エクスクレメントの絶望

クソザコナメクジ

エクスクレメントの絶望

 黒板に白いチョークが躍る。小難しいダンスの軌跡は、もどかしさに震える俺の心を惑わせた。

 焦燥から来る貧乏ゆすりによって、身体は小刻みに揺れている。俺は今、社会的に死のうとしていた。

 次の休み時間まで、あと四十五分ある。秒に換算すると、二千七百秒だ。まだ咄嗟にそんな計算ができるくらいには、計算力は鈍っちゃいない。だが、俺の身体はもう限界を迎えつつある。この腐った群衆<クラス>の中で、平静を保てる自信が無いのだ。

 そうだ。もういっそ、この教室に居る奴らを全て殺してしまおう。小規模なバトル・○ワイヤルを、今ここで始めてやろうじゃないか。賽(さい)は投げられた。今こそ、この教室(ハコニワ)を鮮血(ダークブラッド)に染め上げる時だ。


  ◆◇◆


「いったん授業を止めろ!」

 静まり返った教室内に、俺の声が響き渡る。一心不乱に黒板へ数式を書き殴っていた白髪の教師が、訝しげにこちら振り返った。


「なんだ、さとう。授業に関して質問でもあるのか?」

「いいや先生。要望ならありますよ」

「そうか。答えられる範囲で聞くから、言ってみなさい」

「それでは遠慮なく――死ね!」


 瞬間、俺は懐から手榴弾を取り出す。くい、と安全装置のリングに指をかけると、隣の女子が、キャー! と黄色い悲鳴(昨日雑誌を見て覚えた言葉だ)を上げた。それさえも俺の殺人衝動を助長させて、俺は唇を釣り上げる。

 窓に映る俺の顔には、獣の様に本能が宿っていた。瞳には怪しい光が宿り、頬は僅かに紅潮して、手榴弾を掲げる腕は微かに震えていた。――興奮しているのだ。この、非現実的な状況に。そしてこの空間を自分が作り出したという、その事実に。


「さとう? なんだそれは、教室に関係ない物を持ちこむんじゃない!」


 教師がチョークを投げ捨て、俺に向かってくる。クラスの奴らが、不安そうに俺と教師を見つめていた。

 恐らく、この手の中のブツが本物か偽物かすらも判断できていないんだろう。


「先生、俺はね、ずっとアンタが憎かったんですよ」

「何……?」


 教師が歩みを止める。俺と二、三歩間をおいて、灰かぶりの眉――シルバーアイブロウ――を寄せた。


「アンタはずっと……犯してはならない過ちをしてきた」


 嵐の前の静寂。俺が言葉を放つ度、びりびりと空気が震える。長く降り積もった怨念を晴らすなら、今しかないと思った。


「アンタは、アンタはッ! 俺の事を『さとう』と、ずっと砂糖と同じ発音で俺を呼んでいたが……俺の名はな、サトウのライスと同じ発音なんだよ……!」

「な……あのCMでもお馴染みの、サトウのライスだと……?」


 ざわ…ざわ…と、教室内が騒めく。


「ウソ」

「やだ」

「知らなかったわ」

「マジかよ……」


 皆、口々に驚愕の言葉を落とし、俺を見る。先ほどまでは不安しか感じられなかった皆からの眼差しに、同情の色が加わった。なんて滑稽な狂想曲だろう。同情だなんて上から目線の感情を、俺に向けるとは。今こいつらの命を握っているのは、俺のほうだというのに――。

