カランド

夜清

だんだん遅く、消え入るように

 規則正しい無機質な音が場を支配している。

 ここは最期を過ごす終わりの場所。

 流れる時間は無情なまでに穏やかだ。

 遠くから声が聞こえる。

 自分だけ切り取られて行くようだ。

 少しずつ少しずつ遠ざかって、やがて消えた。

 鈍くなる感覚に溺れて目を閉じた。

 ☆  ☆  ☆  ☆

『ここだな』

 純白の翼を翻し地面へと降り立つ。

 俺はウェルマー。見習い天使だ。人間の目に映ることがない存在であり、命を失った魂を天界に連行する使命を持っている。

 ……と言いつつ、悔しいことに新米のためこれが初仕事になる。しかも相方などは割り当てられなかったので一人で取り組まねばならない。

 緊張と震えに襲われるが、残念ながらそいつらを気にかけてやる暇はない。今まで散々役立たずだの、ヘタレだのと馬鹿にしてきた兄を見返すためにも、軽々と達成してやる。

 意気込みを新たに鼻息荒く手にした書類を確認する。

 対象は十一歳の少女、エレイカ。

 まあ可愛い顔をしていると思う。歳が近ければちょっと好みだ。

 死亡時刻は三週間後の十六時五十三分。

 そこはいい。問題は次だ。

 死因の項目が空欄だった。

 普通は自然死や溺死などが簡単に記載されているはずだ。少なくとも俺はそう教わっている。

 大きな不備だと思うが、俺が新米だから知らないだけで割とあることなのかもしれない。

 とにかく張り切っていたのだ。俺は記述がほとんどない書類を特に疑問視せず、眼前にそびえる立派な館へと足を踏み入れた。

 天使は神がお作りになった大地を除き、現世の物には触れられない。

 いちいちお邪魔しますとノックする必要はなく、また招き入れてもらう必要もない。壁を透過して入ってしまえばいいのだから。

 本当は三週間も先の仕事だが、今日は相手の顔をチェックしたくてわざわざ訪れた。

 下調べというわけだ。ふふん、俺ってば計画的だな。

 やたらと広い屋敷の中を探索する。道中すれ違う人々は使用人でさえ綺麗な衣服を着ていて、思わず感嘆の息が漏れる。

 さぞかし力のある一族なのだろう。わずかに羨望を感じた。

 不必要な考えを振り払い、館探索に戻る。

 しばらく経ってやっと見つけた。

 仕事対象は、地下室にいたのだ。道理で見つけられないわけだ。

 無駄に広いから、えらく時間を食ってしまった。

 少女が薄汚い衣装を着てうずくまっている。

 上の階の人間たちの様子を思い出し、俺ははてと首を傾げる。

(この国に奴隷制度なんてあったか……?)

 とっさにあの虫食い資料を見るも、そのような記述は見当たらない。ただエレイカという名なのだと再確認しただけだった。

 資料から顔をあげる。少女は壁に向かって、何かぶつぶつと呟いている。

 いや、これは歌か。

 どこの言語かわからないが、なんとなく耳を傾ける。

 なかなかに綺麗な旋律だ。

 しばらく聞き惚れるうちにやがて、少女の言葉は意味を成してない音の羅列だと気づいた。

 何を歌っているのか、何を伝えたいのかなどは一切わからない。唯一、少女が楽しんでいることは声音でわかった。

 ふと響いていた歌が止んでいることに気づく。休憩だろうか。

 つられてばさりと翼を伸ばす。いくら物に触れることはないとはいえ、翼を伸ばすことは躊躇われてしまって息苦しかった。

 突如エレイカがくるりと振り向いた。まるで羽音に反応したかのように。

 輝きに満ちた純粋な瞳が俺を射抜く。

 ドキリと心臓が跳ねたが、すぐに人間には俺が見えないことを思い出す。

 反射的に羽ばたき、緊張を拭う。

『はあぁ……びびったぁ……』

「わあ。鳥さんがしゃべった……!」

『いやいや、今のは声も出るだろ。タイミングだってぴったり……は?』

 だらしなくもぽかんと口が開く。

 少女は身を乗り出してこちらを見ている。確実に見ている。

 ばっちりと視線が絡み合う。

 にこりとエレイカが笑う。

「えへへ……おっきー鳥さんはじめて見たな……」

 少女の無邪気な声に硬直する。

『お……おう……そうか……?』

 なぜ会話が成り立つのだ。

 現在の俺は非常に混乱している。頭がまともな働きを放棄したらしく、口をパクパクさせる動作しかできない。くるみ割り人形にでもなったようだ。

 少女は微笑み、じりじりこちらに迫ってくる。

 ここでようやく思考が解凍される。

 何故この人間の少女は、俺を視認できているのだ。

『ぎゃああああああああああああ!』

 前代未聞だ。

 俺はパニックのあまり情けなく叫びながら館を転がり出た。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 大道芸じみた面白飛を繰り出し、周囲の目を集めながら着地する。

 動揺を大きく引きずってたものの、なんとか無事に帰りつけてよかった。

『ぐうう……』

 低いうなり声が漏れた。

 果たして帰ってきてよかったのだろうか。人間に見られるという大失態を犯して逃げ帰るしかなかったアホ野郎でも、落ち着けば何か対処ができたかもしれない。今でもサッパリ思いつかないが、方法はあった気がしてならない。

 そうだ。いっそ誰にも言わなければバレないのでは?

