私の大好きなこの店で

無月弟(無月蒼)

私の大好きなこの店で

 降りしきる雨の中、商店街の一角にある喫茶店の軒先で私は泣いていた。

 季節は冬。小学六年生の私の小さな体を、冷たい空気と雨が容赦なく冷やしていく。けど、寒さなんて忘れてしまうくらい、私は悲しみで一杯だった。

 自分はこの世界で一番不幸だと思ってしまいそうなくらい辛くて、涙が溢れる。いっそこのまま消えて無くなってしまいたい。そう思った時、喫茶店のドアが開いた。

「お譲ちゃん、外は冷えるよ。中にお入り」

 最初、それが私に向けられた言葉だと気づかなかった。六十歳くらいのお爺さんがドアから顔を覗かせて、にっこりと微笑んでいる。

私は泣いていたことも忘れて、お爺さんに手を引かれながら店内に入った。

カウンター席に通された私は、酷く落ち着かなかった。喫茶店なんて入ったのは初めてで、どこか大人の雰囲気が漂うこの店は、子供の私には不釣り合いに終えた。

店内をキョロキョロと見ていると、お爺さんが飲み物の入ったカップを差し出した。

「寒かっただろう、飲んで温まりなさい」

「あの、私……」

 お金を持っていない。そう続けようとした時、お爺さんが言った。

「お金は良いよ。これはカフェラテと言って、とても美味しいものだから、飲んでくれると嬉しいな」

 そう言われ、私は恐る恐るカップを口に運んだ。

「……美味しい」

 思わずそんな言葉が零れる。これが、私が初めてこの店、『リメンバー』に入った日の出来事だった。


ここは商店街の一角にある喫茶店で、その名はリメンバー。私、水原彩がバイトしている店だ。

「彩ちゃん、コーヒーを一つ」

「はい、コーヒーをお一つですね」

常連のお客さんからオーダーを受け、キッチンへ行く。

「マスター、二番席、コーヒーお一つです」

「了解」

 マスターはそう言って笑う。いつもの風景だけど、何だかそれがとても心地よい。

 私がこの店に最初に入ったのが小学生六年生の冬。私はその日とても嫌なことがあって、雨の降る中店先で一人泣いていた。そんな私を見たマスターが店に招き入れて、カフェラテを御馳走してくれたのだ。

 子供というのは単純なもので、さっきまではあんなに泣いていたと言うのにカフェラテを飲み終わった時にはもう笑顔になっていた。

 あの時どうして泣いていたのかは、もう覚えていない。所詮は一杯のカフェラテで泣きやむ程度の事だったのだろう。だけどその日から、私はこの店が大好きになった。

 小学生の間は何だか入ってはいけないような気がしてたけど、中学に上がってからは足しげく通うようになった。

 リメンバーは何十年も前からマスターと奥さんが夫婦で経営しているお店で、二人とも私をとても可愛がってくれた。

お客さんがいない時、こっそり私をカウンターの中に入れてくれて、コーヒーや紅茶の煎れ方を教えてくれた事もあった。

 中学を卒業し、高校に入ったのを期に、私はリメンバーでバイトをするようになった。

 学校が終わればすぐに店に行き、夜八時までウェイトレスとして働いた。中学から通っていたから店のメニューは把握していたし、コーヒーの煎れ方も教わっていたから、私はすぐに馴染むことができた。失敗することもあったけど、そんな時でもマスターは優しい言葉をかけてくれた。

『失敗することは仕方がない。そこから学んでいけば良いんだよ』

 マスターに言われた通り、私は失敗する度に多くの事を学んで行った。やがてお客様にも顔を覚えてもらい、彼らと話すのもマスターに仕事を教わるのもとても楽しかった。

 マスターは仕事終わりの私に、いつもカフェラテを御馳走してくれた。もう子供じゃないのだから、コーヒーを注文することもあったけど、それでも一番好きなのはやっぱりカフェラテだった。あの日、泣いていた私を元気づけてくれた思い出の味だったから。

 月日は流れて、私は三年生になった。真剣に進路を考える時期になったけど、それでもリメンバーでのバイトは止めなかった。そして季節は冬。初めてカフェラテを飲んだあの日から、もう六年が経っていた。

