終幕 旅の終わりと、始まりと
ざあ、と。
風が世界を薙いだ。
澄んだ空気が遠くから運ばれて、少女が目の前で深く息を吸い込む。
そして、その小さな手を掲げて一言。
「ただいま、イア」
目の前に聳える、白い大樹に向けてそう宣言した。
立派な幹と、幾つもの枝が絡まるようにして伸びているその先には、緑の葉が生い茂って、風で揺れては葉擦れの合唱を聞かせてくれる。
この樹は、これからもっと大きくなるだろう。そして、その恵みで大地を満たしてくれるだろう。
少女が振り返り、不満そうな顔を見せる。
「ほら、ヨハンさんは何かないの? 折角帰ってきたんだからさ」
「特にはないな。だがまぁ、これでも大分感傷に浸っているんだぞ」
「そうは見えないけどなぁ……」
「長い旅の終わりだ。多少の疲れもある」
「……あはは、確かに」
少女、カナタが笑う。
長い旅が終わった。
二年に渡るその旅路を無事に終えてこの地に戻ってこれたのは、この世界でヨハン達の帰還を待ち続けてくれた人達のおかげだった。
イアが、その道標となってくれていた。
エレオノーラの声はずっと、ヨハン達に正しい道のりを教えてくれた。
そしてアーデルハイトは、確かに彼女達にそれを伝えてくれていた。二人はきっと戻ってくるから、希望を捨ててはいけないと。
多くの奇跡が絡みあい、二人はこの地に立っている。
「それに、残念だがまだ終わりじゃない」
「……そうだね。みんなには会って行きたかってけど」
「落ち着いたら手紙でも出せばいい。今は、同じ大地の上に生きているんだからな」
もう一つ、決めていたことがある。
彼等は英雄にはならない。
世界を救った救世主にも。
だから、身を隠すことにした。オルタリアを離れて、誰も知らない場所に。
ほとぼりが冷めて、誰もが二人の名前を忘れるその時まで旅をすると決めていた。
それは、ずっとヨハンが望んでいた未来。
イブキが辿れなかった道。この世界に何があるのか。色々なものを見て、知って、そしてこの世界に来てよかったと思えるようになる。
彼女との旅はもう終わってしまったが、ここから改めて始めようと思う。
何の使命もなく、誰かのためにでもない。
自分のために、何の当てもなく彷徨う旅路を。
「しかし……」
両腕を上げて、この世界の風を全身で感じているカナタに向けて、声を掛ける。
「本当にいいのか? 別にお前はオルタリアに残っても……」
「今更だよ、今更。二年間で何度も話したじゃん」
「二年間も毎日一緒だったんだ。少しは離れたくはなりそうなものだがな」
「不思議だよねー。全然そんな気にならないし、むしろもっと一緒に旅したいって思うんだもん。……これから、二人で色々なものを見るためにね」
「……そうだな。なら、まずは空に浮かぶ大陸だが」
「……二年前似たようなの見た気がするけど」
神の座に至る道がそうと言われればそうだが、きっとイブキが想像していたものとは違うだろう。
この世界は広い。進む先には、無限の謎が待っていて、行く道は絶えることはないだろう。
「イアに挨拶は済んだか? それなら適当な街で物資を揃えて……」
言葉を途中で切った。
顔を向けたカナタが、ぽかんと口を開けて固まっていた。その視線は、ヨハンの後ろに向けられている。
「何を妙な顔をしているんだ、お前は?」
「ヨハンさん。二人旅は無理みたいだね。ちょっと残念だけど、これはこれで楽しくなりそう」
「何を……ああ、そう言うことか」
同じ方向に視線を向ける。
「よっちゃん。黙って行こうなんて許さないからね」
「まったくです。女の子を置いて逃げようなんて、とんだくず野郎ですね」
「わ、わたしは別にくずでも大丈夫ですよ! しっかり付いて行きますからね!」
「……その、ヨハン殿。恥を忍んで頼む。妾もそなたと共に行ってよいか?」
幾つもの声。
既にヨハンが来ることも、そしてどんな行動を取るのかすらも予想されていたということだろう。
「……読み負けたな。別に来るのを拒むわけではないが」
「でも、面倒だって思っていたのも事実でしょう?」
