第3話 参

 参 雨翔【あまかける】


 その日は梅雨の中休みで、久々に晴天が広がっていた。学校帰りに小春が神社へ向かう時にも滅多にない事だが雨は降らず、夏を感じさせる日射しが眩しく降り注いでいる。

 あれから一週間以上が経っていた。

 真尋とはあの時以来顔を合わせる事はなかったし、メールが来る事もない。あんな事があったというのにこうして放っておかれている事が、自分という人間が真尋にとってどういう存在かを突きつけられているようで、やるせなかった。

「あーあ、何か本当は夢だったのかなぁ」

 真尋だけではない。木常と辰田の姿もあれ以来見掛けない。そのせいなのか、小春はあの現実離れした出来事が現実に起こった事なのか、いま一つ自信が持てなくなっていた。

「あれ、光兄ぃ。今日は珍しくよそ行き?」

 参道の階段を上がった所で光尋の姿を見つけ、小春は声を掛けた。

 普段は白衣に浅葱色の袴姿の光尋だが、今日は神事があるのか涼しげな淡萌黄色に雲鶴丸紋の夏狩衣姿で烏帽子を被っている。小春は昔から、神職の衣装である白衣以外の狩衣や衣冠姿を「よそ行き」と呼んでいた。

「久し振りに聞いたわ、その『よそ行き』って言葉」

 光尋が振り返って笑う。普段は若さ故に威厳や貫禄とは無縁な光尋だが、そうした装束に身を包むとそれなりに見えるから不思議だ。

「さっき氏子さんの子供達が来てくれて、若宮に新しい衣装を奉納してくれたんだ」

「そっか、もうそんな時期だもんね」

「小学生の子達が頑張って仕立ててくれたんだから、ありがたい事だな」

 毎年例大祭に先駆け、氏子の子供達によって仕立てられた新しい直衣が龍神を祭る若宮神社に奉納される。

 境内の北側にある『若宮』と記された扁額の掛った社の前には、綺麗に畳まれた直衣が置かれており、小春は微笑ましい気持ちになる。奉納される直衣の色に特に決まりは無いが、今年は初夏らしい爽やかな薄黄色の生地で仕立てられていた。

「そうだ小春。最近変わった事は無いか?」

「え? 何よ突然。別に無いけど……」

「いや、こないだ真尋が東京の寮へ戻る日、俺にそれとなく小春の様子を気に掛けてくれって」

「……ああ、真尋ね。へえ、東京へ戻ったんだ? もう一週間顔も見てないし、メールもないから初耳よ」

 つい口調が刺々しくなる。小春のそんな様子に、光尋がちょっと意外そうに眉を上げた。

「どうせまた週末には帰って来るだろ。大学の授業でどうしても落とせない実地研修があるって言ってたからな。何だよ、お前達喧嘩でもしてるのか?」

「そんなのしてないわよ。喧嘩なんて。真尋は忙しいみたいだし」

 そう言ってそっぽを向いた小春に、光尋が訳知り顔になって頷く。

「ははん、『忙しい』ね。小春の不機嫌の原因はどうやらその辺りにあるらしいな」

「不機嫌なんかじゃありませーん」

 変に勘繰られるのが癪で、小春は光尋に舌を出した。光尋は笑ってそんな小春の頬を軽くつまんだかと思うと、次の瞬間には真顔になって言った。

「だけど宮恵もお袋もそうだけど、どうして女はメールだの電話だのを逐一欲しがるんだか。本当に忙しい時は、マジ勘弁してくれって思う時も正直あるよ。……まあ小春にこんな事愚痴っても始まらないけどな」

 全く面倒くさい、と光尋が溜息をつく。割とまめな性格の光尋でさえそう思うなら、不精者の真尋なら尚更そうだろう。

 そこまで考えて小春は我に返る。真尋の彼女でも何でもない自分が、こんな嫉妬まがいの事を考える事自体が筋違いなのだと。小春は目の前の光尋と似通った、真尋の仏頂面を苦々しく思い浮かべた。

「別に真尋のメールが欲しい訳じゃないけど。……それより光兄ぃ、感じる人だって?」

 小春は気分を紛らわす為にも、ちょっと意地悪な気分で尋ねてみた。

「感じる人って何だよ、下ネタか?」

 小春は脱力する。光尋は笑った。

「――ははあ、真尋だな? 確かに子供の頃は感じるっていうか、ぼんやりと『何か』が見えてたけどな。今はもう見えない」

「何か、って何?」

「さあなぁ。でも人間じゃなかったな」

 光尋は昔を懐かしむように目を細めた。

「だけど親父が死んでこの衣咲神社へ戻って来てから、昔みたいに見えはしないけど時々気配みたいなものを感じる事はあるよ」

「気配……?」

 光尋は頷いた。

「ああ。何ていうか、エネルギーの塊みたいな存在感? きっとこれが神様なんだろうなって俺は勝手に思ってるけど」

「へえ。そんな特技があったんだ」

 小春が感心すると「特技じゃなくて、能力と言え」と光尋が笑った。

「真尋は俺よりもそういうのに敏感でさ。そういやこないだ不機嫌に『お前がちゃんと管理出来ないから、こっちにとばっちりが来るんだろ』とか文句言われたな」

 それって多分そっち系の話だよなー、と光尋が呑気に呟いた。木常と辰田の事だと小春にはぴんと来たが、光尋には分かる筈もない。小春は曖昧な笑いを口元に貼り付けた。

「まあ何かあったら言ってくれよ。小春に何かあったら、真尋がうるさいからな」

 思い掛けない光尋の言葉を小春は鼻で笑い飛ばす。

「まさか」

 それには答えず、意味深な微笑を浮かべて光尋は着替えの為に自宅へと戻って行った。


 結局真尋からメールが届いたのは、例大祭の二日前の夕方だった。その日は龍童舞の練習の最終日でもあり、いつもよりも早めに練習は切り上げられた。

 真尋に会えるかとしばらく待っていた小春だが、照子と宮恵が夕飯を勧めてくる段になり、さすがにこれ以上の長居は出来ないと諦めて家路についた。

 翌日も例大祭の準備で一日中ばたばたとしており、昨夜遅くに東京から帰って来たという真尋もテントや舞台設営に借り出され、同じく忙しく立ち働いていた小春とゆっくり話をする暇も無く、結局挨拶すらまともに交わす事もままならず一日を終えたのだった。

 ――そうして迎えた例大祭当日。

「おはようございます」

 玄関のドアをがらりとあけて挨拶すると、奥から宮恵の声が返る。

「おはよう小春ちゃん。上がって待っててくれる?」

 手が離せないのだろう、小春は靴を脱ぎ遠慮なく居間へと向かった。玄関からのびた廊下を歩いていると、「小春」と不意に階段から声が掛かる。

「おはよう真尋、随分久し振り……」

 階段を下りて来る足音に振り返った小春は、真尋の姿を認め声を途切らせた。

(わ、真尋、白衣に白袴姿だ)

