雨や雨
のり
第1話 序 雨隠【あまがくれ】
境内には木々の湿った匂いが満ちていた。
先程までのけぶるような雨は、祭りの賑やかさをすっかり洗い流してしまっていた。
いつしか雨が止み、人々の人いきれでむせかえるようだった狭い参道を微かな風が吹き抜ける。
賑やかさが去り、人の姿もまばらになった境内は所々に掲げられた提灯の淡い橙色に照らされ、まるで別世界のようだ。
『我らの事は、誰にも内緒にな』
祖父に手を引かれた
小春はすれ違う小柄な人物を見上げた。その老いて縮んだ体は、曲がった腰のせいで余計に小さく見えた。
『特に宮司の
更に別の声が噛んで含むように言う。
僅かに視線を動かした小春の目に、先程とは違う人物が映る。同じように老いて小柄ではあるが、こちらはぴんと背筋が伸びていた。
二人は顔かたちは全く異なるが、どこかしら似通った雰囲気を持っていた。それとも人間は老いれば誰でも似通って見えるものなのだろうか。
小春はこくんとひとつ頷くと、そっと今後にしたばかりの境内を振り返った。境内へと続く階段の最上段から、どこか寂しげな眼差しが幼い小春を見ていた。
壱 青時雨【あおしぐれ】
それは霧雨のような優しい雨であったり、バケツをひっくり返したような激しい雨であったりとその度合いは様々であったが、不思議と小春が神社の鳥居をくぐると同時にそれらの雨は嘘のように止んでしまう。
学校の友達には「どんだけ雨女よ」と呆れられるけれど小春は気にしなかった。雨に降られた後は不思議と清々しい気分になるのだ。
だから今日も学校の校門を出た辺りで、まるで待ち伏せていたかのように細かな霧のような雨粒が降り出した時にも、小春は特に気にする事無く雨の中を歩き続けた。
「こーんなに空が晴れてるのに何で雨降るかな。小春、絶対あんた呪われてるって」
友人のミキが鞄を頭の上にかざして言った。
「呪われてないってば。ただの狐の嫁入りでしょ」
「でしょ、じゃないっつの。小春呑気過ぎ。普段は晴れ女なのに、バイトの日だけいっつも雨ってどう考えてもおかしいよ! よくそんなバイト続けてられるわ。私だったらこれは神様が『来るな!』って呪いをかけてるとしか思えないけどね。これは絶対にそういう天気だってば!」
そうかな、と小春は大して気にも留めず、黒目がちの大きな目を空へ向けた。
確かにミキの言う通り、太陽が眩しく輝く六月の空は青く澄み渡り、雨雲など見当たらない。にもかかわらず辺りには太陽の光を反射した細かな雨粒がキラキラと輝いていた。
それは決してミキの言うような呪われた光景ではなく、あふれ出すような生命の輝きに満ちていて美しかった。
「……あ、私こっちだから」
「華麗にスルーですか。まあとにかく小春、気を付けなよ? じゃあまた明日」
学校から駅までを繫ぐ道を途中で逸れ、小春は笑顔でミキに手を振った。
「――あれ、もう雨止んでるじゃん」
一人になって歩き出した小春の背後で、小さくミキの声が聞こえた。
小春は
小春の祖父と衣咲神社の先代の宮司は、歳の離れた兄弟だった。兄であった小春の祖父は神職に興味が無く、結婚と同時に家を出た。
結局神社と家を継いだのは歳の離れた弟の方で、祖父の結婚から十年以上も経ってからの事だった。
そんな二人の繋がりから、小春は小学生の頃に衣咲神社の子供巫女舞を引き受けた事があり、それが縁で今でも巫女として神社へ通っている。
旧街道に面したこじんまりとした衣咲神社の素朴な石の鳥居をくぐると、いつものように不思議と雨は止んでいた。
左右を鎮守の森に囲まれた幅の狭い参道を歩きながら、小春は制服に付いた細かな水滴を払う。両側から張り出した枝のせいで圧迫されたような印象を受けるが、そのお陰で参道は木陰になっており、先程までのじっとりとした暑さが嘘のようにひんやりと心地良かった。
手水舎と末社である稲荷社を過ぎた奥にある階段を西日に目をすがめながら上ると、開けた境内に辿り着く。白い玉砂利が敷き詰められた境内の西側には拝殿があり、その奥には神殿が続いている。そして南側には注連縄を結んだご神木と社務所が、北側には摂社である若宮神社があった。そして社務所の横からは宮司一家の自宅へと続く細い小道が続いている。
「お疲れ様です」
小春が社務所の中を覗いて声を掛けると、白衣に浅葱色の袴を着けた宮司である
「……あれ、
「今日は検診の日だから病院に行ったよ」
そう微笑む光尋はこの衣咲神社の宮司だ。三年前に父である先代宮司が逝去した為、長男である光尋が若くして跡を継いだのだ。そして二年前には宮恵と結婚し、今年の秋には第一子が生まれる予定だ。
「今何ヶ月だっけ? いつまでも働いてもらってて、宮恵さん身体大丈夫なの、光兄ぃ」
小春は宮恵の大きくなったお腹を思い出す。
「適度な運動をした方がいいんだとさ。でもここで座ってお守りを渡してるだけじゃ、完全に運動不足な気もするけどな」
光尋が屈託なく笑う。
「まあ、参拝者は確かに少ないよね」
対照的に小春は苦笑を浮かべた。日々の参拝者が少ないからといって、神社の仕事も少ないかと言えばそうでもない。特に裏方である宮司の家族は、一年中何やかんやと用事があるものだ。特に神事や寄り合いがある時などその準備に大わらわである。
「言ってくれるなあ。けど宮恵の事は母さんも氏子さん達も色々気を使ってくれてるから安心してるよ。小春だってそうだろ? でなきゃわざわざ、今回の件を引受けなかっただろうし」
「そうだけど。宮恵さんいい人だし。第一私、ここの神社の仕事嫌じゃないしね」
本来ならば宮司の妻である宮恵が雑務を取り仕切るのだが、出産前後の宮恵の身体の事を考えればそれも難しい。だから宮恵が無事出産を終えて落ち着くまでは、親戚でもある小春が巫女としてだけでなく、そうした裏方の仕事の手伝いもする事になっていた。
「夏休み明け頃からは小春にも無理言う事になると思うけど、よろしくな」
光尋は小春の頭にぽん、と手を載せる。子供の頃からの光尋の癖だ。
「了解でーす」
満面の笑みで返す小春に、
「でも定期試験の時は勉強に専念しろよ」
光尋は釘を刺す事も忘れなかった。
「あ、
小春が巫女装束の白衣と緋袴に着替えて境内の掃除をしていると、二人の老人が連れ立って階段を上がって来るのが見えた。小春が微笑むと老人二人も頬を緩めた。
「やあ小春ちゃん。いつも綺麗に掃除してくれてありがとう」
好々爺然とした辰田は、小春の前で少し曲がった腰を伸ばすように立ち止まった。
「最近通い詰めているみたいだが」
辰田とは正反対にどこか頑固爺のテイストを纏い、腰もしゃきっと伸びた木常が、その口調とは裏腹に目元を僅かに緩ませ言った。
「ええ。そろそろ例大祭も近いので、頻繁に顔を出すようにしてるんです」
そうかそうかと笑う老人二人は熱心な氏子なのか、小春が子供の頃から神社へ来る度に境内で見掛ける常連だ。
「ところで。今年も小春ちゃんが
こそっと耳打ちするように辰田が尋ねた。木常も気になるのか、じっと小春を見ている。
「ええ、頑張って練習するので、お二人も例大祭の時には見に来て下さいね」
小春が声をひそめて答えると、明らかに辰田と木常の表情が緩むのがわかった。
ほほ、と笑いながら「楽しみにしとるわい」と声を揃えた二人は、ゆっくりとした足取りで拝殿の方へと去って行く。
(龍童舞、か)
小さくなっていく老人達の背中を見送りながら、小春は心の中で呟く。
龍童舞とはこの衣咲神社にだけ伝わる特別な巫女舞だった。衣咲神社の御祭神は、主祭神の水を司る龍女と、その子供である龍神だ。龍女の子供である龍神に特別に奉される巫女舞が龍童舞であり、小学生の時からその舞を小春が舞ってきたのだった。
どおぉ……ん!
