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影月深夜のママ。

一章:LUNACY

「この夜景はね、私をとても悲しい気持ちにさせるの」


 リビングの窓から夜の街を見下ろしている僕を、キョーカは背後から弱々しく抱きしめた。彼女が僕の手や頬に触れるのはいつものことだったが、こんな風に抱きついてくるのは珍しいことだった。


 小高い丘の上からは、海と山、それから繁華街が一望できる。街のライトは夜空さえも照らしていた。緩やかに海岸線を沿う街灯はまるでアーチ状のイルミネーションのようだった。そして、海の向こう側には何かの記号のように一つの丸い月が浮かんでいた。

 lunacyという言葉を僕は思い出していた。もしかしたら月の光が彼女を少し大胆にしているのかもしれない。


「悲しくなる?」と僕はキョーカに聞き返した。

「とても悲しくなるの」


 キョーカは耳元で囁いた。


 彼女は僕の身体を離れ、女の子にしては長い指で撫でるように窓ガラスをなぞった。陶器のように白くガラス細工のように繊細な指だ。そのとき、もう片方の手の指は僕の指に一本一本が絡められていた。

 二人きりの暑苦しい夏の夜だった。


「この夜景をね、昔にどこかでみたような気がするのよ。デジャビュのような感覚。何処でみたのかは覚えていない。それがいつだったのかも分からない。でもね、それは大事なことなのよ。本当は覚えていなければいけないことなの。だから私は悲しくなる」

「大事なこと?」と僕は尋ねた。

「そう大事なこと」


 キョーカは少し首をかしげて、湿ったため息をついた。まだ十七のはずなのに、キョーカが実際より少し上に見えるのは、それとなく匂わせる艶っぽい空気のせいだ。意識されているものかどうかは分からない。ただ、豊満な胸と長い髪は、そんな空気に良く似合っていた。


「大事なことってどんなことだろう?」

「わからない」とキョーカは首を振る。「でも、とにかくそれは大事なことなの。恋人との決め事とか、敬虔な思想の下に定められた戒律とか、そうじゃなきゃ夜の空に星が輝く理由とか」

「昔の幼馴染と交わした結婚の約束とか」

「あるいは」とキョーカは言う。「でもね、その内容は副次的なものに過ぎないの。もっとも私が悲しいことはね、その大事なことを忘れていることなの」


 彼女は小さくため息をつく。物憂げな表情はキョーカにより儚く綺麗に見せた。

 彼女は美しい女の子だった。高い鼻梁と長い睫毛は気の強いキョーカをさらに気高く見せていた。クラスにいたのなら男子生徒の何人かは恋に落ちていただろう。一緒に暮らす僕だって、時としてその細身の身体を強く抱きしめたくなる。


「オオカミくんは似たようなことない?」

「分からない。考えたこともない」

「役に立たないね」


 キョーカは僕の胸に寄りかかるように背中を預けた。彼女からはいつも不思議な匂いがする。香水なのかシャンプーなのかはわからない。甘ったるくて、人工的で、少しだけ扇情的な匂い。頭がくらくらとした。

 キョーカは僕を見上げた。襟口からは彼女の豊満な胸が覗いていた。夜の闇に沈んだような黒い瞳が僕を見返す。チロリと出た舌が、彼女自身の唇を濡らした。


「オオカミくん」と甘えるように僕を呼んだ。「私ね、この家を出ようと思うの。ついて来てくれる?」


 彼女の声は背中の裏辺りをぞくぞくと刺激した。その気になればキスできる距離が胸の鼓動が一段高くする。


「本気で言ってる?」と僕は尋ねる。

「冗談よ」とキョーカは答える。「ここを離れたって行く場所なんてないし、それにオオカミくんは頼りにならないわ。私、公園で野宿するのも野たれ死ぬのも嫌だよ」

「うん」

「がっかりした?」

「別に。キョーカの好きにしたらいいよ」

「冷たいね」

「お互い様」


 キョーカは手をほどいて、それから僕の背中を押しのけた。こんなぶっきらぼうなやり取りがもしかしたら一番いいのかもしれない。そんな風に思う。僕とキョーカは同居人であって、恋人ではないのだから。

 隠された答えを探すように、キョーカはしばらく外の風景を眺めていた。ソファに座ってテレビを付けると何処かの国の内戦の映像が映し出された。


「そもそもキョーカに大事なものなんてあるの?」と僕はテレビニュースに目を向けたまま尋ねた。

「こんな私にだって大事なものがあったのよ。そのために、自分を犠牲にすることだってあった。今はもう、なくなってしまったけど。だから、私はいまこんな場所にいるの」


 そのことについて僕は考えてみたが、それはただ僕を混乱させるだけだった。僕はキョーカのことをあまり多く知らないし、性格だってまるで違う。僕たちの共通項は『ユウコさんに拾われた』ということぐらいだ。

 玄関の扉が開く音がした。ユウコさんが帰ってきたのだろう。キョーカが軽い舌打ちをする。


「帰ってこなければいいのに」


 キョーカは窓の向こうを隠すようにカーテンを引いた。僕と二人きりでいたかったわけでは、もちろんない。もう一人の同居人のことを彼女は毛嫌いしているのだ。

 キョーカが足早にリビングから出ていこうとしたところを、僕はとっさに呼び止めた。もし許されるなら、彼女と何かを分かち合いたかったのかもしれない。


「なくなってしまった大事なものってなに?」


 僕をわずかに見やった視線は、さっきの景色を思い出すようにジッとカーテンに向かった。真摯に見つめる瞳がわずかに揺れた。何かを言いかけたキョーカは、けれど口をつぐみ、面倒くさそうに首を振った。


「さあね。それも忘れちゃったわ」


 キョーカは二階にある自分の部屋へと消えてしまった。

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