 パリッとした白衣は、真尋の伸びやかな精悍さを際立たせるように映えた。

「……んだよ、じろじろ見んな」

 不機嫌そうに真尋がそっぽを向く。

「何て言うか、新鮮だなと思って」

 まじまじと小春が見つめると、更に不機嫌さに拍車が掛かる。

「笛さえ吹かなきゃ、普通の服でもよかったんだけどな。……ちっ、兄貴よりも立場の低い出仕前の白袴は屈辱だな」

 神職の袴や袍の色には明確な決まりがあり、まだ学生の身分である真尋は神職見習いである為、木綿の白袴しか許されていない。

「でも似合ってるよ。真尋の袴姿」

 お世辞ではなく心から小春は褒めたのだが、真尋は別段嬉しくもなさそうに「当り前だ」と小春を追い抜きさっさと居間へと入る。

「かわいくないなー。それとも照れてんの?」

「小春に褒められたくらいで照れるかよ。お前こそ俺の白衣姿に惚れんなよ」

「冗談。真尋に惚れる位なら、三丁目の佐藤のおじいちゃんに惚れるわよ」

 軽口を叩き真尋に続いて入った居間には照子、光尋、宮恵の三人が既に集まっていた。

 真尋と小春の会話に呆れ顔の三人と挨拶を交わし、宮恵が淹れてくれたお茶を半分程飲んだところで玄関の呼び鈴が鳴った。氏子の役員達の準備も整ったようだ。

「さて。それじゃ行くか」

 宮司の正装である無紋の紺の衣冠に身を包んだ光尋が立ち上がり、全員を見回す。それぞれが僅かに緊張した面持ちで頷き、光尋に続く。

 梅雨の明けた七月の空はどこまでも青く澄み渡り、祭りの始まりに皆が胸を高鳴らせたのだった。


 手水ちょうずの儀、修跋しゅばつの儀を済ませ開式となった例大祭は、氏子や近隣の住民達でかなりの賑わいを見せていた。

 神殿の扉を開く開扉の儀の折には、光尋の発する警蹕けいひつが厳かに響き渡り、続いて行われた献餞、祝詞の奏上に玉串拝礼と儀式はつつがなく進んでいく。それに伴って次第に気温が上がり始め、摂社と末社の例祭が行われる頃には、境内には夏の暑さと人いきれが交じり合い、熱気が立ち込めていた。けれどひとたび鬱そうとした鎮守の森の木陰に入れば涼しげな風が吹き抜け、ひと時の涼を得られた。

 午前の予定が全て終わると参道の出店に人が集まった。その間に神社関係者にも食事が振舞われ、小春も氏子の女性達と共にその接待に忙しく立ち回った。

 午後になって地域の愛好家による和太鼓演奏と郷土舞踊の奉納が行われる頃になり、ようやく小春達も遅い昼食にありつく事が出来た。

 やがて日も西に傾き始めた頃、境内に設えられた舞台では巫女装束に千早を羽織り、手に鈴を持った子供達による子供巫女舞の奉納が始まった。舞台脇には大太鼓、小太鼓、銅拍子、篠笛の奏者が並び、神楽囃子を奏でる。四人の奏者は一様に白衣に白袴、烏帽子姿で、氏子に混じって篠笛を吹くのは真尋であった。

 ゆったりと演奏される囃子に合わせ、子供達がしゃんしゃんと鈴を鳴らしながら舞う様は、人々を微笑ましい気持ちにさせる。

「やっぱり真尋君、上手いわね」

 子供達の舞を見守りながら宮恵が言う。

「祭囃子なら宮恵さんの方が上でしょ」

 照子が笑う。宮恵の祭囃子の笛は、聞く者の心を沸き立たせるような楽しさがあった。その代わり、巫女舞のようなゆったりとしたテンポのものはあまり得意ではないようだ。

 真尋はその逆で、賑やかなものよりも情緒的な演奏が得意のようだった。

 小春はいつかの朝の境内で聞いた真尋の演奏を思い出していた。

「さあ、小春ちゃん。そろそろよ」

 宮恵が腕時計に目をやって小春を促す。

「衣装は二階の部屋に用意してあるから、十五分後に迎えに行くわ」

 小春は頷き、そっとその場を抜け出すと、『関係者以外立ち入り禁止』のプラカードの下がった紐で塞がれた社務所脇の小道を辿る。

 太陽が西の空を微かに茜色に染め始めていた。小春が龍童舞を舞う頃には見事な夕焼けが見られるだろう。

 小春は宮司宅の二階の部屋で、用意されていた巫女装束に着替えた。普段の化繊の物とは違い絽織りの絹衣装は肌触りが違う。緋袴の帯をきゅっと前で結び、千早に袖を通す。髪を一つに結い、慣れた手付きで檀紙と水引を飾りつけると気持ちが引締まった。

(さあ、本番だ)

 姿見に映る自分を見つめる。

 龍童舞は龍神を慰める為の舞だ。もし龍神が未だこの地に留まっているのだとしたら、自分の舞う龍童舞がほんの一時だけでも心の慰めになって欲しいと小春は思う。

『だからこそお前が舞うんだろ』

『うん。早く天に昇れれば、いいね』

 いつかの夜の真尋との会話が甦る。

(――そうだ。私はその為の舞巫女だもん)

 姿見の中の舞巫女は、小春自身でありながらも同時に神と人とを繫ぐ存在でもあった。

 準備を終え、小春は心静かに迎えを待つ。

 しかしいつまで待っても、宮恵も照子も小春を迎えに来なかった。時計を確かめるが既に神楽囃子の奉納の開始時間を数分過ぎている。

「……遅れてるのかな」

 微かな不安はあったが、予定が多少ずれ込む事など大した事でもないだろう、と小春は出来るだけ心を平静に保とうと心掛ける。

 けれど窓の外からざあっ、という打ち付けるような激しい雨音が聞こえる段になり、とうとう小春は我慢できずに分厚いすりガラスの嵌め込まれた窓を細く開けて外を覗いた。

「わ、すごい雨!」

 毎年例大祭の日には大なり小なり雨が降る。特に小春が舞巫女になってからは、龍童舞を舞う直前のごく短時間に雨が降る事が恒例になっていた。

 数代前の舞巫女を務めた照子にも同じような経験があるらしく、「龍神様に歓迎されている証拠よ」と毎年顔をほころばせる。確かに水神を祭る神社の祭りであるからには多少の水気は祝福の印と喜ばれるが、それにしてもこの大雨は度を越しているように思えた。

 空一面を覆う黒い雨雲から大粒の雨が横殴りに吹き付け、家の中に居ても雨粒が屋根瓦や外壁を叩く音が聞こえる。

(さすがに境内の人達も雨宿りしてるよね)

 スタンバイしていたはずの楽器も撤収されているだろうと、雨が部屋の中に吹き込まないように気を付けながら境内の方を見るが、鎮守の森に遮られてよく分からない。ざわざわと風に煽られ木々が激しく揺れる。時折風に乗って聞こえてくる微かな音は、太鼓の音なのか雷なのか判別がつかなかった。

「――お迎えに上がりましたぞ、舞巫女」

「き、きゃあっ!?」

 不意に背後から声がした。今の今まで何の気配も無かった背後から掛けられた声に、思わず小春は飛び上がらんばかりに驚き振り返った。

「さあ、龍神様がお待ちです」

 いつの間に入り込んだのか、部屋の入口に立ち慇懃に腰を折るのは辰田と木常であった。

「た、辰田さん、木常さん……?」

 いつもは好々爺の辰田と偏屈な木常の二人であったが、今小春の目の前に居る白衣と白袴に身を包んだ白髪の老人達には、まさに神使と呼ぶに相応しい威厳があった。

 辰田がすっと右手を小春に差し出す。その老人特有の節くれだった手を見つめ、小春は戸惑う。

(この手を取ったら、私は龍神様の元へと連れて行かれるって事、だよね?)

