第五章 憶病者の拳③

 影宮彰一は、自らの勝利を確信していた。


 眼前には、床にへばりつくようにうつ伏せとなった藍野英助の姿。

 先ほどまでの燃えるような憤怒の熱気はどこへやら、嘘のように冷め切っている。それを見るに、もう立ち上がって来ることはないだろう。


 彰一はこの世の終わりのような表情で客席に座する茉莉を横目で見て、唾を飲み込み、口端を歪めた。

 もうすぐだ。もうすぐあの最上級の女が俺のモノとなる。

 あの磨かれた石膏のような素肌を外界へ晒し、体を開かせ、存分に味わい、征服し尽くしてやる。その正当な権利を、自分は手に入れたのだ。

 彼女の心情的に考えてすぐには無理かもしれないが、口八丁には自信がある。それで精神的な壁を徐々に削り取っていき、やがて従順な雌犬に仕上げてみせる。武術という宝物を捨てざるを得ない状況を作り上げれば、彼女は消沈しきることだろう。そんな弱った所を攻めればより成功率が上がる。過去、そうやって女に心を許させ、会ったその日のうちにホテルへ同行したのはいい思い出だ。


 これからの未来に思いを馳せている最中だった。倒れている英助の背中がピクリと動いたのは。


 英助は全身を震わせながら、四肢の力でゆっくりと体を起こしていき、やがて立ち上がった。


 彰一は少し驚いた。

 なんと、少年は立ったのだ。

 『黒虎偸心』は、八極拳の発勁はっけい法に劈掛拳の脊椎操作を加味することで、より強大な威力に仕上げた技だ。そこへ『雷声』を加えることで、その打撃力はさらなる凶猛さを得る。一発当たっただけでも、かなりの体力を削り取られるはずだ。

 だが、あの小さな少年は、散々痛めつけられた上でその一撃を食らったにもかかわらず、立ち上がってみせたのだ。

 見かけによらず、結構タフなのかもしれない。それとも、茉莉に対する強い思いがそうさせたのだろうか。


 なるほど、大した頑張りだ。涙ぐましい師弟愛だ。


 だがそれも、すぐに徒労に終わる。


 彰一は床を踏み蹴り、疾駆。英助に真正面からぐんっと近づいた。

 弓弦を引き絞るイメージで背筋を丸めてから、


ッ!!!」


 鋭い発声、加速状態からの急停止、踏みとどまった足の捻りの三つの動作とともに、真上へ一気に伸ばした。

 それらの動作による運動エネルギーが集中した拳が、光線よろしく直進。やがて英助の胸部へ命中、




 しなかった。




 正拳が目標物まで薄皮一枚の距離まで到達した瞬間、確かにそこに有ったはずの英助の姿が、陽炎かげろうのように消えた。


 拳が伸びきってすぐに、彰一は目を見開いた。一体、何が起きた? どうしてあの少年の姿が無くなっている?


 ふと、背後に微かな存在感を覚え、振り向く。




 そこには――英助が立っていた。




「なっ……!?」


 彰一は心の底から驚き、慌てて距離を取った。


 こんな子供相手に自分から逃げ出してしまった事に若干の屈辱を覚えたが、驚愕がそれをはるかに勝っていた。


 なんなんだ? いつの間に回り込んだ?


 この子供は今、「何」をしたんだ――――!?









 僕を目にする影宮は、まるで未知の生き物に遭遇したかのような驚き顔をしている。


 そして、びっくりしているのは僕も同じだった。

 どうにか、ありったけの気力をもって立ち上がることは叶ったのだが、その先をどうするべきか決められないでいた。何せ、体はダメージの蓄積で重く感じている上、奴の『陰陽歩』に対処する手立てすら浮かばないのだから。

 そんな混乱など知る由もなく、影宮は無遠慮に『黒虎偸心』を『雷声』とともに使ってきた。


 だが、迫り来る奴の攻撃を見て「避けて、そのまま回り込めたら……」と考えた瞬間、僕はあの鋭い正拳を最小限の動きで回避しつつ、流れそのままに奴の背後へと移動していたのだ。