 しかし、俺の恨みはそれだけではない。こんなのは序の口だ。呆然とする教師を放置し、俺はクラスの中心的存在――瀬戸内に向き直った。


「それから、瀬戸内!」

「な、なんだよ……」


 高校生の癖に髪を金に染めた瀬戸内は、耳元のピアスを光らせながら俺を睨む。しかし、俺ももう後戻りはできない。鋭いその視線に応えるように、こちらも睨み返した。


「瀬戸内、お前……俺の彼女、寝取っただろ……!」


 奈落の底から聞こえる呪詛の様に、怨念を言葉に乗せた。視線で人を殺せるなら、俺はまずこいつを殺しただろう。何せ、こいつは俺の大切な彼女を奪ったのだ。許せない。気が付けば、俺の愛する彼女はこいつにブイブイ言わされていた。そうかそうか、つまり君はそんな奴だったんだな。

 しかし俺は、過去には捕われない。振り返る事はしない。少年の日の思い出を胸に、前へと進んで行くのだ。


「彼女? ああ、セツコちゃん……だったっけか?」

「違う、ケイコだ。何処の女と間違えてるんだよ。畜生、畜生。こんな、こんな奴にケイコは……」


 へらへらとした瀬戸内の態度に、悔しさがこみ上げる。脳裏によぎる、ケイコの笑顔。今はもう色褪せてしまった、俺たちの愛――ケイコは今でも、俺に愛を囁いてくれる。瀬戸内と一夜を共にした癖に、尚も俺にしがみついてくる。瀬戸内に抱かれたその腕で、その身体で、俺に触れようとしてくるのだ。


「いや……理解できないんだけど、さ。ゲームの人物じゃん、あれ。貸したのお前だし」

「誰がケイコを攻略していいと言った! 普通、人の嫁には手を出さないだろ! 俺のケイコが汚された、クソ! ファック!」


 大体、リア充の分際でエロゲをやろうという意識が気に食わない。寂れた和食の店で『カルボナーラ始めました』という張り紙を見た時の様な、微妙な気分になる。

 そして決まって彼らは、人の嫁に散々手を出した後、現実世界で可愛い恋人を見つけるのだ。非常に腹立たしい。死ねばいいのに。


「やだ、可哀想」

「サトウくん、哀れ……」

「でも、瀬戸内君に立ち向かうサトウくんの姿……カッコイイ」


 クラスの女子が、声を潜めて喋る声が聞こえた。俺の事をカッコイイと言ったのは、クラスのマドンナ的存在の北条さんだったが、関係ない。俺はケイコ一筋なのだ。例えクラスのマドンナ的存在にカッコイイと言われても、決して嬉しくは無いのだ。俺がどんなに否定したってクラスのマドンナ的存在に見染められた事実は変わらないが、それでも俺は嬉しくない。俺にはケイコだけ、ケイコだけ。


「北条さん、カッコいいって言ってくれてありがとう。生まれて初めて言われたよ」


 しかし、褒めて貰ったのだからお礼くらいは言わなければならない。それが紳士の嗜みである。俺はクラスのマドンナ的存在の手を取って、直接礼を述べた。クラスのマドンナ的存在は赤面している。


「サトウくん、近くで見るとますますカッコイイ。お願い、私あなたに一生寄り添うから、私だけは助けて!」


 クラスのマドンナ的存在が、俺に縋りついてきた。しかし、俺は孤独を貫く一匹狼。クラスのマドンナ的存在の手を冷たく振り払う。


「俺に関わると不幸になる。俺は呪われているからな。もうじきこのクラスはブラッド・カーニバルと化すだろう。その前に、逃げた方がいい」

「サトウくん……」

「でも、君だけは逃がしてあげるよ。生きて、俺の愛する人――」

「サトウくん、私……もっと早く、貴方に気持ちを伝えれば良かった!」

「バット……いけない子だね、最期に見るのが君の涙だなんて、俺のゴートゥーザヘヴンに相応しくない。ヘヴンズドアの走馬灯は、君の笑顔がいい」

「サトウくん……どうしてそんなに優しいの……」

「男はね、誰だって女の子には優しいんですよ。こう見えても俺は、不幸な事故で妹を亡くした過去を持つ悲しい道化だからね。俺は妹を殺した奴を許せない。未だに復讐に捕われる、悲しき獣さ」

