第2話 弐

弐 雨夜星【あまよのほし】


 夕方からの龍童舞の練習は濡れてしまった巫女装束ではなく、朝から小春が身に着けてきた普段着で行われた。けれど普段着での練習は巫女装束とは何だか勝手が違い、小春は上手く気持ちを込める事ができないまま、その日の練習を終えた。

 その後の夕食も何となく真尋と言葉を交わす機会がないままで、折角の栄寿司の特上握りも味気なく感じた。

「それじゃ遅くまでお邪魔しました」

 玄関脇に空になった寿司桶が五つ積み上げられる頃、小春は靴に足を突っ込みながら挨拶した。さすがに夜の九時ともなれば辺りは真っ暗だ。鎮守の森に囲まれた神社はすっかり闇に沈み、昼間とは違う顔を見せている。

「悪かったな、遅くまで引き止めて」

 光尋が言い終わるや、真尋はスニーカーを履くと玄関の扉を開けた。

「ちょっと送ってくる」

「気をつけてね」

 照子と宮恵も玄関まで見送ってくれる。頷いて小春は先に外へ出た真尋の背中を追った。

梅雨間近の夜の空気は、暑くはないが肌に纏わり付くようにじっとりとしていた。未舗装の小道や鎮守の森の木々が、一層湿度を上げているように感じる。

 真尋は何も話し掛けて来ない。黙々と、それでも歩調だけは小春に合わせゆっくりと数歩前を歩いている。相変らず気詰まりで、神社の境内を歩きながら何か話し掛けるべきだろうか、と小春が思い始めた頃、不意に真尋が立ち止まった。小春もつられて立ち止まる。

「……早く追い着けよ。送ってんだから、黙って前後に並んで歩いてるのって変だろ」

 呆れたように真尋が振り返った。

「――確かに」

 小春は真尋から話し掛けてくれた事にほっとした。小春が急いで隣に追い着くのを待って、真尋は歩き出す。しかし境内を通り過ぎ、羽虫の飛び回る蛍光灯に照らされた階段を下りた所で、再び真尋が足を止めた。

 突然立ち止まった真尋を小春が見上げると、真尋はくすりと微かに笑う。

「……そういやお前、ガキん時この前を通るの、異常に嫌がったよな」

 笑う真尋の視線の先には、衣咲神社の縁起が記された由来板があった。小春は子供の頃、この由来板に書かれている絵が怖くて、前を通る時には必ず顔を背けて走り過ぎていた。

「それいつの話よ。今はそんなの平気に決まってるじゃない」

 小春はわざと由来板に目を遣ってから真尋の顔を見る。小学生の頃にあれ程怖いと感じた絵は、今はただ物悲しい絵にしか見えなかった。

 真尋は「へえ」とからかうような顔で小春を見る。そしらん顔でつんとそっぽを向く小春に真尋は小さく笑った。つられて小春も笑う。

「……でも正直なところ、一体何が怖かったのかって、今なら思う」

「龍神の絵だったな、小春が怖がったのは」

「うん。般若みたいな顔に見えたっけ、あの頃は。薄暗い中にそんな恐ろしい顔の絵があるんだもん、絶対怖いわよ! ……まあ小学生にとったら、だけどね」

 小春は顔をしかめてみせた。

 二人の視線の先にある由来板には、次のような内容が記されていた。


『大昔、この辺りは旱魃が続く貧しい土地であった。

ある年、未曾有の旱魃に襲われた付近の村は、雨乞いの祈祷師の男を招いた。男は干上がった川の前で三日三晩祈り、とうとう四日目の朝、村の巫女に神遊びの舞を舞わせた所、晴れ渡った空が俄かにかき曇ったかと思うと、激しい落雷と共に白龍の姿をした龍女が現れ雨を降らせた。

そうして村は龍女のもたらす雨に救われた。

ところが一方、龍女が現れた折の落雷により、運悪く村の巫女が命を落としてしまった。

巫女を憐れと思った雨乞いの男と村人は、龍女に巫女を生き返らせて欲しいと願ったところ、龍女はその願いを聞き入れ、自らが巫女の身体に宿る事でそれを生き返らせた。

そして龍女が巫女の身体に宿ってからというもの、貧しかった村は水の恵み豊かな土地となった。

また、巫女に宿る際に龍女が脱ぎ捨てた龍の皮は、見事な美しい衣となり、生き返った巫女はその衣を「龍の衣」と呼び大事にしたという』


「これがこの衣咲神社の主祭神である龍女の伝説なんだよね」

 昔何度も暗記する程に読んだ由来板の文章を、小春が目で追い言った。

「ああ。まあそこで話が終われば、めでたしめでたし、だったんだけどな」

「うん、私もここを通るたびに怖い思いをしないで済んだんだけど」

 小春は由来板を見る真尋の横顔を見上げる。

 縁起話はここでは終わらなかった。由来板には更に続きがあるのだ。

「村に住む事を許された祈祷師と、龍女を宿した巫女はやがて愛し合い夫婦になって、数年後には男の子が生まれるんだよね?」

 真尋が頷く。

「でもその子が成長するにつれ、今度は長雨が続き、作物は根を腐らせ育たなくなった」

 真尋の声は湿気を含んだ夜風に乗り、闇に沈む鎮守の森へと吸い込まれていく。その深い闇に追い立てられるように真尋が再び歩き出した。

小春は既に覚えてしまった由来板の続きを思い返しながら、その隣を歩いた。


『長雨が続くある夜、巫女は夢を見た。

白龍の姿をした龍女が巫女の夢枕に立ち、長雨の原因が何であるかを告げたのだ。

翌朝目覚めた巫女は、祈祷師の男に夢のお告げの話を聞かせたところ、祈祷師も昨夜同じ夢を見たと言う。そしてこの不思議な夢を、二人は真実であると認める他はなかった』


「結局村に降り続いた長雨の原因は、巫女と祈祷師の子供にあったんだよね」

「ああ。巫女には龍女が宿っていた。そしてその龍の性質は、そのまま巫女の胎内で育った子供に受け継がれていたんだ。ただし半分だけ。子供は半人半龍だった。その半端な龍としての力が、元々あまり雨の降らなかったこの土地に、豊かに雨を降らせていた龍女の力に影響を与えたんだ」

