鬼灯色の花束を
アリス・アザレア
この魂をあなたへと捧げます
父と母は、三十代にさしかかろうかという遅い頃合いにわたしという子供をもうけた。
両親には子供がいなかった。だから両親はわたしの誕生を喜び、わたしは一人娘としてとても大事に育てられた。
でも、本当の真実は少し違っていて、正しくはわたしは二人目の子供であり、一人目は死産だったらしい、というのは大人になってから聞かされた話だ。
だからだろう。両親は必要以上にわたしを大事にした。過保護、という言葉がピッタリと当てはまるくらいわたしにこだわった。
門限を守るのは当たり前のこととして求められ、友人関係、ご近所付き合いは言うに及ばず、両親はわたしのすべてを知りたがった。
そんな家だから、わたしは年頃になっても『恋人』という存在がいなかった。
そういう関係になれそうだった人なら、いたけれど。両親は『結婚前提のお付き合いしか認めない』と、耳にタコができるくらいに繰り返すような人達だ。両親の気持ちの重さに年頃の男子は尻込みしてしまい、わたしを諦めていった。
まず両親と顔合わせをして挨拶をすませ、『結婚前提でお付き合いさせてください』と頭を下げて言えるような人。そんな人でなければ両親はわたしの隣に立つことを認めない。手を繋ぐことも、接吻も、絶対に認めない。
わたしの数少ない友人達が、一人、また一人と添い遂げる相手を見つけ、認め、式を挙げることになった、と報告をくれる。幸せそうな顔で、知っていた人が、知らない場所へと遠ざかっていく。
わたしは貼りつけたような笑顔で彼女や彼を祝福する。おめでとう、と。
両親がお付き合いを認めた少ない友人達が、一人、また一人と手を取り合って生きていく相手を見つけ、わたしのそばから離れていく。
…わたしは彼らを引き止めることができない。
わたしの手足には愛情でできた柔らかい枷がはめられていて、両親のそばから離れることを許さない。
愛でできた小さな島は、愛をたたえる水に囲まれ、空はまるで天井のように狭く小さい。
わたしはきっとこうやって柔らかい愛情に自由を奪われ、意思を殺され、縛られ、生きていくのだろう。この場所で、まるで呪いのような愛に囲われながら。
わたしは自分のために鎖を断ち切ることもできないまま、両親が認めた誰かと結婚し、子供を作り、やがては老いて、死んでいくのだ。
そんなことを考えていると眠れなくなり、両親が寝静まっていることをしっかりと確かめてから、小さな家を抜け出した。少し散歩でもすればこの心も静かになるだろうと期待しながら。
見上げると、月のきれいな夜だった。限りなく円に近いかたち。今日は満月だったろうか。
(嫌いじゃないの。両親のこと。わたしをとても大切に育ててくれた。生きることのできなかった一人目の子のぶんまで…。きっとそんなふうに思ってるに違いない)
ふ、と息を吐いて、両腕で自分を抱きしめる。
両親の愛に恵まれた。両親が許した人だけだったけれど、友人にも恵まれた。恋人はいないけど、飢えず、寒さに凍えず、生きてきた。わたしはきっと幸せだった。
(でも、こんなにも、息苦しい)
愛情が、まるで鎖のようにわたしを縛りつけている。そう自覚するようになってからずっと、両親の愛が、重たい。
重たくて、重たくて。愛情の枷に縛られたまま、愛の底まで沈んでしまいそう。
わたしはフラフラと歩き回った。物語の姫のように月から迎えが来たなら…。そんなことを思いながら、両親の愛から逃げるように、逃げ場所を求めるように、村から遠ざかり、夜の山に分け入った。なんて無謀なことをしているのかと自分に呆れながらも暗闇の中を彷徨う。
夜の森は茂る枝葉で月明かりが入ることもなく、すべてが漆黒の中に沈んでいる。
野生の動物。野盗。さまざまな危険に遭遇することもなく、わたしはその場所にたどり着いた。
ホオズキ。そう名付けたあなたが眠るあの湖に。
山を登って汗ばんだ
わたしの顔ほどはあろう大きな瞳に、わたしを呑み込むことも簡単なくらいに大きな口。岩肌のようにゴツゴツとした頭。遠い噂で聞いたような恐ろしい姿をしていたあなた。
わたしはあのとき、あなたから逃げなかった。それどころか、世にも恐ろしい姿をしたあなたに笑いかけていた。
…わたしは、わたしを取り囲む愛から逃げる場所をさがしていた。
そう、それがあなただと、わかったんだよ。どうしてかね。
そうしてわたしは『彼』という逃げ場所を見つけた。
それからの毎日は『ホオズキのため』と銘打っては両親の愛から逃げ回るような毎日だった。
わたしには彼がいた。だから孤独ではなかった。
