エピローグ その五
事が起きる数時間の話だ。
世界樹の動きを見守っているアーデルハイトが魔法で声を届けるよりも早く、半ば勘を頼りに動いている少女達がいた。
「ラニーニャ! 早く、急いで!」
「別にそんなに焦らなくても、今から出れば夜明けにはオル・フェーズに付くでしょうに」
「パパにばれちゃうかも知れないじゃん!」
「ばれませんって……」
騒がしい声と、気だるげな声。
二つの少女の声色は混じりあって、既に日付けが変わった夜の屋敷の中を何とも姦しく彩っている。
豪華な家具が並ぶ二階の部屋。その主たる金色の髪をした小柄な少女が、片腕に荷物を持って窓を開け放つ。
意気揚々と飛び出そうとするその少女の片腕は、長い服の袖がだらりと垂れ下がっているだけで、何もない。
隻腕の少女をその一歩後ろから見守る、浅葱色の髪をした細身の女性は、短髪だがその前髪は右側だけが不自然に長く伸ばされている。
彼女が動くたびにその隙間から覗く顔の右半分には酷い火傷の跡があり、特に右目は完全に潰れていて開きそうもなかった。
「気を付けてくださいね。片腕じゃ、危ないですよ」
「大丈夫だって。もう二年だよ? 慣れっこ慣れっこ! モニ!」
彼から貰った相棒の名を呼んで、半透明の半液体生物が二階から地面に降りていく。そして広がってクッションのように変わったのを確認して、片手で窓の縁に手を掛けて身を乗り出した。
「クラウディアさん」
「だからなに?」
「焦り過ぎです。手紙、置いていくんでしょう?」
「あ、そうだった」
モニに一度ウィンクをして、部屋に戻る。
二年前から書くことはなくなった、テーブルの上に広げられた紙の前に立つ。
片腕で筆をとって、そこにさらさらと手早く文字を書き入れていった。
「これでよし」
「……いいんですか、これで?」
紙の中心には、たった一言、『お嫁に行きます。今までありがとう、パパ、愛してる』とだけ書かれていた。
「これで全部伝わるでしょ」
「……それはそうかも知れませんけど、恋する乙女はなんとやら……。まだ本当に会えるかも判らないのに」
「会えるって」
少し高い位置にあるラニーニャの顔を見上げて、クラウディアは自信満々に宣言する。
「アタシの勘がそう言ってる。船乗りの勘は当たるんだよ?」
「二年間、船になんかロクに乗ってないじゃないですか」
「じゃあ、商人の勘!」
無茶苦茶だった。
暴走乙女になにを言っても聞きはしない。判ってはいるが、だからと言ってされるがままと言うのも悔しい。
「それに、ラニーニャも会いたいでしょ?」
真っ直ぐに、目を見つめられる。
純粋に輝く翠色の瞳に覗き込まれると、なんだか照れくさくなって、ラニーニャは無意識に視線をずらしていた。
「……それは、まぁ」
「へへっ、でしょ? まぁ、正妻の立ち位置は譲れないけど、ラニーニャだったら愛人の地位は上げてもいいよ」
「……はぁ。完全に浮かれていますね。そもそも、正妻になれるとも限らないでしょうに」
「大丈夫。アタシが全員倒すから」
「力尽くで済む話なんですか、それは……。そもそも、それならなおさら大変でしょうに」
「そこはほら、ラニーニャも手伝ってくれるから」
「ラニーニャさんが途中で裏切って独占優勝を狙う可能性だってありますよ」
「えっ?」
驚く顔をしたクラウディアの横を、するりと抜けていく。
そして先んじて窓枠に手を掛けて、足を掛けて外へと半身を躍らせる。
「ほら、行きましょうか。何にせよ、まずは捕まえてからですよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
夜の闇の中に、騒がしい声が舞う。
果たして屋敷の者達は気付いているのかいないのか、追手が彼女達を追いかけることはなかった。
この高揚は子供の時によく似ている。
こっそりと夜中に家を抜け出して、夜の街へと飛び出していった日のことだ。
生憎と、すぐに両親に掴まって怒られたのだが、今日はもう違う。
誰も、彼女等を追うことはできない。誰も捕まえることはできない。
「二人にあったら、なんか言うこととか決めてる?」
息を切らせながら、二人は走る。
夜の闇に沈むハーフェンの街を突き抜けて。
「特には。おかえり、ぐらいですかね。クラウディアさんは?」
「怒る……って言いたいところだけど、まずは感謝かな」
「あら、二年前は怒り心頭だったのに」
クラウディアは、彼等が勝手にいなくなったこと、そして自分がそこに付いて行く力がなかったことに怒りを燃やしていた。
どうやら、二年間の歳月はその感情にも大きな変化を与えてくれたらしい。
「二年も経てばね。アタシも大人の女になったったこと」
