お前に瞹を、あなたにアイを

一白ケイ

第1話

「愛しているよ、オウル。」

「私もアイしています。シド様。」

そんなやり取りをするようになって、もう2年がたつ。けれど、2年前の『あの日』はいつだって昨日のことのように思い出せる。



黒、茶、ピンク、黒、黒、黄、茶、水。目に映るのは、次々と通り過ぎる『靴』たち。どんな人が履いているのかは分からない。そんなことに興味はない。だから、今日も私は延々と地面を移動する靴のみを眺め続ける。

 今日は何かあるのだろうか。

 いつもよりも女性の靴が多いし、男性の物も綺麗なものが多い。だけど、それも私には関係がないこと。私はただ通り過ぎるそれを見ているだけ。それすらも、売りモノの私には何の意味もないのだけれど。

 一つの靴が目の前で立ち止まる。今日はよく見る黒だけれど、きっと高いんだろう、ぴかぴかだ。買われるのは二つ隣に居る新しく入った子だろうか。先日から足を止める人が何人かいるから、きっと美しい子なのだろう。

 余計な情報を聞かないように耳栓をしているから、何を話しているのかは分からない。でも、これだけは分かる。私には関係がないこと。だから、その目の前の靴が消えるまで、私は目を閉じることにした。だけどその時、ぐいと首を引かれた。首につけられた隷属の証が締まり、息が詰まる。自分が買われたのかと理解すると同時に、素早く目隠しがつけられ、買い主の顔を一目でさえ見ることは叶わなかった。暗闇と無音の世界。首につけられた鎖のその先の主、その人だけが私に残された外界との繋がりだった。

 思えばこの時すでにもう、私オウルはシド様からのアイに囚われていたのだ。


 「今日は帰りに少し寄るところがあるから、夕飯は遅くなるかもしれない。」

 朝、仕事へと出かけるシド様を見送るために部屋の外に出た所でそう伝えられた。

「そうですか。私ならいつまでも待っていますので、気を付けて帰ってきてください。」

「そう長く待たせることはしない。では行ってくる。」

「いってらっしゃいませ、シド様。」

 家を出る挨拶と共に、頬に一つ口づけを落とされる。私は赤くなった顔を隠すように、そのまま先ほど一歩外に踏み出しただけの足を部屋の内側へと戻す。目の前で扉が閉められカチャリと鍵の閉まる音がする。これが私達夫婦の日課だ。彼は奴隷だった私を買い、不自由のない生活を送らせてくれるだけではなく妻という立場をくれた。愛妾でもなく、正妻だ。奴隷が、次男とはいえ貴族の方の正妻になるなど前例はあるのだろうか。私には世間の知識がまるでないから分からないけれど、簡単に受け入れられることではなかったことは分かる。今にして思えば、あの頃のシド様は毎日疲れた顔をして帰ってきていたから。

 「さて、今日は何をしようかしら。」

 呟いた言葉は、私の他には誰もいない屋敷に吸い込まれる。シド様が出かけた後の、この屋敷には私しかいない。大きな屋敷ながら使用人などは一人もいない。掃除も洗濯も料理も私のことも、家のことはすべてシド様が一人で行っている。私もたまに手伝うことがあるけれど、それも彼の機嫌がすごく良い時だけだ。

 シド様は私に『愛』しか与えない。

 私が生きる場所はシド様の『愛』で整えられ、着るものは『愛』によって選ばれ、口にするものは『愛』が込められている。そこに他の者が入ることは許されない。それは例え私自身でも例外ではない。だから私は彼がいない間はこの大きな屋敷の中の、鍵の付けられた窓のない一室にいる。一人、彼の帰りを待ち続けるのだ。

 シド様はとても素敵な人だ。貴族の生まれでかっこよくて優しくて、頭もいい。醜い奴隷とは本来なら目も合うこともないような、私なんかには勿体ない完璧な人。シド様以外の全てを遮断されているけれど、その代わりに彼は私に色々な話をしてくれる。家の話、仕事の話、友人の話。知識のない私にとって彼の話はどれもとても興味深いものだった。だけど、馬鹿な私でも分かったことがある。シド様の話はいつも最後が同じ言葉で終わるということ。

 「お前にとって一番は誰だ?」と。

 話の中にどれだけすごい人が出てこようと、実際の私が知る人はシド様しかいない。だから答えなんて決まっている。本心から『シド様です』と答えれば、彼は心の底から幸せそうに笑う。その笑顔がとても好きだ。彼はすごく努力家で、それに見合う実力も持っている人だと思う。だけど、それでも世間での彼は一番にはなれないらしい。実家では優秀な長男がいるから次男である彼はどう頑張っても跡取りにはなれない。頭の良い人も、顔の良い人も、優しい人も上には上がいる。

