第3話
俺の働くセイリオスホテルは、ちょっと変わったお客さまが多い。もちろん普通の人間のお客さまもいらっしゃるが、そうでないお客さまも少なからず訪れる。どれくらい変わっているかというと、例えば今俺の前にいるお客さまの頭は魚のそれである。
身体は人間、頭は魚……たしか、昔にそんなキャラクターが出てくる童話を読んだことがあった気がすると思いながら、俺は笑顔で彼にホテルの鍵を手渡した。もっとも、このお客さまは先の童話とは異なり、マグロよりはウナギ似の顔つきだが。
「では、こちらの鍵をお持ちください。あちらのエレベーター前に案内の者がおりますので、ご提示くださいませ」
「あいわかった」
細く伸びたヒゲをうねうねと動かして、魚頭のお客さまはエレベーターのほうへと歩いていく。せっかちな性格なのか、やや足早だ。俺はその背に一礼して、言った。
「ようこそ、セイリオスホテルへ」
それはここのホテルのフロントに伝わる歓迎の言葉。聞こえていなくても言う。それを面倒なマニュアルだと思ったことは、一度もない。言うと不思議と自分のほうが気が引き締まるから、むしろ俺は気に入っている。
「仙崎さん!」
はきはきとした声が俺の耳に届いたのは、ちょうどケンタウロスのお客さまがチェックアウトされたときだった。彼女はすれ違うお客さまに丁寧に頭を下げると、フロントに戻ってくる。
「鍵宮さん、515室の忘れ物どうだった?」
そう尋ねると、彼女───鍵宮さんは力強く親指を立てて笑顔を見せた。
「なんとかなりましたよ!たまたまリリーさんに会ったので手伝ってもらっちゃったんですけど……」
彼女は鍵宮理子さん。俺の後輩で、俺と二人でもっぱらこのフロントを任されている。よく気が利くし対応も早いから特に常連のお客さまからはひいきにされており、従業員の中でも交友関係は広い。端的に言えば、とても良く出来た後輩だ。
俺はそんな評判の高い鍵宮さんの笑顔を見ながら微笑んで頷いた。
「それでいいと思うよ。清掃員ってそういう人たちだし……ただの人間じゃあどうしようもないからね」
ここらへんで断っておきたいのだが、別に俺も鍵宮さんも常日頃から視えるクチの人間ではない。むしろ、普段はどちらかというと鈍いほうだと思う。なんでも、このホテル自体に支配人が特殊な魔法をかけているらしく、そのおかげでただの人間の俺たちも異形のお客さまを視ることができているのだそうだ。当初はこの現代社会で魔法なんて、と思ったものだが、実際に人外のお客さまと会ったときのインパクトときたら相当なものがあった。
『別に見たくないものは目に映らないのだけれど……あなたはいつもお客さまを見ようと心がけているんでしょう?だから、何かの力がなくても大抵のお客さまが見えるのよ。それは、誇るべきことだと思うわ』
以前、ここに勤め始めたころに支配人から言われたことを思い出す。本当に様々な種族のお客さまを目の当たりにすることになって戸惑っていた俺に、支配人はそう声をかけてくれた。今となっては日常の風景になりつつあるが、当時は自分もとうとう視えるようになってしまったのかと思って混乱したものだった。漫画とかアニメとか、そういう類いのものが現実になるとは思っても見なかったからだ。だからこそ、あのときの支配人の言葉は非常にありがたかった。
「仙崎さーん……?大丈夫ですか?」
昔に思いを馳せていると、無言の俺を不審に思ったのか鍵宮さんがおそるおそる尋ねてくる。俺は軽く笑って頷くと、それより、と話題を変えた。
「そろそろお昼休憩だから先に行っておいで。今日はセルマンさんのカレーだって」
その瞬間、鍵宮さんの顔がぱっと輝いた。よくある表現をするなら、犬の耳や尻尾が見えた気がするくらいだ。
「えっ、ほんとですか!?」
「うん、朝通りすがりのマオから聞いたからたしかだよ」
同僚兼友人のマオこと斑目麻緒は、ホテルの食堂で働くウェイターだ。口は悪いけれど、仕事はすこぶる出来るし何だかんだと気遣いやでもある。本人が聞いたらきっと照れ隠しに渋い顔をするだろうから、面と向かって言ったことはないけれど。
「やったぁ!セルマンさんのベジタブルカレー大好きなんですよー!」
鍵宮さんは小さなガッツポーズとともに歓声を上げた。ちょうどお客さまがいない時間帯には、俺たちはこうして他愛もない話をするのが日課になっていた。俺は小躍りしそうな勢いの鍵宮さんに苦笑を浮かべつつ続けた。
「皆に俺の分も残しておいてって伝えてよ。俺もあれ好きだからさ」
「了解ですー!」
軽く敬礼をして見せた鍵宮さんが、先に昼食をとりに食堂へ向かう。その拍子にふわりと制服のスカートの裾が揺れ、結った髪がワンテンポ遅れて鍵宮さんの後を追う。
俺はその姿を見送り、小さなため息をつく。それが今日も気持ちを悟られなかったという安堵なのか、それともまた機を逃したということへの後悔なのか、長いこと離れもしなければ縮まりもしないこの距離感に慣れきってしまった俺には区別がつかなくなっていた。
「……まだ自分の気持ちに正直になれないでいるの?薫」
不意に、そんな言葉をかけられて心臓が止まるかと思った。俺はばっと声のしたほうを振り返る。
そこには、何故かデッキブラシを片手に持った同僚───清掃員の水瀬小百合さんが立っていた。彼女は魔女で、本名はリリーさんだから皆ほとんど人間の名前は呼ばないが。
俺は安堵と少しの気恥ずかしさを込めて、彼女に向かってさりげなく言った。
「……気配を消して後ろをとるのは良くないですよ……」
「……声をかけるのは悪いかと思って。あとこれ、返しに来た」
水瀬さんは無表情に言うと、俺に向かって鈍く輝く鍵を手渡した。
それは、まだ改装工事中のフロアへ続く鍵だ。彼女は団体客用や季節限定の営業を行うフロアの掃除を任されている。ハロウィンの時期には大勢の魔女たちも止まったことのあるあそこは、そろそろ冬季に向けての準備期間に差しかかろうとしていた。
「あぁ……ありがとうございます」
寡黙な魔女さんは、どういたしまして、とだけ答えてまたホテルの掃除へと出かけようとする。しかし、この日は何を思ったのか、数歩いかないところで立ち止まって、俺を振り仰いだ。
「……薫。理子は鈍いから、きちんと言わないとわかってもらえない。いつまでもそこにいるだけでは、あなたがつらくなるだけ」
俺はとっさに返す言葉がなかった。やっぱり聞かれていたという恥ずかしさが熱となって顔を染めるのがわかった。水瀬さんはそんな俺を笑うこともなく、言うだけ言うと今度こそ去っていく。対する俺は、その背を見送ってから思わずカウンターに突っ伏した。
「……わかってるよ、そんなこと」
自分がこの気持ちを言わなければ終わらないことも、わかっている。
そして、ただ俺は、穏やかに楽しく彼女とフロントに立って仕事をするという日常を壊すのが怖いだけなのだということも。
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