(仮想)現実に逃げる

(1)

 未だにレトロメディアのプログラムのストラクチャーを引きずるような連中にとってみれば、“国境はなくなった”と言い切れるらしい。しかし、仮想現実をまともに生きていれば、姿を変えた国境にすぐにぶち当たるはずだ。

 人種、ジェンダー、階級、IQ、世代、あの世とこの世。タレントの九割がヴァーチャル化し、清潔感あるアバターを着た国会議員が選挙に勝つようになり、ついに国家元首にまで選出されるようになった。この世界では、イエローがブラックやホワイトを着ていて、その逆さえありえる。誰もが誰にでもなれるということを、すべての人が受け入れられるわけではない。

 つまり、新しい国境とは、現実と仮想現実との間にある。誰も何も、現実を仮想現実に持ち込めず、仮想現実は現実には持ち出せない。このことによって、現実を生きる人と、仮想現実を生きる人とは、分断されていった。それは過去との分断でもあった。


 この方向に世界の舵が切られたのには間違いなく、感染症の影響があった。新しい疫病の流行と再生産がワクチンとメディシンによって駆逐された頃にはまた、国籍不明の新しい疫病の流行がやってくる。それが二十年で七回あり、そのあとには非陰謀論者がマイノリティになっていた。

 振り返ってみれば、これらのことはビックテックたちのコンスピラシーだったのだ。先進国だけで見れば……仮想現実への接続者は人口の九割に達していて、睡眠時間を勘定から外せば、そのうちの四割は現実にいるよりも長く仮想現実にいる。これらの人々が稼ぎ出す財産は、あからさまに税のようにビックテックに吸い上げられているし、誰も抗うことはできない。意思決定に公の選挙が介されることはないし、ブラックボックスの中ですべてが決められていく。


 仮想現実との接続装置であるストリングスは、飼い犬につけられる首輪のようにも、絞首刑の縄のようにも見える。

 ビックテックの一角であるデールクイン社が開発したストリングスは頚椎の神経系と特殊な電波によって接続される。それからナノマシン入りの経口薬を二リットル飲み込んでベッドに横たわれば、九十六時間も寝転がったままでも健康を損なうことはない。

 この技術で、国会という名の最もローテクノロジーな場所まで仮想現実で行われるようになった。それは、言ってしまえば、国家すら仮想現実と化したようなものだ。


 現実とはビックテックと、彼らが収集するデータ、それによるマーケティングと、ストリングスを中心とした一連のシステムとサービスだけになっていく。

 さあ、未来についていきたければ、落ちこぼれて死にたくなければ、首輪をつけろ、犬になれ、豚になれ、どうせ食い物にされるオチだがな!

 歴史を見れば、スローガンなんか、いつも同じ。従うか死ぬか。

 かく言うオレは、いち早くテクノロジーの首輪をつけた一人だった。まさに吊られた豚であり、オレのようなのは雪崩を打って増殖した。


 膨大に膨れ上がったデータを効率的に運用するために、ビックテックの天才たちが考えたのは、データの引力という考え方だった。このことは特に周知されることもなく当たり前に一般化されていた。

 ユーザーが、一定以上のサイズのデータにアクセスをしようとするときに、ユーザーのストリングスにデータをコピーすることが、物理的に不可能であるという状況が発生する。その場合、ユーザーの仮想現実に関するデータを、体験しようとするデータがあるサーバーにコピーされるようになった。このことをユーザーはなにも意識することなく、ストリングスのシステムによって勝手に行われていた。

 そこからさらに、大きすぎるユーザーのデータという問題が発生し、ビックテックはデータをただコピーをするのではなく、コピー元の消去を行い、結果として移動させる形にした。

 当然、規約には仔細に書かれていることだ。だが、規約なんか誰が読む? こんなことが問題になると誰かが話しているのを聞いたこともなかった。


 オレは仮想現実の中で、実在する家族とともにいた。妻と娘と、一緒にソファに座って、映画の“グッバイ、レーニン!”を観ていた。

 母親が心臓発作で倒れたあと、主人公は連行され腹をぶん殴られ、リンゴを吐き出す。

 そのシーンで、オレはちらりと妻の様子をうかがい、心臓発作を起こしそうになった。まるでビデオのストップを押したかのように、妻が停止していて、娘も同じだった。

 それから真っ暗になり、ストリングスの緊急機能によって、現実に引き戻された。最初は驚いたが、ひどく冷静でもあった。オレは、あの世界が仮想現実であることを、生まれてはじめて自覚したような気持ちになっていた。悟ったような気持ちだ。


