見えざる者の微かな名残り

阿井上夫

見えざる者の微かな名残り

「この度は弊社の製品への異物混入により、お客様各位には多大なご迷惑をおかけ致しましたことを、深くお詫び申し上げます」

「異物混入について、社内のチェック体制はどうなっていたのか」

「弊社では原料の受け入れに始まり、原料の保管、製品の製造・保管から出荷に至るまでの各工程におきまして、異物の有無に関する厳密なチェック体制を敷いておりました」

「チェック体制があるのに、なぜ異物が混入したのか」

「体制はとっておりましたが、意図的な遺物の混入につきましては弊社としては如何ともしがたく――」


 年末も押し迫った頃、都内で米菓製造業「パリパリ本舗(仮名)」を営む糸川佐吉(仮名)は、家族と夕食を食べながら、テレビの報道特集でやっていた『異物混入に関するやりとり』を見ていた。

 佐吉は、妻の糸川富江(仮名)に茶碗を手渡しながら、

「なんだか脇が甘いねえ」

 と、眉をしかめて不快そうに話す。

 そんな父親の様子を見て、小学三年生の娘、糸川萌(仮名)が心配そうに言った。

「お父ちゃんのところは大丈夫なの」

 佐吉は、歳をとってからやっと授かった娘に甘い。従業員や業者が同じことを聞いたら、「何言ってんだ、馬鹿野郎」と一喝するところだったが、娘には眉を下げて優しい声で言う。

「うちは米のお菓子だからね。米と砂糖と醤油と海苔ぐらいしか使わない。いろんな材料を使って複雑なものを作っている訳じゃないし、そもそも粉と液体なんだから異物混入があればすぐに分かるんだ。社員も信頼できるし、材料も契約している業者から直接仕入れているしね。年に一回は工場も自分の眼で見に行っているし。こんなの、全然関係ないよ」

「そうなんだー」

 萌は安心して、好物のハンバーグをつつく。


 *


 同時刻、関東一円に醤油を販売している「マルモト醤油」(仮名)の製造課に勤務する流川園馬(仮名)が、製造課長の空山雄三(仮名)に向かって叫んでいた。

「旦那ぁ、出荷予定のドラム缶の中に何かいろいろと浮いてますぅ」

「なにぃ」

 雄三は太い筆に墨をたっぷりとつけて書いたような眉を盛大に上げる。

「これは虫かなぁ。誰かが蓋を閉め忘れたらしいですぅ」

「馬鹿野郎、それじゃあ台無しじゃねえか。どこ向けの分だよ」

「パリパリ本舗さん向けですぅ」

「あ――あのうるせえ親父のところか」

 雄三は、日頃から「コスト、コスト」と口煩い佐吉のことが気に入らない。

 まず、ドラム缶単位で一年分ぐらいをまとめ買いする姿勢が気に入らない。

 それに、社長や工場長が「お客様だから」と持ち上げるのも気に入らない。

 それで、いい気になって製造工程にまで口を挟んでくるのも気に入らない。

「廃棄しますかぁ」

「いや待て」

「待てって言われても、これじゃあ使えませんよぉ」

「いいから待て。ざると布を持ってこい、ざると布」

「どうすんですかぁ」

「こんなの原料のカスだよ。取り除きゃあいい」

「えー、この異物混入で大騒ぎの時期にですかぁ、ヤバいんじゃないですかぁ」

「馬鹿野郎、お前。うちは何屋だよ」

「醤油屋ですぅ」

「醤油の異物ってなんだよ。何か醤油に塊でも入っているのかよ」

「ああ、普通は入っていませんがぁ」

「じゃあ、異物混入なんてありえねえじゃねえか。目に見えないものは無いもんなんだよ」

「でもー」

「うるせえ、お前は黙ってろ」

「へいー」


 *


 後年、娘婿に会社を任せて引退した糸川佐吉は、次のように述懐している。


「あの年のパリパリ本舗の米菓は、味にコクがあって奇跡的に上手いと大評判だった。売り上げも絶好調で、あれが会社発展の糸口になったけど、あれほど美味いものは、後にも先にもあの年にしか出来なかった。何が良かったのかねえ――」

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