第4話

 その日は、春と言うには随分と寒くて冷たい雨が降っていた。本当はその週末にホテルの皆で花見を予定していたのだが、これでは地面に散った桜を眺めるようだとため息をついたことはよく憶えている。そして、俺はもうすぐホテルの看板が見えるという街角で、一人のリクルートスーツ姿の女性に声をかけられた。

『あ、あのー……すみません……セイリオスホテルって、何処にあるかご存じですか?』

 スマホを片手に持っているところを見ると、どうやら道に迷っているらしい。今考えてみても随分途方に暮れた表情だったので、俺は道案内がてら職場に向かうことにした。

『もしかして……就活ですか?』

『は、はい!』

 沈黙が重いのは苦手だったし、彼女の緊張を和らげたかった気持ちもあってかけた言葉に、彼女は硬い表情で頷いた。訊けば彼女は事情があって既卒で、後がないというのにここまであと一歩のところで内定がとれずに来たのだという。

『……だから、失敗できないんです』

 ともすれば泣きそうな顔で言うものだから、俺はなんだか少し前の自分を見ているような錯覚に陥った。後がないという現状の怖さもつらさも、少しはわかる。俺は内定を貰うまでに随分かかったクチの就活生だったから、周りがどんどん内定を貰っている状況に焦ったものだった。

『……大丈夫ですよ、支配人はちゃんと人を見てくれますから』

 だから、そんな言葉がぽろりとこぼれたのかもしれない。え?と聞き返そうとした彼女に、俺は黙って小さく笑った。

 そうしてたどり着いたセイリオスホテルの前で彼女は何度も何度もお礼を言って頭を下げた。ホテルのエントランスへと消えていった背中を見送ったあと、彼女に幸せが応えてくれるといいな、と思いながら、俺も従業員用の勝手口をくぐった。

 それが、俺と鍵宮さんの出会いだ。まあさすがにフロント係の後輩になるとまでは思っていなかったけれど、鍵宮さんは俺の顔を覚えていてくれたらしい。

『あのとき仙崎さんとお話ししたから緊張がほぐれたのかもしれません』

 後日そう言ってくれた鍵宮さんの笑顔を、俺は忘れられない。

 彼女が来てから職場はより明るくなった。そして、よく笑い、気が利く彼女は当然人気者になり……俺はいつしか、鍵宮さんに惹かれるようになっていた。まったく、好きになるのに理由は要らないとはよく言ったものだ。

「……────」

 俺はそこでひとつため息をつくと、手を止めていた書類に向き直った。深夜帯のフロントはどうも考え事をしてしまってよくない。ちなみに今夜は鍵宮さんはシフトに入っていないので、いささか寂しくはある。

 不意に、至近距離で声をかけられたのはそんなときだった。

「どうしたのかね、青年よ。ため息は幸せが逃げる。良くないよ」

 俺はびっくりして思わず書きかけの書類をだめにしてしまった。顔を上げると、ちょうどカウンターに頭がちょこんと乗るくらいの背丈しかない獣人がこちらを見ていた。アリクイみたいな顔に、白と黒のツートンカラーという組み合わせはどこかで見たことがある。……そこまで考えた俺は、彼が手にしていたスーツケースに目がいった。そしてさぁっと青くなる。お客さまに気がつかないなんてとんだ失態だ。

「はっ、も、申し訳ありません!お客さまに気がつかずに……!」

 青くなった俺に、彼は伸びた鼻先を二、三度こすって笑い声を上げた。

「はっはっ、そんなことはいいよ。誰しもそんなときはあるし」

 彼はそこでちょこんと鼻にのせた眼鏡を押し上げると、まじまじと俺の顔を見上げた。つぶらな黒い瞳は落ち着いていて、心の奥まで見透かされていそうな深い色合いがあった。

「ふむふむ……今のフロントは君なのだね。優しそうな子だ。相変わらず、冬子は人を見る目がある」

 冬子と聞いて、俺が思い浮かぶのはこのセイリオスホテルの星原冬子支配人しかいない。もしやご友人だろうか。そう尋ねようとしたときだった。

「あら、そこにいるのは夢野さんじゃないかしら?」

 落ち着いた声音に俺とお客さまが同時にそちらを見れば、そこには支配人その人が立っていた。この人はいつ会っても彫りの深い顔立ちと青い瞳が知的でどこか神秘的な印象を受ける。支配人はこちらにこつこつと歩いてくると、嬉しそうに笑った。

「久しぶりね、夢野さん。お元気?」

「やあ、冬子。見ての通りだよ」

 夢野さんと呼ばれたお客さまは、そう言うと小さな両腕を目いっぱい広げて見せた。支配人は上品に笑うと、俺のほうに向き直る。

「薫くん、この人は夢野獏夜ゆめのばくやさんよ。私の主人と厨房長とは旧い友人なの」

 俺は軽く目を見張って今一度目の前のお客さまを見た。夢野さまは鼻眼鏡をくいっと押し上げると、にっこりと笑った。

「やあ、どうも。冬子が紹介してくれた通りだが……私の名前は夢野獏夜。獏だけに、夢の治療を行うのが仕事だよ。よろしくね」

 腕を伸ばしてカウンターの上に出されたのは、一枚の名刺だった。和紙刷りのそれには、“夢学療法士むがくりょうほうし 夢野獏夜”と達筆で書かれていた。聞いたことのない職業だなと内心で首を傾げつつ、俺も懐から名刺を取り出して挨拶をした。

「仙崎薫と申します。星原支配人よりフロントを任されております。何かご入り用にはいつでもお申し付けください」

 夢野さまは俺の名刺をとっくりと眺めて深々と頷く。支配人は俺たちのやりとりが終わったのを見届けると、夢野さまに話を振った。

「ところで、夢野さん。厨房長なら食堂にいるわ。会っていかない?」

「もちろんだとも。私もいい加減年は取ったが、今でもあいつの料理は10年に一度は食いたくなるよ」

 懐かしそうに目を細める夢野さまに、俺は笑顔を浮かべて口を開く。

「でしたら、お荷物は先にお部屋までお持ちいたします。ごゆるりとお楽しみくださいませ」

「あぁ、じゃあ頼もうかな」

「かしこまりました。こちら、お部屋の鍵になります」

 ありがとう、と礼を言った夢野さまに、俺はお決まりの一言を添えて一礼した。

「ようこそ、セイリオスホテルへ」

 支配人の温かな微笑みが視界の隅に映って、自然と背筋が伸びていた。俺はこのホテルのフロントなんだなと、改めて実感した気がした。

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