妖し宿

伊川

プロローグ 妖し宿

「東の棟で姐さまが一人、心中なさった」


そんなかすかな噂を耳が拾った。

首吊りだろうか、それとも毒を男からもらったか、小刀で掻き切ったのかもかもしれない。


顔も知らぬ姐さまの急逝に、胸の内でそっとお祈りをしながら、スズランはたらいの黒く濁った水を、お勝手の排水溝に流す。代わりに少し白くなった雑巾を限界まで絞り、とんとんと腰を叩いて一息。若い肌に似合わぬ老成としたその動作は、しかし妙に馴染んでいた。屈んだせいでしだれ柳のように揺れている編んだ黒髪を、慣れた手つきで留め直す。


厨の中に入ると、むわりと白い湯気に出迎えられた。お勝手の扉のすぐ側では、夜の準備のため、姐さまが一人、七輪の傍らに跪いている。

「やよいの姐さま、終わりました。たらい、奥に片しますね」

水で冷えて赤々とした手を拭いながらら、スズランは姐さまの一人にこうべを垂れた。骨の大きな腰を下ろして汗をかき、七輪に向かうやよいの姐さまは、ちらとスズランを一瞥し視線で頷く。ちろちろと七輪の奥が踊っている。手は別物のように冷え切っているが、厨は幼い七輪の熱だけではなく、大鍋の蓋ををぐらぐらと揺らす出汁や鉄瓶に入れられた酒の匂いと熱を、梁や柱まで染み込ませている。


酔いそうな熱を惜しみながらも、スズランはせかせかとその場を後にした。廊下に出ると、春になりきれない夕風が開け放たれた窓から入り、かかとが冷える。


今日からの五日間は夜通し続く祭で、宿の女は目を回す。休憩する暇はない。どこそこから働く女たちの声がする。かんかんと高い声だが、長年の染み付いた気だるさをどこかに滲ませている。


女たちはこれから着飾り、夜になれば客を取り、酒を注ぐのだ。桃の香を強く焚き、物の怪を恐れる夜から、目をそらすように夜通し遊ぶ。そして時には恋をして、たまに男と首を吊る。


「妖し宿」


それが物の怪の災を避けるために造られた、スズランたちの職場の名だ。遊楽街に三棟連ねる、街でも大きな宿である。


スズランが今いる棟は西の棟。まだ日は落ちていないが、空は紫を滲ませている。その紫には家路につく鳥が、黒い点になって飛んでいた。盆地に作られた遊楽街を、ぐるりと囲む山々、その中腹に迫り出すように建てられた妖し宿は、小さな街がよく見渡せる。気の早い火付けが街の行燈に一つ二つと赤を灯していた。


スズランはこの街、この宿で育った。

たっぷりとした黒髪を編んで右肩に流している。普段は頭のてっぺんに金物の髪飾りをひとつ。背は低くはないが、姐さまのようなたっぷりとした柔らかさはまだ持っていない。

唯一姐さまたちが認める美点がスズランにあるとしたら、それは花にも負けぬ赤い紅い唇だ。その赤はスズランの肌を白く見せ、ぽっちりとした瞳をなお黒くしている。


スズランは今日の晩、いつもの髪飾りの横に、桃の花を挿す。祭の始まりと共に、宿の女になることが決まった子であった。





街の行燈が灯り、赤い列が数珠玉のよに並ぶ時刻。スズランはすらりとふすまを開いた。ヘリの縁にかすかに手を当て頭を低くする。傍には二人、妹分が盆を抱えて控えている。


「ようこそ、妖し宿へ。私、この部屋付きをさせて頂きます。スズランと申します。どうぞ、空が落ちるまで共にお側に置いてくださいませ」


昨晩、寝台でなんども口の中で唱えた口上を淀みなく言い、頭を上げる。口の中はからからと乾いて詰まるようだったが、それだけは悟られぬと艶を塗った赤い唇で弧を描く。かさりと髪に挿した桃の花が揺れた。

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