わたしと話がしたいからと、彼は巨大な岩のような自分から、新しい自分を創造した。
彼はわたしと同じ『人』の姿を望み、わたしによく似た、けれど徹底的に違う人の姿になった。
わたしは女。彼は男。
その些細で徹底的な違いが、わたしと彼を引き寄せる。
「クシナダ」
人の言葉を
湖の底で眠るように時間を過ごしていたという彼には、人の社会や世界のことはよくわからないようだった。わたしが話すことならなんでもいいのか、口元に淡い微笑みを浮かべた彼はわたしの話をよく聞いた。
彼はわたしを肯定した。彼にとっては話す内容がわからないからかもしれないけど、自分を否定されないことが、わたしには嬉しかった。両親なら絶対に自分達の意見を挟んでくる。ホオズキはわたしの話を聞いてくれる。これだけでも全然違う。
「ホオズキは、どういう生き物なんだろう」
「いきもの」
「わたしは、人だけど。ホオズキはなんだろうね」
人の形をした手に自分の手を重ねてみる。ひんやりと冷たい手だった。彼の本当の体…というか、頭、というかが水の中にあるせい、だろうか。生きているのに冷たい手。
わたしより少し大きいその手が、慎重に、ゆっくりと私の手を包む。注意深くわたしの手に視線を落としていた彼は「わからない」とこぼして緩く頭を振った。
彼が人でないことは間違いない。…それでもわたしは構わなかったのだけど。
わたしと彼は湖の淵で隣り合って座り、手と手を重ねて、他愛のない話をする。たいていはわたしが話して、彼が相槌を打つだけ。どうでもよくて、でも聞いてくれる誰かがいることが嬉しい、そんな穏やかな時間を重ねていく。
「クシナダ」
…彼にそう呼ばれるだけで、わたしの胸はほんのりとあたたかく、切なく揺れる。
逃げ場所だった彼は、いつの間にかわたしの心の拠り所、わたしの居場所へと変化していた。
そして、それはたぶん、わたしと彼以外には歓迎されないコトだった。
「遅くなっちゃった。ごめんねホオズキ」
「ま、ってた」
「…うん。知ってる」
湖の淵で立ち尽くしてわたしを待っていた彼は相変わらず冷たい手をしていた。いくらあたためてもわたしと同じ温度になることはない。
なんでもいいから、とわたしの話を聞きたがる彼。
わたしは彼とどうなりたいのだろう。決して人ではない彼と。
……彼は、わたしをどう思っているのだろう。
まっすぐにわたしを見つめる鬼灯色の瞳。鏡に映したようにわたしと同じ顔立ち。
それでもわたしは女で、あなたは男だった。
決してこれ以上にはなれないと知りつつも、わたしは彼のもとに通い続けた。
わたしは現実から逃げ続けた。友人はみんなわたしを置いていってしまったし、両親の愛は相変わらず重い。狭い世界の中で唯一わたしの手を取ってくれるのはホオズキだけ…。
きっと彼は、恋も、愛も、わからない。そんな彼に目を閉じてと囁いて、そっと唇を重ねたのは、彼との逢瀬を重ねてちょうど百回目の日のことだ。
冷たい手と同じ冷たい唇に触れて…なんだか、とても、泣きたくなった。
わたしのことを一から十まで把握したがる両親は、『泉で水を浴びたいから』という理由で度々家を抜け出すわたしを不審に思っていたようで、ついに手を打ってきた。
その日、両親は一人の男の人を連れてきた。「こちら、スサノオさん」母の紹介で頭を下げてみせるその人に、礼儀として頭を下げ返す。父が一つ咳払いをして「スサノオさんはな、お前を好いておられるそうだ」「…はぁ」「結婚を前提に、ぜひお付き合いを、とのことでな」そう言う父に、スサノオ、というらしい顔を上げた相手を見つめる。
背が低いわけでもなく、両親が認めたのだから素行に問題がある人でもない。顔立ちも、男前な方だと思う。…ホオズキに出会っていなかったらきっと、喜ばしい相手だった。たとえ両親が連れてきた人だとしても、まずは手を繋ぐところから…。そんな関係になれていただろう。
だけど、わたしはホオズキと出会ってしまった。
彼のことが好ましいと思っていた。たとえ彼が化物と呼ばれる生き物でも、構わない。そう思うほどには心を寄せていた。
表面上、自分を取り繕いながら、スサノオと話をした。そうでないとあまりに不自然すぎる。ここで逃げ出したら、いよいよホオズキのことがバレてしまう。
両親に知られてはいけない。
わたしがホオズキと心を通わせていると知ったら、どんなことになるか。彼がどうなってしまうか、わからない。
大きな太刀を振るうことができるスサノオは、その技でいくつもの戦を生き抜いてきた、らしい。…それが少し恐ろしかった。心強いとは思えなかった。その太刀が向かう先にはもしかしたらホオズキがいるかもしれない。そんなことを考えてしまう。