 それも――今まで茉莉さんから教えられたどの技にも該当しない動き方で。


 その先を考えようとしたところで、影宮の眼差しが、驚きから睨み目に変わる。

 そして、キツネザルを彷彿とさせる俊敏なステップで、僕に詰め寄ってきた。


 迫り来るは、上から斬り下ろす腕刀。

 避けよう――そう思った時には足が動き、体の位置がほんの数センチ横へズレた。

目標を失った腕刀が、すぐ眼前を風のように降下する。


 僕がそこから三歩ほど下がると、影宮はすぐにそれを追う形で迫った。つむじ風のような足腰のねじりによって、振り向きざま右腕で横薙ぎを放ってきた。

 僕は少し腰を低くすることで難なくそれを躱すが、続いてやってきた左回し蹴りを見て、横薙ぎはブラフだったと知る。


 その蹴りは僕の右上腕めがけて、あっという間に間隔を詰めた。


 当たると思った。


 だが不意に訪れる、腰が急降下する奇妙な感覚。

 気がつくと、僕は尻が床に付かんほどに足腰を沈めていた。

 頭の上を紙一重で通過する回し蹴り。

 蹴り足を振り切ったことで、影宮は背中を見せていた。


 チャンスだと感じた時には、僕はとぐろを巻く龍のように全身を回転させながら腰を上げつつ、奴の背中に接近していた。


 そして、その遠心力を込めた肘打ちを叩き込む。


「うっ……!」


 影宮は小さくあえぐと、前へつんのめる。


 しかし、そこで僕の攻撃は終わらなかった。


 僕はもうひと回転し、さっきと同じ肘を再度奴の背中へぶち当てた。

 影宮は痛みでブルッと震えるが、すぐに立ち直り、右肘を引いて真後ろの僕へぶつけようとしてきた。

 だが僕は奴の背中の上を転がるようにして素早く左脇腹へ移動し、そこめがけて三度目の肘打ちを入れた。


 痛みにひるんでいる隙に、僕は影宮から離れた。


 そして、自分の身に起きている不可解な出来事についての考察を再開する。


 ――訳が分からなかった。

 全く知らない、教わった事の無いはずの動きを、僕はこの短い間に使っている。

 おかしいのはそれだけではない。初めてする動きであるにもかかわらず、体はぎこちないどころか、むしろ自然な感じで動いてくれる。

 その上、その使い方が、まるで元々知っていたモノであったかのように理解できる。

 そして――「動こう」と思った時には、すでに体が動いている。


 一体、僕の身に何が起こってるんだ。


 だが、そこでふと思った。


 ――正拳突きを躱して後ろへ流しつつ、そのまま背後を取ったあの動きは、合気道の『入り身投げ』の動作に似ている。

 ――とぐろを巻くように回転するあの動きは、『擺歩』と『扣歩』を交互に用いた周回運動に似ている。

 ――そして、その回転の遠心力をそのまま活かしたあの肘打ちは、ムエタイの回転肘打ちソーク・ラップに酷似していた。


 教わった覚えの無い動きだが、全く知らない動きではない。すべて、自分の知っている既存の技の中に大なり小なり垣間見られる身体操作だった。




『「換骨奪胎」という言葉があるわ。元々教えられた技術を長い年月かけて体に覚え込ませることで、やがて元々の形を崩し、自分独自の新たな技術へと変えていく。太極拳や空手も一つの流派だけじゃなく、いくつかの分派に分かれているわ。そういった分派の創始者は、元々習った武術をベースに創意工夫を加え、独自の新しい形を創出することに成功した。神楽坂式骨法はその現象を意図的に、そして短期間で発生させることを最終目的とした、まさしく革新的な新派なのよ!』