夕方の太鼓が微かに空気を震わせ、小春は箒を持つ手を止めた。神社では時間を知らせる為に太鼓が打たれる。この時間に打たれる太鼓は、社務所を閉める時間を知らせる為のものだ。
掃き集めた塵を纏め、小春は社務所の裏に回る。いつもならこれで帰宅となるのだが、今日はまだ用事があった。掃除用具を片付け手を清めてから拝殿に上がると、普段は祈祷の待合室として使われている幾つかある畳の間の一つには、既に人の姿があった。
「おばさん、お待たせしました」
緋袴の裾を払って小春が挨拶すると、畳の上に正座した小柄な女性が笑みを返す。
「今年もよろしくね、小春ちゃん」
光尋の母の
光尋とどこか面差しの似たその顔は笑うと目尻の皺が深くなり、人当たりの良さげな印象を与える。
「今年もおばさんにしごかれに来ました」
「まあまあ嬉しい事を言ってくれるわね。それじゃ思う存分しごいてあげましょうね」
小春の軽口に照子が笑顔で切り返す。宮恵が嫁いで来るまでは裏方の一切を取り仕切っていた照子だったが、二年前に腰を悪くしてからは宮恵に座を譲り、以前程表に顔を出さなくなっていた。しかし毎年そうであったように、今年も龍童舞の練習には顔を出してくれるようだ。
小春は内心ほっと安堵の息をつく。今年で六年目とはいえ龍童舞は他の巫女舞とは勝手が違い、未だに不安も多かった。
そもそも龍童舞は年に一度、夏の例大祭でのみ奉納される舞だ。しかも本番前の一ヶ月だけという短い練習期間しか許されておらず、舞自体も他の巫女舞よりも複雑だった。
「それでは始めましょうか」
神経質な程拝殿の建具が閉まっているかを確認した後、照子が言った。小春は頷きすっと姿勢を正す。数拍を置いて照子が傍らのCDプレイヤーの再生ボタンを押すと、スピーカーからは笛や太鼓が奏でる囃子が少しくぐもった音で流れ始めた。その囃子は独特で、既に練習の始まっている子供巫女舞に使われる囃子とは調子も曲の印象も異なっていた。
どこか神むさびて寂しげに聞こえるそれは、例大祭の締めの神楽囃子(かぐらばやし)奉納で演奏されるものだ。その神楽囃子奉納に合わせ、舞巫女は龍童舞を舞う。
小春は流れる囃子にあわせて舞った。舞の振り自体は身体に染み付いているが、約一年ぶりに実際に舞う龍童舞は、随分と小春の頭の中のイメージとかけ離れていて完成度が低く、まだまだ神前で披露できるようなものではなかった。
「振りは覚えているようね」
一通り舞い終えると、照子が囃子を止める。基本、練習時には録音された音源を使うが、勿論本番では氏子による生演奏で舞う事になる。
「頭の中でおさらいはして来たんだけど、やっぱり実際に舞ってみたらまだまだみたい。思ったよりも体が動かないんだもん」
小春が肩をすくめてみせた。
「ふふ、まだ若いのにお年寄りみたいな事言わないの。でも確かに子供巫女舞と違って、龍童舞は人目を避けなきゃならない分、練習もなかなか思うようには出来ないからねぇ」
「ほんと秘密の舞なんて、こんな時不便」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
龍童舞は秘舞だ。舞う者も舞巫女一人と決まっている上、ごく限られた者しか目にする事すら許されない。それは練習時も同じで、例大祭までの一月の間、他人の目を避ける為に閉めきられた拝殿の一室で練習は行われ、そこには照子だけが出入りを許されていた。照子は小春から数代前の舞巫女にあたる。
「それにしても宮司ですら見る事が許されない舞なんて、普通じゃないよね?」
親戚の気安さもあって、小春は思った事を素直に口にする。
「神様も色々事情がおありになるんでしょ」
照子が笑う。龍童舞に関しては、宮司の光尋ですらノータッチなのだ。舞台組みなどの力仕事を除く準備や後始末までを、宮司一家の女達のみで賄うのが決まりだった。
(でも辰田さんと木常さんだけは、毎年見に来るじゃない)
小春は思う。思うけれど口にはしない。それを口にする事は禁じられているからだ。
「そういえば
不意に小春は光尋の弟で、三つ年上の真尋の事を思い出し、尋ねてみる。
「メールが来るだけマシよ。こっちから連絡しても滅多に返事は無いし。あの子の不精にも困ったもんだけど、昔からそうゆう子だったからもう慣れたわ。……そういえばこの間の電話で週末に帰るって言ってたわね。例大祭も近いし、それが終わるまで暫くはこっちに居るつもりみたいよ?」
実にあっさりとした照子の返事に小春はいささか呆れてしまう。
「おばさん真尋に対してテキトーすぎ。普通家族と離れて寮生活してる息子なんて、それはもう物凄く歓待されるもんじゃないの?」
「そんなのドラマの中の話でしょ。そりゃお嫁さんでも連れて来て、孫でも出来るっていうなら話は別だけど、真尋一人が帰って来るぐらい、煮物でも作っておけば『おふくろの味』も面目躍如でしょうよ」
どうやら照子の頭の中は、宮恵のお腹の中にいる初孫の事でいっぱいのようだ。独り身の息子の事などこの際構っている暇はないらしい。
「あはは。……でもそっか。帰って来るなら、久々に真尋の顔が見れるんだ」
真尋とは幼い頃からの付き合いだ。親戚同士で家も近く、その上歳も近いとなれば仲良くならない筈はない。しかも家が神社とくれば遊び場にも困らない。小春が小学生の頃は、毎日のように衣咲神社に遊びに来たものだ。
「あなた達、ほんとに飽きもせずに毎日一緒に遊んでたものね」
