後編
産子宮科の院長室。
テーブルを間に挟んで、俺と院長は向き合っていた。院長の年齢は五十代ほど、四角い顔で大きな黒ぶちの眼鏡を掛けている。彼の後ろには、黒いスーツを着た頑健な男が一人立ち、威圧感を放っていた。
「それでは、これで示談成立ということで」
院長が机の上に出した茶封筒を、俺は受け取る。その場で中身を出すと、そこには諭吉が描かれているピン札が二十枚入っていた。
「今回はご迷惑をおかけいたしました」
「いや、ちょっと待ってくださいよ!」
俺が拳で机を叩き立ち上がると、院長は不思議そうな目で俺を見つめた。
「何か?」
「か、金って。お、おかしいでしょう。死んでるんですよ、子宮が死んでるんですよ! 中にいた子供も! 死んでるんだよ、潰されて! それが、金って……」
「額が不満でしたか?」院長は静かに微笑んだ。「分かりました。さらに上乗せをして二十万ほど――」
「金額の問題じゃあない!」
俺は手を大きく振るった。机の上に乗っていた花瓶が吹き飛び、床に叩き付けられ大きな音を立てる。室内には、俺の荒々しい吐息だけが響いていた。
呼び出されて、突然あの日のことを謝罪され、ぽんと金を出されてはい終わり、そんなんで話をつけられるはずがない。怒りがこみ上げてくる。
「ふむ」と院長は、四角い顎を撫でた。「それでは裁判を起こしますか? 止めた方がいい。金も時間も浪費する上に、あなたに勝ち目はありません。素直にこの金を受け取るのが、賢い選択かと」
「なんだと……」
「子宮は器物ですから。今回の件は、私たち病院側の過失ですから、こうして示談金を出している。こうして済ませるのが一番穏便です。何が不満なんですか?」
「ふざけんな! 子宮が器物だと! あれは生きてるんだぞ!」
「犬猫だって器物でしょう。子宮と違いはない。それとも何か? まさかとは思いますが、あなたは子宮に人権があるとでも思っているのですか? まさか、あの怪しい宗教団体に入信している?」
「宗教団体……?」
「日本子宮権です。子宮に人権をだとか訳の分からないことをほざいているいかれた宗教組織ですよ。いや、人権団体だったか? まあ、どちらでもいいですが。私が言いたいのはですね、子宮に人権など存在しないということ。今回の件はただの過失による器物損壊です」
「でも――」
「あなたは今、花瓶を叩き割った」
院長は静かに、床の上の割れた花瓶を見つめた。
「私たちがしたのはそれとなんら変わりない行為です。あなたと違って、意図的でさえない。まだ私たちのほうがマシといえるでしょう」
「子宮は生きている! 花瓶と同じじゃない!」
「ええ、生きてはいます。ただ人ではない。それだけの話だ」
「……!」
「あの子宮が孕んでいたのが人間の子供なら、また話は変わっていましたがね……。孕んでいたのが子宮の幼体でよかった」
「お前……!」
自分の声が、震えていることに俺は気づいた。いや、声だけじゃない。身体全体がぶるぶると、怒りで震えていた。
「そんなことが言えるなんて、お前は本当に人間なのかよ!?」
「ええ、私たちは人間だ。そして子宮は子宮だ。あなたこそそんなに子宮に肩入れして、本当に人間なのですか?」
「何……?」
「あなたもしかして、人間の形をした子宮なんじゃないですか?」
ははは、と院長が笑った。後ろに控えていたスーツを着た男も、つられて笑う。
かっと、頭に血が上る。
俺は院長の胸倉をつかむと、拳を握りしめ殴りかか――。
スーツの男に担がれた俺は、病院の裏口から土の上にぽい、と投げ捨てられた。殴られた腹がひどく痛み、呼吸ができない。院長が、俺を冷ややかな目で見降ろしていた。結局、俺はスーツの男に阻まれ、一度として院長を殴ることができなかった。
ぽい、と地面に封筒が投げすてられる。
先ほどよりも、封筒は分厚くなっていた。
「余剰分だが、遠慮なく受け取っておきなさい。治療費です。私は人間担当ではないから、あなたの治療はできません。もっともあなたが子宮だというのなら、少しは見てやってもいいですが……」
はははははははは、と青空の下に院長の笑いが尾を引いた。
俺は帰宅途中で、封筒をどぶ川に投げ捨てた。
イオンで買った大きなペットボトル入りの安酒を飲んで過ごす日々が続いた。イオンの酒は頭に響く。大量に飲んだ翌日はまともに立ち上がれない。つまりコスパは最高ってわけだ。
買い物に行く。街頭のテレビがニュースを流している。
大量の子宮を蹴り殺した大学生が、子宮の愛護と管理に関する法令に触れ、逮捕された。政府は人口調整のため、子宮の強制出産を前年度比で2%増加させたという。違法に子宮の肉を調理し提供していた店が摘発された。新感染症に発症した子宮に注意してくださいという警告。国民のDNAライブラリ導入により父親の分からない子供の数は少なくなっている。
聞いているうちに俺は頭がおかしくなりそうで、酒を飲みながら家に帰った。そうでもしなければ、この世界に順応できる気がしなかった。
食って、寝て、出す日々が続いた。八木が俺を心配してやって来たが、すぐに追い返した。八木が見舞い品として無理やり置いていった箱を開ける。
中には、新型オナホールが入っていた。質感、姿形、そして膣、全てが高水準でぬくもり機能付き。自動で疑似膣内が湿り、メンテナンスも容易。本物の子宮と変わらない快感が味わえますという謳い文句。
