カレーの王子様! 俺とお前とキーマカレー

依田一馬

俺とお前とキーマカレー

 彼、篠塚しのづか廉太郎れんたろうは悩んでいた。


 場所はスーパーの精肉コーナー。新鮮な精肉がパック詰めされ均等に並べられている。篠塚はその一角で足を止め、数十分思考を巡らせていた。


 ――牛豚合挽二〇〇グラムが一九八円。隣に、鶏ミンチ一八〇グラムが一二〇円。


「今日俺が食べたいメニューからすると合挽の方が……。いやしかし、鶏ミンチも淡泊な味のわりにしっかりとした食べ応えがあり、なかなかに捨てがたい」


 思考が既に口からだだ漏れになっていることに気づかないほど、彼は今精肉に対し真剣に吟味を重ねている。


 ジューシーな肉汁は煮込んだときの味に明確なパンチと深みを効かせてくれる。特に牛肉の場合、それ自体が癖のある味だからこそ、「今こそ牛肉を使用すべき」というとっておきの場合でなければ使用したくないのは事実だ。そして、こうも思う。今がそのときなのではないか。この高級感を享受するのは、まさしく今ではないのかと。


 対するは鶏ミンチである。篠塚ははっきり言って、鶏ミンチが大好きだ。便利でどんな料理にも合い、歯で噛いしめたときのしっかりとした歯ごたえが魅力的。このボリューム感にしてこのコストパフォーマンス。世のご家庭の家計の助けになること請け合いだ。


 高級感か、ボリュームか。


 むむぅ、と小さくうめき声をあげていると、その場所の空気が変わったことに気が付いた。


 ――この空気は!


 はっとして篠塚が顔を上げる。


 突如現れたスーパーの精肉担当者が、一枚一枚値引きシールを張り付けている。二〇パーセント割引のシールだ。丁寧に張られたシールは、今、篠塚の目の前で神々しく輝いて見えた。


 値段が下がる刹那、スーパーにいる誰もが飢えたハイエナと化す。

 狩りが始まる刹那のときめきと興奮。周りに悟られぬよう感情を押し殺しつつ、篠塚はそっと右手を伸ばした。彼の手は徐々に狙いを定めた獲物へと近づき、そしてそれをかっさらった。


 その瞬間、彼は圧倒的勝者と化した。


 静かなる興奮を抑えながら、篠塚は手にした二〇パーセント割引シールのついた精肉パッケージへ目を落とす。


 ――今日の狩りは上々だ。


***


「そんな訳で今日はキーマカレーを作ろうと思う」


 帰宅した篠塚を出迎えた嵯峨さが希純きすみは、彼のぶっきらぼうな口調に思わず首を傾げてしまった。


 彼の帰宅直後の機嫌はスーパーでの狩りの結果により左右される。聞いた限りだと結果は上々といったところだろうが、それにしては不機嫌そうだった。もともと体も大きく厳めしい顔付きの篠塚である。機嫌が悪いとなると威圧感が通常時の五割増し程度になるのだった。


「れんちゃん、いつにも増してる気だねぇ」

「俺の顔が怖いのはいつものことだろ!」

「それ、自分で言っちゃうの」


 篠塚と希純は幼馴染で、家賃を浮かせるためにルームシェアをしている。もっと正確に言うと、篠塚が暮らしていたアパートに家賃滞納のために追い出された希純が転がり込んだというただそれだけなのだが。


 男同士のルームシェアでさぞ見苦しくなるかと思いきや、篠塚の趣味が料理、希純の本職がハウスキーパーという、家事にはまったく困らない状態であった。互いが互いの趣味をこなすだけで快適な生活を送ることができる。そんなこんなで、気が付けば同居生活も三年目。あまりに快適すぎてしばらくはこのまま同居する方向で話がまとまっていた。


 さて、この家の台所の主は篠塚であるが、月に一度猛烈なリビドーを滾らせて作る独自の料理があった。


 キーマカレーである。


 毎月特定の時期に繁忙期を迎える彼にとっては、自分で作るキーマカレーが心の支えなのだそうで、繁忙期を終えた毎月一〇日ごろは必ずカレーの日となる。誤解のないよう追記するが、篠塚は大抵の料理は作れる。その気になれば燻製すら自分で作ってしまうほどで、決してカレーしか作れない男ではないのである。


