第四話

 屋上の片隅で天敵に怯える小鳥のようにうずくまっている人影が見える。


「こんなところにいたのか」


 カノンは名前を呼ばれると、バネのように跳ねてこちらを振り向く。目まわりが赤くなっているのを見るに、さっきまで泣いていただのだろう。

 涙をためた瞳に見つめられると、胸が針に刺されたように疼いた。


「どうして? ここにきたの……」


 くぐもった声は風に流されてしまうほどに弱く聞きとりづらい。

 俺は切れた息を繋ぎ合わせるように整えてから答える。


「決まってるだろう。迎えに来た」


 一度は引いた涙が再び琥珀色の瞳に湧き上がってくる。


「……でも時間が」

「先輩たちが時間を稼いでくれてる。だから、ほら」


 カノンはこちらが差し出した手を見つめながら逡巡し、やがて自分の膝に顔をうずめてしまう。


「やっぱりムリ。いけない」


 絶望の淵に落ちていくような沈んだ声を漏らす。


「自分の音がわからないから?」


 外敵から身を守るように身体を丸めるカノンが、息を呑むのがわかった。


「さっき、店長から聞いた。お母さんのことも」


 カノンの隣に座り空を見上げる。分厚い雲に覆われた空は、俺たちを押しつぶすようにどこまでも広がっている。


「カノンはどうしてトランペットを始めたんだ」


 この質問をするのは何度目だろう。

 顔を上げたカノンはしばらくの間、ここではないどこか遠くを見ていたが、やがて小鳥がさえずるように答えた。


「ママと一緒に演奏するため。ママもトランペット奏者だったの」


 カノンは傍らで横たわるトランペットを、形見のように大事に抱え上げる。


「最初は下手くそな演奏で音なんて全然出てなかったけど、ママは笑って私の頭を撫でてくれた」


 母親の顔を思い出したのか、雲の切れ間から覗く太陽のようにふっと頬がゆるむ。


「それがすごく悔しくて猛練習したの。幸い、家にはたくさんジャズのレコードがあったし、教材には不自由しなかった。それを聴いて、真似して、アレンジして、ママとパパ、そのお友達とセッションした」

「独学なのか? 誰かに師事したりとかは?」


 カノンはゆっくりと首を横に振った。


「大事なことはママと、レコードに記録されてる偉大な演奏家たちが教えてくれたから」


 さも当然、とうようにさらりと言う。

 間違いなくカノンは天才だ。

 ここまでの演奏家になるには、並大抵の努力では足りない。レコードが擦り切れるまで音を聴いて、酸欠になって倒れるまで吹き続けたに違いない。カノンならそのくらいは何事もなくこなすだろう。


「ママが入院してすぐ、私はプロになったの。ママを元気にしたくて。だけど、それが大きな間違いだった」


 何の感情も込めず、風が通り過ぎるようにさらりと言う。

 カノンは色々な感情が混ざったような複雑な表情を浮かべていた。


「ママが最期にね『自分に正直になって、新しい音を見つけて』て言ったの。ママにはわかってたんだ。私は偉大な演奏家たちの音を真似しただけで、私自身の音はどこにも存在してないって」


 カノンは独り言のように抑揚なく呟く。

 他人の音を真似する。それってまるで、


「モッキンバード……」


 ある鳥の名前が口を衝いて出た。カノンは少し目を開いて呻く。


「知ってるんだ。日本にはいない鳥なのに」

「少し、聞き覚えがあるんだ」


 以前に読んだ、トランぺッターの自叙伝の一節が思い浮かぶ。


――外の鳥の声が聞こえるか? あれは真似るのが上手なモッキンバードさ。鳥の声に限らず、色々な音を真似できるが、あいつ自身の声はないんだ――


 カノンは自分の事をその鳥と重ね合わせている。しかし、素人の耳は誤魔化せても、プロの演奏家や批評家たちの耳を誤魔化すことは出来ない。

 すでにカノンは自分の音を持っている。そうでなければ世界的に評価されることなんてあり得ない事だ。

 カノンは重要なことを見逃している。

 あの人はもっと他の何かを伝えたかったはずだ。


「ママが死んじゃってから、私の音に色はなくなった。それなのに私の演奏は称賛され続けた。ステージじゃ私は一人ぼっち。誰も本当の私に気づいてくれない。だから逃げるように私はここに来た。ママの欠片が残るこの場所に」


 カノンに抱えられたトランペットは、まるで自分の存在を示すかのように、雲の切れ間から覗いた太陽を反射した。その光が目に入った瞬間、いくら手を伸ばしても触れられなかった何かに、微かに触れた気がした。