「あんまり身長は伸びてませんけどね」
「ラニーニャの胸も全く育ってないよね。背はちょっと高くなってるけど」
「足が滑りました」
「ふぎゃ!」
走りながら足を掛けられて、クラウディアの身体が道端に転がる。
寸でのところでポケットから飛び出したモニが彼女の身体を受け止めたため、怪我はない。ラニーニャもそれを判った上でやっていた。
「な、何すんだよ!」
「乙女のデリケートな部分に触れるからそうなります。これだからロリ巨乳は」
「そう言えばその言葉の意味まだ聞いてなーい!」
「言ったら怒るので、教えません」
ラニーニャが加速する。
それを追いかけるために、クラウディアも足を早める。
騒がしい二人の旅立ちは、彼女達がハーフェンの外れに待機させている馬のところへと辿り付くまで、夜の街中を賑やかし続けていた。
▽
そんな騒がしい少女達が走りだしてから、少し後。
朝の光を目に受けて、金色の長い髪をした少女の瞼が小さく動く。
煩わしそうに目の辺りを震わせてから、彼女の意識は急激に覚醒する。
来客用の簡素な寝具から跳ねるように身体を起こすと、窓辺に近付いて僅かに開いていたカーテンを全開にした。
そして、両手を窓に掛けて、一気に開け放つ。
早朝の澄んだ風が部屋の中に入り込み、中の空気を一新していく。
その心地よさに目を細めていると、背後でもぞもぞと人が動く音がした。
「……なんですの? こんな朝早く……」
目を擦りながら、その人物がベッドから身体を起こすと、緩くカールした薄紫色の髪がさらりと揺れて、滝の流れのように寝具の上へと流れていった。
「おはよう、シルヴィア。昨日はご馳走様」
「……別に、構いませんわ。短い間とは言え仕事を共にした貴方への、餞別ですもの」
「それから、もう一つ頼みたいことがあるのだけれど、いいかしら?」
後ろを振り返る。
この部屋の主である、シルヴィア・イェーリングが何事かと首を傾げていた。
「髪を切って欲しいの。二年前と同じ髪型にね」
それから少しして、支度を整えた二人は緑が広がる中庭にいた。
椅子に座ったアーデルハイトの髪を、その後ろからシルヴィアが鋏を入れて綺麗に切っていく。
眠気を誘う心地よい音を聞きながら、アーデルハイトは少し斜め上、空を眺めていた。偶然だが、彼女が今向いている方向は世界樹と呼ばれる木がある方向だった。
風が吹いて、草木が揺れる。
まるで誰かが喜んでいる歓声のような音が、その方角からは僅かに聞こえていた。
それは、決して誰にでも聞こえるわけではない音。
大気ではなく、世界に満ちる魔力を揺らす、彼女の訴える、声なき声。
「行方不明になっていた貴方が、一年前に急に現れた時には驚きましたわ」
丁寧に鋏を入れながら、シルヴィアがそう切りだした。
「別に姿を隠していたわけではないのよ。ただ、少し修行をしていたから」
「ええ。嫌と言うほど、その成果は見せていただきましたわ」
少しばかり、拗ねたようにシルヴィアがそう言った。
あの戦いの後、アーデルハイトはアルスノヴァに弟子入りするような形で魔法を学んでいた。
彼女が操る魔法。それは千年前にエイスによってもたらされた、この世界で人が生きるために振るうための力。
その膨大な知識と力を受け継ぐのに、一年の歳月を有した。いや、厳密にはそれだけの時間を経ても全てを知れたわけではない。
「一年間、楽しかったわ。それなりに」
「ええ、こちらも。貴方と一緒だと退屈はしませんでしたわ」
それから、シルヴィアが働いていたオルタリアの王立魔法研究所で一年間働くことにした。少しは世間を知っておこうと思ったことと、お金を溜めるために。
驚異的な魔法の知識を持った少女の存在は魔法の研究と発展に大きく寄与し、アーデルハイトが打ち立てた成果でこの国の魔導研究は十年は進んだと言われている。
「結局、友達はできませんでしたけれどね」
「……いいのよ、別に」
――そちらは相変わらずで、研究所内でもシルヴィアや時折やってくる昔からの知り合いぐらいとしかまともに口を利いていない。
もし、アーデルハイトに協調性があったとしたならば、研究は更に二十年でも三十年でも進んでいただろうと、誰もが口を揃えて言っている。
そして先日、そこの退職した。
元々一年限りと言う話ではあったし、何よりもアーデルハイトにはこれからやるべきことがある。
そして昨晩は、同僚であったシルヴィアとささやかなお別れの会合をしていたということだ。
「……世界が喜んでいますわね」
「……それはそうでしょう。この大地を護った人達が帰ってくるのだもの」
それは、魔導師であるシルヴィアにも感じられたようだった。
