白姫草子

さいこ

第1話

「あなたを迎えに来た死神です」

 不意にどこからか現れた彼がそう言った時、私は妙に納得してしまった。


 彼はおとぎ話に出てくる死神とは違って、黒いローブも大きな鎌も持っていなかった。爽やかな空色のシャツにベージュのチノパンという純朴な服装は、どう見てもお見舞いに来た普通の好青年である。


 だから、彼が私のいるあたりで立ち止まった時、私はこんな知り合いがいたかしらと思ってしまった。隣のベッドにいる里香さんの方を見やっても、彼女はこれだけ近くにいる彼に気づいていないようだった。


「あなたの他には、僕の姿を見ることが出来る人はいません」


 彼は私の隣に椅子を引いてきて腰掛けた。その所作に合わせて、今まで感じたことのない、どこか寂しい匂いがふわりと香った。


「私、死ぬんだね」


 私は里香さんの読書の邪魔をしないように、ひそりと言った。彼はそれに合わせて、静かに頷く。


「あと一週間といったところでしょう」

「そんなもんだよね」

「分かっていましたか?」


 彼は少し意外そうに聞いた。私は壊れ物を扱うようにそっと頷いた。


「死神さんは、死んだことある?」


 私がそう訊ねると、彼は首を横に振った。


「死を前にするとね、もう死んじゃうなって感覚があるんだ」

「なるほど。確かに以前、私が見届けた他の方もそう仰っていました」


 私は少し辛くなって、彼の声を聞きながら窓の外に視線を向けた。


 外では淡い日差しが冬の澄んだ空気に希釈されていた。時折ケヤキの落ち葉がくるりと舞い上がり、道行く人は寒そうに身体をこわばらせている。白黒の景色が、紛らわせるつもりだった寂寥感を一層かき立てるような気がした。


「全ての生物はやがて命を還します。どうかお気を落とさず」

 彼は優しい声で言った。

「うん、ありがとう」

 私はそう答えるので精一杯だった。


「何か成し遂げておきたいことなど、ありますか? お手伝い致します」

「優しいんだね。死神ってもっと問答無用で冷徹なものかと思ってた」

「そういう死神もいます」

「そっか。じゃあ、私はキミが死神でラッキーだね」


 そう言って視線を彼に戻すと、彼は少し頬を緩ませた。私が不思議そうにしてみせると、彼は微笑んだまま言った。


「いえ、死神を目の前にしてラッキーと仰る方はなかなかいませんでしたので」

「確かに、それはそうだね」


 言われてみると何だかおかしくなって、私もつられて笑った。笑ってみて初めて、それまで表情を強ばらせていたことに気がついた。


「まさに花の咲くような笑顔ですね」


 私たちはそうしてひそひそと笑い合った。そうしているうちに、陰鬱とした気持ちが少しずつ溶けて消えていく心地がした。


「それで、何か成し遂げておきたいことはありますか?」


 彼は柔らかい表情のまま聞いてきた。少し気が楽になった私は、おどけたように困ってみせた。


「でも私、ここから動けないから……」

「僕がお手伝いしますよ」

「うーん……」


 彼の提案はありがたかった。でも今更ここを抜けて何かしたいことがあるかと言えばそういうわけでも無かった。私はしばらくやり残したことがないか考えていたが、やがて隣のベッドに目をやった。本を読んでいたはずの里香さんはいつの間にか眠っていた。


「……里香さんの退院を見届けたい」


 私は雫が落ちるようにポツリと言った。

 彼も私に倣って里香さんをみた。


「そちらの彼女ですか?」

「うん、そう。里香さんっていうの」


 彼女の寝顔は、まるで女神が眠っているかのように優しくて、無垢故にどことなく儚かった。


 彼女はよく私に話しかけてくれた。私から話をすることはあまりなかったが、彼女の話を聞くのはここに来て一番の楽しみになった。

 読書が好きだということ、今はファンタジー小説を読んでいること、結婚して息子もいること、息子はサッカーが好きだということ、そういったことを楽しそうに話す彼女は、とても素敵だった。


「とっても優しい人なんだよ」

「はい」

「私に先がないなら、里香さんが元気になって行くところを見たいな」

「承知しました」


 彼はそう言ってゆっくり立ち上がった。


「また明日来ます。必ずあなたの助けになりますよ」

 私が止める間もなく、彼は足音もなく歩き去ってしまった。


 彼が去ると、部屋には私と里香さんだけになった。向かい側にもベッドはあるのだが、そこにいたおばあさんは一昨日亡くなってしまっていた。今はおばあさんの少ない荷物はすべて引き取られ、清潔なベッド周りには残り香すらない。そのことが却って、おばあさんの存在を思い出させた。


 彼女のところにも、死神さんが来たのかな。


 私はもぬけの殻になったベッドを見つめて、ぼんやりと考え事をした。

 私も、いよいよか。

 どれだけ考え事に打ち込もうとしても、耳鳴りのするような寂寞からは逃げられそうになかった。




 あの日から、死神の彼は毎日来てくれた。


 とは言っても、特に何をしたという訳ではなく、ただ話し相手になってくれたり、身の回りの世話をしてくれただけであった。それでも見舞いに来るものなどいない私にとっては、とてもありがたいものだった。