 そのとき、ストリングスとの接続時間は八十時間を超えていて、長時間の接続後にやらなければならないことはいろいろあった。用を足し、風呂に入るなどのことだ。筋力トレーニングのノルマはパスしてしまった。

 それらを済ませてから、オレはビックテックに問い合わせをした。応答したのはいつものようにボットで、よくあることだ、解決には少し時間がかかる、というようなことを回りくどく言うだけだった。


 妻とも連絡がつかず、しかたなくレトロメディアを点けた。ノスタルジックさが楽しみのひとつとなった、ワイドショー形式のプログラムを見ていると、オレに起きたことがちゃんと事件として扱われていた。そこでデータの引力や規約や法律についても語られ、ロストしたサーバーの位置が物理的にベルリンにあることも語られた。


 ベルリンでクーデターが起こり、邦人も取り残されている可能性もあるのだと。

 オレは事件を正確に理解できていなかった。どこに問い合わせても自宅で待てという返答しか得られなかった。妻子がベルリンに閉じ込められているのに、どうすることもできない。

 このときのオレはまだ、自分自身もベルリンに閉じ込められていることを理解していなかった。


(2)

 ビッグテックはサーバーがロストした場合の対策を何もしていなかった。そんなことは常識でありえないと思うかもしれない。だが実際にありえたのだ。オレのいたサーバーは量子コンピューター網から切断され、そこにあったデータのバックアップはどこにも取られていなかった。当然、オレのストリングスの中にも入っていなかった。

 二十億人もの人間のデータを何重にもコピーしてバックアップするためのサーバーを準備していなかったという、単にリソースの問題だった。オレのデータはバックアップの網目をすり抜けて、完全にロストしてしまったのだ。訴訟を回避する準備だけは万端で、このことは規約にも法律にも触れていないらしい。その根拠は、仮想現実はあくまで、インフラではなく、ホビーであるという建前だ。


 すでに形式と仮想と化した国家に、ビックテックを裁く力はないし、個人にはどうにもできない。情報規制さえなかった。少なくともオレにはそう思えた。オレ自身の行動はなんら制限されなかったし、メディアに出てくる情報が変に隠されている様子も感じない。

 仮想現実のアバターを失ったオレの姿は今のところ、いくつかの選択肢が用意された。どれも別人の皮をかぶるようで気に入らなかった。


 一連の出来事は、二週間ほどで、世間ではこういうふうに捉えられるようになっていった。


 “これはものすごく稀な事故だ”

 “現実の死を考えれば、仮想現実での死にはまだ救いがある”

 “かなりの賠償金が支払われたらしい”


 こうなってくると、オレは誰の前にも出たくなくなっていた。


 オレは死んだのか? ここにこうして息をしているのに? 耳を塞げば、鼓動を感じることができるのに? オレはオレに問いかける。鏡に向かって問いかける。お前は生きているのか? 問えば問うほどに疑わしくなる。現実のオレに、オレは馴染みがない。ずっと仮想現実を生きてきたからだ。声さえ他人のもののように感じる。

 タレントが低級の人工知能をいたぶる遊びを思い出す。人工知能同士が自分は人間だと騙し合わせていた。


 呼び鈴が鳴る。仮想現実と違い、現実は二十年くらい時間が止まったままであるようだ。

 ドアを開けると、筒状で全長が百三十センチくらいあるドローンが突っ立っていた。頭頂部にある蛇腹戸が開き、中にある食料が取れるようになる。オレは少しだけ安心する。現実のオレの顔認証は機能している。オレがオレであることを現実では証明できている。

 一方で、仮想現実のオレは、ソーシャルゲームでレベルを振り出しに戻されたような状態だ。服から何から買い直す必要がある。それと、どこからかオレの位置データが暴露されて、メディアや野次馬が殺到してくる。中にはハッキングしてくる連中もいる。

 それに比べて現実は恐ろしいほど静かだ。


 オレは一度、社会から脱落したことがある。その頃のことはよく思い出してしまう。

 十五年前でまだ学校は仮想現実化していないところも普通だった。オレはまるで無防備で、必要な知恵や法的な正義の考え方も知らず、肉体的精神的な問題に立ち向かわなければならなかった。

 周りの大人が、何かの助けになると思えたことはない。あるとすれば、最初のストリングスを買い与えてくれたことだけだ。あるいは愛情を与えてくれていたのかもしれない。だけど、あの頃、そして、もしかしたら今でさえ、オレの精神の底には穴が空いていて、愛なんか求めなかったし、満たされもしなかった。先に壊れた精神を塞いでほしかった。

