エピローグ
それから数分後。
アリーナの窓から見える空は薄暗く、夜になり始めていた。
のびていた影宮は程なくして目を覚まし、負けたという事実を知るや、無言で体育館を出て行った。その挙動は一見落ち着き払っていたが、チラリと見えたその表情は悔しげに歪んでいた。
アリーナには僕と茉莉さん、そして智宏さんの三人だけが残された。
トライアングルの位置関係で立っている僕らの間には、沈黙がずっと続いていた。
正確に言うなら、智宏さんの発する重々しい雰囲気に圧され、僕も茉莉さんもなぜか静かにしなければいけない気にさせられていたのだ。
智宏さんは、僕ら二人に向ける眼差しをそれぞれ使い分けていた。僕に対しては「余計な事をしてくれたな」とでも言いたげな睨み目、そして茉莉さんには複雑な感情のこもった目を向けている。
やがて彼は視線を茉莉さんに固定すると、沈黙を破った。
「……なぜだ茉莉? なぜ私の言った通りの生き方ができん? その先には上流階級として生まれた者に見合った人生が待っているのだぞ? なのになぜお前は、そのレールに沿って歩くことができない? 高校受験の時もそうだった。私はお前に高い水準の教育を受けさせてやろうと思い、学校を厳選してやった。しかしお前は、私の選んだ学校を受験せず、あろうことか、あんな下らん高校に入学しおった。なぜなんだ茉莉? なぜそうまでしてレベルの低い生き方に甘んじようとする?」
茉莉さんは語気を強めて返した。
「甘んじてなんかいません。あたしは、あたしの望んだ選択をしただけです。あたしはあの時、堅苦しい有名進学校よりも、普通の高校である砂城高校の方に魅力を感じていたのです」
智宏さんは拳を震わせながらまくし立てる。
「分からん! 全くもって解せん! お前は特別な生まれの女! ならばそれに見合った対等な家柄の男をあてがうのが最良! そしてその先に敷かれたレールの上を歩いて人生を送ることが最善! それがどうして分からん!? 仙太郎伯父様も余計な世話を焼いてくれたものだ! 同じ神楽坂の者であるにもかかわらず、人の娘に下らん
「大伯父様の武術をバカにするなっっ!!!」
そんな茉莉さんの怒声が、智宏さんの言葉を断ち切った。
だが彼女はすぐに深呼吸して自身を落ち着けると、再び口を開いた。
「……怒鳴ってごめんなさいお父様。あたし、お父様の気持ちは十分分かっているつもりです。お父様は――自分と同じ痛みを、あたしに味わわせたくない。そうですよね?」
智宏さんは図星を突かれたように目を見開き、うなだれた。
「同じ痛み……?」
僕は思わず呟いた。
茉莉さんはそれを聞くと、智宏さんに何やら許可を取ってから、詳しく話し始めてくれた。
それは、智宏さんがまだ小学生だった頃の話だった。
当時、智宏さんには一人の親友がいた。
二人は非常に仲が良く、いつも一緒だった。遊びやいたずらをする時も一緒。先生に叱られるのも一緒。時には喧嘩することもあったが、次の日には必ず仲直りした。理想的な友達関係ここにありだった。
しかしそんな関係は、親友の父親が勤めていた会社の倒産をきっかけに、亀裂が生じた。
父が職を無くしてしまった事に落ち込んでいた親友。智宏さんはそれを元気づけたいと思い、自分の父に掛け合った――親友の父親を、神楽坂グループの傘下企業に再就職させて欲しいと。
そしてそれは叶った。智宏さんの必死な訴えのお陰でもあるが、親友の父親の能力もそれなりのものであったため、なんとか再就職させることができた。
しかし、智宏さんのそんな好意は、完全に裏目に出ることとなった。
親友は、智宏さんの顔色を過剰に伺うようになってしまったのだ。
雇用主の息子と、被雇用者の息子。智宏さんと親友はそういう関係だった。つまり、少しでも機嫌を損ねるような事をすれば、再就職を果たした父に累が及ぶかもしれない。そんな心配を持たれてしまったのである。