 彼を認識することが出来ない里香さんは、時折彼のいる前でも私に話しかけてくれた。

 そうすると決まって、彼は私と一緒に彼女の話を聞いてくれるのだ。


 私は日に日に弱っていったが、彼のおかげもあって明るく余生を楽しむことが出来ていた。加えて、私と対照的に里香さんの体調が良くなって来ているのも嬉しかった。


 この前だって、容態を見に来た先生と里香さんが嬉しそうに会話していた。難しいことはよく分からないが、会話の端々に退院だとか、良好だとか好ましいワードが散りばめられていたのは分かった。


 彼がいなくなって、里香さんも眠ってしまう夜は辛かったが、自らの死を目の前にしているとは思えない幸せな日々が過ぎていった。


 そうして、彼が初めて姿を見せてから六日が経った昼のことだった。


 その日は珍しく、彼が姿を見せなかった。朝から起きていた里香さんも、やがていつものように昼寝を始めてしまったものだから、私は暇を持て余していた。


 すると、軽い音を立てて病室の扉がノックされた。返事を待つ間もなく、ガラガラと扉が引かれた。

 入ってきたのは、還暦前後くらいであろう婦人と、幼稚園児くらいの男の子だった。

 私は、すぐに里香さんのお母さんと息子さんだと分かった。彼女が以前、写真を見せてくれたのだ。


「ママー、どこー?」

「しーっ、ママ今寝てるから静かにね」


 案の定、二人は里香さんの元へやってきた。里香さんを起こさないようにそっとベッドの側に来て、寝顔をのぞき込んでいる。


「顔色も悪くなさそうね」


 お母さんがそう言うと、息子さん――ゆうきくんと言ったか――はヒソヒソ声で言った。


「ママ、元気になるかな?」

「もうきっと元気よ」


 お母さんはゆうきくんに倣ってヒソヒソ声で答えた。ひとしきり寝顔を眺めると、お母さんはゆうきくんを椅子に座らせ、里香さんの荷物を整理し始めた。


「このお花も、枯れちゃいそうなら捨ててしまおうかしら」


 とお母さんが花瓶に手をかけたところで、カランカランと小気味の良い音が鳴った。思わず音の鳴った方を見ると、いつの間にかいた彼が立っていた。

 どうやら里香さんのプラスチック製のコップをうっかり落としてしまったらしい。やっちゃった、とばかりにあざとく舌を出す彼からは、少しも申し訳なさを感じなかった。


「ん……お母さん?」

「あ、里香。起きちゃったね」

「うん……あ、そのお花捨てないで」


 里香さんがそう言うと、お母さんは手元にある花瓶の方を見た。


「太一さんが持って来てくれたお花なの」

「あら、そうだったのね」

「もう明日には退院だから、明日までとっといて」

「パパ来てたの?」

「そうよ、お仕事の間に来てくれたの」


 里香さんはゆうきくんにそっと笑いかけた。上品で儚くて、とても幸せそうな笑顔だった。


「御家族によく愛されているんですね」


 いつの間にか側に来ていた彼はそう言った。今日も相変わらず寂しい匂いがした。そういえば少しお香に似てる匂いかもしれない。


「幸せそうで、こっちまで嬉しくなるよ」


 私は小さな声でそう答えた。

 里香さんはお母さんに手伝ってもらいながら退院の支度をし始めた。退院したらどうしようか、遊園地に行こうね、などと声を弾ませては、時折無邪気に口を開けて笑っている。


「いよいよ、明日ですよ」


 彼は和やかな空気に言葉をそっと置くように呟いた。

 いよいよ明日、というのは里香さんの退院のことなのか、私の最後の日のことなのか、敢えて聞く必要はないように感じた。




 里香さんが最後の身支度を済ませたのは、翌日の昼頃だった。

 身の回りのものをキャリーバッグに詰め込んだ里香さんは、出ていく前に私のところへやってきた。

 いつも彼が座っていた椅子を引いて、私の隣に座ると、周りに誰もいないことを確認してから話し始めた。


「ありがとう、あなたがいてくれたから私は元気になれた」

「私の方こそ、里香さんがいてくれて楽しかったよ」


 もちろん、実際には里香さんが頑張ったから元気になれたのは分かっている。それでも、日夜隣で里香さんを応援していた私には、この上なく嬉しい言葉だった。

 里香さんはいたわるような優しい眼差しで、私にそっと呟いた。


「あなたにもきっと私の言葉が伝わってると信じてる。ずっとお話聞いてくれて、ありがとう」


 彼女はそう言って私を優しく撫でると、ゆっくり立ち上がった。


「そろそろ行かなくちゃ。またどこかで会えたら、今度はあなたのお話も聞きたいな」


 名残惜しそうに何度も後ろを振り返りながら、去り際に手を振って彼女は出て行った。彼女のいなくなった病室には、私一人。


 私はそっと天井を見上げた。

 思えばこの一週間は、里香さんと死神さんのおかげで私の生涯のうち最も幸せな一週間になった。


「そろそろ時間です」

 相変わらず音もなく近くに来ていたのだろう、死神さんの声だ。


「……うん」

「思い残すことはありませんか?」

「……大丈夫。今までありがとうね」


 彼は頷いて、そっと私の体に触れた。


「では……行きましょうか」


 私の花びらが静かに舞って、里香さんのベッドに落ちた。

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