彼女だけではなく、魔法を操る者ならばそれを感じることができるだろう。
この世界を見続けて、一人の少女をずっと護ろうとしていたその樹の喜ぶ笑い声が。
「やることが沢山あるわ。まずは知り合いに知らせて回らないと」
「……意外ですわね。てっきり、独り占めするものかと」
「……貴方がわたしをどう思っているか、よく判ったわ」
横目でシルヴィアを睨む。
そんなことを話している間に、足元には太陽の光を反射する、無数の金色の髪が散らばっていた。
「……ありがと」
髪が服に付かないようにと被っていた布を取り払って、ひょいと椅子から立ち上がる。
頭が軽い。二年間延ばし続けていた髪を切ったのだから、それも当然だった。
別に理由があったわけではなく、ただ何となく切らなかっただけではあるのだが、こうして纏めてなくなると少しばかり名残惜しさもあった。
「うん。二年前と何もお変わりなく。身長も」
「失礼な。ちょっと伸びたのよ」
「まったく判りませんわ」
伸びたとは言っても、誤差程度のものだ。
その間にシルヴィアの方が大きく成長して、二人の目線は二年前よりももっと合わなくなっている。
「これからもっと伸びるから、大丈夫」
「希望を持つのはいいことですわね」
「なんか引っかかる言い方ね」
腕を伸ばして、片手を広げる。
光の粒子が集まり、そこには愛用の箒が握られていた。
「……アーデルハイトさん」
その行動が何を意味するのか、お互いに判っている。
別れの時は近い。もう、アーデルハイトがこの場所に戻って来ることは当分ないのだろう。
勿論、これは今生の別れではない。きっとこれから先何度でも、会う機会はある。
だとしても、少女にとっては胸に重く圧し掛かるものだ。友達との別れと言うものは。
二年前それを経験したアーデルハイトは、それを嫌と言うほどに理解していた。
「また、遊びに来るわ」
「……ええ」
昨晩、言うべきことは言い尽くした。
お互いの愚痴から始まり、褒め合って、仕事の話をして、恋の話もした。
――これから歩む道の話も。
幾ら話しても、一晩では時間が足りない。
或いは、これが幾つの夜に伸ばされたとしても、その会話が尽きることはないのだろう。
友達とは、そう言うものだ。そうであると、アーデルハイトはここ数年で知った。
友と語りあう時間はもう終わった。
それは判りきっていたことで、お互いに名残惜しむ必要もない。
「それじゃあ、暫くの間、お別れね」
「……はい」
目が霞んでいるのは、アーデルハイトだけではないだろう。
シルヴィアもまた、その声が震えている。
別れに多くの言葉はいらない。
だから、次の一言で最後にしようと決めている。
箒を倒して、横向きに腰かける。
足を揃えたままの姿勢で片手を先端近くに置くと、箒がアーデルハイトの身体を乗せたまま浮遊する。
「またね、シルヴィア」
「……はい。また、お会いしましょう」
交わす言葉はそれを最後に、少女の身体が太陽の光と風を受けながら、空へと舞い上がって行く。
その飛び行く先は果たして何処になるのか、それは本人にすらも判らない。
少女は今、飛び出した。
二年前に捕まえ損ねたものを手に入れるため。そして、今度こそ絶対に手放さないために。
身体が蒼穹へと舞い上がる。
朝の冷たい空気が全身を突き刺して、その小さな身体が震える。
そして、少女は天空から見下ろす。
眼下に広がる、オル・フェーズの街。
地平線まで続く、緑の大地。
遠くに見る山の先にはいったい何があるのだろうか。何処を見ても、未知が溢れている。
辺りを見渡した視線が、一ヵ所で留まる。
そこには、一本の樹。
世界樹と呼ばれるようになったそれが、大地に強く根を張りその存在を主張していた。
「……それじゃあ、行きましょうか」
少女は金色の光のようになって、飛び去って行く。
やることが沢山あるが、全く苦ではない。
ずっとこの日を待ち続けていたのだ。そして、彼等が取る行動なんてもう予想がついている。
逃がすものかと、心に決めている。
待たされた人の想いを全力でぶつけてやる。シルヴィアに言われた通り本当は独り占めしたかったのだが、それはフェアではない。
それに、これはちょっとした復讐だ。
大勢に追いかけられるその姿は滑稽で愉快そうではないか。
それから先のことは、また後で考えればいい。今は、収集の尽きそうにない事態を楽しむことが第一だ。
悪戯っ子のような笑みを浮かべて、少女は空を駆けていく。
彼方よりの帰還者を迎えるために。
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