第5話

 そして次の日。

 朝ご飯を食べようといつものように一番最後に食堂に入る。さすがに人の姿はまばらで、マオたち食堂組はお客さまの朝ご飯の準備のためにてんやわんやだ。朝の定位置である窓際のテーブル席から眺めていても今日は殊更に忙しそうだった。話しかけられそうな雰囲気ではないし、大人しく朝食をいただいて退散しよう。そう思っていたときだった。

「おや、おはよう」

 ふわりとした声が、俺の斜め下から聞こえた。驚いてそちらを見やれば、そこには小脇に新聞を抱えた夢野獏夜さまが立っていた。

「……夢野さま?」

 思わず呟けば、当の本人は鼻に引っかけた丸眼鏡の縁をなぞって照れたように笑った。

「はは、さすがに“さま”は照れるなあ。まあ君の性分なのだろうから、とやかくは言わないけれどね」

 向かいの席、いいかい?と訊いた彼に、俺は慌てて広げていたパンの皿とサラダの小鉢を除ける。夢野さまはお礼を言うと、よっこいしょというかけ声と共に椅子によじ登るようにして座った。椅子と同じくらいの背丈しかないのだから、そうなるのも当然だ。今度、支配人か厨房長に一回り背の低い椅子とテーブルの席を導入してみないか提案してみよう。そんなことを考えながら、俺は口を開いた。

「改めて……おはようございます、夢野さま。随分とお早いですね」

 夢野さまは軽く頷くと、くすりと笑みをこぼした。紳士的という言葉がまさにぴったりの老成した表情だった。願わくば、俺もこんな年の取り方をしてみたいものだ。

「ふふ、私はここの旧い客だからね。厨房長をつついてコーヒーを一杯とフライングでのモーニングは許してもらっているのさ」

「な、なるほど……?」

 旧い客ということは、ひょっとするとサラマンダーの赤城さまともお知り合いかもしれない。いずれにせよ、夢野さまが食堂に関するあれこれには厳格な厨房長さえ、最後には頷くくらいの方だということはわかった。夢野さまは俺の表情に笑みを深めると、ふと話題を変えた。

「そうだ、君は寝付きは良いほうかい?もし眠りが浅かったり、変な夢を見たりするのであれば、ちょっと診てあげよう」

 わくわくと身を乗り出すようにして話す彼に、俺は夢を診るとは、と首を傾げた。すると、夢野さまはそういえばそこから説明しないといけなかったね、と柔らかく微笑んで、両の手を軽く組んだ。

「人間は無自覚に色々と感じやすい生きものだ。無意識のうちに様々なものから影響を受け形成される場────それが夢だよ。すなわち、夢を覗けばその人の精神状態が一目瞭然なのさ」

「……そんなことができるんですか?」

「私は獏だよ?夢の中なんて得意分野だ」

 彼は得意げに胸を張って笑う。俺はその表情を見ながら、ふとこの人にあの夢の話をしてみようかという気になった。幼いころからたびたび見てきた夢だ、具体的に俺があの夢を見て何を感じているのかを知る良い機会かもしれない。

 そう思って、口を開こうとしたとき。ふと視界の隅にきらりとした輝きを目に留めた。そちらに視線を移すと、ちょうどこちらに水瀬さんがやってくるところだった。光ったと思ったのは彼女の繊細な髪飾りだった。

「薫。ここにいたの」

 水瀬さんは俺と相席していた夢野さまの姿に気がつくと、用件を話す前に彼に対して制服の裾をつまんで一礼する。それから俺に向き直って簡潔に言った。

「……ちょっと変わったお客さまが来てて、理子が困ってる。急いでフロントに戻って」

 俺はすぐに頷いて立ち上がる。それから夢野さまに中座を詫びようと彼を見ると、夢野さまのほうから言われてしまった。

「私のことは気にしなくていいよ。君は君のお勤めを果たしておいで」

 その言い方がとても支配人のそれと似ていて、俺は類は友を呼ぶとは言い得て妙なことだと思いながら、水瀬さんと共に食堂を後にするのだった。



 フロントに向かうと、ロビーに備え付けてあるソファのひとつにしゃがみ込む彼女の後ろ姿を発見した。

「鍵宮さん」

 声をかけると、鍵宮さんがぱっとこちらを振り返る。それから心底ほっとしたように笑顔を見せた。

「あ、よかったー……すみません、私一人じゃ判断がつかなくて」

 彼女の前には、顔を俯けてすんすんと鼻をすする音を立てる男の子がひとり、座っていた。回りくどい言い方と思ったかもしれないが、男の子には目と鼻と口がなかったのだ。いわゆるのっぺらぼうである。しかし、目はなくとも涙は出るようで、何もないところから涙だけがこぼれ落ちていく様は少しだけ怖かった。

 鍵宮さんはその涙を持っていたタオルで拭ってあげながら、状況の説明をしてくれた。

「私たちがフロントに戻ってきてから少しして、この子がホテルに迷い込んできたんです。しかもエレベーターから出てきたので、てっきりお客さまのお子さんかと思っていたんですけど……」

 そこまで聞いて、俺は彼女が何故自分に判断を仰ごうと思ったのか理解した。今日の宿泊客リストには、家族連れののっぺらぼうのお客さまはいないのだ。納得して頷く俺に、水瀬さんが追加で告げる。

「今、千鶴が支配人のところへ相談に行ってる。私たち清掃員もできる限りこの子がどこから来たのか探してるところ」

 千鶴さんは俺たちフロント係のチーフだ。彼女が行ったのなら支配人もすぐにこちらにやってきそうだと思いつつ、俺は目の前の男の子に視線を合わせるように膝を折った。

「初めまして。ちょっとだけ、俺とお話しないかい?」

 すると、男の子はしばらく俺の顔を見つめたあと、ぱっと席を立ってソファの後ろに回り込んでしまった。そろりそろりと背もたれの陰からこちらを窺っている姿はかわいらしいが、俺としてはちょっと複雑だ。これでも子供に好かれるほうだと思っていたのだが。

「うーん……だめかあ」

 思わず苦く笑うと、鍵宮さんと水瀬さんがそろって意外そうな声を上げる。

「珍しいですねえ、仙崎さんが逃げられちゃうの」

「……そうね。貴方はいろんな人から好かれるタイプだと思ってたけど」

 俺は何とも言えないので頭を掻いて苦い笑みを深めるしかない。すると、そこでふわりとした声がかかった。

「ふふ、そういうこともあるわ」

 俺たちが振り返れば、エレベーターから支配人が降りてきたところだった。支配人はこちらにやってくると、そのまま件のソファに腰かけた。それから手にしていたハンカチの包みからとりどりのお菓子を取り出すと、おもむろに食べ始めた。俺たちはすっかり虚を突かれてしまって、しばらくその様子を棒立ちで眺めているしかなかった。

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