「――そうだったかな?」
小春の胸の奥を、微かに苦い物がかすめる。
あれは小春が中学に上がり、真尋が高校へ進学した頃だろうか。二人の関係がそれまでとはどこか様子が変わってしまったのは。小春が顔を出しても以前のように真尋は構ってくれなくなったのだ。最初は何故と寂しく思ったが、その内に高校生にもなれば年下の相手など物足りないのだろうと考えるようになった。一度割り切ってしまえば何となく諦めはつくものだ。
それでも正月や例大祭で顔を合わせれば、それとなく真尋は小春を気に掛けてくれた。小春が初めてスマホを買ったと言えばSNSのアドレスの交換もしたし、時々はメッセージもくれる。
(昨年の受験の時だって、自分も大学受験で忙しい筈なのに相談に乗ってくれたし、合格した時は一緒に喜んでくれた。別に嫌われてるって事でもないんだよね)
そっと心の中で呟く。
真尋は今年の春から家を出て、大学の寮に入っている。次男である真尋は光尋のように神職に就く必要は無かったが、神学を勉強したいと言って四年通えば卒業時に神職の資格も貰える神道系の大学に進学したのだ。
「真尋も大学生かー。お嫁さんじゃなくても、彼女位連れて来るかもよ? おばさん」
そう照子をからかってみる。
「そんな甲斐性がある子ならもっと熱烈歓迎するけどねぇ。あのぶっきら棒で無愛想な子の隣に並んでくれる奇特な娘さんなんて、残念ながらおばさんには想像できないわよ、小春ちゃん」
困ったような笑いを見せ「さあ、お喋りはこれ位にして、もう一度舞ってみて」と照子が再びCDプレイヤーに手を伸ばした。
「……でも小春ちゃんならその奇特な娘さんになれるかもしれないわねぇ。子供の頃はあんなに仲良かったんですもの。……どう、ちょっとうちのお嫁さんになる気はない?」
不意に照子が手を止め、真顔で小春を見た。
「私まだ高一だよ。気が早いってば」
その思いも掛けず真剣な顔に、小春は思わず吹き出してしまう。照子もそんな小春につられたように吹き出した。
「残念ね。ほんと真尋はもてないんだから」
スピーカーから微かなノイズが流れ出し、小春は慌てて姿勢を正した。
*****
しとしとと、雨の音がする。
それは童が物心ついた時から耳に馴染んだ音だった。
藁葺の屋根を優しく叩く雨音に夢うつつのまま漂っていた童は、ふいに雨音に混じって聞こえる声にはっとした。
「――もうそれしか方法は無いのです」
「……後悔せぬのか」
「あの子が人柱に立てられる方が、余程後悔します」
「しかし村の衆が気付くとは限らぬ」
「……いいえ。遅かれ早かれ、皆は気付きましょう。そうなってからでは遅いのです」
潜められた声が語る内容に、童の胸が嫌な音を立てて鼓動を打つ。
「二度と会えなくなるのだぞ」
「――覚悟の上です」
その先を童は聞きたくないと思った。けれどそれと同じ位に、その先を聞かなければならないとも思った。
「……わかった。明日も雨が止まなければ、龍女様を天へ帰そう」
一際大きく鼓動が跳ねた。どくどくと痛い程に胸の奥を叩き続ける心の臓に、呼吸が乱れる。けれどそれを悟られる訳にはいかない。童は息苦しさに耐えながら、それでも眠っているふりを続けた。
「明日一日……」
呟く声の後、柔らかな手が愛おしげに童の髪を撫でる。童はその温かな手を、失いたくはなかった。
「親子三人、水入らずで過ごしましょう」
その声には、悲しい決意が滲んでいた。
*****
どこからか微かに笛の音が聞こえる。
日曜の明け方、小春は龍童舞の練習に先駆けて衣咲神社に居た。早朝の清々しい空気の中、参道を歩く小春の耳に篠笛の高い音が心地良く響く。境内から聞こえるのだろうか、小春は笛の音をたどって僅かに足を速めると、一息に階段を上った。
しかし開けた境内に立っても笛の音がどこから聞こえて来るのか分からない。小春は音の出所を探すようにぐるりと辺りを見回した。風に乗って意外に遠くから聞こえているのか、どちらを向いても笛の音は一向に近づく気配は無かった。
(この音、一体どこから聞こえてるのかな)
小春は目を閉じ笛の音に耳を澄ませた。竹で出来た篠笛の音色は祭囃子の賑やかさではなく、ゆったりと染み入るような旋律を奏でている。
小春はゆっくりと目を開けた。と、次の瞬間、視界の中で何かがすっと動いた気がして、どくんっと心臓が跳ねた。急速に速度を増して脈打つ心臓をなだめ境内を見渡す。
いつの間に降り出したのか、ごくごく淡くけぶるように小雨が降っていた。それは衣服を濡らす程のものではなかったが、粒子の細かい雨は靄が掛かったように視界を遮り、まるでこの場所が外界から切り離され、その中に自分だけが閉じ込められたような錯覚を小春に覚えさせた。
「見間違い、だったのかな……」
得体の知れない不安な気持ちを払いたくて、小春はわざと声に出して呟いた。その直後、再び視界の隅で何かが動いた。
見間違いではない。確かに何かが居る。湧き上がる嫌な想像を押さえつけて目を凝らすと、今度はしっかりと小春の視界にそれは収まった。
「……あれは……」
白い装束に身を包んだ少年が佇んでいた。
一度視界に捉えてしまえば、どうしてさっきまでこの少年の姿を見逃していたのか首を傾げたくなる程に、少年は小春の目を引いた。
白い衣に白袴、白い足袋に草履という白で統一されたいでたちは、雨にけぶる境内に溶け込んでしまいそうだ。少年は十四、五歳位だろうか、癖のない黒髪が美しい。白一色の衣装の中で、緑がかって見える黒髪は特に目を惹いた。