 そう思うと今更ながら、手を取るべきか否か悩んでしまう。少し前の自分であれば、何の疑問も無くその手を取ったかもしれない。だが真尋から辰田と木常が神使であると聞かされ、我が目でそれを確かめた後であるだけにどうしても迷ってしまう。

(私は舞巫女なんだから、龍神様の為に舞う事が勤め。だったらこの手を取るべきよ)

 そう思い手を差し出そうとするが、一方では得体の知れない怯えがそれを躊躇させる。この手を取れば、二度と元の世界には戻れなくなってしまうような、そんな不安が心をよぎるのだ。

「わしの手をお取りなされ。龍神様の元へお連れいたしましょう」

 辰田が神妙な面持ちで尚も手を差し出し続ける。どちらとも決めかね、小春は辰田の隣に立つ木常を見るが、彼は小春に辰田の手を取る事を促すように小さく頷くだけだった。

(……私、どうすればいいの? 真尋――)

 心の中で真尋の名前を無意識に呼んだ。

 その時、細く開いたままの窓の外から、聞き覚えのある笛の音がした。はっとして小春は窓を大きく開け放ち外を見る。そこには激しい雨に濡れ、それでも笛を吹いている真尋の姿があった。

「真尋っ!」

 思わず小春は叫んだ。

「小春っ、怖気づくな! お前は舞巫女だろうが! 龍神がお前の舞をお待ちかねだ! 思いっきりぶちかまして、とっとと天に押し上げてやれよ!」

 竹でできた和楽器は水気を嫌う。だが真尋は雨の中を来てくれたのだ。小春の為に。

「俺が笛を吹いてやる! さあ、来い!」

 両手を広げ、真尋が小春を見上げていた。すっかりどこもかしこも雨に濡れてしまった真尋は、それでもこれ以上ない位に頼もしく見えた。

「――うん!」

 先程までの迷いが嘘のように吹き飛び、小春は大きく頷いた。その顔を見て安堵したように、真尋の顔にも笑みが浮かぶ。不覚にもそんな真尋に胸が鳴った。

 小春は一つ大きく息を吸うと、振り返って辰田と木常の二人をまっすぐに見つめ、差し出された辰田の手を取った。

「私、行きます」

 辰田が再び慇懃に頭を下げると、恭しくその手を引いて小春を先導した。木常がその背後を護るように付き従う。三人はゆっくりと何かに導かれるように進んでいく。

 小春は、滑るような辰田の足取りを追う内に、宮司家の二階に居た筈が気付けば境内の奥、神殿の裏側に位置する龍神池跡に設えられた神楽舞台へと続く小道を歩いていた。

 いつの間にか激しかった雨は霧雨に変わり、小春の髪や衣装の上で細かな水滴になる。

 霧雨に霞む視界の先で、神楽舞台が圧倒的な存在感で小春を待っていた。辰田に先導され小春が舞台に上がると同時に、舞台脇に真尋の姿が霧を払い現れる。さっきまでずぶ濡れだったはずなのに、すっかり衣装も髪も乾いているようなのが不思議だった。

(――真尋)

 小春は心の中で真尋に呼び掛ける。まるでその声が聞こえたかのように真尋は頷くと、ゆっくりと一拍の間を置いて笛を構えた。

 いつの間にか辰田は舞台から下がっており、木常と共に舞台の両袖に立っている。登場までの経緯と真尋という存在さえ除けば、その光景はいつもの例大祭の最後を飾る龍童舞の奉納に見る光景であった。

 だからだろうか、このいつもとは違う様子の舞台に、小春がそれ程心乱さずに立っていられるのは。それともいつもとは違って真尋が居てくれるからこそ、落ち着いていられるのだろうか。小春にはわからなかった。

(わからないものは、考えたってわからない。だったら今は考えないでおこう)

 小春は衣装の裾を軽く整えると、帯に挿していた桧扇を取り出し開く。静けさの中で、真尋の息を吸う音が微かに聞こえた。

 その直後、篠笛の音が辺りの静寂を震わせ響く。高く低く緩やかに、そして時に伸びやかに笛の音が楽を奏でていく。

 真尋が吹くのは例年奉納される神楽囃子だった。荘厳でゆったりとした笛の音は、独特の響きと旋律で小春を舞へと誘う。いつかの朝のように心に染み入るような真尋の笛の音は、まるで何年もその音で舞ってきたかのようにしっくりと小春の耳と身体に馴染んだ。

 小春は開いた桧扇を構え、舞台に円を描くようにゆっくりと神呼びの舞を舞った。それはごく単純な舞であったが、同じ動きを延々と繰り返す内に小春の心から様々な雑念が抜け落ちていき、最後に無心になる。小春という自我を無くし、神をその身に呼び込む為の舞だった。

 やがて神呼びの舞を終え、笛の音が止むのを待って舞台の正面に向き直った小春は、そこに意外にも見知った人物を見た。白磁の肌、細く通った鼻筋、見る者に凛とした品を感じさせるすっきりとした切れ長の目元。それは白で統一された衣装を身に纏った、件の少年であった。

 上等な絹で仕立てられた狩衣は仄かに燐光を放ち、絹糸のような艶やかな黒髪が少年の額に掛かっている。

(どうして彼がここに居るの?)

 まるでそう思ったのが伝わったかのように、少年は小春を見た。その瞳は真冬の川の水のように冷ややかで、我知らず総毛立つような感覚に襲われ、小春は蛇に睨まれた蛙のような心地を味わった。

 少年はゆったりとした動作で小春の右隣に立った。その意図が計りきれず、小春は戸惑ったまま立ち尽くす事しかできない。

 不意に少年が舞台脇の真尋に一瞥をくれた。真尋が一瞬息を飲む気配がする。けれど真尋は怯む事なく少年の視線を受け止め、大きく息を吸うと再び笛を構えた。

 真尋が笛に息を吹き込む。その迷いのない息遣いは、笛に音色という命を与えた。伸びやかでいて哀愁を漂わせる笛の音に、少年がどこから取り出したのか榊の枝を左手に持ち、小春と同じようにそれを胸の前で構えた。

 流れる楽に合わせ、少年が右足を踏み出す。その動作を見ただけで、彼が相当の舞い手だという事がうかがい知れた。そして不思議な事に、少年が舞い始めると同時に、小春も何の違和感もなく左足を踏み出していた。身体に染み付いた龍童舞が、真尋の笛の音と少年の舞に自然と反応したせいだった。

 一度舞い始めれば身体は自然となぞるべき動きをなぞり始める。小春の左腕がゆったりと水の流れを模して動けば、隣では少年の右手が同じように流れる水の様を描いていた。

 少年のそれは龍童舞――やはり小春の舞とは左右が逆ではあるが――であった。小春が左に旋回すれば、少年は右に。小春が右に旋回すれば、少年は左に。まるで絡み合ってはぶつかり、離れては再び引かれ合い回る二つのコマのように、二人は同じ動きを左右対称に舞う。そして徐々にその速度は増してゆき、やがては衣の袖を翻す程になった。

 小春は不思議な高揚感に浸っていた。少年と対になって舞う龍童舞は、今まで感じた事のない感覚を小春に与える。そしてふと思う。龍童舞とは、本来二人一組で一つの形態をなす舞なのではないか、と。もしそうだとすれば、今小春と少年が舞っているこの龍童舞こそが、正しい形なのだ。

 くるり、と小春が半回転する。同じく逆回りに半回転した少年と間近で視線が交差した。小春の目は、まるで吸い込まれるかのように少年の瞳しか目に入らなくなる。

 その不思議な色彩をした少年の瞳に、小春は心の中で問い掛けた。

(あなたは誰?)

