふうんと相槌を打った。


そのまま窓の向こうに視線をやってしまったので、微かに困惑する妹たちに目配せをして、配膳をさせる。男の側に酒と小鉢を並べると、妹たちはささっと襖の向こうへ消えていった。

スズランは男の側ににじり、盃を手渡す「一番小さいのになさいますか」そう聞いている途中で、男がさっさと盃を受け取ったので、スズランは了承ととって酒を注いだ。

男は舐めるように酒を口に含ませる。ぴくりと柳眉が揺れた。

「いかがなさいました?」

「つんとする」

スズランはあれと首をかしげる。この酒は甘口のものだったはず。下戸なのだろうかと思ったが、男はぐいと盃を空にして、首を傾げ、もう一杯と請うた。

「甘いのに辛い。つんとするのに舌に柔らかい」

「……お酒ですから」

もしやと思い、恐る恐るそう述べると「ふうん」とまた相槌が落とされた。

やはりこの男、酒を飲むのは初めてらしい。若いとは思っていたが、ここまでとは。スズランは驚きについ笑いそうになって慌てて俯いた。口元を袖で隠し、誤魔化すように、酒の名を告げる。

「桃の香りが付いているでしょう。北で実を凍らせて作ったお酒なんです」

「桃?」

「ええ」

男はじっと無言でスズランを見つめた。何かおかしなことをしただろうかと困惑するスズランに、男はそっと指を向けた。

髪に挿している花だとすぐに気づく。

「店の人たちは皆、その花をつけているな。門のところにもたくさん飾ってあった」

「ええ、桃は魔を払うとされておりますから。鬼も寄せ付けないと」

「鬼?」

男は細い目を開いて反応した。

「ここ妖し宿は、物の怪を避けるために作られた宿なのです。鬼を魔を物の怪を、忘れるための夜を過ごす宿なのです」

スズランはそう説明しながら、男の向こう側、床に置かれた荷に視線を滑らせた。

随分大きな荷は砂や埃で黒ずんでいる。しかし大きさに反してそう中は入ってなさそうだ。その傍らには笠が立てかけられている。

「お客さまは、旅のお方?」

突っ込んだことを聞いては叱られてしまうだろうか。どきどきしながらスズランが問うと、男は初めて相好を崩した。

「そうだ。遠く西の山をいくつも下りてきた。名を高見という」

「……」

「ここはただの泊まり宿ではなかったのか。鬼を、寄せ付けないと。物の怪を忘れるための場所なのか」

くふくふと満足そうに笑う高見に、スズランはすっかり緊張を解いていた。

初めての客がこんなにも歳近く、無邪気な御仁とはなんと幸運だろうか。

「スズランといったか、いろいろ教えておくれ。物の怪とはどんなものなんだ」

酒の肴にするには恐ろしいことを聞く。


スズランは先に小鉢を勧めた。よほど腹が減っていたのか、それとも気性か、二口三口でペロリと平らげてしまったので、スズランは慌てて奥に控える妹たちに追加の膳を頼んだ。




その後に運ばれる食事を、高見はぽんぽんと口に放り込み咀嚼していく。食べ始めると酒にはあまり手をつけずひたすらに食べ続けた。

暫しして、スズランが冷や汗まじりに「まだお召し上がりになりますか?」と問うと、高見はうーんと考えるそぶりを見せたのち「いや、お腹いっぱい」と笑った。スズランは内心、心底安堵して、膳を下げ台を拭いた。止めなければいつまでも食べ続けてしまいそうな空気だった。あの細い体のどこに消えてゆくのだろう。


食べている間も、高見はスズランにさまざまな話を強請った。

旅人だという高見は、それにしては驚くほど世情に疎かった。スズランも客の話し相手をする程度にしか話題を持っていなかったが、それにしても何も知らなかったのである。


酒や桃の花が魔を払う事。


百鬼夜行があるから行燈に灯った後は外に出てはいけない事。


今日から始まる祭りのため、宿は年一番のお客が来る事。


お祭りが終わったら空が落ちて世が終わる事。


酒を飲むとつんとする。そんなことすら知らなかったこの歳上の男は、本当に赤子のように無知だった。





「西の棟で姐さまがまた一人、心中なさった」


そんなかすかな噂を耳が拾った。

首吊りだろうか、それとも毒を男からもらったか、小刀で掻き切ったのかもかもしれない。


姐さまの急逝に、胸の内でお祈りをしながら、スズランはたらいの黒く濁った水を、お勝手の排水溝に流す。代わりに少し白くなった雑巾を限界まで絞った。力を入れすぎたのか指が切れてしまったかと思うほど痛い。屈んだせいでしだれ柳のように揺れている編んだ黒髪を、慣れた手つきで留め直す。

ぺたりと自身の頰に触れてみる。雑巾を絞ったばかりの指は冷たく赤い。濡れているかと思った頰はまったくそんなことはなく、柔らかく指先を温めた。


スズランが初めての客ーー高見の部屋付きになって二日目のことだった。

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