俺にそんな気はない、だからそんな他人行儀に接するのはやめてくれ。智宏さんのそんな訴えに親友は頷いてくれたが、頷いただけだった。結局いつまで経っても、へつらう事をやめてはくれなかった。
その時の二人の関係は、もはや対等な友達関係ではなくなっていた。まさに主と家来の図だった。
結局二人の関係は、小学校を卒業して別々の中学に入ってから自然消滅した。
――説明は以上だった。
それを聞いて、僕は理解した。
智宏さんは「人間は同じレベル、同じ立場の者同士でしか上手くいかない」としきりに口にしている。その考え方は、今聞いた過去に起因したものだったのだ。
智宏さんと親友は、立場が変わってしまったからこそ関係が崩壊した。そして茉莉さんには、そんな「立場の違い」が生み出す痛みを味わわせたくなかったのだ。
だからこそ、茉莉さんと影宮を無理矢理くっつけようとしたのだろう。同じレベルの家柄同士であるため、幸せになれる。そう信じて。
独善的かもしれないが、娘を思っての行動であると分かる。
だが茉莉さんは、その考えに「否」と表した。
「お父様の思いは理解できます。ですがあたしは、やはり自分の心のままに生きたいのです。そして、あたしがそうしたいのは――好き勝手したいから、だけが理由ではありません」
智宏さんが顔を上げ、茉莉さんを見つめる。
茉莉さんもまた父の目を真っ直ぐ見ながら、言った。
「あたしが自由な生き方をしたいのは、お父様を好きでい続けたいからでもあるのです。自分の思い通りに生きた上で後悔したなら、それは自分の責任として受け入れることができます。ですが、誰かの決めた通りに生きて後悔をしてしまったら、あたしはその人を恨んでしまうかもしれない。それが、嫌なのです」
「……茉莉」
「それに、立場や家柄に差があっても、人間は対等に分かり合えると信じていますし、そうであると知っています。あたしと――ここにいる藍野英助君がその証明です。彼はあたしのように、特別な家の生まれではありません。普通の人です。しかし武術という繋がりを通して、笑い合ったり、からかい合ったり、喧嘩したり、仲直りしたり……そういう普通の間柄を築くことができています。あたしと彼は、武術のおかげで分かり合えたのです」
柔らかだが、それでいて確かな意思の強さを感じさせる茉莉さんの言葉。
そうだ。その通りだ。
確かに、茉莉さんは特別な生まれかもしれない。
でも、たとえ前もってその素性を知っていたとしても、僕はやっぱり、強くて美人な師匠である「茉莉さん」として彼女に接し続けたと思う。
影宮と行った『組手』と同様、武術の前では生まれや素性など関係なく、誰もが平等なのだから。
茉莉さんを見つめる智宏さんの目は、眩しいものを見るようなソレに変わっていた。
やがて彼は目をスッと閉じ、ゆっくりと言葉を紡いた。
「……そうか。そこまで言われてしまうと、私もいい加減頑迷さを捨てる必要があるかもしれんな。どのみち、今回の賭けはお前の勝ちだ、茉莉。これから先、武術でも何でも好きにするがいい。私はもう口出しせん。子離れするさ」
「お父様……」
茉莉さんは目を丸くして驚くが、すぐにそれは晴れやかな笑みへと変わった。
智宏さんは続けて言った。
「それと……藍野君。君には言いたいことがある」
「な、なんでしょうか」
僕は緊張気味に背筋を伸ばした。
だが僕を見る智宏さんの眼差しは、先ほどよりもずっと穏やかなものだった。
「まずは――済まなかった。今にして思えば、私は君に失礼な態度や言動をたびたび取っていた。どうかそんな大人気無い無礼を許して欲しい」
「い、いえっ! 大丈夫です! 僕は全っ然気にしてませんから!」
「それともう一つ。こんな手の付けられないジャジャ馬だが、どうか娘の事をこれからもよろしく頼む。あと、先ほどの戦い――見事だった」
「は、はい! 頼まれましたっ! あと、恐縮ですっ!」
