エピローグ
エピローグ
今年の新人ミュージックフェスティバルは少々の波乱を含みながらも盛況で幕を閉じた。
昨日までのごたごたなど、遠い日の夢のように普通の一日を過ごした。
今までのことを振り返る。すべてはカノンとの出会いが始まりだった。それから、慣れ親しんだ水から離れ、右も左もわからない音楽の世界へ足を踏み入れ、壁にぶつかり、焦り、悩み――
本当に一か月の間に起きた出来事なのかと疑ってしまう。それほど密度の濃い時間だった。忘れられない経験をしたと、
「ね! 聞いてるの!」
いきなり脛を蹴られる。せっかくの良い回想が吹き飛んでしまった。
「いてえな。聞いてるよ」
「何よその言い方。じゃあ、なんて言ったか答えて」
「えーと、モードの、あれだろう」
カノンの眉間に谷底のように深い皺が寄る。
「やる気あるの? そもそも、モードも知らない初心者がソウ・ワットなんて弾くからあんなことになるのよ。テーマだけ練習してたとかありえない! それは練習とは言わないの。遊びよ。ままごとと同じよ」
どうして昨日のことで、ここまで叱られなくてはならない。せっかく久々に訪れた平和な日常を過ごしていたというのに。
放課後になって部室に行くと、血に飢えた獣が俺のことを待ち構えていた。
俺の演奏が気に食わなかったなら、その時に言えばいいのに。二人きりの時に言われたら逃げ場がない。実際、俺の練習不足は揺るぎない真実なわけだし。文句は言えないけれど。
「そういえば自分の音は見つかったか?」
昨日から聞けなかったことを聞いてみる。
「…………」
カノンは何も答えなかった。
それが答えだ。見失った音は簡単には見つけられない。
「おっまたせ!」
ほくほくの笑顔の鈴葉と、普段通りひんやりした表情の戸神が部室に入って来る。別に待たされていた覚えがないが。
「じゃーん。貰ってきたよ。どこに飾ろうか」
「飾るほどでもないだろう」
「むしろ不名誉よ」
俺たちの消極的な意見に鈴葉は異議を唱えながら、額縁に入った賞状を見せつける。
「えーっ! 記念すべき初タイトルだよ。もっと喜ぼうよ」
おまけみたいな賞を貰って初タイトルか。
新フェスの結果は吹奏楽部が金賞を取った。向島の小細工がなくともあの演奏ならば誰も文句は言わなかっただろう。問題はその先、入選した団体が呼ばれたが俺たちは案の定、呼ばれなかった。
本人たちにしてみれば、急な演者変更で当然だと思っていたが、聴いている側からしたらそんなことは関係なかった。
入選団体の発表が終わると同時に会場に伝播したブーンイングの嵐は収まらず、急遽、特別枠での入選が決まったのだ。
笑いながらも、まなじりを震わせる向島の顔は一生忘れられない。
「おまけなんていらないの。ヒロがもっと上手く弾いてれば」
「へー。それをカノンちゃんが言うんだ」
入っちゃいけないスイッチが押されてしまう。鈴葉の目が怪しい光を放っていた。
「ごめん、なさい」
さっきの勢いはどこに行ったのか、空気の抜けた風船のようにしゅんとしてしまう。
「これからは一緒にこの部を守っていこうね。約束」
子供に諭すように言う鈴葉だが、怪しく光る目が何かを企んでいる。
「うん」
そんな企みに気づかないカノンは純粋に首を縦に振ってしまった。
「じゃあ今度の演奏でこれを着てもらうね」
鈴葉は戸神が持つメイド服を指さす。いったいどこから借りてきたんだ。
「へ?」
「今度、演劇部とコラボで、劇中の演奏を担当することになったの。ついでに役も誰かできないかって言われて」
事態が読み込めていないカノンは、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしている。
「大丈夫だよ。カノンちゃんなら似合うから」
ようやく理解し始めたカノンの顔はみるみるうちに赤に染まっていった。
「むりむり。こんなの」
「さぁさぁ。さっそく練習」
「え、でも」
「そうやってまた逃げ出す?」
カノンはぎょっとした顔を一瞬見せると、すぐに口をきつく結んで立ち上がった。
「わかった。着替えて着る」
戸神の持っている衣装を乱暴に受け取るとさっさと部室から出て行った。
「よし。作戦成功」
後を追って鈴葉たちも出て行く。
なんだかやり方が鈴葉らしくないな。
誰もいなくなり静かになった部室で、そっと目を閉じて昨日のことを思い出す。
明瞭な音が塞がれた空を切り開く様にどこまでも広がっていく。
昨日のカノンの音が、俺の中で鳴りやむことはない。
「あなたは行かなくていいのですか?」
開けたままになっていた扉に寄りかかるようにして唯敷さんが立っていた。
「もしかしてだけど」
「ええ。鈴葉には久瀬カノンをその気させるコツを少しだけ教えました。約束させてから本題に入り、少しプライドを傷つける。ああいう輩には効果的な方法です」
やっぱり。性懲りもなく腹黒い。なんてことを鈴葉に教えてるんだ。
「それで、違和感はなくなりましたか?」
厳格な表情を崩すと、ばつが悪そうに伺う。
「なかった。紛れもなくカノンの音だった」
カノンは自分の音を持っている。
「だけどもう少し、ここにいさせてほしい」
「それは私が決めることではないですよ」
「そうだね」
それはカノンが決めることだ。
開けたままの扉から初夏の風が入り込む。
初夏の風に乗って、俺を呼ぶようにトランペットの音が聞こえた。
「ごめん、もう行かなきゃ」
立てかけたベースを担いで部室を出る。
陽気に跳ねるトランペットは、こちらの気持ちも軽くする。
今はまだ、傷ついた翼を癒す時なんだと思う。傷が癒えれば、こちらが背中を押さなくても、手が届かない世界へと羽ばたいていくことだろう。
その時が来るまで、俺はカノンの隣でベースを弾いていたい。
彼女の隣で鳴らす音が自分の音だと思うから。
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