 真尋は小春の歩調に合わせ、歩く速度を緩めた。

「半分ずつって良いとこ取りみたいに思えるけど、この場合はあまりいい結果にはならなかったんだね」

「まあ違うものが二つ混じり合えば、半分ずつに薄まるのは仕方ない事だけどな。で、龍神の力が半分に薄まったとはいえ、その力を持つのは人間の子供だ。そんなの制御できるはずはないさ」

 境内から続く階段を下りて、鳥居まで続く参道をゆっくりと二人は並んで歩いた。参道に敷かれた玉砂利が、微妙にずれて二人分の足音を響かせる。

「人間が神様の力を操るって事だもんね。ちょっとやそっとでは無理だよ。でもさ、巫女と祈祷師は、自分達の子供の持つ不安定な龍神の力が長雨の原因だって事を、夢枕に立った龍女のお告げで知ったけど、もしそれより先に村人が気付いたとしたらどうなってたと思う?」

「まあ、時代的に言って、子供は人柱とかにされてたんだろうな」

 小春は「う、それは嫌だなぁ」と顔をしかめた。けれど昔はそういう事が行われていたと、小春も聞いた事があった。

「巫女と祈祷師も、今のお前と同じ事を思ったんだろうな。そうなる前に、巫女に宿った龍女を天に帰して、龍神の力のバランスを取ろうとしたんだからな」

 言い伝えでは、我が子を人柱に差し出す事ができず、巫女は龍女の残した「龍の衣」を纏う事で、我が身に宿った龍女を天に帰したと伝えられている。

「うん、その気持ちはよくわかるけど。でもさ、子供はやっぱりお母さんに傍にいて欲しいと思うよね」

 しんみりとして小春がそう言うと、真尋がふいに小春を覗き込んだ。身長差のせいで、真尋が小春の顔を見ようとすれば自然とそうしなければならない事はわかるが、それでも突然そんな風に覗き込まれると、小春は思わずのけぞってしまいそうになった。

「何だよ、お前もそういう場合、この話の通りに母親の大事にしてる『龍の衣』を隠したり焼いたりして、天へ帰れなくするタイプかよ」

「タ、タイプかどうかはわかんないけど! でも龍の衣を纏ったら、龍女が天に帰るかわりに母親は死んじゃうんだよ? 体に宿った龍女が出て行くんだから、龍女のお陰で命を繋いでた母親はもう生きてけないんだよ? 真尋だって照子おばさんがそんな風にして自分の身代わりになったらどうする? 同じ事を考えない?」

 小春は思わず足を止めて言い返した。

「――もうちょっと違う例えにしてくれ。何か一気に現実が押し寄せてきた……」

 真尋が何故かげんなりとして言った。

「何それ。照子おばさんに言うわよ」

「それだけはやめてくれ。今以上に家で冷遇されるのはさすがに辛い……」

「冷遇って。今は宮恵さんとお腹の赤ちゃんに夢中なだけでしょ。大袈裟なんだから」

 小春の呆れる様子に、真尋は分が悪いと悟ったのかさっさと話題を元に戻した。

「まあ俺の話は置いとくとして。『龍の衣』を持ち出した子供は、結局それを燃やす事はできなかった。普通の衣じゃなかったんだろうしな。……おい小春歩けよ。いつまで経っても家に着かないだろ」

 すっかり立ち話になっている事に気付き、小春は慌てて再び砂利の音を響かせ、歩き出した。

「そこに母親が駆けつけて、焼けなかった『龍の衣』を纏って、龍女を天に帰した。子供を守る為に死ぬって、凄い勇気だと思う。でも、自分の子供がそこまでしたら、お母さんも辛いよね。そんな子供を残していくんだもん」

「それが結局子供を守る事だって、わかってたんだからできたんだよ」

「だけど自分を守る為に母親が死ぬって知った子供は……救われないよ」

「じゃあ小春はどうするのが最善だったと思うんだ」

 真尋に問われ、小春は思わず口ごもった。どんな答えを選ぼうと、結末は決して大団円ではなかったからだ。

「その子供の悲劇は、母親の巫女が死んだ事だけじゃなくて、同時にもう一人の母親の龍女も一度に失った事だろうな」

 答えに詰まった小春を見かねてか、真尋は話の矛先を変えた。

「龍女は天へ帰る時に、母を失って嘆く子に龍になって天へ共に昇ろうって言うんだ。だけど半人半龍の子供には、それができなかった。結局龍女も子供を置いて、一人で天へ帰るしかなかった」

「何だかやりきれないね。子供にとって、どこにも救いがない分つらいよ」

 小春は小さく溜息をついた。

「『やがて子供は死して人の肉体を脱ぎ捨て龍となるが、生前の母への執着の強さ故に天に昇る事ができず、祠の裏の池に住み着いたのだという』か」

 不意に真尋が由来板の最後の一文を口ずさんだ。

「この辺りの土地は、そういう悲劇の上に成り立ってるってことだな。その後、祈祷師の男が巫女の最後の地であり、龍女が天に帰った場所に祠を建てた。それが衣咲神社のあるこの場所だっていうんだからな」

 小春は真尋の言葉に頷いた。気付けばいつの間にか神社の鳥居の前まで来ていた。

「そしてその話に出てくる龍の衣が、この衣咲神社の名前の由来であり御神体だ」

 真尋の言葉通り、確かに神殿には龍の衣の一部だという御神体が収められていた。一度目にする機会があったが、小春には「黒くて薄っぺらい何か」にしか見えなかった。けれどそれが黒いのは、龍神が衣を焼いた跡だと思うと鳥肌が立つような感覚を覚える。