智宏さんは涼しげに微笑むと、踵を返し、
「私は先に帰っているぞ。自分で帰れるな、茉莉」
そう言い残してから、アリーナの出口へと歩いていった。
出口の向こうへ智宏さんの姿が消え、とうとう僕と茉莉さんの二人きりとなった。
先に口を開いたのは茉莉さんだった。
「その……お疲れ様、英くん。よく頑張ったね」
「あ、はい。ありがとうございます」
僕がそう返すと、茉莉さんは頬をうっすらと朱に染めて俯きながら、
「それと、ありがとう。あたしのために戦ってくれて、あたしを守ってくれて……凄く嬉しかったよ」
「へっ? あ、あはは! ど、どういたしまして! あは、あははは……」
照れを誤魔化すように笑う僕。なんだろう。よく分からないけど凄くこそばゆい雰囲気。
「お礼、しなくっちゃね。何かして欲しい事とかある? 何でも言って!」
「え? いや、いいですよそんなの! そういうの目当てで戦ったわけじゃないですし!」
「えぇー、いいじゃない、何か言いなよー? 遠慮は必ずしも美徳じゃないんだぞー?」
「……それじゃあ」
僕は喉を鳴らし、正直な希望を述べた。
「――これからも僕に、武術を教えてください。茉莉さんの大好きな神楽坂式骨法を、もっと僕に伝えて下さい」
そう、それが答え。
神楽坂式骨法のおかげで変われたのは、昔の茉莉さんだけじゃない。
僕だってこの武術と出会って周囲を取り巻く全てが変わった。変えることができた。
守りたいものを、自分の力で守ることができた。
だからこれからも、僕はこの武術と向き合って行きたい。
修行という名の険しい坂道を登ることになるだろう。でも、隣にいるのがこの人なら、僕はどこまでも登れる気がする。
そして、守りたいものを、これからも好きな時に守れるようになりたい。
そんな僕の答えを聞くと、茉莉さんはにっこりと笑顔で頷き、言った。
「うんっ。これからもよろしくね、英くん」
僕もそれに「はいっ」と笑って頷き返す。
だが急に、茉莉さんは何かを思いついたように口元に指を当て、
「あ、でも、やっぱりこれだけだと足りない気がするから、もう一つだけいいものあげる」
「え? それは――」
なんですか、と言い切る前に、何かが僕の口を塞いだ。
「何か」とは――茉莉さんの唇。
柔らかくなめらかなその唇は、僕の唇としっかり触れ合っていた。
しばらくすると、茉莉さんはゆっくりと唇を離した。
「ふふふっ、どうだった? あたしのファーストキスの味は?」
僕をからかう時によく浮かべる、あのいたずらっぽい表情。だがその頬は、リンゴのように真っ赤だった。
そんな茉莉さんを見たことで、僕はようやくキスされたのだという事実に気がついた。
途端、「ボンッ」という擬音が出てもおかしくないくらいの速度で赤面した。
え、なんで!? なんで僕キスされてるの!? しかもファースト!? や、嫌じゃないけど、お礼にファーストキスって高級品過ぎない? じゃあファーストキスの値段って幾らくらいだろう? 僕のお小遣いで足りるかな…………混乱しまくった僕の頭が、てんで的外れな方向へ思考を展開させていく。
茉莉さんはそんな僕を見て、真っ赤な顔のままクスクス笑うと、
「さ、英くん! 早く帰りましょ! 明日から早速しごいてあげるから、きちんとご飯食べてしっかり寝なさい!」
そう無理矢理押し切るように言い、アリーナの出口へと早歩きで向かった。
「ま、茉莉さんっ! 待って下さいよぉーー!!」
僕は、慌ててそれを追いかけたのだった。
――こうして今日、一つの戦いが終わった。
しかし、僕が無謀にも武術の道に足を踏み入れて、まだ日は浅い。
彼女と手を取り、僕はこれからもその道を進み続ける。
神楽坂茉莉の緊急弟子育成計画 新免ムニムニ斎筆達 @ohigemawari
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