 あの場にいたのは俺だけだ。黙っていればなかったことにできるに違いない。

 不気味に翼を揺らしてほくそ笑む俺に、周りから生ぬるい視線が降り注いでいる。気がする。同じく気のせいか段々遠巻きになっているような。

「ルマくん確保ー!」

 ばちんと俺の後頭部をどついて小柄な少女が飛びついてきた。

「べべべ別に人間に見られてないしっ!」

 思わず痛いより驚愕が先んじて余計なことを口走ってしまう。ほんと俺ってバカだと思う。

「えー、何? 見られちゃったの?」

 襲撃者は無邪気にケラケラ笑っている。

 この下手人はミルカル。俺に付きまとう暇人、もとい暇天使だ。仕事しろ。

 小ぶりな純白の翼が可愛らしく、見た目が年下っぽくて接しやすい。これで空気が読めたら最高なんだが。

 幸い俺の失言はミルカル以外聞いていなかったようで、ほっと安心。

 しかしこの状況はまずい。かなーりまずい。

 ミルカルは頭も軽ければ口も軽い。バレたら光の速さで不祥事が知れ渡ってしまう。伝言ゲームのようにいらん尾ひれ付きで。

 静かなるピンチだ。

 適当に取り繕って足早にテラスを出る。だがなんということだ。ミルカルも同じ速度でついてくるではないか。

「なんだよ気になるだろー? ボクにも聞かせておくれよ」

「ついてくんなよ!」

「残念! あたしはルマくんの世話役だから!」

「俺は男子寮に戻るんだ!」

「天使はみんな無性じゃん! それにボクは男性型天使! セーフ!」

「うるせえ男がツインテールにするかよ!」

 巧みに人をすり抜けながら口論を続ける。いっそ鮮やかに見える身のこなしなせいか、周囲の好奇な目が止まらない。

 口論はどんどんヒートアップして、もはやお互いのどうでもいいことさえ罵り文句として登場し始める始末。

「俺のいびきの音程なんかほっとけよ! 地味に恥ずかしいからなそれ!」

「あー! ルマくん前! 前!」

「バカめ! その手には引っかからんわぎゃー!」

 鈍い音がして自分の体が廊下に転がる。思いっきり何かに衝突した。柔らかかったから天使の誰かだろう。柱だったら大けがだ。

「不幸って続くんだねえ。キミに幸運を」

 ミルカルのおかしくてたまらないと言った笑い声が聞こえる。

 他人事だと思って!

 ひとまずぶつかってしまったことを謝らねば。

「す、すいませんちょっと口論してて」

『口論?』

 相手は特に怒った様子もなく、手まで差し出してくれた。なんと優しい天使だろうか。

『いやですね、友人がしつこいもんで』

『ほう』

『人間に見られた件について話せってうるさいんですよ。ほんと困って困って』

 どっこいせと立ち上がろうと相手の手を握る。すぐに力強く握り返してくれ……あれおかしいな、手がミシミシ言ってるぞ。人を助け起こすのにそこまで力いりませんよね?

 あの、痛い。めっちゃ痛いです。

 抗議しようとあげた顔は、そのまま床にお帰りなさいした。

 なんとぶつかった相手は、超手厳しい俺のお兄様、エイグリッドだったのだ。ははは笑えない。

『なあウェルマー。人間がなんだって……? それ、俺にも教えてくれよ』

 低い声と、さらに力を込めて握られた手で逃げ場がないことを悟る。さよなら平穏、こんにちは煉獄。

 試しに振り向くもミルカルの姿はとっくになかった。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 一時間後、俺は上司たる兄の前で正座していた。

 すでに洗いざらい吐いた。吐かされた方法は訊かないでほしい。

 兄はずいぶんご立腹らしく、仁王立ちしたまま微動だにしない。

『お前……何をやらかしたんだ……?』

 怒ったときの兄は果てしなく怖い。

 今回はイレギュラーなことが起きたから仕方ないはずだが、立ち会っていない兄が少女のことを信じてくれるとは到底思えない。

 しかし説教をされるほどのことを、俺自身がやらかしたわけではない。あれは事故だったのだ。

 なんとか説教を回避しようと、言い訳が口から乱射される。

『な、何もしてない! あいつが急に振り返って俺を見たんだ! そのうえ鳥さんって言ってきたんだよ! 俺の羽ばたきがきっと聞こえたんだ!』

『なワケあるか! もう少しまともな言い訳をしろ!』

『やっぱりっ!』

 ばっさり切り落とされて一喝される。うん、知ってた……。

 本来なら天使の声も羽ばたきも人間に聞こえない。そもそも認識することができるはずがない。

 もし天使の存在を認識できていたら恐ろしい事態になるらしい。

 なぜなら翼を持つ者がその辺を飛んだり、通り抜けたりしているからだとか。それになにより人間が自分の死期を悟ってしまう。死期を悟るまずさが新米の俺にはいまいちピンと来ないが、とにかく大問題なのだ。

 ……まあ、俺がその大問題を引き起こしたわけですけど。

 その結果優秀なお兄様すら頭を抱えているわけですけど。

 お兄様は相当苛立ってるようで、ちょっと攻撃的な形状の翼がバサバサ動いている。これはかなり気が立っている証拠だ。

(だけどね、本当に俺は何もしてないよ? 信じられないかもしんないけど、何もしてないからね?)

 もしや俺が新米なせいか。新米は人間に見つかりやすいとか、そんなシビアなルールでもあるのか。いやいやいや、初心者にこそ優しくするべきだ。どうしていきなり挫折レベルの失態を起こさせるんだ。

(みんなもっと明るく楽しくイージーで行こうよ? ね?)

『おい、なに現実逃避してんだ』

『ひだひぃぃ……』

 頬を抓りあげられる。

 さすがお兄様だ。

 俺がシリアスな顔でテキトーなことを考えているなどお見通しらしい。

 それにしても痛い。頬を千切られでもしたら数少ないチャームポイントが一つ減るからやめて貰いたい。

『エイグリッド、もうやめてあげて。ウェルマーも反省してる』

 おっと、どうやら救世主が降臨してくれたらしい。

 天界一美しいとされるラルミレイエの鶴の一声でお兄様はさすがに手を引いた。

 渋々だったけど。まだまだ苛め足りないって顔してるけど。

(やっぱり位も実績も、兄としての器さえもラル兄には勝てないようだねエイ兄)

 俺はしたり顔でひっそり呟く。

 エイ兄ことエイグリッドは、感情も言動もサバサバしていて面倒見がいい。周りからとても慕われている。

 対してラル兄ことラルミレイエは、やや表情が乏しいものの美貌と知識量で一目置かれている。二人共、自慢の兄だ。

 さて、俺は恩知らずじゃないので助けてくれたラル兄にお礼を言うとしよう。

『ラル兄、ありが』

『ウェルマー、カエリラが呼んでたよ。一人で来てって』

 どうやら鶴の一声ならぬ地獄からの呼び声だったようだ。

 カエリラはほとんどの天使の上司、つまりとても偉い人だ。位でいうなら上から二、三番目辺りになるだろう。なぜかラル兄は呼び捨てているが。

(そ、そんな人に呼ばれるなんて……)

 カエリラ様との面識はない。面識はないが、逸話はいろいろ知っている。

 呼び出しの先を想像した瞬間、背中が濡れてきた。翼もぶるぶる震える。冷や汗が止まらない。

『は、はあ?』

 エイグリッドが目に見えて狼狽し、戸惑いの声をあげる。直属ではないけれど、エイ兄の上司だから何か知っているのかもしれない。

『ウェルマーのミスは俺の監督不行き届きだ。カエリラ様のところは俺が行くからウェルマーはここで待っ……』

(なんだかんだエイ兄も優しいなあ)

 下手したら多大な厳罰を食らうかもしれないのに、アホで不出来な弟をかばってくれる。俺は幸せ者かもしれない。

『ダメ。カエリラがウェルマー一人でって指名してる』

 しかしそうは問屋が卸さないらしい。

 ラル兄が首を横に振り、淡々と告げた。

 説教回避の万策が尽きた。

 ついに神は俺を見捨てたか。

 俺がまた現実逃避をしている間に、エイ兄はしつこく食い下がる。

『だがコイツはまだ新人で……』

(ああもう……)

