解放者たち

@dro

第1話 送る者

かつて、この国には名前があった。

最初の王は”雷の化身”と呼ばれ、偉大な王国を築いた神々の主。

しかしその国の名は、既に失われて久しい。

力を求め、求めるあまりに力に溺れ、挙句自分自身もろともに国まで破滅に追いやった”渇望の王”。

彼の生きた証も、永久に等しい年月がすべて洗い流した。

”覇王”と呼ばれ、あまたの国を手中に収めた者。

奇跡と慈悲を惜しみなく与え続けた者。

偉大なる王の血統を守り続けた者。

古代の力を復古せしめ、隆盛を極めた者。

数々の王が、この地を治め、また風化して行った。

いくつもの伝説だけが残り、彼らの力は尽くその影すらも消え失せた。

そして今、この国には、”まだ名前が無い”。



「偉大なる魂の王よ、この力失せた骸に祝福を。そして彼の御霊を正しく導き給え」

祝詞はぼそぼそと陰気な調子で、およそ何者に聞こえもしなかったが、不思議と荒野を渡る風に掻き消される事はなかった。

膝を折り、見窄らしい聖印(タリスマン)を掲げて、僧服の男はしばし祈った。

やがて目を開け、立ち上がり聖印をしまい込むと、おもむろに目の前の死体を蹴って仰向けに転がした。

死体は若い男だった。年頃は17を越えたか越えないか。戦に駆り出された農家の次男、そんなところだろうか。

周りに死体はいくらでも転がっているが、この少年だけは鎧に傷があまりない。

初陣で戦死するとは運のない事だ。

「いや、あるいはお前は運が良いな。罪なき魂に祝福あれ」

少年の首には矢が突き刺さっていた。血に塗れ、泥を被り、涙と涎・・・凄まじい面相だ。さぞ苦しんだろう。

「それでもお前は運が良い」

この地獄から早々に逃れたのだから。

僧服の男は、少年の身に着けていた革の鞄から、乾パン(兵糧だろう)と小銭数枚を抜き出した。

今回の戦は、どの死体もこんなものだ。新品の鎧を着込んだ貧民ばかりが戦っている。

ため息を吐いて、男は顔を荒野の端へ向けた。

彼方の山の稜線へ向けて、赤い日が落ちようとしていた。

「そろそろ潮時か」

”魂持つ者”の時間は間もなく終わるだろう。

早々に立ち去ろうとした僧服の男は、しかし数歩も歩かぬうちに足を止めた。

止まったのではなく、止められたのだ。

男の足を、血と泥にまみれた手がしっかりと掴んでいた。

「・・・まって」

その手は子供のように小さく、細かった。しかし掴む力は恐ろしく強く、男の足は地に縫い付けらたかのようだった。

「待ってよ。お坊さん」

仰向けに横たわったまま、握り締めた手を離さずに血まみれの女が言った。

「助けて。死体が邪魔で起き上がれない」

女は片手で、自分に覆いかぶさった戦士の死体をどかそうと難儀していた。

「生き残りが居たか」

驚きつつ、僧服の男は屈んで女の手を払いのけようとした。

「いや、助けてよ。お願いだから」

しかし、女の手は全く離れない。およそ瀕死の女の力ではない。

「・・・生き残り、ではないな」

「なんなの?早く助けてよ」

「お前は運が悪いな」

「はぁ?まぁ確かに、めぐり合わせは悪いよね」

「まだ自我があるようだ。全くタチの悪いことだな」

男は聖印を取り出すと、固く握りしめて祈った。

「偉大なる魂の王よ、この彷徨える御霊を今一度、御元へ導き給え」

祝詞を唱え終わると、男の足元からゆっくりと柔らかな光が立ち上り、男の体を包み込んだ。

そのまま聖印を高く掲げ、男は己の魂を込めて言葉を放った。

「”やすらぎあれ”」

言葉とともに、男の体から不可思議な光の波が辺りに広がった。

それは束の間荒野を白く照らし、瞬きひとつのあいだに消え去った。

男は足元を見る。

女の手は、地面に力なく横たわっていた。

目から自意識は消え失せ、そこにあるのはただの死体だった。

「さて、やはり急がねば。もう”魂喰らい”が湧き始めた」

今度こそ去ろうと足早に歩く僧服の男を

「・・まってってば」

後ろから呼び止める者があった。

男はゆっくりと振り返った。

その女は、元は白かったであろう血まみれのシュミーズ(下着)と、破れてもはや襤褸と化したホーズ(ズボン)しか身に付けていなかった。

長い金髪は脂や血泥で汚れきっており、べったりと頬に張り付いている。

そしてその目には、濁った闇がある。

尋常の暗闇とは違い、それは腐った切り株のウロのように不快に蠢いていた。

「さっきのなに?パッと光ったと思ったら、いきなり目の前まっくらになった」

死体のようにしか見えない者が、生者のごとく振舞う。

「本当にタチの悪い。冗談のようだな。まさに地獄」

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