「神社裏の龍神池はもう無くなったけど、龍神様は今もこの地に居るのかな」

 小春は自分でも妙に感傷的な事を言っている自覚はあったが、真尋は笑わずに夜空を見上げた。

「……さあな。でも――だからこそお前が舞うんだろ」

 遠回しではあったけれど、真尋が龍童舞の事を、舞巫女としての小春の事を言っているのがわかった。

 龍神が住み着いたという龍神池は、はるか昔の合戦の折に埋め立てられたと聞く。池があったとされるその畔には龍神を祭る小さな祠が建てられ、今も草むらの中にぽつんと古びた祠が残っている。後の世の衣咲神社の宮司の手により、境内に摂社である若宮神社が建てられ、その折に祠から龍神を招いたという記録が残っている。

「――うん。早く天に昇れれば、いいね」

 小春は夜空を見上げた。

 きらきらと瞬く星達は、小春に龍の鱗の輝きを思い起こさせた。


   *****

「なんで……、どうして!」

 童はまじないの言葉のように、同じ言葉を繰り返す事しかできなかった。

「燃えろ、燃えろ、燃えろ!」

 気が狂ったように両手の火打石を打ち合わせるけれど、目の前の煌めくような美しい衣には、一向に火が着かないのだ。念入りに油まで撒いたというのに。

「何でだよ、何で火が着かないんだ! このっ、このっ!」

 くすぶるように一瞬火の手が上がったかと思うと、童の必死さを嘲笑うかのように小さな炎はすぐさま消え去ってしまう。

「……この雨のせいだ……!」

 童は手にした火打石を取り落すと、空を振り仰いだ。

 そこは屋根が半分崩れ落ちた、粗末な小屋だった。童の立つ場所からは、どす黒く厚い雨雲が低く垂れこめているのが見える。その雲から無数の雨粒が次々と落ちてきては、童の白い顔を打った。

「なんで邪魔するんだ」

 半ば廃屋と化した小屋から天を睨み、童は呟く。

「この衣さえ無くなれば、龍女様は天へ帰れないのに……!」

 童は知っていた。母がこの龍の衣を纏う時、その身に宿る龍女が再び現れ天へと帰る事を。龍の衣は、天の羽衣である事を。

 母はいつも、子守唄代わりにそれを童に語って聞かせていた。だから童は両親の目を盗み、龍の衣を盗み出したのだ。

 村を悩ませる長雨の原因が自分にあることは、何となく童にはわかっていた。童は自分の身の内に、自分でもどうしようもない得体のしれないものが存在するのを知っていたからだ。それはまるで大雨の後の川の水のように自らの意のままにならず、ただ激しく身の内で暴れまわるばかりなのだ。

『このまま雨が続けば、川が氾濫してしまうだろう。そうなれば被害はとんでもないものになってしまう』

 数日前に村の大人達が集まって、そんな話をしていた。

『その前に、立てねばならんかもしれん。……人柱を』

 苦々しく口火を切ったのは、村長だったか。

『けれど柱になど誰が――』

 大人達の話は、急に囁くような小声になり、童達子供の耳には届かなくなった。

 そんな話をあちこちで耳にするようになってから、父と母は塞ぎ込むようになったのだ。そしてついに一昨日の夜、二人は龍女様を天へ帰す決心をしたのだった。

 龍女が天へ帰るという事は、すなわち巫女の死を意味した。それが分からない童ではない。だからこうして龍の衣を持ち出したというのに。

「……嫌だ……嫌だ、絶対に帰さない!」

 童は絞り出すように言うと、再び火打石を取り上げると、何度も何度もそれをぶつけ合わせた。石を持つ手が痛んでも、擦れて血が滲んでも、それでも童は止めなかった。

   *****


 龍童舞の練習が始まり二週間が過ぎた。

 既に梅雨入りし、毎日じとじととした雨が降り続き、あらゆる物が湿気を含み不快指数を高めている。小春が家を出た時には小雨であった雨も、衣咲神社の石造りの鳥居が見える頃には本格的な雨に変わっていた。

 参道に張り出した木々の梢から滴り落ち、不規則に傘を鳴らす雨粒は思いの他大きな音をたて、小春から砂利を踏む足音と雨音以外の物音を消し去る。空を覆う黒くて厚い雲は、辺りを今が朝なのか昼なのか、はたまた夕方なのか定かでない薄闇に閉じ込めていた。

 上段から流れてくる雨水を避けながら参道の階段を上るにつれ、その向こうに境内が見え始める。小春が階段の三分の二を上り終える頃には、境内のほぼ全体が見渡せた。

「――あ」

 小春は階段を上りきった所で足を止めた。視線の先に傘も差さず雨の中で凛として立つ少年の姿を見付けたのだ。

 少年は今日も一目で上等とわかる白い絹であつらえた装束を身に着けていた。雨のせいで薄暗く陰鬱に見える境内の中で、少年の白い衣装は輝くばかりに浮きだって見える。更に少年のきりりとした容姿が、人を寄せ付けない空気を醸し出しているようだった。

(綺麗な子……)

 小春は神々しささえ感じさせるその光景に我知らず見入ってしまっていたが、不意に傘を叩いた雨粒の音にはっと我に返る。

(いけない、見惚れてる場合じゃなくて、今は傘よ、傘!)