『いいよエイ兄。俺ちゃんと行くからさ』

 エイ兄の前に立ち、ラル兄と向き合う。

 いつもいつもエイ兄は優しすぎるんだ。

 たまには見捨てる勢いで責めてもくれてもよかったのに。

『ウェルマー……』

 困惑するエイ兄の声を聞かなかったことにして翼を伸ばす。よく見ればラル兄も気遣うような気弱な表情で俺を見ていた。

(まったく、二人揃ってほんとに甘いんだから)

 決心が鈍らないよう翼を広げ、いつでも飛び立てるようにする。

『真剣に謝ってくるから大丈夫だって。きっとあの人もいきなり新米を怒鳴り散らすほど鬼じゃないっしょ』

『……』

 エイ兄の暗い顔を少しでも明るくしたくて、俺は笑って飛び立つ。

『それじゃ、ちゃっちゃと行ってくるよ。終わったらちゃんと報告するからさ、俺の好きなお菓子でも用意しててよ』

 ☆  ☆  ☆  ☆

(ごめんエイ兄。やっぱりめっちゃ鬼だったわ)

 カエリラは怒鳴るでもなく至って冷静に正論を並べて追いつめてきた。俺に一瞬たりとも反論の隙を与えず、言葉巧みに逆らう気力を奪ってしまう。

 気づけば本日二度目の正座だ。いい加減足が悲鳴を上げている。

『カエリラ様ぁぁぁ』

『そんな泣きそうな目をするな。処分は免除と言っただろう』

 大変ありがたい申し出です。

『だが、やはり規律違反には罰が必要だな。貴様を見逃すと他の者に示しがつかん』

 短い髪を手で弄びながら、カエリラは低い声で言う。

 確かにそうかもしれない。

 カエリラは本を片手に俺のそばに来ると、ぽいっと俺の前に縄を投げた。

 ちなみに本は精神にくる縛術と書かれている。

 やだこの人怖い。

 怯えて縮こまると、カエリラが不気味に微笑む。

『ふふ。そんな怯えた顔をするな。興奮してしまうだろうが』

『ひぃぃぃ……ッ!』

 絶対痛いよねあれ。

 人様の趣味嗜好にケチつけるわけにもいかないが、何故そんなに準備がいいのか。しかも私物みたいじゃないか。

 あの時とは別種の混乱に見舞われた頭をフル回転させるが、まともな判断がくだせない。いやそれはいつものことか。

 恥ずかしいけど、少し我慢して痛い目に遭うだけで許してもらえるならいっそ……なんて考える俺が怖い。

 これが洗脳か恐怖政治か!(たぶん違う)。

『さあ、自ら選ぶがいい。晒し者にされるか、私の専属秘書として見目麗しいドレス姿でしばらく働くか』

『ほぼ一択しかない!』

 しかも女装の話は初耳!

 そんなことされた日には、今でさえ謎のアイドル扱いなのに悪化してしまうではないか。やはり恥を忍んで縛術の方を選ぶしかないのか。それもそれでマニアックすぎて嫌だし、今後とかいろいろ心配になるんだけけれど……ああ、でも……フリフリ衣装で秘書とかやったら社会的に死ぬ……。

 俺はどうしたらいいんだ。とりあえず足がしびれた。

 めまぐるしく変わる俺の表情がお気に召したのか、カエリラは柔らかくふっと笑った。

『安心しろ。冗談だ』

『え?』

 微笑むだけでなく、あまつさえ頭を撫でられているこの状況は一体……?

『可愛い教え子にそんなコトするわけがないだろう?』

 自分の美貌を最大限に生かしたようなカエリラの天使の笑みに、緊張はあっさり解けた。

(よかったよかった。めちゃくちゃ怖かったよおおお)

 なんだかんだ言いつつカエリラ様は優しいって俺知ってるよ。

 デスクに戻り、椅子に深く座ったカエリラは何やらバサバサと書類をあさり始めた。すぐに目当ての物が見つかったようで俺を手招きする。

 すっかりしびれた足でふらふらとデスクに向かう。

『今日貴様に渡した書類だが、あれは手違いだ。本来は私の担当で、貴様の担当はこれだ』

 手渡された資料を見てみる。

 そこには幸せに笑うじいさんが写っている。死因は寿命。

 なるほど、確かにこれはイージーで新人向けだ。

 天命をまっとうした人間は死ぬことに納得しているから連れて来やすい。あんなわけがわからない人間が仕事対象のはずがないのだ。

『貴様はこれからそのジジイのとこに行ってこい。……ほらウェルマー。そっちの書類を渡せ』

『あ、はーい』

 エレイカの資料を渡す。

 受け取ったカエリラは机にぽいっと放ってしまう。

(大事な物なんだからもっと大切に扱おうよ……)

 なんとか罰は免除されたし仕事をもらうこともできた。万々歳じゃないか。

 失われかけた意気込みを呼び戻して、仕事を仕切りなおそう。

 意気揚々と退出しようとする俺をカエリラ様が呼び止める。

『そうだ。ウェルマーよ、このことは他言無用だぞ』

 このこと……?

 ああ、罰がなかったことかな。示しがつかないって言ってたもんね。

『違う。この人間についてだ』

『へ? エレイカのことですか?』

『名を覚えたのか……まあ、そうだ』

 カエリラ様を含む天使のみんなには、人間に見られたとしか言ってない。

 会話が成立したなどと報告したら、まず間違いなく罰は確実だった。なんだかんだとふざけつつも俺は罰が怖かったのだ。

『こいつについて全て忘れろ。全てだ。もし一言でも誰かに漏らしたら、最悪の罰を覚悟しろ。今度は私でも揉み消せん』

 さっき微笑んでいた時と比べる必要もないほどカエリラの語気が強くなった。

 この言い方は普通じゃない。尋ねることが怖かったが、好奇心を黙らせることができなかった。

『……理由を聞いてもいいですか?』

 カエリラは眉をひそめる。

『……考えたらわかるだろう。天使を見ることができる人間がいるなんて広まったらパニックは免れないからだ』

 珍しいな。聡明なカエリラが言葉に詰まるなんて。

 確かに俺も混乱して醜態を晒したくらいだし、正しいことかもしれない。

 それにたかが人間だし、忘れるだけでいいなら楽でいいか。

 カエリラ様にぺこりと頭をさげて今度こそ本当に退室する。

(はあ……何事もなくてよかったぁ……)