「コーヒー、美味しかったよ」

そう言ってもらえるのが何より嬉しい。お客様はにっこりと笑い、私も笑い返す。

「ありがとうございます」

 この一言で更に幸せな気持ちになれる。こんな風にずっとここで働いていきたかった。なのに。

「でも残念だな。明日で店を閉めるなんて」

 この一言が私の心に影を落とした。でも、決してそれを顔に出してはいけない。

「私も残念です。良かったら、明日もまた来てください。美味しいコーヒーを用意して待っていますから」

「おう、ありがとう」

 お客様はそう言って店を出て行き、私は笑顔のままそれを見送った。

(良かった、ちゃんとできた)

 最後まで笑顔でいられたことにホッとしながらカウンターの奥へと戻った私に、マスターが声をかける。

「彩ちゃん、もうそろそろ上がる時間だね。カフェラテにする?それとも紅茶が良い?」

「えっと、今日はコーヒーをお願いします」

「わかった。ミルク多目だね」

 流石マスターは私の好みを良く知っている。けど私は、コーヒーを入れるマスターを複雑な気持ちで見ていた。

「はい。熱いから気をつけてね」

「ありがとうございます」

 息を吹きかけて冷ましながら、カップを口に運ぶ。やっぱりマスターの煎れるコーヒーは美味しい。そう思いながら、私はもう一度マスターを見た。

「マスター、奥さんの具合どうですか?」

「順調だよ。また彩ちゃんと一緒に働きたいって言うのを叶えてやれないのが残念だけど」

 私は胸が痛くなった。一年と少し前、奥さんが体を壊した。マスターは大したこと無いって言っていたけど、入退院を繰り返して、今は病院にいる。

 マスターはそんな奥さんの為に、店を閉めて環境の良い田舎に引っ越す事を決めたのだ。

 最初その話を聞いた時、驚きはしたけどなんだか実感が無くて。「きっと良くなりますよ」と言ったのを覚えている。

 だけど時が経つにつれて、だんだんと現実が見えてきた。もう今までみたいにリメンバーで働くことも、マスターのカフェラテを飲むこともできなくなるのかと思うと、無性に悲しくなってきた。

 でも、それを悟られてはいけない。マスターはとても優しいから、私が悲しいと知ったら、きっと気を使ってしまうだろう。

マスターも奥さんも、私が生まれる前からリメンバーにいて、ずっとこの店と一緒に生きてきた。きっと私よりもずっと、リメンバーの事が好きなはずだ。そんな二人が店を閉めると決めたのだから、私のせいで困らせるわけにはいかない。溢れそうな想いを飲みこむように、一気にコーヒーを飲んだ。

店を閉めるその瞬間まで笑っていよう。そう思った時、マスターが口を開いた。

「彩ちゃん、明日は八時に店を閉めようと思うんだ」

「八時にですか?」

 今が丁度八時。普段ならもう少し遅くまで営業しているのに。

「実は、食材に余裕がなくてね。なるべく在庫を残さないように発注したんだけど、足りなくなるかもしれないんだ。材料がないから注文は無理ですとは言えないだろう」

「ああ、そう言う事ですか」

 それなら仕方がない。けど、という事は明日の今頃には、もうリメンバーは店仕舞いという事か。

「彩ちゃん、後一日。よろしくお願いするね」

「はい、任せて下さい」

 私ははっきりとそう答えた。


 リメンバーも今日で閉店。私は憂鬱な気持ちのまま店を訪れた。冷たい空気が胸を締め付ける。けど、本当に寒さだけのせい?

こんなことで今日の接客は上手く出来るだろうか。そう思っていたけど、いざ始めると悲しむ暇もないくらい忙しかった。

 最後にもう一度訪れたい。そう思ってくれた人がよほど多かったようで、オーダーを取ったり調理を手伝ったりと大忙しだった。食材が足りなくなるかもしれないと言っていたマスターの言葉通り、最後の方はいくつかの食材が切れてしまった。

それでも来て下さった人達はコーヒー一杯、紅茶一杯を美味しそうに飲み、笑顔で店を後にしてくれた。やがて客足も少なくなり、とうとう閉店の八時となってしまった。

「ありがとうございました」

 最後のお客様を見送りながら、深々と頭を下げる。これで最後、そう思うと中々顔を上げられなかった。頭を上げてしまったら、夢のような素敵な時間が終わってしまうような気がして。そんな私を、マスターが呼んだ。