 いくら温かいとはいえ、本降りの雨にいつまでも濡れていては風邪を引いてしまうだろう。それに高価そうな衣装が台無しになってしまっても大変だ。

 そう思い小春は思わず傘を差しかける為に駆け寄ろうとした。けれどその時、小春の目に信じられない光景が映った。

 少年は静かに舞を舞っていたのだ。左手に青々とした葉を茂らせた榊の枝を持ち、ゆっくりと円を描くように舞う。そうかと思えば右手が緩やかな水の流れを模した動きを繰り返す。

「嘘……」

 呟いて小春は一瞬呼吸を忘れた。

 小春はその舞を知っていた。

 少年が舞っているのは、何故なのか振りが左右逆ではあるが、紛れもない龍童舞なのだ。小春は思わず傘の事も衣装の事も忘れ、駆け出していた。

「ねえっ! それ、ここでは駄目だから!」

 咄嗟に衣装の袖から伸びる少年の腕を掴み、小春は有無を言わさず拝殿の庇の下へと引っ張って行く。ひんやりとした少年の白い腕は妙に細くてしっとりと冷たく、小春は思わず首の後ろの毛が逆立つような感覚を覚えた。けれど今はそんな事に構ってなどいられない。

 ざりざりと砂利を踏む音を響かせ賽銭箱の前まで来ると、小春はつかんでいた腕をようやく放し少年と向かい合った。不思議な事に、少年は小春が思ったよりも、雨に濡れてはいなかった。

「君が誰で、どうしてその舞を舞えるのか知らないけど。それは今、誰が見るか分からないこの場所で舞うべきものじゃないの!」

 雨の音に負けないように小春は僅かに声を張り上げたが、少年はただ無表情に視線を返すばかりだ。

(う、聞く耳持たず状態!)

 悪びれた様子の無い少年に苛立ち、更に言葉を重ねようとした小春だったが、同じような背丈のせいで真正面から自分をまっすぐに射抜く少年の瞳は、小春の次の言葉を喉に貼りつかせ、封じてしまった。

 小春を黙って見つめる少年の虹彩は、光の加減のせいなのか鈍い銀色にも見え、野生の狼の瞳にも似た冴え冴えとした光を宿していた。

 その静かでいながらもどこか威圧感のある眼差しに、小春は注意したのは自分であるはずが何故か自分の方が咎められているようで落ち着かない気がした。

「――舞巫女か」

 不意に少年の妙に赤い唇が開き、高くもなく低くもない、まるで水が流れるような不思議に澄んだ声がそう紡いだ。

「えっ、どうして……」

 小春は驚いた。龍童舞を舞っていた事といい、小春を舞巫女と呼ぶ事といい、彼は一体どうしてそんな事を知っているのだろう。それは決して他言してはならない、女達だけの秘密なのに。

 けれど小春は慌て内心の困惑を隠すと、わざと表情を険しくした。

「……と、とにかく。その舞には決まり事があるんだからそれを破っちゃいけないの!」

「――そうか、悪かった」

 少年は静かに呟いた。別段小春の言葉に気を悪くした様子もない。その人を食ったような態度に再び小春は腹が立った。けれど少年が微かに目を細めて自分を見る仕草に、思わず小春は目を奪われた。

(まさか今のって、笑った?)

 一瞬そう思ったが、確信は持てなかった。それに今は笑い掛けられるような穏やかな場面でもないはずだ。

「――小春。こんな所で雨宿りか?」

 突然背後から声が掛かり、その声に驚いて振り返ると、社務所脇の小道に傘を差した真尋が立っていた。

「あっ、おおおはようっ真尋!」

 小春は真尋の目から少年を隠すように立った。庇う義理は無いが無意識の行動だった。

「ああ。それにしてもよく降るな」

 余程うまく小春の背中に隠れたのか、真尋は全く少年に気付かない様子で近づいて来る。

「え……? ああ、うん。よく降るね。でも私にとったらいつもの事だけど……」

 背後が気になり上の空で小春が返事をすると、真尋はふん、と鼻を鳴らした。

「おい、さっきから何を隠してるんだ。後ろばっかり気にして」

「あっ……!」

 真尋に大股で一気に距離を縮められ、小春は慌てて背後の少年を庇おうと振り向いた。

(――居ない……?)

 背後には誰も居らず、じっとりと湿気を吸った賽銭箱の向こう、拝殿にある祭壇から神殿へ続く階段が見えているだけだった。

「何だ小春。狐につままれたみたいな顔してんなよ」

 小春のすぐ目の前に立った真尋の呆れた声が、虚ろに小春の耳を通り過ぎる。

(嘘っ、この状況でどこに隠れるっていうのよ!?)

 いくら小春が身体で隠したとはいえ、正面から真尋がこちらを見ていたのだ。玉砂利が一面に敷かれた境内は視界が開けていて、そうそう身を隠す場所など無い筈だった。

(ゆ、床下とか? 犬や猫じゃないんだからまさかね?)