彼の話にあまり関心がないまま、わたしは笑顔で相槌を打つ。そんな時間が延々と続く。
夜になり、わたし達家族とご飯の席も共にした彼は滞在している民宿へとようやく帰っていった。
ほっとしたのも束の間のことで、その日から両親は夜遅くまで起きているようになった。おかげでわたしはなかなかホオズキのもとへ行けなかった。
両親にバレてはいけない。あの湖に特別な未練があると思われてはいけない。
わたしがようやく彼のもとを訪れたのは、最後の訪問から十日は過ぎただろう日のことだ。
わたしは彼に会いたくて仕方がなくて、気持ち急いで山道を行った。そのせいで着物が汚れても構わなかった。通じるかどうかは別として、両親には転んだとでも言い訳すればいい。
視界が開けて、いつもの湖が見えて、その淵にはぼんやりと佇む彼がいた。
「ホオズキ」
わたしが声をかけたことでようやく動き出した彼が、「クシナダ」とわたしを呼ぶ。…その心地のよい低音に呼ばれたのは随分と久しぶりだ。
小走りで駆け寄ったわたしは、山の道のりで疲れていた足がもつれ、転びかけた。そんなわたしを抱き止めたホオズキは相変わらずひんやりと冷たい温度をしている。「クシナダ」「あ、うん、大丈夫。ごめんね」慌てて体を離したわたしの視界には、こちらを見ているホオズキと。そして。茂みの中から飛んでくる、見憶えのある太刀が。
(あ、)
声、を上げる暇も、動く時間も、なかった。
わたしの目の前で、大きな太刀がホオズキの左胸を貫いて、湖の方から悲鳴とも声とも取れない大きな音が上がる。ゴボゴボと沸き立つように揺れる水面。彼が、苦しんでいる。
崩れ落ちるように倒れたホオズキに必死で縋りついた。「ホオズキ? ホオズキ、しっかりして、ホオズキ。ホオズキっ」わたしは彼を守ろうと必死で、森の方から歩んでくるスサノオへと両腕を広げて立ち塞がる。
「やめて。彼に手を出さないで」
「…できませぬ。ご両親からの願いです。『竜に
無表情なスサノオは片腕で簡単にわたしを退けると、ホオズキに刺さったままの太刀を無造作に引き抜いた。そうして、湖の方へと、まるで水の上を駆け抜けるように走っていく。
ホオズキは、一方的に切り刻まれて、彼が静かに暮らしていた湖は彼の血で真っ赤に染まった。彼が、死んだ、ということを示すように、わたしとよく似た人の形が溶けて消えていく…。
わたしはホオズキがいた場所に手を彷徨わせた。
…ない。ひんやりとしたあの肌がどこにもない。
(誑かされた…? どうして、そんなことを思ったの。どうして、そんなふうに考えたの。ホオズキは悪くないのに…悪いとしたら、それは、わたしの方で……)
彼の血で赤く染まった湖は、涙で濁った視界ではぼんやりと揺らいで見える。
スサノオに腕を取られても、わたしは茫然自失状態だった。彼に抱きかかえられても、抵抗するような力は戻ってこなかった。
ホオズキは死んでしまった。そう、わたしのせいで。わたしと関わったばっかりに、彼はこんなふうに殺されてしまった…。
そこからのわたしの生涯は、特別語ることもない、味気ないものだ。
わたしは義務的にスサノオと結婚した。両親から言わせれば、娘を救った立派な男だ。当然喜んだ。
わたしは、泣いた。嬉しくてではない。悲しくて、泣いた。
誰かと一緒になるのなら、ホオズキ。あなたがいい。ずっとそう思っていたのに、結局伝えられないまま、あなたは死んでしまった。…伝えていればよかった。許されないことだとしても、ちゃんと口にしていればよかった。そんなふうに後悔しながら、わたしは泣いた。
やがて子供ができても、その子が大きくなっても、両親が他界しても、わたしの心はずっとホオズキを求めていた。あなたを求めていた。あなたが恋しくて泣いていた。
あなたを殺した男と、好きでもない男と子供を作って、思い出のあなたに縋って。わたしはなんて汚い女なんでしょう。
(ホオズキ。これだけは信じて。わたしはあなたを愛しています)
年老いたわたしは、今日も、切り刻まれたホオズキが収められた大きな壺が埋葬された場所へ向かう。
今日も殺風景な丘には目印のように少し大きな岩があり、その下に、あなたが眠っている。
わたしは、皺が目立つ両手を組んで、遥か土の下で眠るあなたへ、届け、と願いながら、祈りながら、心を捧げた。
(きっともうすぐ、わたしもそちらへ行きます。だからもう少しだけ、待っていて。ホオズキ)
鬼灯色の花束を アリス・アザレア @aliceazalea
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