「サトウくんの妹さん、そんな事があったなんて」

「ソゥ。俺の誕生日に、俺の誕生日プレゼントを買いに行って……そして、ギャングに殺された。たった一人の妹だった。二人で生きて来たのに、奪われた。俺はそんな悲しい過去を持つ男だよ。そしてその悲しい過去に今も捕われ続けているよ。君には相応しくないよ。何せ、悲しい過去に捕われている男だからね。悲しい過去に捕われてる今にも消え入りそうで、儚げで、少し影がある男なんて、君には相応しくないだろう……さあ、行ってくれ」

「さっきは事故だって言ってたのに、実は殺人だったのね。それでもって、日本にまだギャングなんていたのね。もしかして、私に気を遣ってわざと事故だって言ったの? 怖がらせない為に? なんてカッコいいの、女心がわかってる! 惚れたわ、生きてたら恋人にするのに!」

「センキュウ。最高の褒め言葉だ。これで何も思い残すことなくゴートゥーザヘヴンできる」

「サトウくん……!」

「来世で、また会おう」


 俺はその言葉を最後に、クラスのマドンナ的存在を教室の外へと追いやった。

 素早くヘヴンズドア(教室の扉)を閉め、怯える群衆を見渡し、俺は笑う。最早それは、嘲笑と言っても良いかもしれない。

 彼女以外は、敵だ。妹を殺され、彼女(二次元)を寝取られた俺に、もうこの世界で生きる意味などない。例えクラスのマドンナ的存在が俺に言いよって来たとしても、俺にとって大切なのはこの二つだけ。そういう設定だから、仕方ない。


「じゃあな――腐った世界に、アディオス」


 勢い良く、安全装置のピンを抜く。


 ――ほとばしる閃光。

 光の中に浮かんだ、群衆の絶望に満ちた顔。

 そしてその、破滅の音を皮切りに。

 俺の世界は、箱庭もろとも終わりを告げた。


 ◆◇◆


 ……という妄想に時間を費やしてみたが、時計を見るとまだ五分しか経っていなかった。俺の事を「さとう」と呼んでくるクソジジイは、まだ飽きもせず数式の解説をしている。


 毎回毎回、間違った発音(名前は間違っていないのが更にイラつく)で呼ばれる身としては、今ここで俺の名前の解説をはじめたい所だ。成績下がりそうだからしないけど。


 一方、俺の嫁を寝取った前の席の瀬戸内は、眠そうな顔でシャーペンを回していた。しかも小指が立っている。今時ペン回しとか、あいつどんだけヒマなんだよ。


 しかし、ヤバイ。

 授業終了まで、まだあと四十分もある。

 マジでさ、あの時計おかしいんじゃないか?

 だって俺の脳内では授業ジャックして、クラスのマドンナ的存在の北条に愛を告白されて、妹のことを忘れられない悲しき獣の俺が手榴弾でクラスごと自害までしたんだぞ。それなのに、時計を見れば五分しか経ってないって。ちょっと俺の命ナメ過ぎじゃね? 胡蝶の夢、とかいうレベルじゃない。


 どうしよう。もう妄想のネタは尽きてしまった。否、やろうと思えば奇跡的に生きていたが衝撃で記憶を失ってしまった俺が、このグラウンド・ゼロ(爆心地)で彷徨い、俺の事が忘れられずにこの場所を訪れたクラスのマドンナ的存在・北条に拾われる辺りのストーリーを創り出せない事もないんだが、今の俺ではちょっと、そこまで思考が追いつかない気がする。


 そもそも何故俺が此処まで、授業から目を逸らして妄想に勤しんでいたかと言えば、そこには深い深い、本能に基づくくらいにのっぴきならぬ事情があるのだ。


 話せば長くなるが、今回は簡潔に、一言で纏めよう。否、本来一言で纏めきれないくらいに複雑な事情が絡んでいるが、今は仕方ない。わかりやすく、シンプルに、がベストだ。


 すごくトイレに行きたい。

 すごく、トイレにいきたい。実を言うと、朝から。

 話せば長くなる。思い出したくもない忌まわしき記憶だ。あいつの顔を思い出すだけゲロっちまいそうな程のな。


 今朝、妹(存命)が珍しく朝ご飯を作ったらしく、俺は味見係としてムリヤリ叩き起こされた。

 お兄ちゃんの為に、とかそんな可愛い理由じゃない。今度の日曜、彼氏に朝食を振舞う約束をしているらしい。他の男の為にわざわざ朝早く起きたのかと思うと死にたくなるが、しかし妹に逆らう事も出来ない俺は、仕方なく妹の料理を口にした。クリームシチューが、やけに酸っぱかった。


 バカな妹の事だから、どうせまた変なものを入れたんだろうと思っていたら、テーブルの上に置いてあった牛乳の賞味期限が一週間前だった。試しに中身をシンクに流してみたら、もうそれはヨーグルトにジョブチェンジ済みだった。それは、なんとも不幸な事故だった。そしてそれが俺の、辛苦の始まりだった。シンクだけに。

 勿論、俺も黙っちゃいない。

 真っ先に文句を言いに、妹の部屋へ向かった。


「お前、お前、なんで朝からクリームシチューなんだよ! 腹壊しただろうが!」

「ハァ? 御馳走して貰っといて文句言うんじゃねえよクソ兄貴! コウちゃんはクリームシチューが好物なの、あたしと同じ味覚してるの!」

「コウちゃんって誰だよ、彼氏かよ、知らねーよ。いくらコウちゃんがお前を好きでも、人間である以上はこのシチューを受け入れられないと思うけどな!」

「そんな事ないもん。コウちゃんとあたしは運命なの、デスティニーなの。何度生まれ変わっても同じ選択をするの!」

「ハァ? んだよスイーツ脳かよ気持ち悪ィな。愛の恋だの、愛で食中毒が回避できたら戦争なんて起きねえわ!」

「今は別に戦争の話してないじゃん、クソ兄貴! っていうか、食中毒とか超失礼なんだけど。もういい。もう兄貴にシチューなんか作らないから。遅刻して誤爆しろクズ男。ツイッターに悪口書いて拡散してやる!」

「えっ、怖――って、やべえもうこんな時間じゃん、やべえ、お前絶対ツイッターで俺の本名出すなよ、仇名でも駄目だぞ、絶対だからな! ネットは怖いんだぞ、炎上したら鬼電来たり黒いスーツ着たおじさんが訪問販売してくるんだからな、いいな!」


 そこで妹との口論を中断し、慌てて俺は学校へ走り――ギリギリセーフで教室に駆けこみ、今、こうして授業を受けている。要するに、トイレに行ってホワイトマター(ノット・ダーク)を吐きだす時間が無かったのである。


 そして案の定、授業中に腹痛の波は襲ってきた。例えるならば、右から左へと通り過ぎていくスポーツカーの音。徐々に痛みの波は押し寄せて来て、今も、痛くなったり収まったりを繰り返している。腹の内側からエイリアンが膨張しているみたいな、なんかそういう意味のわからない感じ。やばい、生まれそう。


 そろそろ本格的に冷や汗が出て来た。吐き気も催してきている。やばい。このままでは授業が終わるよりも前に、俺が社会的に死ぬ。このカスみたいな箱庭にクソを撒き散らしても悪くないが、しかしそれは確実に社会的に抹消される。クラスの目だたない存在を維持してきた俺としては、それだけは何としても避けたい。


 しかし、此処でトイレに行くのはまずい。クラスのマドンナ的存在も見てるし、すごく恥ずかしい。トイレに行っても、社会的に死ぬとまではいかないが、瀕死の状態には陥るだろう。どうしたものか。


「……あれ、サトウ? なんかお前、顔色悪いけど……大丈夫か?」


 不意に瀬戸内が振り返って、俺の顔を覗き込んできた。

 クッソ、うるせえ。今話かけんな。


「平気。心配しなくていいよ」

「いやいや、平気そうな顔じゃねーって。保健室行くか? あ、先生! サトウがなんか調子悪そうなんで、俺、付き添い行ってきます!」

「え、瀬戸内、ちょ……」

「なんだ、さとう。調子が悪いのか? それはいかんな。瀬戸内、すまないが頼んだぞ。……さとう、あまり無理をせんようにな」

「え、え……」


 いや、俺を無視して話を進めないでほしい。というか瀬戸内、ムリヤリ腕を引っ張るなよ。腹が揺れて、悪化しそうなんだけど。


「ほら、サトウ。ゆっくりでいいから行くぞ。歩けるか、おんぶしてやろうか?」


 うるせえ、余計な御世話だ。ぶち殺すぞ。


「えー、おんぶだってー。ちょっとあいつらデキてんじゃね? チョーウケんだけど」


 瀬戸内に支えられ、教室を去る俺の背中に――クラスのマドンナ的存在・北条の声が、追い打ちをかけた。

 ……死にたい。


◇◆◇


 誰も居ない、保健室。

 保健の先生は出かけてるとかで不在だったが、瀬戸内が職員室まで走ってくれたおかげで、鍵だけは開けて貰えた。先生はもうすぐ戻るらしいとの情報を信じ、俺たちは此処にいる。瀬戸内が教室に戻ったらトイレに行って、先生が戻って来たときに薬を貰おう。


「大丈夫か、サトウ? 熱でもある?」


 瀬戸内が俺の額に手を当て、こちらを覗き込んでくる。

 なんというか、やけに近い。心配してくれてるのはありがたいが、さっきまで妄想内で貶していた身としては少し、辛いものがある。罪悪感と言うか、なんというか。

 というかコイツは、たかが一回エロゲを貸しただけで、どうしてこんなに親身になってくれてるんだ?


「い、いいよ、大丈夫だから。それより、授業に戻れよ」

「ああ、うん……でもお前、目が潤んでるぞ。ちょっと熱いし、やっぱ熱出てんじゃないのか? 保険の先生が来たら、ちゃんと熱も測って貰えよ」

「ああ、うん。……ありがとう」


 ものすごい勢いで心配してくる瀬戸内の姿に、不覚にもときめいてしまった。これがリア充の力と言う奴だろうか。男に口説かれる女の子って、こんな気分なのかもしれない。いや、俺にその気はないけど。


「……サトウってさ、可愛いよな」


 唐突に、瀬戸内が呟いた。まるで俺の心中を読み取ったかのようなタイミング。サトウ、という聞き慣れた響きに、暫し思考が停止する。

 驚いて瀬戸内を見上げると、穏やかな笑顔を浮かべていた。なんか怖い。


「え? ああ、女子か。……あれ、うちのクラス、サトウって苗字の女子なんかいたっけ?」


 ぎゅるぎゅるぎゅる、とお腹が鳴っている。ぎゅるぎゅる、じゃない。ぎゅるぎゅるぎゅる、だ。この音は本格的にやばい。早く教室戻れよこいつ。さあ、俺のお腹が破裂する前に。


「サトウ……女子なんかじゃなくて、お前の事だよ」


 そんな俺の気持は露知らず、瀬戸内はやけに艶やかな眼差しを俺に向けてくる。

 何言ってんだこいつ。頭おかしいんじゃないのか。


「サトウに借りたエロゲ、良かったよ……セツコちゃん、だっけ。ああ、ケイコか。あいつがお前の好きな女なんだよな」

「……え、うん?」

「羨ましいよ。お前に愛して貰えて。でも、あの子はお前を見てないよな。二次元だもんな。ああ、俺だったらもっとお前の気持ちに応えてやれるのに。俺だったら、例え画面越しでもお前の名前を呼んで、お前の為に喘いで、お前の為に俺の全てを晒して見せるのに。本当、羨ましいよ。二次元に嫉妬するなんてバカだと思うけど、俺もお前に愛されたい。いや、俺がお前を愛してやりたい。ずっと、ずっと、そう思ってた」


 正面に立つ瀬戸内が身を乗り出して、俺の耳元に唇を近づけてきた。こいつが喋る度、熱い息が耳にかかる。


「なあ……サトウ?」


 耳の奥に直接、声を流しこまれる感覚。鼓膜が震えて、びりびり、ともぞわぞわ、とも言える音が脳内に染みた。恐怖と、焦りと、腹痛と。その三つが奏でるハーモニーが、俺を確実に追いこんで行く。


「せ、瀬戸内……?」

「お前、本当に熱あるんじゃないのか。顔赤くて、それで、なんか……ヤバイ。抱きたくなる」


 気が付くと、俺は瀬戸内によって壁に追いつめられていた。本能が逃げろと警鐘を鳴らしている。しかし、瀬戸内が壁に両手をついているので、退路は断たれている。

 え、つまり? こいつ、俺に迫ってんの? なんで? おかしくね? だって俺、男だよ。こいつも男だよ。前、トイレで鉢合わせた事あるもん。俺とこいつが男なのは紛うことなき事実だよ。

 ヤバイのはこいつの頭だろ。ついでに俺の貞操もヤバイ。甲斐甲斐しく付き添ってくれてると思ったら、下心丸出しじゃねえか。怖いんだけど。


 ――あいつら、デキてんじゃねえ?

 クラスのマドンナ的存在・北条の言葉が、ふと蘇った。女って凄いな、と改めて思う。流石マドンナ、半分あってるよ。


「あの、俺……」

「ああ、そっか、いきなり迫っちゃいけないよな。まずは告白からだよな。えーと、サトウくん。入学式のときに見たときからずっと、性別の壁を越えて好きでした」

「え、ええ……?」

「いきなりでごめんなさい。付き合って下さい」

「いやいやいやいや」


 いきなりとかそういう問題じゃないよ。なんか、そういう問題以前に別の問題があるだろ。


「こう見えて俺、紳士なんだ。お前の意思を尊重するよ……じゃあ、トイレで待ってるから。調子が良くなってからでいい。その気があるなら、来て」


 その柔らかい笑みが、逆に怖い。

 俺に告白した瀬戸内君は、不安や期待を織り交ぜた視線を送りながら、壁際から俺を解放して――大人しく部屋を出て行った。

 ん。あれ、トイレ?

 トイレは俺が今最も必要とする場所なんですが。そこであいつが待ってるって事は、つまり。


「俺、行ったらヤられる?」


 あいつがいないトイレに行けば良い話なのだが、あいつが何処のトイレに向かったのかがまずわからない。こっちの校舎のトイレは保健室からだと、何処のトイレへ行くにも距離が変わらないのだ。よって、どのトイレにあいつがいても可笑しくはない。まあ隣の校舎へ行く事は流石に無いだろうが、かといって、そっちまで行く程の気力もない。今度こそ社会的に死ぬ。――賭けろ、って事だ。

 というかあいつ、俺の貞操なんか狙ってないで授業に戻れよ。あと、トイレで待つなら何処のトイレか告げてけよ。


「なにこの状況……」


 人の消えた保健室で、俺は一人、途方に暮れた。

 俺はただ、色々なものを守ったままトイレに行きたいだけなのに。ただ、腹の中で渦巻くホワイトマター(ダークマターにジョブチェンジ済み)を吐きだしたいだけなのに。


 本当にこの世界は腐ってる。クソ食らえ。

(終焉――The End――)

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