一番になれないから、誰よりも一番に固執する。

 シド様はとてもプライド高い人だから、どれだけ努力をしようと報われない、そんなどうしようもない現実に苦しんでいたんだろう。そんなときに私を見つけた。何もかも彼より劣っていて、何も持たない私を。オウル。名前すら持たない私に彼が与えてくれた私の名前。狭い狭い世界だけれど、オウルの世界の中でならシド様は一番になれる。すべてを与えられて、それでいてさらに、それが彼の幸せに繋がるというのならこんなに幸せなことはない。

 彼が私に与えるものは人によっては愛とは言わないのかもしれない。だけど、愛を与えられたことのない私にとって、それはアイであってほしいと願わずにはいられないのだ。こんな関係は狂っているのかもしれない。これはアイではないのかもしれない。愛を知らない私にはそれすら判断ができないけれど、貴方が私にアイをくれるなら、私も貴方に一番のアイを返したい。


 シド様のいないこの屋敷で、私以外に唯一音をたてる存在である壁時計が22時を知らせる。この部屋には窓がないから、外がどうなっているのかは分からないけれど、近隣に家がないというこの地域はきっと真っ暗なのだろう。

「シド様は大丈夫かしら。」

 そんなに遅くはならないと言っていたのに、もうこんな時間だ。空腹には慣れているからそこは気にならないけれど、こんな暗闇の中帰ってくる彼の身が心配だ。せめて屋敷の電気をつけて温かい食事の用意でもしておきたいのだけれど、この部屋から出ることのできない私には無理な話だ。部屋の外に出られないことを今まで不満に思ったことはないけれど、今日ばかりは少しもどかしいと思ってしまう。だけど、ちょうどその時玄関の扉が開く音がした。そして、廊下を歩く規則正しい、いや今日は少し慌てているのかしら、少し乱れた足音に続いてカチャリと鍵の開く音がして部屋のドアノブが回される。

「おかえりなさい、シド様。」

 いつもどおりそう声をかけたが、シド様は何も言わずゆらり近づくと私を抱きしめる。

「悪い、待たせたな。」

「いいえ、私は大丈夫です。ですけど、何かありましたか?」

普段とはあまりに違う気を落とした様子に心配になって尋ねれば、彼は私の肩口に顔を埋めたまま口を開く。

 「今日は実家に呼び出されて寄ってきたんだ。」

実家という言葉でなんとなく彼がここまで消耗している理由が分かった気がした。シド様は実家が大嫌いだ。生まれながらにして一番にはなれないということを実感させられる場所であり、彼の歪んだ『愛』を育てた場所だからだ。そこに彼の望んだ一番はない。両親でさえ、互いを一番に愛してはおらず他に愛人がいて、当然のように彼は常に二番手以下だったと聞いた。回された腕にそっと手を添えた。彼が望むことは毎日を一緒に過ごす中で少しずつ学んだ。この屋敷の中では、外でのしがらみから少しでも解放されて、心穏やかに過ごしてほしいと思う。そうしてしばらくの間抱き合っていれば、シド様が不本意そうに口を開く。

「パーティーに参加しろと言われた。」

「パーティーですか。」

「君と一緒にだ。」

次男とはいえ、シド様は貴族の息子なのだから参加することくらいあるのだろう。そう考えていた所に思いもよらなかった言葉を続けられ、驚きに言葉が出ない。そんな私の様子を感じてか、シド様の抱きしめる腕の力が強くなる。

「俺はお前を外に出したくはない。」

 それがシド様の本心。だけど、御父上なのかお兄様なのかは分からないが、シド様より上の立場の方から言われては聞かないわけにはいかないのだろう。それでも彼はこんな時間になるまで抗おうと、1秒でも居たくないはずの実家に留まり話をしてくれたのだろう。それは私に外の世界を見せないための、いわば自分のための行動なのかもしれない。それでも私はシド様が私のためにどうにかしようとしてくれたことが嬉しい。シド様が苦しむようなパーティーになど行きたくはない。だけど、避けられないことならばせめて、私を救ってくれたこの人がこれ以上傷つきませんように、無力な私にはそう祈ることしかできなかった。


