第5話 恵瓊の宿願

 足取りとは裏腹に、心は軽い。何しろ、ようやく宿願が果たせたのだ。幼い頃、まだほとんど物心つかぬ頃の、しかし強烈に刷り込まれた我が父、武田信重の願いが。


「竹若丸、そなたは生き延びよ。生き延びて、何としても毛利に一矢報いるのだ!」


 佐東銀山城が毛利家の猛攻によって落ちる寸前、家臣に連れられ城から落ち延びる直前に聞いた父の最後の言葉。安芸武田家の最後の当主に祭り上げられた父の最後の願いを、儂は捨て去ることができなかった。


 六十年の禅の修行が聞いて呆れる。結局のところ、儂は世俗への執着を捨てられなかったのだ。復讐という執着を。


 そんな儂が元就様に見いだされ、外交の才を買われて毛利家のために働くようになるとは、何という皮肉であろうか。あの元就様の下にいたときは、毛ほどにも復讐のことなどは考えることができなかった。あの鋭い元就様のことだ、少しでも復讐のことなどを考えたが最後、必ず気付かれてしまっただろうからな。


 それは、元就様の死後も続いた。輝元公は知らず、実質的に毛利家の舵を取っていた毛利両川の隆景公や元春公も、鋭さにおいては元就様と変わらなかったからだ。


 お二方が亡くなったころには、もはや太閤殿下の天下は定まっており、儂が毛利家に復讐する余地などは残っていなかった。儂は、己の才能のすべてを毛利家のために使い、皮肉にもその才が認められて、太閤殿下には六万石の大名にまで取り立てていただいた。


 もし、これが安芸武田家に与えられた六万石なら、儂は復讐を捨てたかもしれぬ。だが、この六万石は恵瓊という僧に与えられたもの。肉食妻帯を認める本願寺ならいざ知らず、妻帯を認められぬ禅僧に与えられた六万石など継がせる者もない。


 それゆえ、儂は六万石の所領も、太閤殿下への御恩もうち捨てて、秘かに持ち続けていた毛利家への復讐を果たすことにしたのだ。だが、同時に四十年以上にわたって仕え続けてきた毛利家への愛着も、また儂の中にはあった。


 だから、儂は毛利家の存続を図りながら、同時に毛利家に大損害を与えるという今回の策を思いついたのだ。


 どちらも嘘ではない。どちらも、我が宿願、我が本心なのだ。


 そして、我が復讐は成った。毛利家は、間違いなく先祖代々の本貫の地、安芸の国を失うことになる。かつては安芸の守護職であった我が安芸武田家から奪った安芸の国を。


 あの美しい安芸の空、儂がこよなく愛するあの空は、もはや毛利家のものではないのだ。


 ただ、その空を二度と見ることが叶わぬことだけが、儂にとって唯一残念に思えることなのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

安芸の空 ~安国寺恵瓊の策謀~ 結城藍人 @aito-yu-ki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