 かつての茉莉さんの言葉が脳裏をよぎったことで、僕は確信した。




 ――『固有形』。




 神楽坂式骨法の最終形態。

 優れた吸収力で覚えた膨大な技の身体操作を材料に、自分に最も合った形で発現する最高の我流。


 僕は今、それに到ったのだ。


「なるほど……まだそこまで動ける力があったとはね」


 そこで、影宮の声が思考に横槍を入れた。僕は素早く身構える。


「だが――動けたところで何になる? どうあがいたって、俺の『陰陽歩』からは逃れられない。どのみち君は、茉莉とさよならする運命なんだよ」


 好き勝手言うと、影宮はぬかるんだ泥の中を進むような、粘っこい足さばきでこちらへ歩き始めた。流体のごとき低速歩行。そこから急加速することで、回避不可能な攻撃へと転化させるつもりなのだ。


 程なくして、影宮は接近速度を数段階早めた。

 前触れなく「急」へと転じた奴の動きに脳がついていけず、否応なしに僕の総身が硬直。

 奴のストレートが僕の胸の五センチ先まで到達したところで、その硬直は解ける。しかし、すでにここまで近づかれたのでは対処のしようがない。


 だが、僕はそれでも「避けたい」と強く思った。


 刹那、全身が急激に捻られる。

 反射的に起きたその運動によって、打撃の到達点である胸の位置が少し横へズレる。

 結果的に――やってきた拳を躱すに到った。


 影宮は声に出さず、唇の動きだけで「馬鹿な」と呟く。


 僕は『陰陽歩』を回避できた事実に一瞬驚いたが、すぐに納得した。


 茉莉さんの言葉を思い出してみるといい。




『『固有形』の動作は「体に染み付いた」というレベルすら超えて、呼吸筋の動きと同じように、生まれた時から持っていた動作のように感じられる。だから、意識してから動作へ移るまでの時間差が無いに等しく、他の動作よりワンテンポ速い動きが可能となるの』




 ――そう。この『固有形』の動きは、生まれつきな動作と同じレベルで深く体に刻み込まれている。

 だから『陰陽歩』によってワンテンポ反応が遅れても、回避には十分間に合う。「避けよう」と思った時には、すでにその通りに体が動いているのだから。


 正拳突きをその場から動かず避けたことで、僕は突っ込んで来た影宮の懐へそのまま潜り込むこととなる。

 僕は片方の拳を握り締め、それを奴の顔面めがけてハンマーよろしく叩き込んだ。


「ごぶっ……!?」


 僕の腕力と、全身してきた勢いとがぶつかり合い、カウンターパンチのような作用を起こしたのだろう。影宮は潰れたような痛々しい呻き声を上げ、すぐに顔を押さえながら後ろへ引き返した。


 見ると、顔面を押さえる手の指の間からは、粘度を持った赤い液体が漏れ出し、床に流れ落ちていた。どうやら、鼻血を垂らしているようだ。


「血……? 俺の顔から……血? ……血、血、血ィィィッ!!」


 影宮は手元に付いた血液を見ると、信じられないといった様子で目玉を剥き、ヒステリックに叫ぶ。


 そして、僕を憎悪に満ちた眼差しで睨み、罵声をぶちまけた。


「貴様……この下賤なクソガキ風情がっ!! よくもこの俺の顔を……殺す! 殺す!! 殺してやるっ!!!」


 そして、爆走。

 憤怒と憎しみが加算されたそのフットワークは、今までで一番鋭く、そして速かった。


 しかし、僕は細波のような冷静さで対処した。


 振り下ろされた腕刀を回避しながら進み、すれ違いざまに肘で脇腹を一撃。そのまま背後へ移動し、回転しながらの肘打ち。

 影宮は後ろを振り返りざま、片腕で薙ぎ払う。しかし僕は腰を沈めてそれを回避しつつ、奴の胸の中へするりと潜り込み、腰を上げる勢いを乗せた肘で顎を打ち上げた。

 影宮は素早く立ち直ると、抱きしめるように僕を捕まえようとしてきた。僕はその両腕の射程圏外まで迅速に退歩。そして奴が両腕を内側へ閉じきったところですぐに戻り、寄りかかるようにして体当たり。影宮はおぼつかない足取りで後ろへ何歩か下がり、ようやくバランスを取り戻した。