 そしてパーティー当日。シド様の手によって着飾られ化粧を施された私は、彼にエスコートされパーティー会場へとやってきていた。

「大丈夫か?」

「は、はい。」

 緊張で心臓がばくばくとうるさいくらいに強く脈打っている。

「ただ、顔を出すだけだ。すぐに帰ろう。」

 こくりと頷き、深呼吸を一つして慣れない靴で会場に足を踏み入れれば、まずは明るく楽し気な音楽が耳に飛び込んできた。煌びやかな光に照らされた中央では、女性たちがそれぞれのパートナーにエスコートされ色とりどりのドレスの裾をくるりくるりと翻させている。大勢の男女に、所狭しと飾られた装飾品の数々。視界に入るものすべてが輝いていて、あまりの場違い感に圧倒されてしまう。そこに一人の男性が近づいてきた。

「やぁ、シド。君がこうしたところに来るなんて珍しいね。」

「あぁ、実家の者に言われて仕方なくな。」

 にこやかに話しかける男性に対してシド様の答えはなんだかそっけない。

「それに美しい人を連れているじゃないか、どうかな、後で僕とも一曲。」

「すまないが、妻は人見知りなんだ。それにこうした場は初めてで緊張しているんだ、あまり絡まないでやってくれ。」

「そうなのかい。それは失礼しました、レディ。ではまたの機会に。」

 そうして素早く手を取ると、チュッと指先に口付けを落とし去って行った。流れるような動作に呆気にとられるが、我に返り思わずシド様の腕に力を込めれば、その腕がかすかに震えていることに気づいた。彼の顔を見上げれば、その瞳は不安そうに私を見つめていた。

「シド様?」

「今、俺が何を考えているか分かるか?」

 どうしたのかと心配になり名前を呼べば、彼はそう問いかけてきた。

「分かりません。」

「お前の目を塞いでしまいたいと思っている。」

 ああ、そうか、この人は恐れているんだ。私の目がシド様以外を映して『一番』が失われることを。ようやく手に入れた心休める居場所を。私が気にしなければならないのは周りなんかじゃない、目の前にいるこの人だ。

「シド様。」

 彼の正面に移動し少し震えるその手を両手で包む、そしてその目を真っ直ぐに見つめ口を開いた。今までずっと思っていたことだけど、言葉にしなければ伝わらない。

「私は器用ではありませんから、愛する方が目の前にいるのに他のものなど目に入りません。今もこれからも、オウルは、シド様しか見えていません。」

 驚いたように目を見開いた後、繋がれるままだった彼の手に力が込められるのが分かった。彼の中の何かが変わった気がした。

「オウル、やはりダンスを踊ろう。」

「わ、私は踊れません。」

「大丈夫だ。俺がリードするから、君は合わせているだけでいい。なんだかすごく踊りたい気分なんだ。」

 憑き物が落ちたような笑顔で言うからドキリと胸が高鳴る。だけど、突拍子もないその提案に頷くわけにはいかなかった。

「でも、私なんかと踊っては、シド様が他の方々からどう見られてしまうか。」

「君は俺しか見えていないのだろう?他の奴の反応なんか気にしなくていい。」

 にやりと笑うその表情は今までに見たことがないくらい生き生きとしていて楽し気だ。そんな顔を見せられたら、もう何も言えなくなってしまう。そのまま手を引かれ、中央のダンススペースへと移動する。シド様の体に身を委ね、彼の刻むステップに合わせてよたよたと足を動かす。動きについて行くことに必死な私の姿は周りから見れば絶対に不様に違いないのに、シド様が嬉しそうに笑うから止めたいなんて言えなくなってしまう。

「…ずるいです。」

 せめてもの足掻きにとぽつりとつぶやいてはみるものの、シド様はそれさえも嬉しそうに笑う。

「俺はずっと周りばかり気にして生きてきた。だけど不思議だ、今は全然気にならないんだ。」

 なぜだか分かるか?と聞かれるも、首を横に振って答える。

「オウル、俺も君しか見えていないからだ。」

 妻として、愛の言葉はたくさんもらってきた。だけど、明らかにいつもとは違うその言葉に、頬に熱が集まる。

「愛しているよ、オウル。」

 続けて伝えられたその言葉に、泣きそうなくらい幸せだと感じる。今まで、どんなにつらくても泣いたことなんてなかったのに。

 私はシド様に人としての立場を貰った時から、愛しか与えられていなかった。だから愛というものが分からなかった。愛以外を知らなかったから。だけどシド様以外のものに触れた今なら分かる。この気持ちは紛れもなく愛だと。

「私も愛しています、シド様。」

 永遠にあなたを一番に愛しています。

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