(どうしてあの子がいるんだろう)
小春は首を傾げる。小春は少年を知っていた。毎年例大祭の日にだけ神社で見掛ける不思議な少年だ。けれど今まで彼を例大祭の日以外に見掛けた事などなかったのに。
小春が初めて彼を見たのは小学生の時だ。初めて子供巫女舞を舞った例大祭の日だった。少年が今と同じように、白い衣装を身に着けていた事を覚えている。
不思議な事に、あの頃少年は自分よりも随分年上に思えたものだが、今では小春と変わらないような、いやむしろ一つ二つ年下にさえ見えた。何故か小春には、少年が昔からずっと変わらない年齢に見えるのだ。
(うーん、いつもながらずっと同じような年恰好に見える気が……)
けれど小学生の頃の自分が、他人の年齢に対してどれ程の認識力を持っていたかと考えれば、少年に関する自分の記憶も怪しいように思える。だから小春は毎年彼を見る度に「気のせいだ」と無理やり自分を納得させる事にしていた。
(いやいやそんな妖怪じみた人なんて居るはずないんだから、気のせい気のせい)
そう心の中で繰り返し、気を取り直す。小春の視線の先で、白装束の少年はじっと境内に佇み、拝殿を見ていた。
(お参りかな。でもこんな朝早く?)
小春は思い切って声を掛けようかと考えた。
「おや、小春ちゃんじゃないか」
突然背後から声を掛けられ、小春は飛び上がる程驚いた。ばくばくうるさい心臓を押さえながら振り向くと、そこには辰田と木常が揃って小春を見ていた。
「あ、おっ、おはよう、ございます……!」
ただの挨拶が、しどろもどろになる。
「今朝は随分早いようだが」
木常がすっと目を細めて小春を見る。元々頑固爺の顔つきの木常がそうすると、いかにも睨んでいるような顔になり、お陰で小春はしなくていい言い訳を口にする羽目になった。
「え、ええ、照子おばさんも何かと忙しいし、ちょっと一人で練習しようかと……」
「そうかいそうかい、殊勝な心掛けじゃの」
木常の隣で、辰田が目元を緩めた。
「熱心なのはいい事じゃが、気を付けないと神社という場所は聖域だからの。一人でこんな明け方に足を踏み入れると、余計なものに魅入られてしまうよ」
何故かいつもは穏やかな辰田の目が、僅かに鋭さを含んでいるように見えた。
「は、はあ……気を付けます……」
小春は何と答えてよいものか少しの間迷った末に、そう答えた。
「何、変に怖がる事はない。タツ、あまり小春ちゃんを脅かすな」
「お、ツネめ、自分ばかりいい所を持っていこうとするとは、油断できん」
まるで先程までの鋭さが嘘のように、二人は笑顔で小突き合う。この二人はいつもそうなのだ。木常と辰田はいつも一緒にいるくせに、寄れば何かと口喧嘩のようなものを始める。けれど本当に喧嘩をしている訳でもないようなので、仲がいいのか悪いのか、いまひとつわからない関係だ。
小春はいつものように張り合う二人を尻目に、さり気なく先程の少年の姿を探す。けれどその姿は既に境内のどこにも無かった。
(あれ、いない。もう帰ったのかな?)
境内と神社の外を繋ぐ道は、旧街道脇の鳥居に続く参道と、社務所から宮司宅へと続く小道の途中で公道へと分岐している私道の二つだけだ。あとは鎮守の森の木々の間を滑り降りでもしなければ、外へ出る事はできない。
参道には小春達が居るのだから、近くを通り過ぎればいくら何でも気付くだろう。であれば、少年は恐らく小道を辿ったのだろう。普段宮司宅の家人が車を出すのも私道からであるし、郵便や宅配、所用で訪ねて来る者も直接家へ繋がる私道を使うので、別段珍しい事でもなかった。
「――とまあそういう訳じゃから、小春ちゃんもツネなんかよりもわしに頼ればええ」
「何をっ、この助平爺が!」
いつの間にそんな話になったのだろう。賑やかな声にはっとして老人二人に意識を戻した小春は、引きつる笑顔で曖昧に笑った。
(な、何か話がとんでもない方向へ蛇行してるけど……)
「うるさいわ、誰が助平じゃ! こやつの言葉など真に受けるでないぞ、小春ちゃん」
「お前こそ気安くちゃん付けで呼ぶな! ああ、小春ちゃん。タツの口車になんぞ乗ってはならんぞ。何せこやつの腹はそれはそれは真っ黒だからな。性悪の腹黒め」
「誰が性悪の腹黒じゃ!」
木常と辰田の当てこすりあうのに、小春は苦笑しつつ口喧嘩を続けながら去って行く二人の後姿を見送る。そして、何はともあれこんな早朝から参拝とはいつもながら熱心だなぁ、と一礼して顔を上げた時には、もう二人の姿はそこには無かった。これまた私道へと抜けて行ったのだろうか。気付けば小雨も止んでいる。
雨上がりの清浄な境内に一人取り残され首を捻る小春の耳に、再び笛の音が聞こえた。そう言えば木常と辰田の賑やかな遣り取りより以前に、あの少年を見掛けた辺りから、笛の音が聞こえていたかどうかの記憶が曖昧だった。
(私、どれだけびびってたんだろ。笛の音が耳に入らないなんて)
今でははっきりと笛の音が聞こえている。雨のせいなのか風の悪戯だったのか、あの時は出所が分らなかった笛の音が、今は紛れもなく境内の社務所の中から聞こえているのは明らかだった。人間の感覚の何と好い加減な事か。
小春は不意に誰が篠笛を吹いているのか確かめたくなり、ゆっくりと社務所の入口へ回ろうとした。しかしそっと足音を忍ばせ数歩歩いた所で突然笛の音が止んでしまった。
(え……? もう終わり?)