「おいで。カフェラテを煎れてあげる」

 躊躇いながらも頭を上げ、カウンター席に座る。その席は六年前、私が初めて座った席だった。

「はい。熱いから気をつけてね」

 いつも通りの言葉でそっとカフェラテを置くマスター。それを見て、自然と口が開いた。

「マスター、覚えていますか?私が初めてリメンバーに来た日の事を?」

「うん、覚えているよ。今日のような冬の寒い日、君は雨の中雨宿りをしていたね」

 覚えていてくれた。それはとても嬉しい事のはずなのに。何故だろう、切なさが溢込み上げてくる。

「あの時私は雨の中泣いていて、とても辛くて。でもマスターの煎れてくれたカフェラテを飲んだら、何だか元気が湧いてきたんです」

 私の話に、マスターは懐かしそうに頷く。

「私、あれからずっとこの店が大好きでっ、高校に入ってからはここで働けるのが嬉しくてっ……コーヒーの煎れ方を教えてもらうのが楽しくてっ……」

 あれ?どうしてだろう。何だか上手く喋れない。

「今日で終わりだなんて嫌ですッ……もっとっ、ここにいたいですっ」

 こんなことを言ってはマスターが困ってしまうとわかっているのに、一度出た言葉は止められなかった。

「私っ、まだ何にも出来ませんっ、コーヒーの煎れ方も全然ダメで、もっと色んな事教わりたかったのにっ……」

気がつけば目に涙が溢れていた。慌てて拭ったけど、それでも溢れてくる。

私はカフェラテに手を伸ばし、一気に飲んだ。あの雨の日のようにマスターのカフェラテを飲めば涙が止まるような気がして。

だけど、それでもダメだった。あの時みたいに自分が世界で一番不幸だなんて思っていないのに、あの時よりもずっと辛くて。

「ごめ、んなさい。勝手な事……言ってっ」

 嗚咽交じりの声でそう言うと、泣き顔を隠すようにカウンターにうつ伏せた。マスターはこんな私を見て呆れているだろうか?

私は六年前のあの日から何も変わらない。いつまでたっても泣いている子供のままだ。

最後まで笑顔でいようと決めていたはずなのに、肩を震わせて泣いている自分があまりに滑稽で。けどマスターは、そんな私の頭を優しく撫でてくれた。

「ありがとう。君は本当に、リメンバーが好きなんだね。きっと僕よりもずっと」

 私は思わず顔を上げる。そこにはいつも通りの、マスターの笑顔があった。

「彩ちゃん。君はさっき何も出来ないって言ったけど、それは違うよ。君はリメンバーの味を完全に覚えている。煎れようと思えばいつでも煎れられるはずさ。紅茶も、コーヒーも、もちろんカフェラテもね」

「出来ま…せんっ。私には…無理ですっ……」

「そんなこと無いよ。僕が店を閉める事が出来たのは、君がリメンバーの味を受け継いでくれたからなんだ」

 私が?マスターの言っている事がわからず、私は混乱した。

「僕も店を閉めるかどうか迷ったよ。でも家内が入院してから、君は今まで以上に頑張ってくれて、僕の煎れるコーヒーと同じ物を作れるようになっていった。これなら店を閉めても、君の中で僕の味は生きていける。そう思ったから、店を閉める決心がついたんだ」

 私がマスターの味を受け継いだ?とても信じられない。それに、そのせいで店を閉めることを決めたのなら、引き継ぎたくなんてなかった。そんな私の心を読んだように、マスターは言った。

「好きな場所が無くなってしまうのは悲しいことだけど、どんなものにもいつかは終わりが来てしまう。でも彩ちゃんならカフェラテを煎れるたびに、リメンバーの事を思い出してくれるんじゃないのかい?」

 それは……そうかもしれない。こんなにも大好きな場所なのだから。

「彩ちゃんがいつか誰かにカフェラテを煎れてあげた時、その人にこの店の事を話してあげてくれると嬉しいな。そうやって引き継いでくれれば、それほど良い終わり方は無いよ」

 マスターはそう言って、もう一度私の頭を撫でた。私は涙を拭い、マスターを見る。

「悲しいなら泣いても良い。辛かったら立ち止まっても良い。そうやってゆっくりで良いから、前に進みなさい」

「はい…ありがとうございます」

 泣きやんだ私を見て、マスターはホッと息をついた。

「カフェラテ、お代わりいるかい?最後の一杯、彩ちゃんに飲んでもらいたいんだ。今度は涙の味は無しでね」

「いただきます。あの、マスター……」

 私は立ち上がり、カウンターの奥へと歩く。

「私も、カフェラテを煎れて良いですか?飲んでもらいたいんです。マスターに」

「もちろん。ありがたく頂くよ」

 そう言ってマスターは、初めて会った時と同じように微笑んだ。

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