 大人たちは右往左往し続けているだけのように見えていた。現実を侵食する仮想現実によって。彼らを見ていると自分は邪魔者なのだとしか思えなかった。


 現実の学校から、仮想現実の学校へと転校した。家から出るのも嫌になっていたから、消極的な仕方なしの選択だった。それが時代の流れから見れば、むしろ幸運だった。依然として、落ちこぼれであることは変わりなかったが、仮想現実にはトイレや校舎裏というものがないし、かなりの部分に公平な監視の目があり、嫌になれば、いつだって、オレはこの言い回しが好きだった……“現実に逃げる”ことができた。

 場所を変えたことで、狂っているのが自分ではなくて、前の学校のやつらであるとはっきりしたのも嬉しかった。


 新しい学校で落ちこぼれていても、社会に出れば、それなりだった。

 通学はせず、仮想現実の飲食店で接客の仕事をはじめた。

 感情を持たない人工知能の接客は常に合理的であるはずなのだが、それでは納得しない客は毎日一人は必ずいた。どんなに不合理でも彼らは、人間が頭を下げなければ納得しなかった。


 仮想現実の接客業は古く新しい職業だ。仕事内容は古くからあるが、仮想現実という条件がついただけでなり手がいなかった。オレにとっては好都合でベンチャーの金払いは普通だったが、その他の条件が良かった。キャリアアップには金銭的な支援が合った。オレはヨーロッパのいくつかの言語、とくにドイツ語と、人工知能に関することを大学で学ぶことができた。翻訳機も進歩していたが、会話には単語や文法や発音を覚える以上に必要なことがあった。仕草や表情もそのひとつだろう。ある程度は、文化を知る必要もある。


 中学校までの勉強はただただ不毛にしか思えず、やる気もなかった。社会に出てからの勉強はまるで違っていた。すべてが金や地位に直結するから、死にものぐるいでやるしかなかった。今のようにナノマシンもなく九十六時間の接続にはオムツも必要だったし、目覚めると背中に血がたまり、ただれたようになっていることもあった。オレは身体を壊しても、頭になにか詰め込まなければならなかった。


 そうまでしなければ、報われることはなかっただろう。仮想現実のアミューズメント企業に正規雇用され、中卒で働きながら、大学に通って、人工知能についての博士号を取ったことは、一目置かれる要素になった。

 就職が決まったとき、オレは二十二歳で、二十三歳には結婚していた。相手は仮想現実で出会った。仮想現実内の味覚の研究をしているドイツ人の女性だった。


 自立をしてから、オレは家族に会っていない。新しく家族になる人ができたことも報告すらしていない。

 十代のオレの苦しみを、彼らがあざ笑っていたというのは、妄想と言われても仕方のないレベルの思い込みかもしれない。

 だが、今さら会いたいとも思わない。現実に人と会うことが精神安定に重要だと言う医者もいるが、必要なものはすべて経口摂取してきた。それで生き延びている。オレはもう十五年間、このアパートから外に出ていない。現実で会いたい人はいない。仮想現実がなければ、引きこもりどころか廃人だ。ベルリンに住む妻とも現実には一度も会っていない。お互いにそのことを話し合ったこともない。オレたちは気が合った。


 オレにとって仮想現実こそが人生だった。それが一瞬のうちに消えた。あの日以来、妻と娘とも会っていない。今は会えないと妻からメッセージが来た。

 軍事クーデターによって、ベルリンにあるサーバーは人質になった。サーバーから物理的に一万人分のアバターのデータが抜き取られ、その中のひとつであるカーゲーベーの情報が取り引きに利用されているらしい。国防上の価値のないオレのアバターはたまたま巻き添えになっただけだったらしい。カーゲーベーとは失笑ものの疑わしい噂話であるが、陰謀論者からすれば、それこそがビックテックの狙いであるらしい。


 オレのアバターがベルリンのサーバーにあったのは、妻がベルリンに住んでいたからだ。オレたちは仮想現実のベルリンを拠点にしていた。データの引力によって、オレのデータはベルリンに移動させられていた。データの移動のことを意識したことはやはり一度もなかった。妻と娘のアバターは無事だった。同じサーバーの別のディスクにいたのだろう。幸運だったとしか言いようがない。


 妻はオレの百倍は頭が良かった。しかもエンジニアで、アーティストでもあり、オレがわけも分からずに呆けている間にクーデターのことを知り、自分と娘のアバターを旧式のローカルディスクに分割してコピーしたのだ。いつまた別のディスクが軍の気まぐれでサーバーから抜き取られるか分からない。

 妻はネットワークへの接続もやめた。彼女は何よりも、自分と娘のデータをロストすることを恐れていた。

 ネットワーク上に残るアバターにアクセスして、タイムスタンプがコピーしたものよりも新しい状態になり、そうなってからロストした場合に、コピーしたデータからストリングスに復帰できる保証はなかった。

 妻のメッセージにはビックテックへの失望が滲んでいた。


 “わたしたちはこれからどう生きていけばいいの?”