「クソがっ……! ちょこまかと逃げるな!! このゴキブリがぁぁぁ!!」


 影宮は苦痛と激情がないまぜとなった表情で吐き捨てると、再び急接近。暴風のような怒涛の連続攻撃を仕掛けてきた。

 しかし、そのことごとくを僕はあしらい、やり返す。

 躱すと同時に、そのまま相手の死角まで移動し、攻撃。相手が自分の位置に気づいたら、すぐに新しい死角へ移動し、一撃。相手の攻撃を防ぐどころか触れることさえせず、死角という名の安全圏を常に陣取り、数珠が連なるように攻撃を連環させる。


 使用を重ねるうちに、僕は自分の『固有形』の本質が見えてきた。




 「相手の死角を取り続ける拳」――それが僕の『固有形』。




 「殴られたくない」という情けない願いを元に、僕自身が形作った拳。

 正々堂々、真っ向から立ち向かうことを厭い、物陰から石を投げ続けるような拳。

 いわば――臆病者の拳。


 でも、それでいい。

 その臆病さで強くなれたのなら、それは胸を張っていい事なんだ。

 それで守りたいものを守れるなら――僕はいくらでも臆病になってやる。


 直感で紡がれる巧妙な攻撃の応酬。忘我し、今まで与えられた痛みをそのまま返すかのように攻め続ける。


 どれくらいそれを繰り返しただろうか。


 やがて、影宮の表情に疲労感が色濃く見え、足元もふらついてきた。


 限界が近づいているのだ。


 ここで一気に決めてやる。


 僕は影宮に肩からぶつかり、その体を後ろへ大きく押し流した。

 すぐに地を蹴り、それを追う形で一気に駆け出す。


 そして途中――全身を捻りながら跳躍した。


 手足を内側へ納めて体を一本の回転軸に仕立て、高速でスピンしながら宙を移動する。さながら、フィギュアスケートのトリプルアクセルのような跳び方だった。

 影宮にはすぐに追いついた。体当たりの勢いによって未だ後方へたたらを踏んでおり、重心を取り戻そうと全身に硬直が生まれている。上手く動けない状態だ。


 僕の骨格が本能的に動作した。

 回転によって体が前へ振り向いた瞬間、閉じられていた骨盤を左右へ開き、片膝を真っ直ぐ突き出した。


 回転運動を直線運動に変換するピストンの要領で放たれた投擲槍ジャベリンのごとき膝蹴りが、影宮の鳩尾を的確に捉える。


「くはっっ――!!」


 影宮は大袈裟なほどの勢いで上半身を仰け反らせると、まるで弾かれたような速度で吹っ飛び、はるか遠くの床で大の字となった。


 僕は動き続けた疲れに息を切らせながらも、ゆっくりとそこへ歩み寄った。


 影宮は目を閉じ、力なく仰臥している。

 しばらく待ったが、一向に起き上がる気配がない。


「――ちょっとごめんなさい」


 その時、いつの間に客席から降りたのか、茉莉さんが割って入ってきた。


 彼女は影宮の全身のあちこちを見たり、触ったりしていく。


 そして振り返り、一言。


「……気絶してるわ」


 気絶。

 つまり、もう戦えない。

 つまり――それは僕の勝ちということ。


 そう確信した瞬間、




「「いやったぁぁぁ――――!!!」」




 僕と茉莉さんは同時に相好を崩し、抱き合いながら歓喜した。


「英くん、最後めちゃくちゃ凄い動きだったよー!! 目覚められたのね『固有形』に!?」

「はい! 目覚めちゃいました!! 自分でも驚いてます!! 凄いですね、神楽坂式骨法って!!」

「あはははっ!! でしょーー!?」


 バカみたいに意味もなく笑い合い、ひたすら抱擁を交わす僕ら。


 いつもなら赤面しているところだが、今は羞恥心より、喜びの方がずっと勝っていた。

 やった! やった! やった!

 勝てた! 勝つことができたんだ!

 守りたいと思ったものを、僕は初めて守ることができたんだ!


 僕はその事実を確かめるように、茉莉さんの背中へ回った腕の力を強めたのだった。

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