 ☆  ☆  ☆  ☆

 忘れるだけなら楽だと言ったな。あれは嘘だ。

 なんてかっこつけてみたが、実際は眠れなくてぐずぐずしてるだけだったりする。

 困ったことにエレイカのことが頭から離れないのだ。忘れようとするたびに、あの綺麗な瞳が視界にチラつく。

 あの笑顔が頭から離れない。歌声が耳を離れない。

 これはどうやら重症だ。

 カエリラ様には禁じられたけど、もう一回会うべきかもしれない。ぜひそうするべきだ。

 十一歳にしては幼かったが可愛い子だったし。

『へへ〜』

 ラル兄特製の猫の抱き枕をもふもふする。

 何か忘れてる気がするけど、明日が楽しみだ。

 早く寝よう。

 布団を被り直す。その時外から聞き慣れた大きな羽音がしたと同時にガタンと扉が開かれて、とっさに飛び起きる。

 扉の前に恐ろしい形相の悪魔……もといエイ兄が立っていた。

『終わったら……全部報告するっつったよな……?』

 心配が裏返ってすっかり怒り心頭の様子だ。

 今日はもう寝れないかもしれない。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 少女は今日も地下室で一人歌っていた。相変わらず単語ですらない音だけの歌だった。

 ぱちぱちと拍手してみる。

 エレイカはパッと振り返ってにこぉっと笑う。おお、可愛いな。

「鳥さん、今日もきてくれた!」

『やっぱり見えてるんだな』

「見えるよー?」

 きょとんとするエレイカの頬や体に痣がある。ボロボロの服も変わってない。つまり、そういうことなのだろう。この子はこの家の者から虐げられているのだ。

 兄たちに恵まれた俺にはそんな傷を直視できなくて、そっと視線を逸らす。認めたくなかったが、こんなのは独りよがりな逃げだ。

 第一、少女の悲劇は俺の想像かもしれない。

 俺に向かって少女は手を延ばす。

「もこもこ!」

『あ、コラ!』

 大事な翼に触れようとしていることに気づいて身をかわしたが、腕とエレイカの小さな手が接触する。けれどそれが触れ合うことはなく、エレイカの手は俺の身体を透過する。

 振り払おうとした腕はエレイカの手を叩き落とすことなく通り抜けた。エレイカはその様子を驚きと共に見ていた。

 思い出した。天使は現世のものに触れられない。

 つまり人間も天使に触れられない。

 すりぬけた手を見て、少女は目を見開く。

「あれ……なんで……?」

 何度も何度も俺に手を延ばしては、すり抜けるの繰り返し。

 幼い頭では理解できないのかもしれない。

「どうして鳥さんにさわれないの……?」

 困った顔で見られても……こっちも困る。

 俺が天使で、お前が人間だからとしか言いようがない。きっとこの子には理解できないんだろうけど。

 それでも話すしか知ってもらう方法はない。出来うる限りわかりやすい言葉を選んで少女に語りかけた。それでもエレイカは理解できないのか、俺に触れようと何回も手を伸ばす。

 手が触れずに透ける感覚に慣れなくてよけているうちに、エレイカが楽しんでいることに気づいた。

 触れなくても手を伸ばしてじゃれつくことが、夢中になるほど楽しいらしい。

 そりゃ、こんな何もない狭い部屋に住んでたら、箸が転がっただけでも楽しいだろうな。

「……」

 前言撤回。やっぱり楽しくない。

 こんな汚い地下室に押し込められて楽しいなんて、うまく言えないがそれは違う気がする。

『なあ、お前は俺と遊んで楽しい?』

 間髪いれず返事がある。

「たのしいよ?」

 柔らかく微笑むエレイカ。

「友だちができたから」

 接触しない俺の腕をそっと包み込み、手の甲に少女は頬を重ねる。何の感触も得られないはずなのに、心なしか温かく感じる。

 少女はぬくもりを求めている。けどそれは天使の俺には与えることができない。

 胸がじくじく痛む。

 なにより少女はもうすぐ死ぬのだ。だからこそ俺はエレイカと知り合うことができたわけだが、こんなのは残酷過ぎやしないか。

 まるで死神にでもなったような気分だ。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 翌日から俺は兄や周りの仲間たちの目を盗んでは、毎日エレイカの元へ遊びに行った。偽善だとわかっていても、幼い少女にとっては泡沫の夢でも、そばにいてやりたいと思った。それは嘘偽りない俺の気持ちだ。

 彼女は、日によって痛々しい生傷を増やしていることがあった。痛くて苦しいだろうに、そんな状況の中で歌いながら俺を待っているのだ。

 せめてエレイカを楽しませることで、彼女の救いになればと思った。いや、それすら言い訳だ。

 余命が残り少ない彼女に希望を見せてしまったのは俺だ。その責任を取りたいだけなんだ。彼女の屈託のない綺麗な笑顔を見ることで、湧き上がる醜い罪悪感を塗り潰してしまいたかったんだ。

 エレイカを幸せにしてやりたい。広い外の世界に連れて行ってやりたい。

 その気持ちだけは本物、のはずだ。

 だがぬくもりを求める痛ましい少女へ与えられるのは死だ。俺が彼女をこの世から連れ去るのだ。よりによって友だちになった俺なんだ。

 救いたい。救いたい。

 救えない。救えない。救えない!

 黒いもやが胸中に溢れ、それに塗れて薄汚くなる自分を俯瞰している。自分がすべきことを求めてもがく自分じゃない俺がいた。

 苦しい。苦しいんだ。

 ただ、エレイカに会いたかった。

 ☆  ☆  ☆  ☆

『最近、ウェルマーは元気ない……どうかしたの?』

 ラル兄が心配そうに声をかけてきた。

 俺がエレイカに会うために、さっさと昼食を済ませようとしていた時だった。

 普段通り振舞っていたつもりだが、兄には誤魔化しなど通用しないらしい。この分だとエイ兄も何か察しているだろう。

 いつもならならまともな考えが浮かばず、秘密を垂れ流してしまうのに今回の俺は違った。

『んー、やっぱり最初にヘマやっちゃったことが気になっててさ。今はちゃんと仕事やれてると思うけど、やっぱ自信がなくて……』

 内心自分でも頭を打ったかと疑うほど流暢に言葉が漏れた。きっとこれは本音でもあるんだと思う。

 隣に腰を下ろしたラル兄は真剣に聞いてくれた。俺は本当の悩みを打ち明けていないのに。

 また罪悪感がひとつ生まれた。胸がぐっと重くなる。

 自分の感情が今どこにあるのかもうわからない。

『……』

 あの子のことを想うと胸が痛い。

 どうして天使と人間なのだろう。

 どちらかが違っていたらきっと、あの子を抱きしめることも、一緒に空を飛ぶことだってできたのに。

 俺の胸は痛みと重さでいっぱいいっぱいだ。白い翼を大きく広げて自由に飛び回ったあの頃にはもう戻れない。

 苦い後悔が湧き上がる。

『ねえラル兄……俺はこれからどうしたらいいのかなぁ……』

 ぽろりと弱音が漏れた。慌てて口を閉ざすが、恐れていたような反応はなかった。

 ラル兄は優しく俺の肩を抱いて、そっと囁くように言う。

『ウェルマーがやりたいようにやるといいよ』

『え……』

 男女問わず見る人全てを魅了する笑みを俺だけに向け、ラル兄は続ける。

『たとえここで俺が何を言っても、俺はウェルマーじゃないからウェルマー自身の心にしっかり響くことはない。結局、自分を納得させられるのは自分だけだよ。自分の行動が良いことか悪いことかじゃなくて、本当にやりたいか、後悔しないか、それだけ考えてごらん』