すぐ傍で、風が舞う。
箒に乗った少女が、いつの間にか目の前に降り立っていた。
カナタと再会の握手を交わしてから、二人で顔を見合わせてヨハンから少し距離を取る。
待ち受ける少女達の少し手前で立ち止まって、カナタとアーデルハイトは同時にヨハンへと手を差し出した。
「貴方のやろうとしていることなんてお見通し。逃がすと思った?」
「あはは、賑やかな旅になりそうだね」
深く、深く溜息を吐く。
「……俺は旅をやめるつもりはないぞ?」
「ええ、判っているわ」
アーデルハイトが軽く頷く。
そして、少女達を振り返って、それからまたすぐにヨハンの方を見た。
「まずは旅をする。それからのことは、またその先で考えましょう。……時間は沢山あるのだから」
どうやら、もう観念するしかなさそうだった。
自分がやってきたことの代償を、まさかこんな形で支払うことになるとは思わなかった。いや、これが人によってはこの上なく幸せなことであると言うのも理解してはいるのだが。
「まぁ、仕方がないか」
「諦めなさい」
「話もまとまったみたいだし、行こうか」
そう言って、カナタが一歩を踏み出す。
これから向かう先は、未知の果て。
誰も知らない、しかし確かに存在する世界の先。
長い時を経て、ようやく踏み出すことができた。
無限に広がる彼方の大地へと。
▽
「こうして女たらしは自分が手を出した女達に囲まれて、修羅場な旅をすることになったのでした。めでたしめでたし」
すらすらと、細い指に握られたペンが紙の上をなぞって行く。
世界樹と呼ばれるイアの枝の上。その太い一本に身体を預けるようにして、片手に持った本にペンで文字を書き込む女が一人。
アルスノヴァは、彼等を見送るためにここに来た。そして喧しく去って行くのを見届けてから、二年間書き続けた本の最後の一言をそう締めくくった。
「……いや、この終わり方はあんまりよくないわね」
形の良い眉を顰めて、手の中でペンをくるくると回転させる。
これは、千年前にアルスノヴァがこの世界にやってきてからの追想の日々。
そしてカナタと再会して、虚界を倒し、彼等の帰還をもって完結する物語だった。
これから先を書く必要はない。後は、彼等自身が面白おかしく過ごしてくれることだろう。
「実際、修羅場にもなりそうにもないのだけれどね」
片手を頬に当てて、彼等が去っていった方角を残念そうに見つめる。
個人的にはそうなってくれた方が面白いのだが、彼女達は妙なところで聞き訳がいいし、ヨハンもヨハンでそうならないように立ち回ることだろう。
「あの争奪戦は、最終的には誰が勝つことになるのやら」
一人で意地悪く、唇を歪める。
あの男が苦しむのを見るのもなかなかに面白そうだ。
こっちでやることが終わったら、適当に冷やかしに行くとしよう。魔人たるアルスノヴァにとって、距離などは大した問題にはならないのだから。
「締めの言葉は、また後で考えるとしましょう。それから、タイトルも考えないと」
ぱたんと、本を閉じる。
彼女が書き残した、一冊の冒険譚。
別段、それを誰かに見せるつもりもない。何年か後に自分で読み返して、当時の思い出に浸るためのものだ。
そのため、アルスノヴァとカナタの活躍は五割増しにして書いてある。
指を立てて、イアに寄りかかりながら空を見上げる。
そうして幾つもの名前が、頭の中に浮かんでは消えていく。昔読んだ漫画や小説の題名を繋ぎ合わせていくのだが、どうにもパッとしない。
「どうせならカナタを題名に使いたいわね」
一先ずは、それが決まった。
カナタと言う言葉を中心にして、また名前を組み立てていく。
幾つもの言葉を組み合わせてはばらして悩むこと小一時間。
ようやく天啓が降りてきて、アルスノヴァは閉じられた表紙に向けて、すらすらとペンを走らせた。
その物語の名は――。
「彼方の大地で綴る」
彼方の大地で綴る しいたけ農場 @tukimin
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