 それでもちらと視線を床下へ向けてみるが、真っ白い衣装のまま床下にもぐりこむ事は、多少の覚悟が必要だと思われた。

「お前、まさか」

 小春の挙動不審に何かを勘付いたらしい真尋が、少し乱暴に小春の肩を押し退けその背後に視線を向けた。けれど小春同様何も見付ける事が出来ず、訝しい表情を浮かべる。

「お前って昔から捨て犬とか捨て猫とか、そういうの拾って来るの得意技だったよな?」

「う、否定はしないけど、今は違うもん!」

「どーだかなぁ」

 明らかに怪しむ真尋から慌てて小春は視線を逸らせる。捨て犬や捨て猫を拾うのと、秘密にされている龍童舞を舞う奇妙な少年、そのどちらを隠す方が、真尋は怒るだろうか。

「何も居なかったでしょ? そんな一瞬で消えるなんて、お化けじゃあるまいし!」

 はははと力無く笑い、小春はこの場を誤魔化す事にした。正直に話したところで怒られるのは目に見えていたし、怒られるのはやはり嫌だった。

 真尋は呆れたように深い溜息をつくと、ぼそっと呟いた。

「……何もいないより、犬猫でも居てくれた方がよっぽどマシだっつの」

 その声は実に忌々しそうで、小春は何だか申し訳ないような、それでいて理不尽なような、複雑な気分がした。

「べ、別に私、犬や猫以外は拾って来た覚えなんてないよ」

 思わず反論したが、真尋は何故か表情を固くしてじっと小春を見下ろした。

 その予想外の真尋の反応に戸惑いを覚え、それについて逆に問うべきなのだろうか、と秘かに小春が考えていると、真剣な表情をした真尋に、ぐいと腕を掴まれる。

「えっ、何!?」

 驚いた小春は、上擦った声をあげた。その瞬間小春の腕を掴んでいた真尋の手が微かに震え、所在無げにゆっくりと離れていく。

「ま、真尋……?」

 戸惑いながらも名を呼ぶと、真尋は眉間に皺を寄せて小春を睨んだ。そして大きく一つ息を吐くと、一度引っ込めた手でくしゃりと髪をかき上げた。

「なあ。お前何で舞巫女を続けてるんだ?」

 唐突に尋ねられ、小春は言葉に詰まる。真尋が本来口にしてはいけない話題を口にした、その事実に小春は不安を覚えた。

「えっと、真尋……? その話題は……」

「構うか! お前、自分がおかしな事に巻き込まれてんのに気付いてないし! このまま見て見ぬふりしてたら、小春、お前一体どうなるんだよ!?」

 突然突きつけるように真尋が怒鳴る。その意味はよく分からなかったけれど、真尋の迫力に小春の肩が跳ねた。

「お、おかしな事って、何よ?」

 不安と緊張からどきどきとうるさい鼓動を自分で聞きながら、小春は掠れた声で尋ねた。

「お前の言う『木常』と『辰田』って二人の事もそうだろ!」

「木常さんと辰田さん? べ、別に何もおかしくないじゃない。ただの氏子さんでしょ? 何よ、私が氏子さんの話題をする事が、そんなにおかしいの?」

 小春は先日の失態の事もあって、ムキになって言い返す。

「……お前、そいつらに口止めされてるだろ」

「!」

 予想外の真尋の一言に、思わず小春は馬鹿正直に反応してしまった

「やっぱりそうか」

 真尋は小春の表情から確信したようだ。

(ううっ、またやってしまった……!)

 もうこれで何度目だろう。小春は自分の軽率さが恨めしかった。事実小春は辰田と木常に関して、本人達から口止めされていたのだ。

 小春が初めて二人に会ったのは、前任者の氏子総代の娘から舞巫女を引継いだ年の事だ。

 彼女は翌春から関西の大学へ通う為に一人暮らしを始める予定で、舞巫女を続ける事は出来ないと辞退を申し出た。それで次の舞巫女として小春に白羽の矢が立ったのだ。

 それには小春が神社関係者の親戚であるという事も大いに関係あったが、先代の宮司が子供巫女舞を舞う小春を見て、大層気に入ったのが決め手だった。

 舞巫女の引継ぎが行われ、龍童舞の練習に通う日々の中で、小春はある時から境内で二人の老人を見掛けるようになった。やがて小春は老人達と挨拶を交わす仲になり、世間話をする程に親しくなった。それが木常と辰田だった。

 そして夏の例大祭の当日、境内にある神楽舞台ではなく、神殿裏の龍神池跡にひっそりと設えられた龍童舞の為の舞台の上から、小春は二人の姿を見た。常の質素な衣服とは違い仕立てのいい和服に身を包んだ二人は、まるで一対の狛犬のように堂々と舞台の両脇に控え、龍童舞を舞う小春を見届けたのだ。

(そう、あの日からだ。私が真尋に対しても、言えない秘密を持ったのは――)

 その後例大祭が終わり、後片付けに追われる大人達を尻目に真尋を見つけ出すと、小春は龍童舞の奉納の様子から木常と辰田の事など、自分が見聞きした全ての事を洗いざらい話した。

 それまでも、何度も二人は龍童舞についての秘密を密かに共有していた。だから小春はその時も同じ事をしただけだった。真尋も興奮した顔で、小春の話す秘密を聞いていた。

 やがて後片付けも一段落すると、小春は今は亡き祖父に手を引かれ神社を後にした。境内から続く階段を下りていると、不意に下から階段を上って来た木常と辰田が、すれ違い様に小春の耳元で囁いたのだ。

『我らの事は、誰にも内緒にな』

『特に宮司の小倅どもには話してはいかん』

 祭りの終わった独特の寂しさの漂う境内で、二人の声は不思議な響きを小春の胸に残した。

 それ以来、小春は二人の氏子の老人の話題を、真尋にも誰にも話した事はなかった。もしかしたら口止めされる前に、既に一度真尋に二人の事を話してしまっていた事実が罪悪感となって、小春にその約束を今まで守らせていたのかもしれない。小春は何となく真尋の視線を避けるように視線を泳がせた。