 幼い頃から、知っているようで知らない存在。確かに小春は少年という存在を知っているのに、彼が何者かは全く知らないのだ。

 少年の微かに赤みを帯びた唇が、まるでその答えを示すかのように開きかけた。けれど一瞬の後、少年の唇は言葉を紡ぐ代わりに薄く笑みを浮かべる。その笑みはどこまでも魅惑的で、艶めかしくさえ見えた。

 小春は我を忘れて、少年の醸し出す妖しくも人を惹きつけてやまない空気に酔い、夢中で舞った。

 不意に少年が、龍童舞の本来の足の位置とは違い、一歩踏み込むように小春へと近づくと、手にした榊を口元に寄せた。

「……笛の音が変わった。余りよそ見が過ぎると、あの者の勘気をこうむる事になるな」

 そっと少年が唇を寄せたかと思うと、耳元で囁く。やけに古びて大人びた口調に、小春はまじまじと少年を見るが、その面には変わらず妖しい笑みがあるだけだった。

 一体どういう意味なのだろう、そう思った時、今まで伸びやかで心地良かった笛の音が、微かに跳ね上がるような鋭い音を奏でた。さり気なく真尋を窺い見ると、その双眸がまっすぐに自分と少年を捉え、剣呑な光を宿しているように見えた。

(真尋、怒ってる……?)

 時折跳ね上がるような笛の音は、真尋の怒りの表れなのだと気付く。けれど真尋が怒っている事には気付いても、何故怒っているのかについてはさっぱり分からなかった。そんな小春と真尋を横目で見ながら、少年は喉の奥で小さく笑う。

 やがて舞も終盤に差し掛かると徐々にその速度を落とし、速さに慣れてしまった目と身体には緩慢と感じる程の緩やかさに戻る。それは山の奥深くで湧き出た水が、小さな流れを作り、小川となり、やがて大きな急流へと育ち、最後には緩やかに母なる海へと流れ込むのに似ていた。

 龍童舞は水の流れを表しているのだと小春は思っていた。水の流れは時に龍に例えられる。舞巫女は龍童舞を舞う事で龍になるのだ。共に龍になる事で龍神を慰める、それが龍童舞を舞う意味だと思っていた。

 けれど今、この奇妙な少年と対になって龍童舞を舞う事で、そんな自分の考えは少し違っているのかもしれないと感じていた。

「こうしてこの舞を舞うのも幾歳ぶりか」

 青い榊の葉を揺らせて、少年が呟く。

(え? 幾歳ぶり?)

 同じように桧扇をひらめかせ、小春は内心首を傾げる。そんな小春の心の中を見透かしたように少年は目を細めて笑った。

「この舞は、私が最初に舞ったのだ。龍になりたくてな」

 それがどういう意味か小春には分からなかった。目の前の少年はどう見ても十四、五歳だ。平安時代には既に今の場所に社があった衣咲神社の代々の舞巫女に先駆けて、龍童舞を最初に舞う事など不可能な事だ。

「人であるが故に、人の感情というものに振り回されるのであれば、龍になれば人という枷から逃れられる、そう思った」

 理解のついていかない小春を置き去りに、少年は独り語りするように言葉を紡ぐ。

「だが人としての寿命を終え、念願叶ってこの身は龍となったが、私は未だこうしてこの地上に縛られている。……皮肉なものだな」

 小春の心臓がとくん、と跳ねた。少年の言葉がうまく思考に入って来ない。緩やかに舞い続ける少年の不思議な色彩の瞳は、目の前の小春ではなくどこか遠くを映している。

 いつの間にか小春は舞う事をやめていた。舞台の上で龍童舞の最後の一節を終えようとしている少年を、呆然と見つめたまま。

「……共に最後まで舞ってはくれぬのか」

 静かに問われ、小春はようやく自分の手足が止まっている事に気付く。真尋の奏でる笛の音も、とうとう最後の一節を吹き終え止んだ。

(そうだったんだ、この少年は――)

 小春はようやく少年の言動を理解した。

「……私達の舞は、ほんの僅かでもあなたの慰めにはならなかった?」

 問い掛ける言葉に、少年は小春を見た。

「私達舞巫女は、龍童舞は龍神様を慰める為の語り掛けだと教えられてきたわ。龍神様が寂しくないように、龍神様が天へ昇れますように。そう願いを込めて語り掛けてきた声は、本当に全く届いていなかった? ……あなたが、龍神様なんでしょう?」

 袖を握りしめ小春は少年を見た。舞台脇の真尋の顔に緊張が走るのを感じたが、構わなかった。小春の言葉に少年の表情から笑みが消えた。ただそれだけで、白皙の面は近寄りがたい冷たい空気を醸し出す。

「……ほう。龍童舞とそなたらが呼ぶこの舞は、私を慰める為のものか」

 不意に少年が問う。小春が頷くと、そうか、と少年は短く呟き薄く笑った。

「皮肉なものだな。私が舞い始めたこの舞が、いつの間にやら私を慰める為の舞になっていたとは」

 その言葉の意味を図りかねる小春を尻目に、少年は続ける。

「舞巫女よ。私は自分の中の龍神の力が厭わしかったのだ。そなたらも知っていよう、私の中の龍神としての力がどういう結末をもたらしたのかを」

 そう語る少年の何ともいえない空虚な目に、小春は掛ける言葉一つ思い浮かばず、ただ吹き抜ける風のように虚ろに響く声を聞く事しかできなかった。

「どれだけ我が身を嘆こうと、絶望に明け暮れようとも、目の前で起こった事は曲げようもなく現実でしかなかった。私は不完全な龍神でしかなく、それ故、母はこの世から去り、龍女様もこの地上から去られたのだ」

 静かな声は、小春にはまるで血を吐くような独白に聞こえた。それは聞く者の胸の奥をもえぐるような響きを伴っていた。

「私はあの時以来、生きながらにして死んだような日々を送り続けていた。けれどある時、ふと思ったのだ。私がどれだけ憎み否定しようとも、巫女であった母と龍女様、そして私自身の三者を繫いでいたのは、まぎれもなく龍神の力だったという事に」

「龍神の力が、繋いでいた?」

「そうだ。龍女様は龍神の力をもってして村に雨を降らせた。そして同じ力で母の命を奪った」

 少年の言葉を聞きながら、小春は妙な気分を味わった。龍神である少年の口から語られる言葉は、小春が神社の由来板や巫女として奉仕してきた年月に培った、いわば物語に近いような伝承だ。けれどそれらは少年にとってみれば、自らが体験した現実に沿った記憶なのだ。

 悠久の年月を越え、その二つが同じ場所、同じ時間に存在している。小春は一つの物事に存在する、思いもかけない別の側面に、軽い戸惑いを覚えた。

「……人間には、我が身に流れる時間の概念がわからぬのであったな」

 小春の戸惑いを敏感に感じ取ったのか、少年はどこか自嘲的な目で呟いた。小春は、はっとした。

「わからないかもしれない。でも、聞く事はできるから」

 小春は少年の目をまっすぐに覗き込み言った。このまま彼が話を終えてしまうのは嫌だった。それでは何の進歩も解決にもならないのだ。

 おかしな女子おなごだ、と小さく呟き、少年はさらりと黒髪を揺らして小春を見た。その怜悧な美しさは少年を一層孤独に見せていた。

「……龍神の力のせいで命を失った母は、再びその力のお陰で命を取り戻す事となった。そして私を生み育て、今度は私の中の不安定な龍神の力の為に命を捨てたのだ」

 一旦言葉を切ると、少年は問い掛けるような眼差しを小春に向けた。

「全ての事柄に龍神の力が介在していると思わぬか?」

 何と答えるべきかわからなかった。けれど確かに少年の言うように、一貫して龍神の力に翻弄されているように思える。

「そこで私は思ったのだ。この龍神の力こそは我が背負っていくものではないのかと。これは私が真の龍にならなかったばかりに起こった悲劇なのだ。ならばこのような悲劇を二度と繰り返さぬ為には、私が真に龍神とならねばならなぬのだ。その時から私は龍になる事を望むようになった」