そう思い様子を窺っていると、突然がらりと社務所の戸が開いた。早朝の境内に漂う静寂を破るその音に、小春は肩を震わせた。
「……小春? 何してんだお前」
不意に声を掛けられて、小春は慌てて開いた社務所の戸口を見る。すらりとした体つきと、目鼻立ちのすっきりとした精悍な顔は小春のよく見知ったものだった。
「――
少し頭を屈めるようにして鴨居をくぐり、こちらに歩み寄る真尋を見て、小春は一瞬言葉を失う。
(何か、また背が伸びた?)
目の前の真尋は、小春の知っている半年前の真尋よりも幾分背が高くなっていた。少年特有の線の細さは感じられず、細身でありながらしなやかな力強さに満ちて見える。
(……一瞬、光兄ぃかと思った……)
既に成人している光尋もどちらかと言えば細身ではあるが、しっかりとした大人の男の体つきをしている。それに対して弟の真尋は、まだ少年のような薄っぺらい体つきの印象が小春にはあったのだ。それがたった半年でこんなに変わるものなのだろうか。
(っていうか、何で私真尋の体ばっか見てるんだろ)
小春は慌てて視線を真尋の体から引き剥がした。
それにしてもまさかこんな早朝から真尋に会うとは。昨日の照子の言葉から真尋が到着するのはもっと遅くだと勝手に思い込んでいた小春は、心の準備など全くしていなかった。
「砂利を踏む音がしたから誰かと思ったら」
にこりともせずに真尋が言う。その態度には、憎らしい程再会の感動など感じられない。思わず小春の口から拗ねたような声が出た。
「何だ、気付いてたの? そうっと覗いて驚かせてやろうって思ってたのに」
「……あれで足音消してたつもりかよ」
「つもりだけど、何か文句ある? それよりも真尋、何かまた背が伸びたんじゃない?」
「背くらい伸びるだろ。つか、お前の方は逆に縮んだ?」
そう言うと大きな手がのびてきて小春の頭の上に乗せられた。そしてその手を真尋はそのまま自分の胸元へと引き寄せる。昔よくやった背比べだ。引き寄せられた真尋の手は、彼のみぞおちの上の辺りに当てられていた。
「……ちょっと待った。今わざと低くしたでしょ。いくら何でも私そんなに背、低くないよ」
「人聞きの悪い」
真尋は再び胸元の手を小春の頭に戻した。明らかに空を滑る真尋の手は、傾斜がついていた。
「ほらな」
「今高くした!!何その微妙な嫌がらせ!」
小春がムキになると、真尋は小さく吹き出した。
「お前、全然変わってないな。きゃんきゃん吠える小型犬みたいでうるせーよ!」
どきっとした。真尋のそんな風に笑う顔は随分久し振りに見る。幼さの消えた真尋の顔にも、そうして笑うと少しだけ一緒に遊んだ子供の頃の面影が見て取れた。
何だかほっとして小春も真尋の屈託ない笑顔につられるように笑った。すると何故か真尋は笑うのをやめてしまい、その余りの唐突ぶりに小春の笑いも引っ込む。
「な、何?」
思わず尋ねた小春に、真尋はさり気なく視線を逸らし「別に」と呟く。変な奴、と思った矢先、小春は真尋の手の中の細長い袋に気付いた。
「それ! さっきの篠笛は真尋が吹いてたの?」
「ああ、大学の授業で吹かされるからな」
「じゃあ今年の例大祭で、真尋も笛を吹くの?」
真尋が頷く。
ここ数年の例大祭では宮恵が篠笛を担当していた。宮恵の実家も祭の盛んな土地で、小さな頃から笛や太鼓の演奏に引っ張り出されていただけあり、かなりの腕前だった。
「義姉さんは忙しいからって、皆が俺に押し付けてくれたからな」
「宮恵さん、笛の演奏まではとても手が回りそうにないもんね。じゃあ今年は真尋の笛で私も龍童舞を舞うって事か」
小春が呟いた途端、真尋の表情が変わった。
「――小春」
決して声を荒げたりはしないが有無を言わせぬ強い口調で名前を呼ばれ、小春ははっとする。龍童舞に関しては、例え幼馴染の真尋であろうと交わしていい話題ではなかった。
「……わかってるわよ」
思わずそっぽを向いて唇を尖らせる。
(ちょっと浮かれて口が滑っただけじゃない)
小春は何となく素直に謝る事ができず、真尋に背中を向けた。その背中に真尋の小さな溜息が聞こえたような気がして、小春はさっきまでの浮かれた気分が一気に落ち込むのを自覚した。
(何よ、そんな溜息つく事ないのに!)