 言葉を失ってただただ耳を傾ける。

『ウェルマーは優しいから、これくらいワガママに振舞ってもいいんだ。今度こそ、守りたいものを守って見せて』

 ぽんと俺の背中を叩くとラル兄は立ち上がる。長い髪を風になびかせ微笑む姿は天使というより、神様に見えた。俺が救われたような気持ちになったから、そう感じただけだろうが。

『……ありがと』

 救われたは大げさかもしれない。まだ胸に重さが残っているし、確かにラル兄の言葉全てを受け入れることなどできそうにない。

 俺はズルイのかもしれない。

 ラル兄がくれた言葉の一部だけを都合よく解釈して、自分の言い訳に使おうとしている。だけど、ラル兄が言ったんだ。やりたいようにやれって。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 ここ最近はエレイカの歌の意味がなんとなくわかる気がする。

 それは俺と彼女の距離が縮まったからかもしれない。

 地下室の扉をすり抜けて、エレイカの空間へと足を踏み込む。

 小さな少女は生傷こそ増えたが一週間と少し経った今でも可愛らしさが少しも失われていない。歌声の美しさもだ。

 もう彼女は気配でわかるらしく、羽音を立てなくともぱっと振り返る。

「やった。ウェルマーが今日も来てくれた」

 嬉しそうに手を伸ばして腕に縋り付いてくる。

『エレイカと遊ぶのは楽しいから、いつでも来るさ』

 俺も笑って頭をなでてやる。

 いつの間にか俺たちは、接触のない触れ合いを楽しむようになっていた。

 エレイカを抱きしめてやったことも一度や二度じゃない。所詮ごっこ遊びでも俺たちにとってかけがえのないコミュニケーションの一つだ。

『エレイカの歌が聞きたいな』

 ここに来るといつも彼女の歌が聞きたくなる。冷たい地下に響く綺麗で温かい歌が俺は好きなんだ。それにエレイカも歌うことが大好きだから、自然と決まりのようになった。

「いいよ」

 大きく息を吸って、エレイカは歌い始める。幸福そうに、満ち足りたように。

 彼女の歌には言葉がないけれど、俺が持っていない物全てが存在していると感じる。俺はこの少女と共に過ごしている時ほど充実を実感できたことがない気がする。兄と過ごした日々がかすんでいくほど、エレイカの存在は大きかった。

 やりたいようにやる。

 ラル兄の一言を利用してから、彼女との時間がこんなにも輝いている。悩んでいたことが嘘みたいだ。

 歌い終えた少女が肩で息をする。無理をさせたかもしれない。

 ねぎらいの言葉を手向ける。

『お疲れ様』

 しかし少女が返事をすることは叶わなかった。

 乱暴にたった一つの扉が開き、高価そうな服を着た年若い男が入ってきたのだ。

 驚いて壁に張り付く俺に、男は当然ながら気づかずエレイカの元へ向かう。

「この出来損ないめ!」

 男が急に華奢な少女の身体を蹴り飛ばした。

『な、なにしてんだてめえ!』

 一瞬で沸点を超えた怒りのまま男の胸倉をつかみ上げる。が、手が透過してしまって足止めにもならない。

 そうだ。天使は人間に触れない。

 俺に彼女を守ることはできないんだ。

 男はなおも無抵抗なエレイカに暴力をふるう。

「何度も言ったよなぁ。ワーワー喚くなってさ。お前のあのわけがわからん言葉は気持ち悪いんだよ」

 少女は身体を丸めてひたすら耐えている。

「こんなに毎日説教してもわからないか? 妾の子は教養もなくて大変だなぁ。大体相手もいないこんなとこでしゃべってるなんて頭おかしいよなぁ。なんとか言えよこのッ」

 人を叩く暴力の音だ。エレイカがまた殴られた。

 男の迫力に圧されていた俺だが、彼女の瞳に浮かぶ涙に気付き再びカッと血が上った。

 彼女を守りたい。その一心で男の前に立ちふさがり、エレイカの盾になる。……なりたかった。

 男の拳は無慈悲に俺をすり抜け、エレイカに雨あられと降り注いだ。殴打音とエレイカの小さな悲鳴だけが次々と突き刺さる。

『やめろ! やめろって! おい! やめて! やめてくれ!』

 言葉さえ届かない。

「ごめんなさいはどうしたんだエレイカ? それすら言えなくなったのかい? 可哀想だねえ。でもお前のせいで俺がもっと可哀想だよ」

 胸が痛い。破裂してしまいそうだ。

『やめてくれ! やめ! や……ぁ……やめて、ください。やめてください……やめて……お願いだから、やめてください……』

 人間同士の関係においては、天使は全くの無力だ。

 エレイカが歯を食いしばって耐えているのに、俺は見ていることしかできない。なんて酷い絶望だろう。

 俺には届かない声で叫び続けるしかできなかった。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 男が去ったあと、急いでエレイカに駆け寄った。

『大丈夫か?』

 大丈夫なわけがないのに。ただ一言謝りたかったが、男や自分への胸糞悪さに飲まれて言うことができない。

 俺はまた逃げを選んでしまった。

 エレイカの綺麗な肌は痣だらけで、起き上がることもままならないようだった。意識がぼんやりしているのか、手足をだらりと垂らしたままピクリともしない。

 今すぐ彼女を抱き上げて、こんな最低な場所から連れ去りたい衝動に駆られる。そんなことできるわけがないけれど。

「うぇる……ま……」

『エレイカ! よかった……』

「うぇ……るま」

 口をぱくぱく動かし、必死に俺を呼ぶエレイカ。急いで膝をつき彼女の唇のそばへ耳を寄せる。

 痛みに震える声で、彼女はこう言った。

「あ……いがと……まもってくへたね……」

『え……』

「うれひかった……よ……」

 虚ろな表情をじわじわと歪めて、エレイカは笑ってみせた。

 痛々しかった。

 しかし彼女にそう振舞わせたのは俺だ。俺の弱さだ。

 その彼女の強さを見た俺は、気付けば涙をこぼしていた。

 なにもできなくてごめん。そう言うことさえできず嗚咽する。

 最低だ。自分は逃げることばかりで、彼女を守る努力を諦めていた。天使だとか人間だとかにこだわっていた俺は間違っていたのだ。

 間違っていた俺には、やりたいことをやりたいようにすることさえできなかったのだ。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 翌日からの俺はもはや取り繕うことも出来ないほど憔悴していた。