「待って、それは……!」

 それでは余りに大きなものを一人で背負い過ぎだ、そう思った。

 けれど少年は小春にそれ以上言わせず、言葉を重ねた。

「……そう言えば綺麗事に過ぎるが、その本心は龍となって天へ昇り、人という存在を超越した龍神になれば、人としての私が抱える悲しみや苦しみを浄化できると思ったのだ。人であるが故、人の感情に振り回されるのだと。ならばいっそ人であることをやめればいいのだ。そう思ったのだ」

 少年は一旦言葉を切ると皮肉げに小春を見る。その表情はひどく悲しげに見えた。

(だったらどうして龍神になったはずのあなたの目は、そんなに悲しくて辛そうなの?)

 そんな言葉が喉元まで出かかったが、小春はそれを飲み込んだ。

「しかし誰も私に人の殻を脱ぎ捨てて龍になる術を教えてくれなかった。ただの人であろうとした時には己の中の龍神の力がそれを阻み、龍になろうとした時には、今度は人であるこの身が邪魔をする。私は人としても龍神としても、どっちつかずの半端者でしかなかったのだ。そんな半端者の私にできる事は、舞を舞う事だった。私はひたすら龍になる為に、母を慕い龍女様を想いながらこの舞を舞ったのだ。水の様を舞う事は、即ち龍を舞う事だからな」

 辺りを優しく湿らせていた霧雨が、小雨に変わり始めていた。まるでそれは零れ落ちる涙のように小春の衣装を濡らし、ずしりと重みを増した。しかし同じ舞台に立ちながら、少年の白い狩衣は微塵も濡れた様子はない。

「それはようやく人としての寿命を終え、枷としての肉体が滅んでも変わる事はなかった。人であった頃の妄執にも似た二人の母への恋慕の強さ故に、私は龍となりながらも天へは昇れなかった。……分かるか、その時の私の落胆が」

 すっと細められた目が小春を射抜く。その瞳は人にあらざる光を宿していた。

「それでも私は舞い続けた。いつか天に昇れる日が来るのだと信じて。人の世にして何十年、何百年の年月を」

 榊の枝を滑らせるように少年が再び龍童舞の一節を舞う。その短い動作に悲しみの深さを思い知らされ、小春は胸の奥が疼いた。

「――龍童舞をあなたが最初に舞ったというのはわかったわ。でもあなたのものであったその舞が、どうしてあなたの手を離れ、舞巫女の龍童舞に変わってしまったのかしら」

 小春は掠れる声で問うた。小春はこんな状況だというのに、龍神である少年の話に興味を覚えたのだ。

「おいっ、小春……!」

 真尋が諌めるように声を上げたが、少年が真尋になだめるような一瞥をくれると、不承不承ながらに真尋は引き下がった。そうして少年は、何事もなかったかのように話の続きに興じた。

「龍神とて天上へ昇らねば地上の穢れが澱のようにその身に積もる。その穢れを脱ぎ捨てる為に地上の龍は眠りを必要とするのだ。私もこれまで二度眠りに就いた。……そうだ、最初の眠りに就く時に当時の村の巫女が言ったのだったな。眠りに就いている間は自分が祈りを込めてその舞を舞おう、と。出来損ないの龍神に同情するとは、あの者もそなたと同じに随分な変わり者であった」

「変わり者は余計よ。でもその村の巫女って人が、もしかして最初の舞巫女なんじゃないの?」

「――かもしれぬ。だが私が目覚めた時には既にその者は亡くなり、巫女の孫という娘が舞を舞っていた。……本来の舞とは対になる舞をな」

 少年の瞳が哀しげに揺れた気がした。小春には想像もつかないが、龍の眠りとは人の一生を凌駕する長きものなのだろう。

「でもどうして最初の舞巫女は、わざわざ舞の振りを逆にしたのかな」

 純粋な興味からの小春の呟きに、今度は興味なさげな声が返る。

「……さてな。私は最初の眠りから覚めた後、しばらくして舞う事も、人間に関わる事もやめてしまった。人とはすぐに寿命を終え、私を置いて逝ってしまう。あの者達が何を考え、どうしてわざわざ舞の振りを違えたのかなど、私の知るべきところではない。だからそなた達舞巫女が私の為に舞うというこの舞も、私にとっては所詮他人事にしか過ぎぬのだ」

 言い捨てる少年を小春は責める事が出来なかった。少年は余りにも深く傷付き、未だその悲しみから立ち直る事が出来ないでいるのだ。

「人間の声に耳を傾けぬ祭神など、呆れて物も言えぬか? それとも何の為に祭っているのだと憤りを覚えるか?」

 傲岸な笑みを浮かべて問う少年の顔は、しかし小春には母や心許した人を失い、涙を流す子供に見えた。

(きっとそんなの、本心じゃない。絶対に違う。だって――)

 小春は雨にじっとりと濡れそぼつ袖の中で手を固く握りしめる。そして毅然と顔を上げると舞台の袖に立つ真尋を見た。その目に何かを感じ取ったのか、成り行きを見守っていた真尋が黙って頷き篠笛を構える。

 何のつもりだと訝しむ少年の目の前で、小春は桧扇を開き構える。ゆったりと一拍の後に奏でられる笛の音――

 音色が空気を震わせた。どこまでも響き渡るその音色は、まるで世界から取り残されてしまったようなこの舞台が、本当はちゃんと世界と繋がっているのだと教えてくれているような気がした。

 小春は舞った。龍童舞を今まで以上に心を込め、全ての悲しみを包み込むように舞った。

 そうして小春が舞う龍童舞は、気付けば緩やかな水の流れは母なる胎内で聞く血潮の流れに、激しい濁流は生まれ出る瞬間の苦しみに、穏やかにたゆたう水は母に抱かれる優しさへと変わっていた。

 母を求め水の流れに龍を見出した少年の舞は、やがて巡り巡って子を愛おしむ母の舞へとその姿を変えていた。

 気付けば小雨は霧雨に戻っていた。ただ無我夢中に舞い続ける小春の耳に、気付けば真尋の笛の音だけでなく、いつの間にか太鼓や銅拍子の音が次第に重なり合い、本来の幽玄な神楽囃子が響いていた。その美しい調和が、更に小春の舞いに力を与える。

(皆も祈ってくれてる)

 舞いながら小春は心の中に暖かな想いが満ちるのを感じた。恐らく真尋の笛の音が境内にも届いたのだろう。それに合わせて境内の舞台で神楽囃子奉納が始まったのだ。

「これはあなたの為の舞と楽。その悲しみが癒えて天に昇れるようにとの皆の祈り。例え悲しみが深すぎて、その耳に、心に届かなくても、私達はいつまでも祈ってるから」

 それは紛う事のない小春の本心でありながら、その言葉は自分ではないもっと大きな何かによって紡がれているように感じられた。

 その証拠に小春の目には、先程から自分が身に着けている緋袴に重なって、薄っすらと別の緋袴が見えていた。それは小春の身に着けている滑らかな絹のものとは異なり、織り目の粗い生地のように見えた。