 オレにも分からなかった。現実を生きることなど今更できない。仮想現実のアバターの消滅は全く新しい死の恐怖だった。



(3)

 目の前でドローンが紙袋を頭に乗せたまま待っている。オレが紙袋を取ると、プログラムされた礼を言い、くるりと前後を入れ替えて、小さいキャタピラを回して、廊下を帰っていった。

 オレは何故かとっさに思いもしない行動を取った。ほこりを被った靴を履いて歩き出した。慣れないのでよたよたと、最初はまるで赤ん坊のようだったが、感覚を取り戻していった。


 雨なら引き返しただろうが、晴れていて、風も吹いていない。オレはほとんど十五年ぶりに外に出て、意味もなくドローンを追いかけた。人通りは皆無だった。みんな、仮想現実にいるのだろう。この街はそういう人たちのために創造された街だから。ホームレスも犬も猫もいない。鳥の姿さえ見ない。有機生命体の存在を感じない。ドローンだけが歩いたり飛んだり走ったりしている。宇宙から見たら機械の星に見えるだろうか。それとも、ちゃんと仮想現実の時代なのだと分かるだろうか。

 この国の配線事情は本当に醜い。電柱をはじめとして、今では道路の中央にさえ太いケーブルが横たわっている。こんな景観になることを決定したやつは本当に馬鹿だと思っていたが、こうして誰もいない街を見ると、それも正しかったのかもしれない。


 オレの追いかけたドローンは、ドローンたちのビルのドローン用のぴったりとした入り口に吸い込まれた。その先も追いかけようとしたら、逮捕されるか、もっとみじめで抜き差しならない状況に陥ることになるだろう。

 仕方なく見送ったが、オレの旅はまだ続いた。最初、帰り道が分からなかった。特に太いケーブルをたどり、それから線路が見えたから、駅まで行ってみることにした。思った以上に遠く、あるいはオレの体力がなく、途中で休んだ。掴んだままだった紙袋の中には冷めたバーガーと氷の溶けたスプライトがあったから、胃に入れてしまった。

 駅についたオレは家に帰ろうとは思っていなかった。電車に乗り、公共交通を乗り継いで空港に向かった。キャンセル待ちで四時間かかって、オレは飛行機に乗った。


 昔はいくつも書類が必要だったらしいし、オレにとっても海外に行くというのは面倒だらけなイメージだったが、検査と生体認証だけで、電車に乗るのとほとんど違いはなかった。十二時間のフライトを、同乗者は仮想現実に入り、やり過ごす。オレは入眠効果のある十二時間分のナノマシン入り経口薬を一気に飲み込み目を閉じた。

 間もなく到着とのアナウンスが入る。前の客が窓の日除けを開けて話すのが聞こえた。


 “ほら、見てみろよ、あれだ、あれ!”


 オレも窓の外を見た。ベルリンの壁が復活していた。街を引き裂いて、一区画をぐるりと囲んでいるのが分かる。かつてのベルリンの壁は一晩で崩壊した。そして新しいベルリンの壁は一日で作られた。もっとも以前のものとは比べ物にならないくらい狭い範囲しかない。その代わりにずっと頑丈で高い壁だ。


 軍のクーデターによって作られたのだ。驚くことでもない。大量のドローンがやってくれたのだ。サーバーを人質にする発想だけは珍しかったが、国家の分裂は世界各地で起こっている。イギリスは四つに戻り、アメリカは三つになった。インドは二つ、中国や日本が分裂する日も来るだろう。ミサイルによる恫喝が成功すれば、国境は次々と増えていく。サーバーを盗む方法もまた使われるだろう。ビックテックは対策を立てるだろうか。


 シャレを言う連中からは壁の中は東ドイツで、それ以外は西ドイツらしい。それなら、部屋に閉じこもっていれば、東ドイツにいるようなものだ。オレはずっと閉じこもってきた。それなら仮想現実は東ドイツか? いや、崩壊した側が東ドイツだ。これからは現実が敗北し崩壊することだってあるかもしれない。今まさに人間は現実から逃げ出し、仮想現実になだれ込んでいる。