 廊下を歩いても今までのように、気さくに声をかけてくれる者は誰一人としていない。そこまで酷い顔をしているのだろうか。

 仕事は回ってこなくなっていた。

 きっと兄たちも感づいてしまったことだろう。でももう、どうでもよかった。彼女を救えなかった俺が、これからどの面下げて明るく振舞えというのだ。

 エレイカの元へ行こうと思ったが、怖くて足も翼も動かなかった。自室に閉じこもってずるずると睡魔にまみれる。

 毛布とけだるさが今の安らぎだった。

「ひどい顔してるねえ」

 ミルカルの声だ。

「ほっとけよ。今更出てきやがって」

「なにそれ八つ当たりー? 心配したのに! ま、それで元気になってくれるならいいよ」

「……」

 彼、彼女の声も言葉ほど明るくない。心配しているのは本当らしい。

 ギシとベッドがきしむ。ミルカルが座った気配を感じる。

「なんで出てこなかったんだよ。世話係なんだろ」

 くぐもって聞き取りにくいはずの言葉に、ミルカルはしっかり耳を傾ける。

「ずっと見てはいたんだよ。ただ、ラルミレイエ様がしばらくは干渉しないでほしいって言ってたんだ。ボクの意思じゃない」

 返答は硬い。ミルカルの心情が伝わってくる。

 もっとも今の俺にそれを気遣える余裕はなかったが。

「心配だったんなら逆らえばいいだろ。いつもみたいに奔放に」

「それがてんでダメなんだなあ」

 声が湿り気を帯びてくる。見れなくてもどんな表情なのか想像できた。

「あたしたちは、基本的に神様に逆らえない。命令に背くとね、翼が疼くんだ」

「……」

「痛いんだよ、すっごく」

 そっと毛布から這い出る。

 ミルカルは俺の顔を見て一瞬だけ安堵の表情になった。しかしすぐに顔をくしゃくしゃにして、自らの翼を抱いていた。

 小柄な彼、彼女によく似合っていた純白の翼は、灰色へと濁っていた。

「ミルカル、お前……」

 そうだ。さっき言っていたじゃないか。干渉するなと命令されていたと。

 その命がまだ解かれていないのだとしたら……。

「ボクは堕天使になんかなりたくない……あたし、あたしは……」

 ミルカルが乱暴に立ち上がって扉へ走る。まるで俺から逃げるような動作だったが、俺には文句を言う資格もない。ミルカルが苦しい思いをしてまで、会いに来させた自分に責任がある。

 ごめんの一言さえ聞かせてあげられない。自分の不甲斐なさを改めて痛感する。

 扉の前でミルカルが立ち止まった。

「キミは勇敢だ。ボクはそれを知っている。あの時飛び出した姿を忘れないよ」

 涙に濡れた瞳がこちらを射抜く。

「どうか諦めないでほしい。キミに幸運を」

 ミルカルは俺の前から去って行った。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 閉じこもる日々が続く。エレイカへ、兄たちへ、そしてミルカルへの罪悪感で魘されない日はなかった。

 そうして何日が過ぎたことだろう。

 日付の感覚を忘れたある時、エイ兄が扉を蹴破って入ってきた。ずかずかとベッドに歩み寄り、勢いよく布団を引っぺがす。

『起きろ馬鹿野郎!』

『……ほっといてよ』

 久しぶりに聞く怒鳴り声が耳に痛い。

 エイ兄はさらに声を荒げた。

『ほっとけるわけねえだろ! いいのか? 今日はあの子の最期の日だぞ!』

 ぴくっと耳が反応してしまう。自分の心を誤魔化すことは出来なかった。

 エイ兄が言っているのがエレイカのことだと気付いてしまった。

 がばっと起き上がり、エイ兄の顔を見る。嘘をついてない時の表情だった。

 何故知っているのだと目だけで訴える俺に、エイ兄は、よほど時間を惜しんでいるのか早口で説明する。

 かつて俺が悩んでいた時に様子が気になって尾行したこと、その先で人間の少女と仲睦まじく遊ぶ俺を見たこと、それを今までずっと目を瞑っていたこと。

 話し終えたエイ兄は「疑うような真似して悪かった」と頭を下げた。翼が小刻みに震えている。きっとエイ兄も苦しかったんだろう。しかしそれ以上に俺を心配しているのだ。

 そうだった。エイ兄は酷く優しい。危険を冒してでも俺を守ろうとするくらいに。

『だから俺はお前がふさぎ込んだ時、あのガキに何か言われたんだと思って文句言いに行ったんだ。そしたらあのガキ、泣いてたよ。ウェルマーに嫌われたってな』

『そんな……嫌いになんて……』

 また途方もない喪失感に見舞われる。

 俺はまた間違えた。エレイカの友だちは俺しかいない。その俺が身勝手な理由で急に消えてしまったら彼女はどう思うか、想像は難くない。一体、何度彼女を傷つければ気が済むんだ。

 視界がくらりと歪みかける。

 すかさずエイ兄が鋭い平手を食らわせてくる。とても痛かったが、現実にぐいと引き戻された。

 呆然とする俺の襟首をつかみ上げ、エイ兄は激しく怒鳴る。

『失神してる場合じゃないだろが! 逃げんな! 好きならそう言ってやれ! あの子を泣かせたまま逝かせていいのかよ! 今度こそ誰かを守るんだろ!』

 頬の痛みと叩きつけられた怒声が脳裏にちかちか響く。エイ兄がここまで怒っているのは久しぶりかもしれない。

 本気で怒ったエイ兄は口下手で、懸命に怒鳴るだけになる。余裕がなくなるほど必死に間違いを正そうとしてくれる。

 本当にしたいことか、後悔しないか、それだけを考えて。ラル兄の言葉がそっと背を押す。

 もう後悔するのはたくさんだ。

 俺はエイ兄へと手を伸ばす。エイ兄は俺の細い手をしっかりつかんで引き起こしてくれる。

『ごめん……エイ兄。ありがとう』

 エイ兄は泣きそうな顔で俺の頭をなでる。

『なあ、ウェルマー。俺は最期くらいお前の兄でいられたか? お前の支えになれたか? お前は……幸せだったか……?』

『うん……ありがとう……ありがとう、エイ兄……エイ兄の弟で俺は幸せだったよ……』

 こうして抱擁を交わすことは二度とないだろう。

 漠然とこれが兄との別れなのだと悟っていた。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 エイ兄と別れて、全速力でエレイカの元へ向かう。エレイカの資料が手元にない俺には、彼女がいつ亡くなるのかわからない。なんとしてでも彼女を連れていくカエリラより早くたどり着かねばならない。