「きっと眠りを見届けた巫女も、あなたとあなたの悲しみに寄添い共に分かち合いたかったんだと思う。あなたの舞を傍に感じながら、共に舞う為にこの龍童舞を舞ったんだよ。龍そのものを舞うあなたに対して、龍童舞は龍と共にある水そのものを舞っているんだと思う。二つは決して切り離せないものだから」

 龍の身体のうねりは水の動きを生む。龍童舞はその水の動きを表す舞。故に龍の舞とは似て非なる対称の動きでなければならなかったのだろう。

 そして今、龍と対である水の動きを表す龍童舞は、更に小春によって子を慈しむ母の舞へと昇華されていた。

 唖然と小春を見ていた少年は、我に返ると早口で言った。

「私は人の言葉にも願いにも、耳を傾けなかったのだぞ」

 小春は扇をひらめかせ、にっこりと笑う。

「それでも。この付近一帯はここ千年以上、水に困った事はないわ。それはあなたが居てくれたからでしょう? それに私を『舞巫女』だって、ちゃんとあなたは知っていた」

 あっけらかんと言い放たれ、少年はぽかんと口を開けて立ち尽くす。やがて小春が龍童舞を最後まで舞い終え、神楽囃子も一段落する頃にはすっかり霧雨も止んでいた。不思議な事に、先程まで漠然と感じていた自分ではないものの気配も小春の中からすっかり消えていた。

「――お前は阿呆か。そのようにお人好しでは狐狸の類に化かされるのがオチだぞ」

 呆れたように少年が小春を見遣る。舞で弾んだ息を整えていた小春は、桧扇を閉じると帯の結び目に挿し「狐と龍にはもう化かされ済みだけどね!」と屈託なく笑うと、舞台脇の辰田と木常に目配せした。小春と目が合うと、二人は何とも言えない気まずげな顔で笑った。

 その瞬間、何の前触れもなく曇天の空に激しい稲妻が走り、まるで空が割れるような雷鳴が鳴り響いた。

「……きゃあっ!!」

 さすがの小春も、突然の事に頭を抱えて悲鳴を上げる。

「小春!」

 そう名前を呼ばれた直後、小春は暖かで力強い腕の中に居た。恐る恐る顔を上げると、いつの間にか真尋が舞台に上がり、雷鳴に怯える小春をその腕の中に庇っていた。

「ま、真尋……?」

 ほっとしたのも束の間、小春は真尋の腕の中で少年が腹を抱えて大笑いする声を聞いた。

「わ、笑ってる?」

「――そうみたいだな」

 頭上から呆れたような真尋の声がした。どうやら先程の稲妻と雷鳴は、龍神である少年の笑い声に同調しているようだった。

「はた迷惑な感情表現だな、全く」

 ぶつぶつ呟く真尋の声に、少年が笑いを噛み殺しながら言った。

「すまぬ。愉快過ぎてつい制御を忘れた」

 顔を見合わせる小春と真尋を尻目に、少年はなおもしばらくの間、笑い続けたのだった。

 そしてようやく少年が笑いを収めた頃、曇天の雲の隙間から不意に一筋の光明が差し込み舞台に立つ少年を照らし出した。

「実に人間とは面白き生き物よ。長き年月そのような事も忘れていたようだ」

 眩しい程の光に照らされた少年の顔には、こぼれるような笑みがあった。そうして笑うと、触れれば切れてしまうような怜悧な美しさはなりをひそめ、水仙の花のように凛とした美しさが目を引いた。

「人の想いというものに、これ程の力があるのだと私は初めて知った。……礼を言う」

 両腕を広げ、全身で光を受止める少年の白い狩衣が、まるで太陽の光を受けて金色に輝くようにその色と形を変じた。

「あれは――」

 眩しさに目をすがめながら小春が見たのは、氏子の子供達から奉納された新しい直衣であった。まるで陽の光のように柔らかな薄黄色の直衣は、白い少年の顔に優しく映えた。

「……ああ、温かいな。世界はこれ程眩しく、温かいものであったか……」

 ふわり、と少年の身体が浮いたと思った次の瞬間、その姿は一匹の銀の龍となった。そして小春と真尋が息を飲んで見つめる中、銀の龍はまるで雲間から射し込む光の河を昇るかのように天を目指し、その身をくねらせた。

「さらば。いずれまた真の龍神としてここへ戻って来るとしよう」

 光を受けて銀の鱗がきらきらと輝く。その煌きは言葉に尽くせぬ程に美しかった。

「……見ろよ、小春」

 真尋の僅かに興奮を滲ませた声に促され、小春は神殿の屋根へと視線を移した。

「……うん。うん、真尋」

 言葉が胸に詰まり、小春はただ頷く事しか出来なかった。小春と真尋が見上げる先、神殿の屋根の上には銀の龍よりも一回り大きな白龍がいた。白龍はほんの一瞬だけ小春と真尋へその金色の瞳を向けると、天へと向かう銀の龍を追うように自身も大きく身をくねらせると一息に天へ昇っていく。

 何故か小春はあの僅かな一瞬、白龍が自分達に「ありがとう」と礼を言ったように思えた。胸の奥底からじんわりと感謝の念が温かさをもって小春を包み込むのを感じる。

 どうやら真尋も同じ事を感じているらしく、二人は目を見合わせると、どちらからともなく微笑み合い、光の河を昇っていく二匹の龍を共に見上げた。やがて雲の高さに至り白龍が銀の龍に追いつくと、二匹は絡み合うように螺旋を描き、更に天高く昇っていく。

 その瞬間、まるで二匹の龍が生む螺旋が空一面を覆っていた分厚い雲を吹き飛ばしたかのように、目の前には美しい茜色の夕焼け空が一瞬にして広がった。

 その光景にしばらくは声も無く魅入っていた小春と真尋だったが、やがてどちらともなくぽつりと呟く。

「……行っちゃったね」

「――ああ」

「綺麗だったね、銀の龍」

「そうだな」

「本当に、真尋の言った通りだった」

 真尋は首をひねる。

『神様にお願い事をする時も人に何かを頼む時と同じで、きちんと挨拶をして、「お願いします」と頭を下げて頼む。そして自分の願い事だけを押し付けるんじゃなく、神様にも感謝の気持ちを伝える。そうした気持ちでお参りすれば、神様の耳にきちんと皆の声は届くと思う』