思えば子供の頃はこんな風に気を使う事は無かった。大人の前では知らん顔をしていても、真尋と二人きりになれば龍童舞についても色々話せたのだ。
子供の他愛もない秘密ごっこは、今では立派に大人の仲間入りを果たし、本当の秘め事になってしまっていた。その事を小春は寂しく思い、ちらりと真尋を振り返る。
「わかってんならいい。さっさと行けよ」
小春の心など知らぬげに真尋は顎で社務所を示す。見る事は出来なくても、拝殿で練習している事は真尋も暗黙の了解で知っている。
「拝殿は開いてるから、そっちで待ってろ。母さん呼んでくるから」
「あ、真尋! ちょっと一人で練習したかったから約束よりも一時間早く来たのよ。だからおばさんにはまだ言わなくていいから!」
家へ戻ろうとする真尋を慌てて引き止める。
「――ふうん。熱心だな」
褒められてるのかそうでないのか、ぶっきら棒な声からは分からない。
「じゃあそう伝えておくよ」
そう言って真尋は背中を向けた。
ざっ、ざっと玉砂利を踏む音が次第に遠ざかって行く。その音を聞きながら、そう言えばあの少年も辰田と木常の二人も、足音がしない程静かに歩いていたな、と小春は思った。
「え? 男の子?」
照子がCDプレイヤーの電源を切り小春を見る。龍童舞の練習が一段落ついた時の事だ。
「うん。毎年例大祭の日だけ見るんだけど」
「そんな白い衣に白袴なんて、神官でもあるまいし。そんな子が居れば目に付くと思うけど、記憶に無いわねえ」
今朝の事が何となく引っ掛かっていた小春は、思い切って照子に尋ねてみたのだ。けれど照子の答えに小春は落胆の溜息をついた。
「――え、なあに小春ちゃん。……もしかしてその子の事が好きなの?」
腰を少し庇うように立ち上がった照子が、建具を開け放していく小春に言った。何故突然そんな話になるのか。照子はさり気なさを装っているが、明らかにそれ以上の追求の色が含まれていて小春はきょとんとしてしまう。
「え。私より年下だよ? ないないないっ! 第一、好きな人とか居ないんですけど」
そうはっきり言い切れる自分も何だかなと思いつつ、小春は襖を開け放つ。途端に境内に面した縁側から、初夏の陽射しが射し込む。
「そ、そうなの? でももう高校生になったんだし、いいなと思う男の子の一人や二人や三人や四人……」
「おばさん、一体私に何人目移りさせたいの……。それにそういう人が居たら、とても毎日ここに籠って練習なんてしてないわよ」
執拗な照子の尋問に小春は苦笑してしまう。けれど何となく照子の言いたい事もわかる。
「もう。おばさん、分かってるわよ。彼氏ができたら絶対に報告するから。それが舞巫女になる時の約束だし」
全く変な決まり事だ。小春は内心溜息をついた。最近ではどの神社も巫女の条件に純潔を求めたりはしないようだが、ここ衣咲神社は別だった。本当はそんな事を報告するのはこっぱずかしいし抵抗もある。けれどそう決まっているのだから仕方が無い。
そういえば小春が初めて舞巫女に選ばれた年に「おい、舞巫女は男とえっちしたのに嘘ついて祭で舞ったら、神様に罰をあてられるって聞いたぞ」と真尋が真顔で言っていたのを思い出し、思わず顔が熱くなる。いくら子供だったとはいえ、真尋とそんな話題をしていたのかと思うと、恥ずかしくて転げまわってしまいたくなった。
(……真尋ってば、あの頃、言葉の意味なんてわかってたのかな)
一人赤くなってあたふたしている小春を、照子がじーっと探るような目で見ていた。
「でも何だかあやしいわね、小春ちゃん。おばさんの女の勘も、まだまだ鈍ってはいないはずよ?」
「ちょ、ちょっとおばさん勝手に勘繰らないで! そ、それよりも私、お腹空いちゃった!」
痛くもない腹を探られるのは御免だ。小春は慌てて話題をすり替えた。舞の練習に通っている間の昼食は、宮司宅で用意される事になっている。
「……そうね。とりあえずお昼にしましょうか。午後からは小学生の子供達も子供巫女舞の練習に来るから、それまでに済ませてしまいましょう」
照子は宮恵と二人で、子供達の巫女舞の指導も受け持っているのだ。小春は頷いた。
「練習の続きは社務所を閉めてからになるから、晩御飯もこっちで食べていけばいいわ。真尋も帰って来た事だし、お寿司でも取ろうって。光尋が奮発してくれるみたいよ」
照子が笑う。何やかんや言いながら、照子も真尋が帰って来て嬉しいようだ。
「勿論『
小春は目を輝かせる。栄寿司はこの辺りで美味いと評判の老舗で、値段もなかなかな高級寿司店だ。
「それが、特上握り」
にやりと照子が笑う。
(うわぁ、光兄ぃ、財布大丈夫かな……)
人事ながら心配になる。
「遠慮しないで、どうせもう特上握り五人前は注文してあるんだから。小春ちゃんが食べてくれなきゃ逆に困るわ」
そう言うとそそくさと照子は拝殿を後にした。お昼を済ませば子供達がやって来るのだ。ゆっくりしている暇は無いらしい。小春は心の中で光尋に「
勝手知ったる何とやらで照子と連れ立ち台所へ行くと、光尋と宮恵は一足先に食事を終えており、真尋も地元の友達と会う約束とかで昼前には外出していて留守だった。
照子と二人向かい合って昼食を食べながら、小春は真尋と顔を合わせずに済んだ事に、どこかほっとしたような残念なような、複雑な気分を味わった。
*****
明け方には一旦弱まった雨足は、時が経つ程に再び強まり始めていた。
「……さあさあ、外ばかり眺めていないでこちらへおいで。髪を梳かしてあげましょう」
優しい声が明り取りの窓から外を眺めている童を呼ぶ。童は素直に窓を離れ粗末な家の中程にある炉のそばへと寄った。
「坊は今年でいくつになったのだっけ?」
髪を縛った紐が解かれ、黒々とした髪に櫛が通されていく。
「……
絞り出すように答えると、髪を梳いている手が一瞬止まった。
「――そう、十に。男の子ならもう一人前ね」
その声に微かな悲しみを感じ取り、童は自分の髪を梳る人物をそっと振り返った。
「男の子なら一人前になれば、泣き事など言わず、しっかり皆の役に立つのですよ」
童にはわかっていた。その言葉が別れの言葉であることを。
綺麗に梳かれた髪を再び紐で縛ると、言葉とは裏腹に、優しい手は名残惜しそうに童の頭を何度も撫でた。
「……雨など、止めばいいのに」
童は心の底から思った。けれどそう思えば思う程、家の外から聞こえる雨の音は、激しさを増すような気がした。
「――ええ、明日にはきっと止むでしょう」
悲しげに微笑む顔を、童は昏い瞳で見上げた。
*****
「小春ちゃん」
午後、社務所の一角にあるお守りやお札の並んだ棚の前に正座し、聞こえて来る子供巫女舞の囃子の音に耳を傾けていた小春は、窓の外から聞こえた宮恵の声に顔を上げた。見ると小学生の男女数人を連れた宮恵が、大きくなったお腹を持て余すように近づいて来る。
元々華奢な宮恵の身体は、お腹が大きくなればなる程にいかにもお腹が重くて大儀そうに見えた。
