BAR『安楽死』

@hajimew

凍死

───うら寂れた場末の路地に、その店はあった。


飲み屋街から外れたその小路は静かに暗く、簡素な看板とそれを照らす弱いライトだけが浮かんでいた。『BAR 安楽死』などという物騒な看板の割に、古ぼけたランプはぼんやりと優しげに光っている。


飾り気のない取っ手を掴み、木目調の重いドアを開く。中は適度な湿気で満たされていて、外が案外乾燥していたことを知る。天井から吊るされた最低限の照明が水彩画のように滲んで、じんわりと暗闇が漂っている。黒い霧雨のようだ、と思った。


身の程を知るように小さな店内には、左の奥にやけに大きい木のテーブル、その手前に丸テーブルを挟んで向かい合う1人掛けソファ、右側のカウンターは5席。それ以外は暗くてよくは見えない。「いらっしゃいませ」と、マスターのささやかな歓迎に促されカウンターを見る。


一番奥に中年らしい男がひとり。俯いて黙って酒を見つめている。反対側の端を今夜の私の居場所にする。椅子にかけるとマスターがメニューを手渡す。余計な口はきかない、彼もきっと話すのはあまり好きではないのだろう。しかし、客の話を黙って聞ける男でもある。さて、今夜はどうやって死のうか……。


この店のメニューは正しく店名と統一されている。


・首吊り

・轢死

・凍死

・焼死 ……


私はお気に入りの「凍死」を頼む。別に寒いのが好きなわけではない。この店の趣向を殺すのを承知で言えば、これは「凍死」という名の”雪国”だ。ウォッカと砂糖とライムのあれ。ただ、ここの”雪国”はなぜか青い。スノースタイルの白とカクテルの青が、氷の上に降り積もった雪のように見える。


甘く強いアルコールはすぐに外の世界を忘れさせてくれる。ゆっくりと口に含めば、その冷たさが現実になる。


少し飲んでアルコールを身体に馴染ませてから、「凍死」を見つめる。

氷の底に沈んだあえて真っ赤なチェリーに自分を重ねる。


今、自分は死ぬ。


この暗く冷たい世界で、体温が低下し、酸素が不足し、朦朧とする意識の中で。体中の感覚を失い、指先1つ動かず、頭のなかでは走馬灯が駆け巡り、ひとりぼっちで。もう後戻りはできない。


私は最期に、何を想う──。


頭は生と死の狭間をさまよいながら、背中で扉が開くのを感じる。誰かが黙って椅子を引き、席に着く音がする。足音はひとりだが、テーブル席だろうか。大きすぎるテーブルは相席になった際の緊張を緩和するためだろう。まさか、集団自殺のためでもあるまい。


自暴自棄と、現実逃避と、予行演習。死の疑似体験と、カタルシス。はたまた酒の味か、マスターの無口か。なにかを求めて、ぎりぎりの誰かが、夜毎闇に紛れてやってくる。


あなたも何か、頼んでみますか?

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