 子供達に向かってそう言ったのは、確かに真尋だった。そしてその言葉は、たった今正しかったのだと証明されたのだ。

「私ね、真尋の言ったように、心を込めて龍神様に舞を通じて気持ちを伝えたんだよ。そうしたら、龍神様にその気持ちが伝わったんだよ」

「……そうか」

 真尋は短くそう言うと、柔らかく微笑んだ。

 そうしてしばらくの間しみじみと天を見上げていた小春だったが、ふと我に返り自分が真尋と密着している事に思い至ると大慌で身体を離そうとした。

「ま、真尋っ、どさくさに紛れていつまでくっついてんの!」

 顔を赤くして腕を突っ張る小春に、真尋はむっとした様子で更に腕に力を込めた。これでは離れるどころか余計に密着してしまう。

「ちょ、真尋!?もう大丈夫なんだけど!」

 突然頭一つ分は上にあった真尋の顔が、小春の肩口に押し付けられ、小春は飛び上がりそうに驚いた。わたわたと一人焦っていると、ぼそりと真尋が呟く。

「……心配ぐらいさせろよ。お前、ほんと鈍感なくせに、一人で突っ走りやがって。俺がどんだけ冷や汗流してたと思ってるんだ」

「え。そんなの流してた? 涼しい顔して笛吹いてただけじゃない」

「お前なぁ!」

 顔を上げた真尋とばちっと目が合う。

「な、何よ、やる気?」

 小春が思わず構えると、真尋ははあ、とこれ見よがしに大きな溜息をついた。

「超が付く鈍感の上にお子様かよ……」

 真尋の反応からさすがに自分の言動の子供っぽさを自覚して、小春は自己嫌悪に陥る。

「俺が何の為に大学で神学を専攻したと思ってるんだ。……いいか小春。俺が大学卒業してこっちに帰って来るまで、妙なモノに引っ掛からずにおとなしく待ってろよ?」

「……何でわざわざ私が真尋の卒業を待ってなきゃなんないの」

 真顔で首を捻る小春に、真尋がたじろいだように僅かに目を逸らしぼそっと言った。

「……それ位自分で考えろ。言っとくけど俺が卒業してこっちに帰って来たら、お前には舞巫女は引退してもらうからな」

 言葉の意味を理解するのにたっぷり十数秒をかけ、小春は次の瞬間耳まで真っ赤になった。

「な、引退!?……っていうか! 私の気持ちとか意思とかって、確認なしなわけ!?」

 舞巫女は男性と交わった時点で巫女の資格を失う。だから恋人が出来れば照子に報告しなくてはならないという約束だった。

 つまり真尋は、小春をそういう対象として扱うと宣言したのだ。

(ちょ、ちょっと待ってよ! そんな気配なんて全然なかったじゃない! 第一私達って、そういう恋愛のれの字もないような関係だったじゃないのよ~~~~っ!)

 餌を求めて水面から顔を出した鯉のように、小春は口をぱくぱくさせた。

「お前だって俺の気持ちなんか知らなかっただろうが。だいたい俺以外の奴に小春みたいな性質の人間の面倒なんか見れるかよ」

 いささか怒ったような顔で真尋が言い切る。

「私みたいなって。どういう性質よ!」

「そうやって自分で気付いてないところが超絶鈍感女だっつーの。……お前、人外のモノに好かれる性質だって自覚ないだろ?」

「人外のモノ?」

 言われて小春は一連の出来事を思い返す。氏子だと思っていた老人二人が神使であったり、風変わりな少年だと思っていた相手は龍神であったり。思わず指を折って数えた小春の右手の中指を、真尋が強引に手を添えて折った。

「ひとつ忘れてるぞ。最後にお前が龍童舞を舞った時、巫女装束の女がお前と一緒に舞っていた」

(――あ、やっぱり)

 あれは目の錯覚ではなかったのだ。きっと最初に龍童舞を舞った舞巫女が、小春を通じて龍神に言葉を伝えたのだろう。

「……でもさ。それって好かれてるっていうより、都合のいいようにこき使われてるって言うんじゃないの?」

 小春は口にしてから後悔した。案の定真尋がにんまりとして言い放つ。

「そうとも言うな。多少の自覚はあるのか」

 小春はムカっとして睨み返すが、そんな小春の頭をぽんぽんとあやすように叩くと真尋は真顔で言った。

「ごちゃごちゃ考えてないで、お前は俺だけに好かれてりゃいいんだよ」

 分かったか、と顔を覗き込む真尋に、とうとう小春の思考回路が焼き切れる。

(そ、それは反則―っ……!)

「ははっ、お前茹でダコみたいに真っ赤だな!」

 恥ずかしくて背けた顔を、無理矢理正面に向かされた小春がしどろもどろにもがくのもお構いなしに、真尋が更に笑いながら顔を覗き込む。茹でダコで悪かったわね、と言い返そうとして自分を覗き込む真尋と真正面から視線が絡む。思わず小春は言葉を飲み込んだ。

「……それとも、俺じゃ役不足か?」

 真顔で問われ、気付けば思わず首を左右に振っていた。小春は恥ずかしさのあまり真尋の視線を受け止められず目を伏せた。まるでそれを待っていたかのように真尋の顔がゆっくりと近づいて来る。堪らず小春は目を閉じた。甘い期待に心臓が早鐘のように鼓動を刻む。

「――あー、ごほんごほんっ! ……いやあ、雨が止んでほんと良かったなあ宮恵!」

 突然背後から光尋の声がした。わざとらしい咳払いに、はっと小春と真尋が身を離す。

「え、ええ光尋さん。よかったわ、本当」

 二人同時に振り向けば、境内へと続く小道に光尋と宮恵をはじめ、照子や氏子達がにやにやとして二人を見ていた。

(みみみ、見られてたーっ!?)

 いつから見られていたのだろうか。小春の顔から、さーっと血の気が引いた。

「あの大雨で、今年の神楽囃子奉納はもう無理かと思ってたがなあ」

「そうそう。真尋君はいつの間にか居なくなるわ、そうかと思えば姿は無いのに笛の音だけが聞こえて来るわ。これぞ龍神様のお導きかと慌てて太鼓と銅拍子を合わせたんだが」

「まさかこんな所で二人の逢引の現場を目撃するとは、夢にも思わんだなあ」

 氏子の男衆が意味ありげな笑みを口元に貼り付けて、口々にはやし立てるものだから、小春は顔を上げている事ができなかった。

「まあまあ、若い人達はいいわよねえ」

 照子がご機嫌で隣に立つ氏子総代の肩をばしりと叩いた。

「もてないと思っていた息子にも、いいお嫁さんが来てくれそうだわ~」

 小春は皆にからかわれ、一人赤くなったり青くなったりを繰り返した。

「照子さんそりゃまだ気が早いだろ。小春ちゃんは器量よしだから、他の若い奴らが黙っちゃいないさ」

「おいおい真尋君、こりゃあおちおち東京に行ってられないな!」

 わはははは、と男達の間から大きな笑い声が起こる。いたたまれなくなって小春はそっと上目遣いに真尋を見た。この時ばかりは真尋も普段の仏頂面を返上し、てっきり自分と同じように慌てふためいているものと思ったが、それは全くの間違いだった。真尋は小春が見た事もない位の清々しい微笑みを浮かべ、言ったのだった。

「ええ。そういう訳で今後小春にちょっかい掛ける奴には、衣咲神社の面子にかけて、遠慮なく怨霊をけしかける事にします」

(ななな、何言うのよ! 真尋の馬鹿!)

 余りの事に小春は卒倒しそうになった。冗談のつもりなのか、はたまた本気なのか。一瞬にして全員が笑いを引っ込めた。

「うわぁ、真尋。その発言、引くわマジで」

 光尋はそう言うと顔を引き攣らせたが、照子はそんな光尋とは対照的に、よくやったとばかりに真尋に頷き返している。

(な、何なのこの妙な展開は!)