「この子達近所の小学校の生徒さんなんだけど、今度社会科の授業で、郷土研究の発表会があるんですって。それで神社の事を色々と聞きたいらしくて。悪いけどお相手頼めるかしら」
宮恵の両手はお菓子が詰まったスーパーの袋で占められていた。巫女舞の練習に来ている子供達に用意するものだろう。ちらりと時計を見ると、小一時間程で練習の終わる時間だった。
「いいですよ。ちょっと待って下さいね」
小春は草履を履くと社務所から出て、宮恵から子供達を引き取った。「お願いね」と言って拝殿へ向かう宮恵を見送り、小春は子供達と向かい合う。
「こんにちは。何年生のお友達かな?」
「五年生! お姉さんは巫女さんですか?」
「そうよ」
子供達が興味津々に質問を投げ掛けてくるのに頷く。
小春は子供が嫌いではなかった。時たま生意気な子もいるけれど、それでもどんな子も無邪気な顔で笑う所がかわいいと思う。
小春は笑顔で、子供達が前もって準備していたらしい質問に答えつつあちこち神社内を案内して歩いた。
「――それで新しく若宮神社が作られる事になりました。……さて説明は以上です。何か聞きたい事とかある人!」
はーい!、と子供達が勢い込んで手を挙げる中、
「いつからここは託児所になったんだ?」
突然頭上からぼそっと声が降ってきて、小春は驚いて声のした方を振り仰いだ。
見上げた先には外出から戻ったばかりの真尋が、訝しげな顔をしてこちらを覗き込んでいる。
「真尋! ちょうど良かった、真尋も手伝ってよ。私よりも色々詳しいでしょ」
「――手伝うって、託児所をか?」
呆れた顔で真尋が溜息をつく。
「あそっか。えっと、この子達は近所の小学校の五年生のお友達で、今日は色々とこの神社や郷土の事で調べに来てくれたんだって」
「へえ」
「……へえ、じゃなくって。だから手伝ってよ!」
「何で俺が――」
「自分の家の事だからでしょ」
明らかに気乗りのしない表情の真尋を無理矢理引き込み、小春はにっこりと小学生に笑顔を向けた。
「このお兄さんはここの宮司さんの弟だから、もっと色々詳しく教えてくれるよ!」
そんな小春の言葉に真尋は何かを言い返そうとしたが、それより先に子供達から「おおーっ」っという意味不明な歓声が上がったせいで出鼻をくじかれてしまう。
「はーいはーい! 神社の神主さんは、いつもどんなお仕事をしていますか!」
「はい! 狛犬にはどんな意味があるのですか? どうして二匹居るんですか?」
「はいっ! どうして神社によって、大きな鈴があったりなかったりするんですか!」
早速真尋という新しい標的を得た子供達は、矢継ぎ早に質問を投げかける。その様子は有名人の熱愛報道でよく見掛ける芸能レポーターそのもので、小春は思わず笑ってしまった。
「恐るべし、小学生パワー……」
ぼそりと呟きつつ、それでも「はいはい、質問は順番にな」などとまんざらでもなさそうな真尋は、普段のぶっきら棒な顔ではなく、面倒見のよさげなお兄さんの一面を見せた。
「じゃあまず神主の仕事からな。一般的に神主って呼ばれる人達は、正しくは神職というんだ。神職の仕事は本当に色々あって――」
小学生の質問に的確でいて分かり易い答えを返していく真尋の姿を、小春は少し意外に思いながらも笑顔で見つめていた。
(真尋って、こんなだったっけ?)
確かに三つ歳が離れているので、同級生の男子達よりかは幾らか大人っぽいとは思っていたが、いつの間にか随分と頼りがいのようなものが感じられるようになっていた。
(何かちょっと、見直したかも……)
「――もう聞きたい事は無いか?」
ようやく子供達の質問攻めも収まった頃合を見計らい真尋が尋ねた。子供達はお互いの顔を見回す。どうやら一通り納得したようで、それ以上の質問は出なかった。
「よし、じゃあ最後に一つ。……皆は神様にお参りする時、こうやって手を叩くよな?」
真尋が境内に気持ちよく響き渡る拍手を打つ。一瞬にして全員の視線が真尋に集まった。
「これは『拍手(かしわで)』といって、自分の身体についた悪い気を払い、神様をお呼びする為の合図なんだ」
子供達は真尋を食い入るように見ている。
「皆は神様にお願い事だけ言ってそれで終わり、なんて事はないよな? 神様にお願い事をする時も人に何かを頼む時と同じで、きちんと挨拶をして、『お願いします』と頭を下げて頼む。そして自分の願い事だけを押し付けるんじゃなく、神様に感謝の気持ちを伝える。そうした気持ちでお参りすれば、神様の耳にきちんと皆の声は届くと思うな」
柔らかく笑い、真尋が子供達を見た。子供達もぱあっと明るい顔で、俄かにお辞儀をしたり拍手を打ったりと練習に余念が無い。
けれどそんな光景など、小春の目には映っていなかった。小春は真尋に見惚れていたのだ。滅多に見る事の出来ない真尋の素の笑顔に、吸いつけられたように視線が剥がせない。
「……何だよ、珍獣を見るような目で人を見るな」
小春の視線に気が付いた真尋の顔には、もういつも通りのぶっきら棒な表情が戻っていた。小春はそれを残念に思った。
「――や、意外な物を見たなと思って」
「……にやにや笑うなよ、気持ち悪い」
冷たく言われ、小春は内心傷付く。
(この一線を引いた態度が腹立つんだよね)
明らかに昔とは違う真尋の態度に、小春は時々傷付いてしまう。そして、割り切ったつもりでもこうして傷付いてしまう自分にも腹が立つ。小春はもやもやとした気持ちを持て余し、俯いた。
「龍の神様かー。やっぱ龍の姿なのかなぁ」
「子供だから小さいかも!」
しかし子供達には小春の心情など関係無い。見えない龍の姿を探すように、その視線が神社の境内をめぐる。それにつられるようにして小春の目も自然と境内をさまよった。
子供達はしばしの夢想に浸った後、真尋の教育の賜物なのか律儀に頭を下げ、礼を述べると神社を後にした。
境内から階段を降りた所にある少し開けた場所で、子供達を見送り二人だけになると、小春はもやもやした気持ちを振り切るように、思い切って隣に立つ真尋を見た。
「えっと、真尋。ありがとう手伝ってくれて。……すごく助かったよ」
「まーな」
にこりともせずそっけない返事を返す真尋だが、
(まあ、頼めば嫌々でも手伝ってくれただけ、幼馴染の特権は健在って事だよね)
小春はそう気を取り直し、気分を切り替える事にした。
そうしてこちらを振り返りつつ手を振る小学生達を真尋と並んで見送っていると、背後にある境内からも子供巫女舞の女の子達の賑やかな笑い声が聞こえて来た。どうやらこちらも練習が終わったようだ。
「ご苦労様、気をつけて帰ってね」
笑顔で小春は女の子達を見送る。やがて最後の二人連れが階段を下りて来ると、何げなく見上げた階段の上に木常と辰田の姿を見付けた。
小春はいつものように老人二人に軽く会釈した。にこやかに笑いながら辰田が小春にちょいちょいと手招きをする。
(何だろう?)