俺はそれをゴミ箱に投げ捨てた。
あれだけ輝いて見えていた世界が、今はどぶ川のようだった。
その日は、ドアホンの音で目が覚めた。また八木か、あるいはセールスか、民法の集金か。俺は酒で痛む頭を抑えながら、ドアホンのモニターを見つめる。
画面に映っていたのは、見たこともない男だった。年齢は三十歳くらいだろうか。そこそこ身なりのよい恰好をしている。男は、どこか疲れた表情で笑顔を浮かべていた。
「……誰だお前、セールスか」
『貞道さん、ですね。私、日本子宮権の
「日本、子宮権……?」
あの日、八木と酔っぱらいながら歩いていた夜道の光景が頭をよぎった。「子宮に人権を」と声高に叫び、デモ行進をしていたやつらだ。
モニターの彼は、切実な様子で俺に訴えた。
『私の話を、少しでいいから聞いてくれませんか?』
かつての俺なら一蹴していたであろうその願い。
俺はすぐ下まで降りていくと菰田に言い、久々に着替えをしてドアの外へと出て行った。
近くにあったチェーン店のカフェに連れていかれた。早速「子宮に人権を!」と表紙にでかでかと書かれたパンフレットを手渡される。菰田は、俺が事故で同棲していた子宮を失ったことを聞きつけ、マンションへとやって来たという。
彼は俺に、熱心に説いた。
なぜ子宮は法律で器物扱いなのか? なぜ男性同士の婚姻は認められているのに子宮との結婚は認められていないのか? なぜ子宮を犯しても、殺しても、軽い罰則で済まされるのか? 人口調整のために子宮の同意なく子供を産ませる行為が認められてよいのか? なぜ、人を産んでいる子宮に人権はないのか?
彼が問いかけているのは、この社会では疑問を持つ方がおかしいとされる当たり前のことだった。
子宮はただ男の遺伝子を後世へと伝えるためのもの。それが世間の見解だ。それはヒトもだけの話ではない。イヌでも、ネコでも、クジラでも、哺乳類ならばみなそうだ。そして自然界でも、子宮の地位は男よりも下位傾向にある。
俺自身もそう思っていた。
だが今では、違う。
あの日、子宮を失って以来、俺の中で何かが変わっていた。この社会は酷く歪なのではないかと、今の俺はそう思っていた。
だが俺の思想が果たして、彼らの思想と一致しているのかはまだ分からない。だから俺は、見極める必要があった。
「合わせてくれ」
と俺は菰田に言う。
「はい? 誰に……ですか?」
「お前らの、会長様だよ」
ガラス張りの高層ビルである日本子宮権の本部――その最上階。
観音開きの扉を開けたそこは、まるで教会のようだった。長方形の空間に幾つもの長椅子が並べられており、一番奥には祭壇が見える。その前に、白いローブを着た人間が立っていた。背は小さく身体も細く、随分と華奢だ。
俺は迷うことなく、祭壇へと歩いていった。
子宮人権団体「日本子宮権」、その会長と向き合った。
ローブで顔が隠れており分からないが、向こうが微笑んだ気がした。
「貞道さん、ですね。歓迎します、新たな同士を」
「お前が、ここの会長か?」
「ええ。ギュノスと、そう申します」
「……なんだその変な名前は」
「アンドロギュノスをご存知ですか?」
「アンドロ……ギュノス? アンドロヒステリコなら知ってるが……」
「ええ、そうでしょうね。ごめんなさい、意味のない質問でした」
「はぁ? 何なんだ、意味わかんねえよ」
「ここではないどこか。つまりは私の世界の話です」
やつが、ローブを取った。
ギュノスは綺麗な、整った顔立ちをしていた。ギュノスの髪は金色で、窓から入る日差しを浴びて輝いていた。髪は長く腰のあたりまで伸びている。睫毛は長く、顔は細く白い。
俺は顔を顰める。
というのもやつは、ローブの下は真っ裸だった。おまけに、非常に奇妙な体系をしている。太ってもいない、というかむしろスレンダーなのに乳房だけはやけに膨らんでいる。膨らみ方も力士などと違って、やたらと前へ膨らんでいる。中に何か詰めているのだろうか? それにしてはやけに柔らかそうだが。
そして、注目すべきは下半身だ。驚くことに、ギュノスの股間には陰茎が見当たらなかった。事故か何かで切除したのかと思ったが、傷口も見当たらない。奇妙なことに、なんというかまるで、初めから存在していないかのようなのだ。
「ど、どうなってるんだ……?」
と、そこで俺はふと気づいた。
自分の股間が痛いほど熱くなっていることに。
「な、なんだこれ……!」
俺は股間を抑えた。なぜ、急にこのような事態が起こるのだ。これでは、これではまるで――子宮を見たときの反応のようではないか。
「あなたのそれはおかしな反応ではありません」
ギュノスが言う。
それは俺の心を静めるような、とても穏やかな声だった。
「私はここではない別の世界から来ました。そこで私の性別はこう呼ばれていました
――女と」
「おんな……?」
こうして彼は、生まれて初めて女と出会った。
これは、とある女と男が出会うところから始まる物語。
この星で一番最初となるボーイミーツガールの物語である。
あの愛おしい子宮に人権を 全数 @anzencase
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