「……お前、ほんと鈍いな!」

 真尋が苛立ちを声に込めて言った。

「な、何よ、鈍いって……」

「小春、お前が氏子のじーさんだって信じてるのは、衣咲神社の……」

―――ざあっ、と突然鎮守の森の木々と御神木の枝を大きく騒がせる風が吹いた。風にあおられた雨粒が、庇の奥深くにまで吹き込み僅かに真尋と小春の足元を濡らした。

「……真尋?」

 小春は突然黙り込んだ真尋を覗き込むが、険しい顔で辺りを睨むばかりだ。更に名前を呼ぶと、ようやく真尋は小春を見た。

「木常さんと辰田さんが何だって言うの?」

 真尋は迷う素振りを見せたが、諦めたように舌打ちし、思いもかけない言葉を口にした。

「――あの二人は、人間じゃない」

 言われた言葉の意味を理解するのに、ゆうに五秒は掛かっただろう。小春はその内容を理解したと同時に盛大に吹き出してしまった。

「真尋、頭大丈夫!?あの二人が人間じゃないなら何? それこそ幽霊とか?」

 からかい半分に小春は真尋の腕を叩いた。

「……幽霊じゃねーよ、もっと質が悪い。あれは『神使しんし』だ」

 真尋が苛立った顔で吐き捨てるように言う。

「しんし? しんし。……『紳士』?」

 頭の中でジェントルメンを想像して、小春は再び吹き出しかけた。

「……お前の想像しそうな事はだいたい分かる。そうじゃなくて神の使いって意味の方な!」

 お前ってマジ腹立つ、と不本意な顔で真尋が説明するのを、小春は他人事のように聞いた。

「神の使い? そんなのが霊感ゼロの私に見える筈ないでしょ。からかってるの?」

「お前はそうでも、俺や兄貴は昔からそういう人間じゃない物の気配を身近に感じながら生活してるんだ、間違えるかよ」

「な、何その人間じゃない物の気配とか、怖い事言わないでよ!」

「ふざけんな、こっちは年がら年中朝から晩までこの神社で過ごしてたんだぞ。人間の気配を感じる方が、よっぽど少なかったさ」

 真尋の言葉の意味を理解した途端、小春の背中を冷たい物が伝うような気がした。

「ちょ、やめてよ真尋。もう一人で神社の中を歩けないじゃない!」

「俺としては是非ともそうして欲しいくらいだけどな。お前って無防備すぎ」

(む、無防備って言われても。見えないものに対してどうやって備えろっていうのよ)

 けれど言われてみれば、小春にも真尋の言葉に思い当たる節があった。昔から真尋達兄弟は、突然申し合わせたように同じ言動を取る事があり、小春はそれを不思議に思っていたのだ。

「……ねえそれって、三人で遊んでたら真尋と光兄ぃの二人だけ同じとこじーって見てたり、私に『ここから先は行っちゃ駄目』とか意地悪言ってた事と関係あったりする?」

 思い切って尋ねてみる。

「意地悪ってお前……、あれはいかにも怪しい気配がある場所だってのに、小春がわざわざ自分から近づくから、兄貴と二人で注意してたんだろ!」

 呆れて脱力する真尋に、今更ながら小春は驚く。今の今まで凡庸な小春は、それがただの二人の意地悪だとしか思ってなかったのだ。

「本当にそんなの分かるんだ、真尋」

「大して何の役にも立たないけどな」

 仏頂面で真尋が呟いた。

 それが本当なら、木常と辰田の話も事実という事になるのだろうか。いや、むしろそれが嘘だったとして、そんな嘘をついて真尋に何の得があると言うのだろう。

 そんな事を思った矢先だった。真尋の肩越しに見える雨脚の強まった境内の奥に、噂の木常と辰田の姿が見えた気がして小春ははっとした。この雨の中を傘も差さず、かといって濡れた様子も無くじっと佇んでこちらを見つめる二人の姿に、冷たいものが背筋を這い上ってくる感覚を覚えた。ゆっくりとこちらへ歩み寄る老人は、いつもの生き生きとした笑顔ではなく、どこか作り物めいて感情の見えない無表情だった。

(二人が人間じゃないなんて嘘だ。こんなにはっきり見えてるし、どう見ても人間だよ)

 小春が心の中で呟くと同時に、近づいて来る二人の足がぴたりと止まった。

(……神使なんて、違うよね?)

 二人に問い掛けるような眼差しを向ける。すると小春の視線の先で、木常が緩慢な動作で前屈みになったかと思うと、くるりと回転するように空中に円を描き、その姿を老人から白い狐に変じた。

 え、と目を疑った次の瞬間には、今度は辰田の曲がった腰が、まるで縁日で売られている飴細工のように円を描いてぐにゃりと伸び、鈍色の小さな龍に変じた。

 余りの事に小春は声も無く、その様を目を見開いて凝視する事しか出来なかった。

(嘘、なにこれ……私の目がおかしいの?)

 やがて白狐に変じた木常が宙を駆り、鈍色の龍に変じた辰田が空中を泳ぐように小春に近づいて来た。その二匹の獣の体は、ほのかに淡い燐光を放ちながら小春の頭上で二度ほど円を描いたかと思うと、瞬く間に彗星のように長く尾を引き何処かへ飛び去って行った。

「……今、二人が居ただろ。気配があった」

 静かな声に小春は意識を現実に引き戻された心地がして、真尋を見上げた。

「――真尋も見たの?」

 うわ言のような小春の問いに、真尋は首を横に振る。

「他のものと違って、その二人を実際に見た事は無い。俺は時折、気配の残り香のようなものを感じるだけだ。多分、巧妙に気配を消してるんだろう」

(そう言えば辰田さんと木常さんを見掛ける時って、たいてい周りに他の誰も居ないような気がする……)

 今更ながらそんな事に気が付いた自分が間抜けに思えた。けれどこれで真尋の言っていた事がどうやら本当の事だと証明されたのだ。

「何か今ね、木常さんと辰田さんが、白狐と灰色の龍になって飛んで行ったんだよ」

 まだ自分が見た物が信じられなかった。さっきまで信じていた現実が現実ではなく、嘘のような出来事が嘘ではないのだ。

「気配からして木常は『狐』、末社の稲荷社の使いで、辰田は『龍』、龍女の使いだろ」

 小春の視線を辿るように境内を振り返りながら真尋が言う。

「狐に龍……あ、はは……。神様のお使いかぁ。そっか、だから木常さんと辰田さんは、龍童舞の奉納に立ち会えたんだね」

 まんまネーミングだ、と小春は妙に納得して力無く笑ったが、真尋は笑わなかった。

「……お前は単純でいいよな」

「う、単純で悪かったわね」

 溜息混じりに呆れられ、小春はむっとする。別に小春だって平気でそれを鵜呑みにできる程、無神経でも能天気でもない。ただ余りの事に思考回路が振り切れてしまったのだ。

「考えてみろよ。末社の稲荷社は、龍神の母親である巫女が龍女を宿す以前に、稲荷神を祭っていた縁でここに祭られてるんだぜ」

「え、初耳。そうなんだ? お稲荷様ってだいたいどこの神社でも祭ってある所が多いから、そんなものだって思ってたけど……」

「違ぇよ。ちゃんといちいち意味があるんだ。巫女の祭ってた稲荷神が、何で龍神を慰める為の龍童舞と関係してくるんだよ? それに辰田を名乗った神使の龍も、多分龍神じゃなくて母親の龍女の使いだろ。天に昇れない龍神が神使を従えてるなんて考えられないしな。こっちも何で母親である龍女が直接龍童舞に関わってくるのか引っ掛かるし」