 俺が流させた涙を、俺が拭いに行くのだ。

 館の全てをすり抜けて一気に地下室へ降りる。

 幼い少女は歌っていた。元気そうだったが、悲しみで声を湿らせて震えながら歌っていた。

 わざと羽音を立てる。少女の華奢な肩が跳ね、カタカタと震える。しかし振り向こうとしない。

『エレイカ、ごめん。俺はもう逃げないよ……』

 やっと、謝れた。

「……にげるって?」

 無機質に彼女が問う。

 触れられなくても、俺は彼女を抱きしめる。エレイカは身を固くして黙り込む。

『俺は……エレイカが大好きだ。人間とか天使とか関係ない。エレイカの歌、笑顔、肌……全てが愛しいよ』

 この気持ちは単純な愛や恋じゃない。俺はエレイカと過ごす時間を大切にしたかった。

「むずかしい言葉をつかうんだね。もっと、やさしい言葉でききたいな……」

 エレイカの声は優しかった。彼女は俺に嫌われたと思って怯えていただけで、俺自身を忌避してはいない。そうわかっただけで充分だ。

『俺は君が好き。ずっと一緒にいたい』

 幼い少女に伝える言葉じゃないかもしれない。でも混じり気のない本音だ。

 やっとエレイカが振り返る。宝石みたいな綺麗な瞳を涙で濡らし、頬は朱を帯びていた。

「わたしも……ウェルマーがすき……さいごに言えてよかった」

 少女は膝立ちで俺と目線の高さを揃えた。

 涙の粒さえ輝かし、にこりと笑う。もう喪失の痛みに泣き暮れる少女はいなかった。そこには俺が愛した気高い女の子、エレイカが確かに存在していた。

 俺の肩に少女が手を重ねる。二人の距離が少しずつ縮まり、やがてゼロになった。

 俺たちは、決して触れ合わない口づけを交わした。

 幻の温かみを共有した後、エレイカは立ち上がった。

「そろそろいくね。てんしさんがまってる」

 エレイカの背後にはいつの間にか、翼を広げたカエリラの姿があった。

『済んだか?』

 カエリラがそっけなく尋ねると、エレイカは首を縦に振った。

 彼女は気丈にも自ら歩を進めてカエリラの手を取った。

『時間はとうに過ぎているんだ。さあ、行くぞ』

 エレイカがここから去っていく。俺から遠くなっていく。

 胸の痛みに耐えながら、その小さな背に手を振ろうとした俺の耳元で誰かが囁く。

『ねえ、ウェルマー。あの子の死因を知ってる? 知らないよね?』

 ラル兄の声だ。

『あの子の死因は、天使と接触したこと。人間が触れてはいけないモノに触れてしまった罰なんだよ。俺がそう書き直したから』

 ……なら俺がエレイカと出会わなければ、彼女は死ぬことはなかった?

『そうだよ。出会うことも俺が決めていたけどね』

 残酷なまでに淡々とした答えだ。

『……ッ!』

 咄嗟に俺はエレイカの名を叫んだ。

 戻ってきてくれと。逝かないでと。

 結局なにもかも俺のせいだったんじゃないか。俺が彼女に希望を持たせて、そのせいで彼女は死ぬんだ。俺が彼女を殺したんだ。

 続くラルミレイエの言葉は、遠くのアナウンスのようにぼんやりとだけ聞こえた。

『キミが会わなければ、彼女は半年後に兄からの暴力で死ぬ予定だったんだ。そんな悲しい運命からあの子を救ったんだよ。そしてなによりキミが救われたでしょう? 今度は守れてよかったね』

 何もかもを叩き壊すように、俺は慟哭した。

 ああ、どうして俺は、ラルミレイエに翼がない意味を考えなかったのだろう。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 規則正しい無機質な音が場を支配している。

 ここは最期を過ごす終わりの場所だ。

 流れる時間は無情なまでに穏やかだ。

 遠くから声が聞こえる。

流真るま、流真」

 呼ばれているが俺はそれには答えず、痛む喉を酷使して話を紡ぐ。

「夢を見ていたんだ……俺は天使で、一人の女の子と楽しく過ごしていた……その子のことがとても大切だったのに、俺は……俺が……彼女を……」

 じわりじわりと涙が溢れて枕へと流れ落ちていく。同時にひくりと口元が歪む。面白くもないのにおかしくてたまらなかった。

「はは……おかしいよな……俺、もうすぐ、ほんとの天使になっちゃうのに……なんて救いのない夢を見ちゃったんだろ……なあ、エイ兄もそう思うよな……」

「……」

 隣に座って泣きそうな顔をしている瑛司えいじは、口を動かすだけで言葉が出てこない。物事にサバサバした対応をする兄が、今は狼狽えること以外できない。そんな兄が愛しくて、気持ち悪くて、うらやましくて仕方がない。

「流真……もう、やめてくれ。これ以上は身体に」

「エイ兄こそやめてよ。気遣ったって……どうせ……俺はもう」

「いやっ……お前はきっと助かるからっ……だから、そんな諦めたようなこと言うな……」

 瑛兄はワガママを言う幼い子どものようだ。ぶんぶん首を振ってすがり付いてくる。

 本当はエイ兄だってわかっているんだ。俺がもうすぐ死ぬって。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 からからと病室の戸を閉め、瑛司は一人廊下を彷徨っていた。

 宛てもなくふらふらと歩いているうちに、人がいない待合室についた。部屋の隅の方にある座席にずるずると座り込む。いや、へたり込んだという方が近いだろうか。

 弟の流真が自嘲するように笑っていたかと思えば、急に口を閉ざし、追い出される形になった。

 あまりに痛々しいその様に、瑛司にはどうしたらいいのかわからなかった。

 流真はいくつも歳が離れた可愛い弟だ。

 二人っきりの兄弟だけあって仲はすこぶる良かった。瑛司が成人した辺りから疎遠になっていたが、まさかこんな形で再会するなんて思いたくもなかった。

 流真は交通事故に遭った。本人の不注意などではない。なんらかのきっかけで車道に飛び出してしまった幼い少年を助けようとして、結果的に巻き込まれてしまったのだ。

 流真が命を懸けて庇った子どもは、病院への搬送中に亡くなった。流真は一命こそ取り留めたものの、容態が悪化し三週間弱も意識不明だった。それが覚醒したのがつい先日だ。

 瑛司は庇った子どもが死んでいることや、流真の心肺がいつ停止しても不思議じゃないことさえ本人には言えなかった。言えるわけがない。

 意識が戻ってからの流真は、唯一自在に動いた口で天使だった夢についてばかり語った。荒唐無稽な話だが、彼が夢の中でも子どもを守れなかったと知った時、瑛司は弟の苦悩を感じて酷く息が苦しくなった。