 さて、と篠塚はスーツの上着を脱ぎ腕まくりすると、両手を石鹸で丁寧に洗い始めた。


「れんちゃん、おれも何か手伝おうか?」


 希純が声をかけると、篠塚はそっけない口調で返答する。


「俺がおいしいカレーを作れるように祈ってくれ」

「分かった。じゃあ、今適当に作曲したカレーの応援歌を歌おうではないか」


 途端に希純は「カレーはおいしい」「カレーは正義」と妙なリズムで歌い始めた。そして適当なふりをつけてダンスし始めたので、篠塚は一言。


「訂正する。静かに座っていてくれ。俺が本格的にブチ切れる前に」

「……れんちゃん、カレーを神様かなにかだと思ってない?」

「カレーは神聖な食べ物だ」

「さいですか。じゃあ、より神聖なものにしよう。ちょっと待ってろ」


 篠塚が手際よくスパイスを調合している間、希純はベランダに出て何かごそごそと作業し始めた。


 数分後、ようやく戻って来たかと思えば、希純は篠塚の目の前に何かを突きつけた。


 驚くほど巨大なピーマン。


「これ食べようぜ」

「おお……これは……!」


 あれほど希純のことを邪険に扱っていた篠塚の手が止まり、恍惚とした表情を浮かべる。男性の手のひらと比べても余るほどの大きさのピーマンは、瑞々しく艶めいている。それはあたかも若い女子の肌のようにハリがあり、つややかだ。その官能的な出で立ちに、篠塚は思わず欲情した。


 明らかに目の色が変わった篠塚に、希純は勝ち誇ったような顔でいる。


「おま、それを、どこで……!」

「おれが育てたやつ。春先に家庭菜園始めただろ。あれだ」


 そういえば大型連休の時期に、暇を持て余した希純がベランダのプランターになにかを埋めていた気がする。まさかあれがここまで美しい成長を遂げるとは思ってもみなかった。


「素晴らしい!」

「素晴らしかろう! 褒めたたえよ!」

「かっこいいよピーマン様!」

「育てたおれをだよバカ!」


 ここにピーマンひとつで大いに盛り上がれる成人男性二人がいた。


 気を取り直し玉ねぎとピーマンを丁寧にみじん切りにする篠塚。その横で希純が鍋に湯を沸かし、固形スープを投入していた。


 野菜のみじん切りは篠塚の最も好きな作業である。黙々と包丁を動かしているとなんだか心が洗われるような気がするのだ。そう、その行為は篠塚にとって精神を統一するための儀式だった。


 満足するまで野菜を刻むと、篠塚はちらりとスープへ目を向けた。

 固形スープとはいえ決して侮れない。あの琥珀色のスープとこれらの野菜を組み合わせたら、一体自分はどうなってしまうのだろう。否、むしろ好きにしてほしい、振り回されたい。思わず生唾を飲み込む篠塚である。


「れんちゃん、煩悩を払うそばから邪念渦巻きまくりだぞー」

「お前、心を読むな!」


 くわっと噛みつく篠塚だが、このやり取りはいつものことだ。希純はそれをのらりくらりとかわしている。


 刻んだ野菜と戦利品である合挽肉をホーロー鍋に入れ、ガスコンロで火にかける。


「でもまあ、ほんと、れんちゃんは変態だと思うよ、うん」

 希純が言う。「スーパーで食肉を目の前にしてときめくのは全然構わないんだけど、野菜に妙な感情を持っていたり、スープにエロスを感じているところはもう残念としか言いようがないね。顔は悪くないのに。よく彼女さんは見捨てないよね」


 そこまで言ってから、希純は篠塚の動きがぴたりと停止したことに気が付いた。

 れんちゃん? と彼を仰ぐと、篠塚は顔面蒼白の状態となっている。微かに唇が震えているのは気のせいではないだろう。


「えっ? まさか」

「振られたよ、昨日」


 絞り出すような声で篠塚は言った。


「最初は料理男子にときめいたとか言っておきながら、あいつ、最後の捨て台詞が『変態は野菜と共に地に堕ちろ』だった……!」


 篠塚も大分頭のおかしいことを言うが、元カノもなかなかシュールなことを言う。


 それはともかく、だから今日の篠塚は並ならぬ気迫で帰宅したのだと、希純はこのときようやく気が付いたのだった。

 これは励ますべきだろうか、しかし、どうやって。この変態を励ますために希純ができることと言えば、精々その他の家事くらいだろう。


 思考を巡らせる希純の横で、篠塚は完全にストッパーが外れたらしい。徐々に語調が荒くなってゆく。


「野菜を生産する農家の皆様に謝れよ……丹精込めた食物には最大の敬意を払うべきだろう……肉も魚も野菜も、あらゆる食物は我々の血となり肉となるために命を捧げてくださっているのだ。それを最大限おいしくいただこうとして何が悪い!」