 言って真尋が何かを考え込む。

「……全然話が見えてこないよ、真尋」

 小春には真尋が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。稲荷神だろうが龍神だろうが神様は神様だし、辰田が龍女の使いであろうと龍神の使いであろうと、親子であるからには小春には大した差は無いように思えるが真尋には違うらしい。

「小春。お前みたいな奴を世間では能天気って呼ぶって知ってるか」

「誰が能天気よ! 真尋の方こそぶっきら棒の朴念仁のくせに」

「お前は俺の母親か。顔を合わせる度に母さんに同じ事を言われてる俺の身にもなれ」

 思わず小春は吹き出しかけた。それにつられるように、真尋も僅かに表情を和らげた。

「……まあでも確かに神様が何を考えてるかなんて、人間の俺達には計り知れないって事なのかもな」

 真尋の言葉に小春は肩をすくめてみせる。

「一人で悩んで一人で完結しないでよ」

 呆れる小春をちらっと一瞥した真尋は

「―――ああ、雨が止んだな……」

静かに重い雲の立ちこめる天を見上げ呟いた。


   *****

 これは果たして現実に起こった事なのだろうか。童は何度も心の中でそう繰り返した。

 目の前には、この世のどんな豪華な衣よりも美しい衣を纏った、童の母であった女が倒れていた。

 女はぴくりとも動かなかった。まるで打ち捨てられたかのような女の肉体に、身に纏ったこの世に二つとない龍の衣のきらびやかさは、何の皮肉だろうか。

『坊、坊や。この母の為に、愚かな真似はしないでおくれ』

 そう言って油と煤に汚れた龍の衣を、躊躇いもなく身に纏った母の姿が、今も童の目に焼き付いていた。

 どのようにして気付いたものか、母はこの村の外れにある小屋を探し当てたのだ。そして衣を燃やす事ができず途方に暮れていた童を優しく一度だけその胸に抱き、それから身の内に宿る龍女を解き放つ為に衣を纏った。母がまるで矢に射られた鳥のように力なく地に落ちるのを、童はただ見ている事しかできなかった。

 あれからどれ位時が過ぎたのだろうか。命の抜け落ちた母の肉体を目の前にして、頭の中のどこかが壊れてしまったかのように、童は何も考える事ができないままであった。

「……かか様?」

 ようやく絞り出すようにして呼んだ声は、掠れていてとても自分の喉から出た音とは思えなかった。

 童は何故こんな事になってしまったのかわからなかった。母を失いたくない一心で龍の衣を持ち出し、身に纏う事ができないようにと火を着けた。けれども僅かに焦げ跡を作っただけで、ついに衣が燃える事はなかった。 

「かか様……!」

 童は自分の足元に転がる、物言わぬ母をもう一度呼んだ。けれどやはり応えが返る事も、その目が再び童を見る事もなかった。

「何があったのだ!?」

 背後でただの破れ板のような粗末な小屋の扉が開き、息を切らせた男が飛び込んできた。男は童の父親だった。

「……これは……」

 男は小屋の中の状況を見るなり、言葉を失った。

「――とと様、かか様が……」

 童は縋るような目で父を見た。父である男は長い間言葉もなく、変わり果てた元は巫女であった者と童を見ていたが、やがて深々と眉間に皺を寄せ、言った。

「そうか、かか様は龍の衣を纏ったのだな」

 その目には深い悲しみがあった。しかし父である男は、己の悲しみを心の奥底へ押しやり、呆然と立ちすくむ童の前で膝を折ると、目線を同じくして言った。

「坊よ、よく聞け。かか様は龍女様を天へお帰しする為に、その命を返上したのだ」

 そんな事は童にはわかっていた。けれどそんな事実は何の慰めにもならないのだ。

「この長雨を終わらせる為にかか様は――」

「――人柱……」

 父の言葉など童の耳に入らなかった。絞り出すような童の一言に、ぎょっとしたように男が言葉を途切らせる。

「この雨を降らせているのは、本当はぼくなんでしょう、とと様。ぼくを人柱にと、村の人達は――」

「馬鹿な事を言うものではない!」

 童の言葉を遮り、男は叩きつけるように言った。

「……でも本当の事でしょう? ぼくは知っているよ。だからかか様が、ぼくの代わりに――」

 声が震えた。口の中がカラカラに乾き、舌が思うように動かない。見る間に童の目に涙が盛り上がり、次々と頬を伝って顎先から雫を落とす。

 堪らず男は童の頭を胸に引き寄せた。その衣の胸元を、童の涙が濡らしていく。

「かか様はお前に生きて欲しかったのだ。坊よ、かか様の死を悲しんではいけない。かか様の命は本来ならば一度失くしたものだ。それを龍女様の情けで思いがけず長らえられた。そのお陰でわしらは坊という得難い宝を儲けられたのだから、何を悲しむことがある」

 それが本心でない事は、微かに震えるその身体から伝わってくる。それがまた悲しくて、童の涙は次々と溢れ出た。小屋の外からは、微かな雷鳴が繰り返し聞こえている。

 童にとって雷鳴は、他の子供達のように恐ろしいものではなかった。まるで母の鼓動のように、子守唄のように、童の心を落ち着かせてくれるのだ。

 けれどこの時ばかりは違った。雷鳴が徐々に近づいて来るのを、まるで何か恐ろしいものがやって来るような気持ちで童は聞いていた。

 ごろごろと不穏な音が次第に大きくなり、小屋の破れた屋根からはひっきりなしに稲光が走るのが見え、その青白い閃光が小屋の中を照らし出す。

 ガラガラガラッ……!!