 今の流真は自分の状況を含め、すべての物事に諦めてしまっている。こんな何もかもに傷つけられた弟にどう接したらいいのか、わかるわけもない。瑛司だって強い大人とは程遠いのだから。

 ぼんやり握っていた携帯端末が光り、メッセージの受信を知らせる。受信時刻は十六時四十二分。送信者は病院でメッセージには緊急の文字が躍っていた。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 周囲を白衣の人々がバタバタと動きまわる。

 息が苦しい。心臓が痛い。

 俺は漠然と「ああ、今から死ぬんだ」と実感した。

 滲む視界にエイ兄の顔が映り込む。ああ、まだ帰ってなかったんだ。

 ……両親は間に合わないだろう。

 聴覚が力を失い始めたのか、声が遠く聞こえる。

 エイ兄の叫びも少しずつ弱々しくなり消えていく。

 苦痛が徐々に引いていく。それと同時に眠くなってきた。

 周りを見渡す余裕ができたが、どうにもぼやけてしまってうまく見えない。

 区別できるのは部屋の白と、窓の外の青だけだ。

 白はもはや見飽きた。俺はゆっくりと首を動かして空を見る。

 すると空に一つの点が映った。あれは……羽毛?

 それを認識した途端、ドクンと全身の血が熱くなる。

 窓の外に四枚の翼を持つ天使がいる。

 その天使の顔は見覚えがあった。俺が愛した彼女だ。

「え……れ、いか……」

 また夢なのか、それとも死の際に見る幻覚か。

 どちらでもいい。もう一度会えるのなら。

 痛みに軋む全身に鞭を打ち、呼吸補助のマスクを取る。邪魔だと遠くへ投げ捨ててしまう。

 動かないはずの全身を気力だけで動かし、上体を起こす。

 それだけで酷い苦痛が俺を襲う。だけどエレイカのためなら、どんなことにも耐えられる。

 硬い両足をベッドから下ろし、一歩進む。すぐによろけて転倒しそうになる。歯を食いしばってなんとか踏ん張り、窓枠へと手を伸ばす。

 幸い窓は開いていた。

 翼を風に揺らし、少女がこちらへと手を伸ばす。

 最後の力を振り絞って窓枠を乗り越える。

 エレイカは涙を浮かべていた。綺麗だった。

 安心して。もうすぐ一緒になれるよ。

 俺はためらうことなく、窓枠から飛んだ。

 風が心地いい。エレイカに会うために俺は空に帰るんだ。

 身体が落下を始めるより早く、俺の翼が体を支え、彼女のそばに連れて行ってくれる。

 待っていてくれたエレイカが、とろけるような笑顔で抱き留めてくれる。

 彼女の香り、彼女のあたたかい翼に包み込まれれば、不思議と手足のこわばりが消えた。

 軽くなった右手でエレイカの柔らかい頬に触れる。

「ああ……やっと触れられる……」

「そうだよ、わたしたち……ふれあえるんだよ」

 エレイカが可愛らしく微笑む。その瞳には涙が浮いていた。

 顔をあげたことでようやく俺も、自分が泣いてると気付いた。

 俺たちは互いを強く抱き締め合う。今まで叶わなかった分を埋めるように。ぬくもりをむさぼり合ううち、どちらともなく距離が縮まり二人の影が重なり合う。

 初めてのキスは、甘い涙の味がした。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 一定の無機質な電子音が場に静寂をもたらす。

 初老の医師が重い口を開く。

「十六時五十三分。上野流真くん、ご臨終です」

 瑛司は、満ち足りた顔で横たわる流真に縋り付いて号泣した。恥も外聞も関係なかった。

 大切な存在から自分だけ切り取られて行くようだ。

 流真の生きていた気配が、少しずつ少しずつ遠ざかって、やがて消えた。

 悲しみで鈍くなる感覚に溺れて目を閉じた。

 泣き崩れる瑛司には流真の穏やかな眠りを祈るほかなかった。

 ☆  ☆  ☆  ☆

 墓石に祈り続ける女性に瑛司は声をかける。

「わざわざこんなところまでありがとうございました、リナ先生」

 短い髪を揺らして立ち上がった女性は涼やかな目元を濡らしていた。

「構わないよ。流真の葬儀には間に合わなかったしな。……子供を助けて逝くなんて、実にあいつらしいアホ加減だ」

 口ではそう言いつつも彼女は、弟の死を深く悼んでいることを知っている。

 さかえ理奈りなという女性は、長らく流真の家庭教師を引き受けてくれていた人だ。気が強くもしなやかな優しさで包んでくれた彼女を俺も流真も心底慕っていた。付き合いの長さから家族のように思っていた節もある。

 そして彼女自身も、やんちゃで愛嬌のある流真をとても気に入っていた。それを知っているからこそ、彼女の大きな悲しみが透けて見えてしまう。

「そうですね。あいつはアホで、間抜けで、明るくて……人一倍優しい子でした」

 意識しても声の震えは止められない。

 俺も、リナ先生も、立ち直るまでに長い時間がかかるだろう。

「瑛司、時間があるなら少し話をしないか」

 彼女は口元をほころばせて「思い出を思い出したい」と言った。俺はそれに同意した。

 流真が眠る墓に小さく別れを告げ、二人で歩き出す。途中で長髪の美しい青年と可愛らしい少女の二人組とすれ違った。そういえばあいつは顔が広かった。

 彼らが流真へ花束を添える。

「キミに幸運を……」

 風に乗って少女の呟きが聞こえる。

 声をかけるのは控えておこう。きっと彼らにも、流真との時間が必要だろうから。

 リナ先生と他愛のない話をした。どの話も流真が出てきて、すべて彼が楽しい話に変えてしまう。思い出話はどれも幸せだっだ。気づけば二人で涙を流していた。

 流真のために泣いてくれる彼女が愛しかった。

 空から一枚の白い羽毛が落ちてきた。

 天使になってしまった流真は、今どうしているのだろう。こちらは泣いてばかりできっと情けなく見えることだろう。

「俺は、お前の支えになれたか……? お前は……幸せだったか……?」

 優しい風が吹き、どこかで力強い羽音が聞こえた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カランド 夜清 @crab305

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