 そこでとうとう篠塚は発狂した。


「野菜と地に堕ちることができるなら本望だろうが!」

「れんちゃん落ち着け! 神聖なるキーマカレー様の前で無様な行為はよすんだ!」


 希純が慌てて言ったその言葉が篠塚の心にしかと届いたのだろう。篠塚はぴたりと動きを止め、「……それもそうだな」と一言呟いた。


「そんな訳で俺は今とても気分が悪い。カレーに余計な呪いを込めてしまいそうだ」

「ああ、うん……。なんというか、察してあげられなくてごめん」


 今日は愚痴を聞いてあげるよ、と肩を叩く希純だった。

 しかし、このままではよくないことが起こる気がする。しょうがない、奥の手を使おう。希純は意を決し、小さく咳払いした。


「ほーられんちゃん、よく見るんだ。今から君が丹精込めて炒めた野菜たちをスープが包み込むよー。機嫌直してー」


 まるで子供をあやすかのような口調である。


「見てごらん、まるで高級な布のようだろう。今君の野菜はこの布に包まれてきらきらと輝くんだー。いわばドレスアップだね! そして香辛料という名の魔法の粉を振りかければ、あっという間に美しいお嬢さんの完成さ。さあ見ろれんちゃん、これがお前の嫁だー」


 希純の語彙力が試されていた。

 今ここで篠塚が再度発狂すれば飯を食いっぱぐれるのだ。それだけはなんとしても避けたい。篠塚が理解してくれる範囲の言葉をかけるには、相当、いやかなりバカなことを言わなければならなかったが、最終的においしいものが胃袋に入ることが確約できるのであればどんなに恥ずかしいことでも耐えられる自信があった。


 渾身の語り部に、「どうだ!」と自信満々に希純が篠塚を見上げる。


 ――しかし、篠塚はドン引きしていた。


「お前、さすがにそれは萎えるだろ」

「えええ」


 お前には、お前にだけは言われたくない。

 がっくりと肩を落とす希純をよそに、篠塚は思わず苦笑する。


「ありがと。やっぱお前最高だわ」

 しかし、と篠塚は付け加える。「このカレーでは嫁ではなく、やはり神なんだと思う。いかがだろう」

「……お前にだけは『萎える』だなんて言われたくないよ」



 そんなこんなでできたキーマカレー、つやつやに炊けた白米の上に乗せてやると、それはそれは素晴らしい品になる。元カノに対する呪いが込められそうになったとは到底思えない。素朴な家庭料理だが、その見た目が、その香りが、確実に食欲を掻き立てる。


 食卓に盛り付けた皿を置くと、希純は何やら携帯でカレーの写真を撮り始めた。

 篠塚は冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出しつつ、不審そうに首を傾げている。


「そういえば、お前時々料理の写真撮ってるよな」

「え? ああ、うん。写真撮るの、趣味、だからね……?」


 希純は言葉を濁しているが、篠塚がそれ以上追及することはなかった。彼にとってそれは些細なことだった。そう、今目の前に対峙する料理との対話に比べたら、写真の一枚や二枚大したことではない。


 希純は一分ほど携帯をいじっていたが、用事はすぐに終わったのだろう。それを胸ポケットにしまい込むと、改めて食卓に着席した。


「それじゃあ、神聖なるキーマカレー様に敬意を払いましょう」

「ああ」


 そして二人声を揃えて最高の祝詞を唱えるのだ。


 いただきます――と。


***


 数週間後、缶ビールを片手に篠塚が深夜のニュース番組を見ていたところ、SNSで話題になっている料理実況者が特集されていた。


 その名は、「カレーの王子様・RENN」。

 毎月決まった時期になると現れ、食欲をそそるキーマカレーの写真と、それに合わせた短編小説を投稿しているのだという。


 そして一例として紹介された写真には見覚えがあった。数週間前の、神聖なるキーマカレー様だ。


 篠塚は一度開けた缶ビールを思わず取り落としそうになった。


「はっ……はあ?」


 その時居間の扉が開き、風呂上がりの希純が頭を拭きながらやってきた。


「お風呂いただきましたーって……、何。れんちゃん、ひどい顔してるよ」


 しばらく真っ白な彫像になっていた篠塚だったが、彼の呑気な声に反応しゆっくりと振り返る。その表情は般若と見紛うほどだった。それでも希純は動揺せず、テレビに映ったキーマカレー様へ目を向けている。


「キスミ! お前は一体、世間様になんてものを晒してくれるんだ!」

「え? ああ、この放送今日だったんだ」

「知ってたのかよ! つーか犯人はお前なんだな、そうなんだな!」

「だってこうしていれば、れんちゃんの趣味嗜好が変じゃないって証明できるでしょう!? 君の料理の腕前を、ただの変態として終了させるのはもったいないじゃないか! 元カノさんも見返せるよ! 素晴らしい案だと思うけど?」

「それはもうどうでもいい! あの文章へったくそすぎだろ! ちゃんと推敲してやるから事前にちゃんと持って来い!」

「まさかのダメ出し! やっぱれんちゃん変だよ、筋金入りの変態だよ!」


 ――こうして、『カレーの王子様・RENN』とその中の人が密かにタッグを組むことが決定し、お家カレー界に新たな旋風を巻き起こすこととなったのだった。


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