何か用かと小春が階段を上りかけた時。
「――おい、どこ行くんだ小春」
真尋が鋭い声を出して小春の腕をつかんだ。その力の強さに小春ははっとして真尋を振り返る。力加減の無さに文句の一つでも言おうとした小春だったが、そこにあった真尋の真剣な目に思わず息を飲む。
「どこって、辰田さんと木常さんが……」
あらためて階段の上を見上げた視線の先には辰田の姿も木常の姿も無く、夕暮れの強烈な西日がこぼれているだけだった。
(……あれ? 見間違い、じゃないよね?)
確かにはっきり姿を見たのだ。あれはさすがに見間違えたというレベルのものではない。
(じゃあ、二人が去り際に手を振っているのを手招きしてるように見間違えたのかな)
無理矢理そんな風に結論付けてみる。確かにそれなら有り得る話だ。小春はそう一人で納得し真尋を見る。けれど真尋の表情は固く、小春の顔と階段の上を交互に見比べている。
「な、何?」
真尋の反応に得体の知れない不安を覚え、小春は思わず真尋の服の裾を握った。
「――いたのか。辰田と木常っていう氏子の爺さんが。確か随分昔にも一度、その名前を聞いた事があったよな?」
真尋のいつもよりも低い声にはっとし、小春は慌てて握っていた裾を放す。
(しまった! 二人の事は真尋にも内緒だったのに……!)
今日は朝からミスばかりしている、と小春は自分自身に腹が立った。普段はそんなミスなどしないのに。それもこれも真尋が帰って来たから、なのだろうか。
(龍童舞の事もそう。うっかり口を滑らせたりして。何一人でテンパってるの、私……)
真尋の小春に対する態度は半年前とちっとも変らないというのに、自分だけが真尋と再会してから浮かれているのを思い知らされたようで落ち込んだ。けれどそれを真尋には知られたくはなかった。
小春は取り繕うように顔を上げた。
その瞬間、意図せず二人の視線が合った。まっすぐに自分を見下ろす真尋の瞳に、目を見開いて驚く小春の顔が映っていた。
自分の瞳にも同じように真尋が映っているのだろうか。そしてこの瞳の中に、真尋も自分自身の姿を見ているのだろうか。そんな事をぼんやりと思った。
どれ位そうしていたのだろう。やがてどちらからともなく視線を外すと、目を伏せた。
「――その小学生みたいな反応はないだろ。何だかこっちが気まずくなる……」
小春を見ないまま、真尋がぼそっと呟いた。
「そ、そんなの真尋の勝手でしょ! そっちの方がよっぽど小学生レベル!」
小春も真尋の顔をまともに見る事ができず俯いたまま憎まれ口を返すが、どちらも目を逸らしたままでは一向に効果は無い。
一体何だと言うのだろう、この気恥ずかしさと気まずさの入り混じった感じは。今まで幼馴染の真尋を、こんな風に変に意識した事などなかったというのに。
「――なあ小春。お前のいう辰田さんと木常さんて……」
やがて短い溜息の後、躊躇いがちに真尋が口を開く。小春は内心、びくりとした。しかしその直後、ざあっ、と境内を馴染みのある音が包み込んだ。
「……えっ、雨?」
そう思った瞬間、不意の夕立に呆ける小春の腕を真尋が強く引いた。そしてそのまま、真尋に腕を引かれ階段に向かって駆け出していた。雨宿りできそうな場所は階段を上った先にしか無い。
「――相変わらず雨女なのかよ」
先を走る真尋の呆れたように呟く低い声は、次第に強くなる雨脚に紛れ、腕を引かれて走る小春の耳にははっきり届かなかった。
「……え、何真尋?」
「――何でもない。さっさと走れ!」
階段を一息に駆け上がり拝殿の庇の下へ逃げ込む。その頃には二人共髪から水滴を滴らせ、着ている服も濡れて色が変わっていた。
「すっごい雨! 周りがよく見えないよ」
「俺は家からタオルを持って来るから、小春はここで待ってろよ」
「タオルじゃ無理だよ。着替えないとコレ」
すぐにも雨の中へ走り出しそうな真尋を引き止め、小春は白衣の袖を持ち上げて見せる。巫女装束はびっしょりと濡れて重さを増していた。ここまで濡れてしまえばいっそ清々しくさえあり、小春は小さく笑った。そんな小春に真尋は眩しそうに目をすがめる。
「どうせ着替えるんだから、いっそこのまま家まで走ろうよ。真尋だってずぶ濡れだし」
真尋のTシャツも濡れて体に張りついている。着やせするのだろうか、意外に筋肉質なシルエットが見て取れた。何だか目のやり場に困り、何となく上げた視線の先で真尋の前髪から水滴が伝い落ちる。
「……あーあ、髪までずぶ濡れ」
濡れた髪は真尋を少しだけ幼く見せた。
「自分だってずぶ濡れだろ」
小春は真尋の髪に無意識に手を伸ばした。けれどその手は、同じように小春に伸ばそうとしていたらしい真尋の手とぶつかり合う。「ごめん」と謝ろうとした小春は、頭一つ分以上見上げた先にある真尋のまっすぐに自分を見つめる視線にたじろぐ。何故だか視線をまともに受け止める事ができなくて、小春は思わず目を逸らした。
(……何かさっきから変だ、私……)
――その時。
「何やってんだお前ら。いい歳こいて水遊びか? 二人共ずぶ濡れだぞ」
拝殿の中から光尋が呆れた顔で二人を見ていた。光尋の言葉に慌てて辺りを見れば、確かにあれ程激しかった雨は嘘のように止み、境内は元通りの夕暮れの景色に戻っていた。
「……水遊びなんかするか。夕立だよ」
真尋が苛立ち紛れに言う。例え短い時間とはいえ、光尋はあんなに激しい雨音に気付かなかったのだろうか。
「雨? 降ったかそんなの。太鼓のせいで聞こえなかったのかな」
「雨がどうかしたの? ……あら大変! 二人共早く家で着替えなきゃ」
光尋に続き顔を覗かせた宮恵が、濡れねずみのような二人の姿を目にし、拝殿から出てきた。雨音のせいで聞こえなかったが、光尋達は太鼓を叩いていたようだった。もう社務所を閉める時間だ。
宮恵に促され何となく気まずい気持ちのまま、小春は真尋と目も合わさず言葉を交わす事も無く、夕暮れ時の薄茜色に染まる空の下を、小道を辿って家へと歩いた。
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