 オレは西ドイツの空港に降りた。現実の肉体をゆっくりと移動させた。そして、新しいベルリンの壁がよく見えるホテルを見つけ、住むことにした。アバターの消失による保証金もあったし、有事で客が少なく長期滞在は歓迎された。

 それから四週間後、東ドイツから西への大規模な亡命が認められた。十万人もの人間の大移動になり、その中に妻もいた。


 ホテルで六週間ぶりに再開した。いや、現実で会うのは生まれてはじめてだった。子どもを持つのにも冷凍した精液を郵送したのだ。合法ではないが誰にも知られなければ罪に問われることもない。

 抱き合い、現実の肉と肉が触れ合う感じには、言いようのない喜びがある。そもそも生き物とは、そういうふうにできているのだと、頭をぶん殴られたみたいに強く思わさせられる。

 現実の妻は仮想現実とは見た目が違う。だが、ひどい見た目とは思わない。ひどい見た目はむしろオレの方だというのに、彼女は気にする様子もない。現実などどうでも良いと言うように。


 “ほら、見て”


 と彼女は言った。

 トランクの内張りを剥がすと、中から旧式のディスクがいっぱい出てくる。

 オレにもそれが財宝のように見えた。


 “あなたには少し悪いけど……”

 “君の活躍を考えたら、まるでカーゲーベーだ”

 “バレた?”


 彼女は空想上のレフチェンコ・ピストルを、オレの眉間に向けて笑った。

 別人のように見えるけど、君らしいふざけ方だと思う。


 彼女は自分の奥歯にテグスを結んでもいた。それをオレに引き出させようとしたのだが、結局は嘔吐してしまった。苦しみが治まると彼女は出てきたものが一番大事なディスクだと言った。何のことか、オレにはよく分かった。


 オレたちは早速ローカルサーバーを立ち上げ、ストリングスを使って接続する。首を吊られた豚の姿になって、仮想現実で、ようやく三人だけになり、あの日のやり直しをしようということになった。


 妻は仮想現実の中で料理をする。料理自体が今ではアミューズメントだ。仮想の魚を仮想のナイフで捌く。妻は寿司に執着していた。日本人のオレに興味を持ったのも寿司のせいだったのだろう。

 仮想現実の夜、仮想現実の照明、仮想現実の音楽、仮想現実のダンスを踊る。食事のあとには、オレが買ってきた仮想現実のケーキの用意もあったが、先に娘の大好きな古い映画をひとつ見ることになった。あの日もそうだった。今日もそうなった。


 “グッバイ、レーニン!”を最後まで見終わり、エンドロールが流れていく。オレは仮想現実での感覚とはこんなに味気ないものだったかなと思っていた。だけど、すぐ慣れるはずだ。慣れなくてはならない。

 オレたちは苦しい現実を生きるよりも良い夢を見続けることを選んだんだ。娘の肉体がなくなって二年になる。それでも、ここにいれば、こうして、今も抱きしめることができる。


 娘は成長していき、結婚するだろう、子どもを持つことだってできる。方法ならいくらでもある。世界はきっと良い方に変わっていくはずだ。誰も知らなければ、オレたちが認めていれば、娘は生き続けていく。

 十五年も先のことなど、どうなるか分からない。オレは狭い学校と家の中しか世界を知らず、すべてに絶望し死のうとさえしていた。そんなオレがどうして娘は死んだのだと決められる? 十五年後がこんなだとは思いもしなかった。もっともっと想像もつかないことが起こる。


 オレたちはもうひとり、子どもを持とうとするかもしれない。肉体が一緒にいるのだから、アレを冷凍する必要もない。昔ながらの方法さえ試してみることになるかもしれない。そうして生まれた子どもは新しい考えを持つだろう。姉の存在の仕方も当たり前のものだと分かってくれるだろう。


 ふと、妙な考えが浮かんでくる。

 クーデターでサーバーが人質に取られたというのが、まったくの嘘のカバーストーリーで、本当はコンピューターウイルスのせいでアバターが消滅したのだったとしたら。現実の疫病から逃げるために、オレたちは仮想現実に来たのだ。もしも、仮想現実で疫病が蔓延したとしたら、オレたちはどこへ逃げるのだろう。どこに逃げるのだろう? いったい、どこへ???


 “もう、現実に逃げることもできないのに……”


 先にキッチンに行ったはずの妻が、オレの手を強く握り返してくる。

 娘が振り返って笑いかけてくれる。


 “ねえ、お父さん、ケーキを食べようよ!”

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オチのある短編集 かんらくらんか @kanraku_ranka

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