 ドシャン!と、とてつもない大きな音が地面を揺るがすと同時に、目も眩むような稲光に視界が奪われる。

 堪らず目を瞑った親子が次に目を開いた時には、既に母の姿は小屋のどこにも無かった。そして母が倒れていたその同じ場所に、一匹の大きな白龍がいた。

「……龍女様……!」

 男が驚きながらも恭しくその名を口にした。童は涙を袖口で乱暴に拭うと、白く輝く鱗で覆われた龍を見上げた。

 初めて見るはずなのに、童は何故かその神々しい神獣が懐かしく、慕わしく思えた。

(この方は――母上様だ)

 誰に教えられた訳でもなく、童には目の前の龍女がもう一人の母親である事がわかった。巫女のように血肉を分けた母子ではないが、間違いなく魂を分け合った存在である事は疑いようもなかった。

「母上様。どうか、かか様を返して下さい」

 気付くと童はそう哀願していた。父である男がはっと息を飲むのが伝わってくる。

「どうか、どうか、かか様をぼくから奪わないで下さい!」

 涙で濡れた黒い瞳がまっすぐに白龍を見る。

 童の視線の先に佇む白龍の口が、人のように動き人語を紡ぐ事はなかったが、突然頭の中に直接語りかけるような声がして、童はひどく驚いた。

『それはかなわぬ。巫女の命は返上された。そしてこれから先も、巫女の魂は二度と新たな生を受ける事はかなわぬ。それが神の力をもって蘇った者の負う定めだ」

 低く落ち着いていて、威厳の感じられる声だった。童は信じられない思いで、その言葉を聞いた。もう二度と母は戻ってこないのだと、絶望の淵で童は悟った。

 その事実は新たな涙をとめどなく溢れさせ、童の頬に幾筋もの涙の跡を描いた。

『泣くでない、我が子よ。その身体を我が身に宿しこそせなんだが、そなたはまごうことなく我が魂と力を継いだ子だ。そなたにそのように泣かれると、我が心も悲しみで塞いでしまう』

 白龍の金に輝く眼が、悲しげに曇る。

「かか様に会いたいのです……!」

 童はいやいやをするように頭を振ると、わっと泣き崩れた。

『我が子よ……』

 しばらくの間、黙って泣き崩れる童を見ていた白龍だったが、やがて意を決したように童を呼んだ。

『この地上では再び母親と会いまみえる事はできぬが、私について龍となり、天へ昇るならばあるいは母と再び会う事が叶うやもしれぬ……』

 その言葉に声を枯らして泣いていた童が、嗚咽を堪えて顔を上げる。真っ赤になった目がその言葉の真偽を見極めようとするかのように、ひたと白龍に据えられる。

『――どうじゃ、そなたの真の姿である龍に変化し、共に天へ昇るか』

 その問い掛けに、「是」以外の答えなど童は持ち合わせてはいなかった。

「共に、参りとうございます」

 大きく頷いて、童は決意の籠った瞳で白龍を見上げた。

「坊よ、行ってしまうのか。かか様はお前を龍神にする為に、龍の衣を纏ったのではないぞ……!」

 父の悲しげな顔は、童の心をちくりと刺したが、それもほんの僅かなものでしかなかった。例え父を悲しませようとも、母が恋しかったのだ。母の居ないこの地上に、何の未練もなかった。

「とと様、ごめんなさい。それでもぼくは、かか様に会いたいんだ」

 別れはそれで十分だった。童はもう、父を振り返らなかった。

『では、参ろうぞ』

 頭の中で、声が響いた。同じくして白龍の身体が白く雷光を纏ったように輝き始めた。

(ぼくは龍になって、かか様と――)

 目も開けていられないような眩しい光が、白龍の身体から放たれる。それは龍の鱗の一枚一枚が稲光を発しているかのようだった。

 白龍から放たれた光が、童の身体を包む。ぴりぴりと痺れるような感覚がしたが、それは不快な感覚ではなかった。まるでこの人という肉体の殻を破り、その中にいる本当の自分自身を顕わにしようとしているかのように思えた。

(かか様―――)

 心の中で童は母を思った。自分を包む眩しい輝きに身を委ね、ゆっくりと瞼を閉じる。

 今まさに人の肉体を脱ぎ去ろうとした、その瞬間――

『坊、坊や。この母の為に、愚かな真似はしないでおくれ』

 はっとした。何故今そんな言葉を思い出したのだろう。童は激しく脈打つ自分の心の臓を押さえ、得体のしれない不安をやり過ごそうとした。

 けれどようやく心の臓の動悸が治まっても、何故か先程のような感覚は二度と童の元に戻ってこなかった。いくら白龍の放つ光に身を委ねようとも、童の身体は一向にそれを身の内に受け入れようとはしなくなったのだ。

「どうして……?」

 焦りと絶望に童は堪らず呟いた。

『我が子よ、龍になれぬのなら共に天へ昇る事はできぬ。嗚呼、悲しや―――』

 童の頭の中に、悲しみに満ちた龍女の声が響いて、やがて消えた。

 気付くと童は元の粗末な小屋の中にぽつんと立っていた。

「坊よ……!」

 目を見開いて驚く父の顔がすぐ目の前にあった。

(―――ぼくは………)

 輝きを失い、まるで地に縫いとめられたように体が重く感じる。

 父が縋りつくように、力いっぱい童を抱きしめた。

 ようやく童は悟った。自分が龍になれず、この地上に置き去りにされたことに。

   *****

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