 目の前で繰り広げられている笑えないてんやわんやのドタバタ劇に、小春は自分も今すぐに龍になって、天へ昇りたいと真剣に思ったのだった。


 その夜、小春は夢を見た。

 それはいつも小春が見ているような、どこか曖昧で辻褄の合わないたわいもないような夢ではなく、いつになく鮮明に細部までがはっきりとしたような夢だった。

 けれど夢の中で小春はただの傍観者だった。小春はただ、目の前で起こる事を、見ているしかできないのだった。


「ねえ、あなたこの頃随分疲れているようよ?」

 川べりの岩に腰かけ、流れる水をぼんやりと見ていた童は、そんな声に顔を上げた。

 童はもう、十歳の子供ではなかった。龍になる為だけにその身を捧げた、人としての生は遥か昔に終えていた。

「疲れてなどいない。ただ、身体が思うように動かぬだけだ」

 そう声を出すのも億劫だったが、童――今は十四、五歳程の歳に見える少年の姿をしている――は、それを押し隠すように背後の人物を振り返った。

「あなたが見掛け通りの少年ではない事は私もわかっているつもりだけど。そんな風に言うなんてまるで爺様のようよ」

 童であった少年のすぐ後ろには、笑いを含んだ大きな目を輝かせた少女が立っていた。

 少女は花の蕾がほころび始めるような年頃で、若鹿のようにしなやかな身体を質素な布で織られた巫女装束に包んでいる。

「実際、私は人の歳にすればとっくに爺様だ。間違いはない」

「またそんな爺むさい事を言う」

「――爺むさいか」

「そうよ、爺むさいわ。この上なく爺むさい」

「………」

 少年は黙って少女を見た。

「……嘘よ、誰もあなたの事を、爺むさいだなんて思っていないわよ。あなたは龍の気高い姿を生き写したように美しい若者だわ。だってあなたは間違いなく、龍神なんだもの」

 少年にじっと見つめられ、少女は僅かに頬を染めると、早口で言った。

「出来損ないではあるがな」

 少年が皮肉を口にすると、少女は怒ったように言い返してきた。

「またそんな風に言う! 神様なら神様らしく、もっと堂々としていればいいのに! ……まあ、あんまり威張り散らされても腹が立つけれど」

 その余りに飾り気ない本音に、龍神である少年も思わず笑い出した。

「笑い事じゃないのよ! 神様って、ほんとに気難しかったり、厳しかったり大変なのよ。私はまだおばば様のように海千山千の巫女ではないから、余計意地悪されるのよ。だから、あなただけは私に意地悪する神様にはならないで欲しいわ」

 少女はこの付近の村の巫女だった。ある日、村の祠の前に捨てられていた赤子だった少女を、引き取って育てたのは齢八十になる村の大巫女だった。

「安心しろ。私はまだそんな大層なものではない」

 そう言って笑った途端、川べりの岩に腰掛けていた少年の身体がぐらりと揺らいだ。

「危ない!」

 咄嗟に少女が腕を伸ばし、少年の身体を支えた。少女の身体からは、不思議な芳しい香りが仄かに香った。

「……すまぬ」

「ねえ、やっぱりどこか具合が悪いんじゃないの?」

 まだ早春の冷たい水に落ちずには済んだが、少女の追求からはどうやら逃れる事は無理のようだった。

 少年は巫女の少女に肩を借りると、川べりから少し離れた所に建てられた小さな祠へと向かった。それは少年がまだ人間の童であった頃、母の龍の衣を燃やそうとした小屋と同じ場所に建っていた。

「ああ、すまぬ。もう大丈夫だ」

 少女に礼を言うと、少年は祠のそばで腰を下ろした。気遣わしげに少年の顔を覗き込んだ後、少女は身体を離すと少年の正面に腰を下ろした。微かな風に乗って風上に座る少女から、また仄かに香りが流れてくる。

 祠は大きな池の傍にあった。池はあの日、龍女が白龍の姿となって天へ帰った時に出来た物だった。童であった少年が龍になれずこの地に留まった事を悲しみ、龍女が流した涙がこの龍神池と呼ばれる池になったのだと今では言い伝えられていた。

 それが果たして本当の事であるのか、少年は知らなかった。けれど確かにあの出来事のすぐ後にこの池は突然に現れたのだ。

「私、聞いた事があるの。本来ならば天に住む龍は、長く地に留まっていると地上の穢れがその身体を蝕むんだって。おばば様は言ってわ。だから地上に留まる龍は何百年かに一度、長い長い眠りに就かなければ生きていけないのだって。眠って身体に溜った穢れを脱ぎ捨てなければならないって」

 枯れた草しか生えていない地べたに座った少女が、躊躇いがちに言う。少年は黙って聞いていた。

「もしそれが本当なら、あなたにはその眠りが必要なんじゃないかしら」

「長き眠り、と? まるで冬籠りする熊のようだな」

「もう、またそうやって茶化す。今は真剣な話をしているのよ!」

 少女はふくれっ面になって少年を睨んだ。その様子が余りに子供っぽくて、少年は微かに唇の端を緩めた。

「どれだけ眠っていればよいのだ? 十日か。一月、いや一年か?」

 からかうように少年が問えば、少女も首を傾げると、自信なげに言う。

「よくわからないけど、十年も眠ったままなんて事は、さすがにないんじゃないかしら」

 十年。それは龍の身体を手に入れた少年にとってみれば大した時間ではない。けれど人間である少女にとってみれば、人生の長きを占めるに十分な時間だった。

「余り長くは眠るのは困る。私は天へ昇る為に、舞を舞わねばならんからな」

「――ええ、そうね。あなたは天へ昇る為に、ずっと龍の舞を舞っているんですものね」

 少女の大きな目が、悲しげに伏せられた。

「でも安心して。あなたが眠っている間は、あなたに代わって私が舞を舞うわ」

 振り切るように顔を上げ、少女が微笑む。少年は驚き、きょとんとして少女を見た。

「そなたが舞う事とは意味合いが違うと思うが。それは私が舞うからこそ意味をなす」

 少年は訝しむように言ったが、少女はただ黙って微笑むように少年を見つめていた。

 何かがおかしいような気がした。いつもと同じように思えて、何かがいつもと決定的に違う。けれどそれが何かを考えようとすると、頭の中に霞がかかったようにぼうっとなって、上手く考える事ができないのだ。

「――娘、そなた何をした?」

 うまく働かない思考で、それでも少年は自分の身に何かが起こっている事に気付いた。けれど気付いた時にはもう遅く、思考が霞む程に身体からも次第に力が抜けてくる。

「ごめんなさい。おばば様の秘伝の眠り香よ。龍にはよく効くらしいの。こうでもしなければ、あなた絶対に眠らないでしょう?」

 少年はとうとう身体を支えきれず、地面に倒れ込むように体を投げ出す格好になった。

「……この、香り……か」

 もやはそれだけ言うのが精一杯だった。

「眠らないと、龍は生きてはいけないのよ。私はあなたに生きていて欲しい。例え私が生きている間にはもう二度と会えなくても、やっぱり生きていて欲しい。そして立派な龍神になって、天へ昇って欲しいの」

 少女は大きな目にいっぱいの涙を溜めていた。

「私、あなたの舞っている姿がとても美しくて好きだった。お母様を思って一心に舞う姿に、自分自身の心を重ねていたのよ。私も母を知らないから」

 少女の声が、まるで子守唄のように遠く近く聞こえる。

「次にあなたが目覚めるまでは、私が心を込めて舞を舞うわ。あなたがいつか天へ昇れますようにと。私の命で足りないなら、私の跡を継ぐ者に、それでも足りなければその次の代の者に、それを託しましょう―――」

 意識を手放す寸前、少女はそう言うと、ほころんだ花のように綺麗に微笑んだ。

 

 ―――小春が覚えているのはそれだけだった。けれどその夢が一体何であるかは、小春にはわかっていた。


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