最終話 マイナンバー制の導入とその後の展開
その乱暴な措置について説明をする前に、ちょっとだけ横道に
平成二十八年一月、さまざまな批判はあったものの『マイナンバー制』の正式な運用が開始され、その結果、国は国民一人ひとりの年収を正確に把握できるようになった。
そして、正式運用後の第二段階の施策として、
「個人の年収によって受けられる公共サービスに制限を設ける」
こととした。
表向きは、
「限りある公的な資金やサービスを、それを必要とする層に重点的に配分するため」
と言われていたが、要は経費の削減である。
ご立派な名目に国民が騙されている裏で、なし崩し的に法の整備がなされており、それはたいした議論もされないまま、原案通り国会で可決されてしまった。
蓋を開けてみれば、高額所得者は公共サービスを受けるどころか、公的年金の支給率まで抑えられていたため、事後に激しい非難の声が沸き上がる。
ところが、その騒ぎに紛れて、
「サービスの利用区分を一目で分かるようにするために、個人別に発行されるマイナンバーカードを年収別に色分けする」
という施策は、そのまま実行に移されてしまった。
マイナンバーカードはICチップが埋め込まれており、そこに必要な情報を登録すれば、健康保険証などの公共サービスの利用証だけでなく、一般企業の会員証としても利用することが出来る。
そのため、各種のカードを使い分けることを回避するために広範囲に使われており、その中には鉄道の定期券も含まれていた。
そこで、鉄道各社はそのカード情報を車両分離の手段として流用することにしたのだ。
「車内迷惑行為を行うリスクが高いのは、低所得者層である」
という極めて乱暴で安易な決めつけから、年収による車両分離が実施された。
具体的には、十一両目から十五両目までが「年収三百万円以上の男性」専用の『普通車両』とされた。
それ以降の車両は「年収三百万円未満の男性」専用となるが、ここで更に区分が設けられた。
受動喫煙の危険性が声高に喧伝された結果、喫煙者は社会的に隔離される傾向にあったため、その動きを察知した鉄道各社が喫煙者の分離に乗り出したのである。
十六両目から十九両目が「年収三百万円未満で非喫煙者の男性」専用である『ノンスモーカー車両』となり、喫煙者は最後尾の車両に詰め込まれることになった。
なお、喫煙者かどうかの判断はICチップに記録されている健康診断時の自己申告に依っているため、虚偽申告する手もあるのだが、それが発覚すると医療保険の対象外になるなどのリスクを負うことになるので、滅多にやる者はいなかった。
ところで、ここまでの車両区分におかしな点があることに気がついた人はいるだろうか。気がついたとすれば立派である。
実は、喫煙者でも年収三百万円以上であれば『普通車両』に乗車可能であったし、年収の低い喫煙者でも女性ならば『レディス車両』に乗車可能なのである。
つまり、車内迷惑行為のリスクや受動喫煙の危険性というのは口実に過ぎず、「年収の低い男性喫煙者」を分離したかっただけのことである。
従って、区分の矛盾点は指摘されていたものの真面目な議論には至らず、鉄道各社も年収の低い男性喫煙者以外の分離に本腰を入れてはいなかった。
当事者以外からの「差別」という声も出てこない。
私は、この件から喫煙者に対する社会の風当たりの厳しさを、つくづく実感した。
*
私はドアが閉まる寸前に、最後尾の車両、俗称『スラム車両』に駆け込んだ。
ドアの横に立っていた男が迷惑そうな顔で舌打ちをしたので、思わず手が出そうになったが我慢する。
前の転職理由が、電車内での迷惑行為による諭旨解雇だったからだ。
車両内はかなり混み合っており、車両の中央のほうでは既に小競り合いが始まっているのか、怒号のような声が聞こえていた。
しかし、この車両で何が起こったとしても、他の車両に影響するものでなければ、鉄道会社が運行を見合わせることはない。
すべて無視して電車は発着するし、ここだけ連結器が容易に切り離し可能になっているという噂話もある。多分、それは事実だろう。
そして、
「喫煙者の身体に染み込んだ有害物質を取り除くため」
という表向きの理由で電車には窓がなかったが、実際は単なる冷暖房コストの削減が目的に違いない。
車両分離を推し進めた結果、電車の車両は無意味に長くなり、無駄な経費がかかるようになっていたから、
「スラム車両の乗客なら誰も文句は言わないだろうし、言わせない」
という勢いで、設備はどんどん削られていた。
それにしても、東京電鉄大町線は昔から駅と駅の間が極めて短かったから、この調子で車両を繋げていたら、最期には後続電車の一両目が先行電車の最後尾と重なることにもなりかねない。
のろのろと進んではすぐに停車する、その癖、平成二十七年当時からすると三倍の料金を支払わなければならない通勤電車の中で、私は大きな溜息をついた。
「禁煙しようかな……」
しかし、前回禁煙時にイライラして思わず電車内で喧嘩を引き起こしてしまったのだから、話にならない。
私の懊悩を乗せた電車は、早朝にもかかわらず真夏の熱気を車内に撒き散らしながら、のろのろと進んでいった。
( 終わり )
通勤電車分割奇譚 阿井上夫 @Aiueo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます