火曜日、恋と鋏(Tuesday, I'm in love)

小林小鳩

「火曜日、恋と鋏(Tuesday, I'm in love)」

 中山理髪店は駅前商店街の少し入ったところ、神社の斜向かいにあって、昔からこの辺りの男子は中学生になってちょっと色気づくまでの間、みんなこの店で髪を切る。僕が生まれるずっとずっと前からそこにある、古びたサインポールが店の前でくるくると呑気に回るどこにでもある理髪店。

「そろそろいいんじゃない?」

「……えー、まだいいよ」

「学校で怒られないの? サイドの髪が耳にかかってるよ」

 そう言って航くんは僕の髪に触れる。

「これくらいの長さ普通だし。みんなもっと凝った髪型してるし」

「じゃあ気が向いたら来いよ。また火曜日に」

 さっき髪を触れられた時、航くんのかさかさした指の背が耳に少し触れた。ただそれだけなのに何だか、熱い。

 朝学校に行く前に店の前を通るとたまにこんな風に出勤途中の航くんに声をかけられる。中山理髪店の定休日は月曜日だけど、一人息子の航くんが勤めている都心の美容院は火曜日が定休日なので、火曜に行けば航くんが切ってくれる。

 僕が小学生の頃、中山理髪店に散髪に行くとまだ美容師の専門学生を出たばかりの航くんに声をかけられた。お金はいらないから髪を切らせてくれないか。航くんがそうやって練習の為に色んな人に声をかけているのは、友達の姉さんや同じ団地のおばちゃんが切ってもらった話を聞いていたので知っていた。タダなら切っていいよ。そう答えてから、僕は航くんの専属カットモデルになった。


 職員室前の廊下で学年主任の先生に、ちょっと髪が長すぎじゃないのかと声をかけられた。先生に髪を触られてもただ鬱陶しくてむかつくばかりで、航くんとは全然違う。航くんの指が触れると、小さく電気が走ったみたいになる。

 床屋行かなきゃ、と言うと友達が床屋? と聞き返した。

「おまえ床屋で髪切ってんの?」

「でも切ってくれんのはちゃんとした美容師だし、子供の頃からずっと切ってもらってるから。今の髪型だって別に変じゃないだろ」

「でも、床屋だろ」

 高校生にもなると、床屋で切ってると言うと少し馬鹿にされる。同級生の男でも美容院で切ってもらっている奴は少なくない。

「その人が勤めてる美容院に行って切ってもらえばいいじゃん」

「えー、いいよ、予約とか面倒だし。料金も高いし」

 それに普段働いている店だと、航くんを独り占め出来ないような気がした。今の航くんにはきっと抱えている馴染みのお客さんがたくさんいるんだろう。子供の頃から座りなれた革張りの古い椅子で時間を気にせずゆっくり切ってもらいたい。シャンプーも全部、航くんにやってもらいたい。来てねって名刺を貰ってるけど、各駅停車しか停まらない町の商店街の床屋ではなく、若者向けの大きなビルがたくさんある街の美容室は気後れしてしまう。そういうわけで行く気になれない。美容師じゃなくてスタイリストだって。へんなの。

 次の火曜日、学校帰りに中山理髪店に寄った。金色で店名が書かれた重いガラス戸を開けると、ガランとベルの音が鳴る。

「おばさん、航くんいる?」

「ああ、今呼ぶからちょっと待っててね」

 おばさんに呼ばれて店の奥から出てきた航くんは、僕の顔を見てニヤニヤと笑う。

「やっぱり来たね」

 こちらへどうぞ、と接客の言葉だけは丁寧で、あとは普段の航くんのまま。

 髪流しますねって首にタオルを巻かれたり頭をシャンプー台に置かれたり、なんだかされるがままになってるな、と思う。

 いつからだろう。航くんに触れられるとなんだか恥ずかしくなって胸が詰まりそうになるのは。シャンプーをする時に髪の間を梳く指の動きさえも、僕をいつもの僕じゃなくさせる。

「何かご希望の髪型はございますか」

「別に……」

「じゃあ、おまかせで」

 航くんは「いつもおまかせだね」と笑う。

「うん……航くんの好きにしていいよ」

「えー? 変な髪型にするかもしれないじゃん」

「……航くんは、そんなことしないし」

 髪を切っている間はいつもの飄々とした航くんとは違う、美容師としての真剣な表情で。その表情をいつも見入ってしまう。

 耳の後ろや首筋に触れる、航くんの指先。心地好くてもっと触って欲しいのに、実際触れられると変に緊張して触れられたとこが熱くなる。

「若いから、そんなに凝ってないよね」

 散髪後に僕の肩を揉むけど、本当は身体中が緊張しっぱなしで全然リラックスなんか出来てない。こんなに落ち着かないのに、髪を切ってもらうのは航くんじゃなきゃ駄目だって思うから。自分は馬鹿になってしまったのかもしれない。

「はい、高校生だから2500円ね」

 ありがとう、じゃあねって店の前で別れて、少しして振り返ると航くんはまだ店の前にいて、僕に気付いて手を挙げた。

 切られたての毛先を指で触りながら、足早に家へ帰る。次に髪を切るのはおそらく二ヶ月後か。二ヶ月に一度しか逢えないのは寂しい。


 毎週火曜日には、店の前を通る度に、ガラス戸の向こうの店内に航くんの姿がないか探してしまう。

 今日は誰もいないのかな。月曜日じゃないのに人の気配がなくて、思わず覗き込んでいると、ふいに肩を叩かれた。

「なにしてんの」

 驚いて振り返ると、目の前に航くんがいた。

「……航くんこそ、なにしてんの」

「留守番してたんだけど、今お客さん居ないからちょっとコンビニ行ってきた」

 今日暑いねってTシャツの首元を扇ぐ、その仕草を見ていると、ふいにその手が僕の頭に伸びた。

「汗びっしょりだなあ。髪洗ってやるから来な」

 お客さんがいない店内で、航くんと二人きり。水の流れる音だけが響く。汗で濡れたシャツの背中が、効きすぎた冷房で急に冷やされて冷たい。なのに頭の奥から何か熱いものがじわりと溶け出すような感じがして、何だか恥ずかしくなって早く帰りたいなと焦る。逢いたいなって思うのに、逢っている間は何だか自分が自分じゃない人間になってしまう。

「今日はおじさんとおばさんいないの?」

「田舎に用事があってね。休みにしても良かったんだけど、なんかアレが回ってないと寂しくてさ」

 そう言って航くんはガラス戸の向こうに目をやった。赤と青が螺旋状に回るサインポール。航くんが働いている美容院にはない物だ。

「気持ちいいだろ?」

 タオルでがしがしと荒っぽく頭を拭かれて、櫛で髪を梳かしてもらう。

「今日プールの授業あった?」

「なんでわかんの」

「なんとなく塩素の匂いがするから。懐かしいな、この匂い。プールの日はよく髪洗った方がいいよ」

 髪を切るタイミングとか、今日は何があったとか、色んなことを掌握されてる。でもそれが嫌じゃない。親や先生にそれを言われたら苛つくのに。

「ついでに襟足、揃えとくね」

 いつもみたいに、首にタオルを巻かれる。あ、この表情好き。仕事している時の真剣な表情。

「暑いからさ、耳周りも少し刈り上げてみようか? 先生に怒られる?」

「大丈夫だと思う……」

 されるがままにされてるのが、少しだけ気持ちいいと思う。

 耳元で鋏の刃が触れ合う音がする。通りに面した大きな窓から強い日射しが入っているのに、この部屋だけ凄く涼しくて静かで。だけど僕の体温は上がっていく。

 鏡の中の航くんと、目が合った。恥ずかしくなって逸らして、目を閉じて、また目が合って。それを何度も繰り返す。


 散髪後、ちょっと待ってて、と航くんは奥から麦茶を持ってきた。

「喉乾いてるだろ?」

 と麦茶の入った冷たいコップを手渡される。変に緊張して喉が渇いていたので、一気に飲み干した。

 航くんはタブレット端末も持ってきて、お店のサイトを開いて僕に見せた。

「このカット、俺がやったんだよ」

 栗色の髪のふわふわしたかわいい女の子の写真が何枚か続いた後、一番下に航くんの名前と写真が載っている。きちんとした髪型とシャツで、今目の前にいるTシャツとジーンズとサンダル履きの航くんとは別人のようだ。

 僕には「凄いね」「かっこいいね」なんていう簡単で単純な褒め言葉しか出てこない。

 子供の頃から知ってる航くんなのに、何だか遠い世界の人みたいに感じる。TVに出てる人を見るみたいな、変な感じ。なんでこんな立派な人が僕に構ってくれるのかな……。

 ふいに入り口のベルが大きくガランと鳴った。今日やってる? と商店街の不動産屋のおじさんが入ってきた。

「すみません、今日はちょっと両親いないんで僕が切ることになりますけど」

「ああ、息子さんかあ……おっきくなったなあ。じゃあ、せっかくだからお願いしようか」

 航くんは慌ただしく散髪の準備を始めたので、僕は「もう帰るね」と椅子から立ち上がる。足元にさっきまで僕の一部だった物が散らばっている。

「またおいで」

「あ、お金……」

「いらないよ、俺が呼んだんだし」

 店の外に出て少し歩いて、振り向いて。当たり前だけどそこの航くんの姿はなかった。


「中山理髪店、年内には辞めるらしいわよ」

 母親からそう聞かされたのは、いつも通り理髪店で航くんに髪を切ってもらってから数日後だった。

「さっきスーパーで近所の人から聞いた話だから良く知らないけど。なんか奥さん実家に帰ってご両親の介護しなきゃならないらしくて、旦那さんも一緒に向こうへ行くみたい。駅の反対側に千円カットのお店が出来たし、あそこも結構苦しいんじゃない?」

 こないだ航くんに逢った時には、そんなそぶり見せてなかったのに。

 それからほどなくして、中山理髪店の入り口のガラス戸には「お客様へのお知らせ」と書かれた閉店の案内が貼り出された。閉店までの最後の一ヶ月間はいつになく盛況で、美容院には行き辛そうな年頃のオジサンたちがこれで切り納めだから、と入れ替わり立ち替わり別れを惜しんで散髪に訪れていた。僕も最後に行かなきゃ。次の火曜こそ、と思いながらも何だか行きそびれてしまったまま。ガラス戸には『長年にわたりご愛顧いただき誠にありがとうございました』と書かれた貼り紙が貼られた。

 定休日じゃないのに、火曜日なのに看板のサインポールが回っていなくて、電気が消えて真っ暗な店内はカーテンが閉められていて覗けない。入学式や卒業式なんかの行事や大事な写真を撮る前には、いつも航くんに髪を切ってもらっていた。これから僕はどうしたらいいんだろう。どこで髪を切ったらいいんだろう。どういう理由を付けたら航くんを独り占め出来るのか。

 答えが出ないまま、僕の前髪は睫毛に触れる長さになっていく。


「おまえ、何だその髪型。だらしない。今週中に切って来い」

 学年主任の先生に廊下ですれ違いざま怒られた。

 切って来いって言われたって、もう中山理髪店はやってない。航くんに貰った名刺はまだ持ってるけど、あの店に行くのは、何だか。今までの特別な時間が失われてしまうような感じがして嫌なんだ。

 学校帰りに中山理髪店に寄る。相変わらず真っ暗で、ここにはもう誰もいないんだ、と自分に言い聞かせる。

 あの美容院に行けばいい、行けば航くんに逢えるんだし。

 そう思い悩んでると突然、カーテンの向こうの電気が点いて。航くんがドアを開けて出てきた。びっくりして言葉に詰まって、茫然と航くんの顔を見ていると。なに変な顔してんの、と笑った。

「……何でいんの」

「何でって、俺はまだここに住んでるから」

「いなくなったと思ってた……だって、ずっと電気点いてなかったし。朝も逢わなかったし」

「ああ、親の引っ越しとか仕事の講習会とかで最近ずっとばたばたしててさ」

 ごめんね、と言って僕の髪に触れる。

「髪、切りにきたんだろ?」

 古い蛍光灯に照らされた薄暗い店内には、僕と航くん以外誰もいない。

 どこかかゆいところはございませんか。首のタオルきつくないですか。いつもの手順でお決まりの台詞が繰り返される。

「あ、髭生えてる」

「もう生えてるよ……子供じゃないから」

 おまえも大人になったなあ、と顎を頬を撫でられる。恥ずかしいような嬉しいような、どんな顔をしたらいいのかわからない。せっかく決心をつけようと思ってたのに。

 切り終えて、大きな刷毛で首筋に付いた髪を払う。どうですか、と鏡を使って後ろを見せてくれて。ケープを外して。もう終わってしまう。何か言わなきゃいけないことがあるはずなのに、なんて言ったらいいのかわからない。

「あのさ……また、髪、切ってくれる?」

 航くんは当たり前だろ、と笑った。

「ケータイの番号教えるから、わざわざ俺が働いてる店に来なくてもここで切ってやるよ。俺はおまえの専属スタイリストだから」

「……火曜日に?」

「そう、火曜日に」

 航くんは僕の顔を覗き込むように見る。

 いつも鏡越しに見ていたから、こんなに真っ直ぐに航くんの顔を見たことなかった。

 髪を切っている時と同じ、真剣な眼差しで僕のことを見るから。思わず目を逸らすと、顔赤いよって航くんは笑った。

「今はまだ無理だけど……あと何年かしたら、ここ改装して美容院にするつもりだから。そしたらさ、一番最初の客になってよ」

「……当たり前だよ。だってもうずっと、航くんにしか髪切らせてないし。航くん以外、絶対ないし」

 なんで僕はこんな乱暴な言い方しか出来ないのかな。なんでいつも航くんと喋る時は、舌がもつれるような感じがして、上手く喋れないのかな。

「火曜日じゃなくてもさ、逢いたい時はいつでも連絡して」

 少し低い声で耳元でささやく。その声に、触れられた時みたいに熱くなって。上手く言葉にできないから、大きく頷いた。

「卒業って来年だっけ、もう一年あった? 大人になったらさ、何でも好きな髪型に出来るよ」

「でも、航くんのしたいようにしていいよ」

「校則がなくなったら、やってみたい格好とか色々出てくるよ、きっと。カラー入れたりパーマかけたり」

「……僕がしたいのは、航くんが今まで僕に出来なかったことだから」

 少し重いガラス戸をゆっくり押すとベルが鳴る。その音に紛れて、航くんに向かって小さく叫んだ。

「大人になるのなんか、すぐだからね」

 商店街の通りを団地に向かって、振り返らずに早歩きで駆ける。

 この気持ちはなんて呼ぶべきかを僕は確信していた。

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火曜日、恋と鋏(Tuesday, I'm in love) 小林小鳩 @kobato_kobayashi

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