 握ったままだった革袋から金色に輝くマウスピースを取り出す。主を探すように光るマウスピースはカノンが抱えるトランペットと同じ輝きを放っている。


「どうして、これで演奏しないんだ?」


 マウスピースを見たカノンは勝手に触れた俺を非難せず、逃れるように視線を逸らす。

「ヒロの持ってるのはママからの最後の贈り物。それを嵌めて吹いても上手く音が出ないの。きっと、私が偽物だから」


 主から嫌われたマウスピースを手のひらの上で転がす。


『So What』


 刻まれたメッセージを見た途端、あの人が言いたかったことを理解できたきがした。


「だから何だ」

「え?」

「そうやっていつまでも、後ろを振り返るから自分の音を見失うんだ」


 お前に何がわかるんだと、憤った視線を向けるが、そんなことでは動じない。


「あの人はカノンの音を偽物と言ったわけじゃない」

「どうしてそんなことわかるの」

「これを見ればわかる」


 カノンは文字が彫られていることも気づいていなかったようで、彫られた文字を見た瞬間、息をのんだ。


「昔に会ってるんだ。カノンのお母さんと。その時も『だから何だ』って叫んでた」


 これから起こる、様々な困難をそう言って乗り越えてほしい。その言葉にはそんな意味が込められてるんじゃないのだろうか。

 例えそれが自分の死であったとしても。

 そう仮定したら、カノンに残した言葉に違う意味がみえてくる。


「新しい音を見つけてほしいって、音で想いを伝えたい相手を新たに見つけてほしいって意味なんじゃないかな」


 琥珀色の瞳にみるみる涙が溜まっていく。

 母親を大切に思っていたカノンに自分のことは忘れろなんて言ったら、おそらく反発するだろう。そう思ったから、あんな回りくどい言い方をしたのだ。


「だから、ほら。みんな待ってる」


 自分の思っていたことが間違いだったと、気づいているはずなのに、カノンは頑なに差し出した手を掴もうとはしない。


「自分に正直になってみろよ。カノンはどうしてトランペットを始めたんだ?」


 母親と一緒に演奏するため。それは建前で、本当はもっと単純で素朴なことなんだ。


「吹きたかったから……」


 抱えきれなくなった涙を落して、ぽつりと呟く。

 みんなそうだ。俺だって、カノンに笑ってほしいなんて言っているが、根本では自分が音楽をやりたかったからだ。


「でも……」

「あーもう、じれったいな。俺にはカノンが必要なんだよ」

「ふぇっ!?」


 勢いのまま放った俺の言葉にカノンは過剰に反応を見せる。


「俺は、音楽がやりたくてもなかなか踏み出せなかった。そんな時にカノンに会ったから。カノンに笑ってほしいって思ったから。俺は水泳を辞めて、ベースを買って、皮が剥がれるくらい練習して、それなのに、勝手にいなくなるなよ!」


 俺の音はカノンのための音だ。カノンがいたから見つけられた。その思いは言葉じゃほとんど伝わらない。


「一人が嫌なら俺が傍でベースを弾いてやる。下手くそって言われても、邪魔だって言われても、ずっと傍で鳴らしてやる。だから、だから」


 伝えたいことは山ほどあるのに、思いばかりが先走って、言葉は水に溶ける砂糖のように、灼ける吐息に呑まれてしまう。


「貸して」


 カノンは俺から金色のマウスピースを取るとトランペットに嵌め、大きく息を吸い込むと叫ぶように強烈なロングトーンを鳴らした。

 曇り空を切り裂くような力強い音はカノンの慟哭のように響く。


「言葉じゃ全然伝わらない。伝えたいなら音で伝えなさい」


 振り向いたカノンの表情はこれまでと変わって覚悟を決めたように清々しかった。


「それと私の傍にいたいなら、ちゃんとついてきなさいよ。手加減なんてしないから」

「もちろん。そのためにあんなに練習したんだ。カノンも普段使わないマウスピースだからってミスするなよ」

「なまいき。私がそんなミスするわけないじゃない」


 涙を含んだ琥珀色の瞳はしっかりとこちらを捉えていた。



 出演者用の通路から音楽堂に入る。

 丁度、曲が終わったようで、聴衆の熱狂がこちらに押し寄せてくる。急いで袖まで向かうと死人のように暗い顔をした唯敷さんが俺たちを出迎えた。


「色々、迷惑かけてごめん」

「いいえ。謝るのは事情を考えずに深く踏み込もうとした私の方です」


 こちらの話を遮ると、唯敷さんは他の部員が見守る中で深々と頭を下げる。予想していなかった行為に誰もが言葉を失っていた。


「早すぎ」


 しかし、カノンだけは一切動じずに一蹴する。カノンの声を聞いて条件反射のように唯敷さんは顔を上げた。


「あんたが頭を下げる理由はこれからなんだから」


 カノンは頭を下げた唯敷さんの脇を、堂々とした足取りで通り過ぎて行くと、熱狂を起こしている中心へと向かって行った。

 相変わらず、見栄っ張りだな。さっきまであんなに情けないこと言ってたのに。


「そういうことだから、唯敷さんは何も気にしないで」


 カノンの後を追って、豪雨のような拍手が鳴るステージに出る。

 聴衆の視線はついに現れた主役へと注がれていた。


「私たちの出番はここまで見たいね」


 物足りなさを表情に出して小川先輩はフロントをカノンに譲ると、躊躇なく袖に引き上げて行った。


「後は任せたよ」


 普段通りの笑顔を張り付けた亀田先輩は、俺にベースを返すと颯爽と小川先輩の後を追って行った。

 いったん、ドラムの戸神を囲むようにしてステージの中央に集まる。


「カノンちゃんは後でお説教だからね。あとヒロくんも」

「俺も!?」

「それでどうする? 時間的にあと一曲しかないよ」

「ちょっとやりたい曲があるんだが」


 俺の提案を聞くと鈴葉は難色を示す。


「大丈夫なの?」

「私はそれでいい」


 思わぬところから援護が来る。最も反対しそうなカノンが俺の提案に乗ってくれた。


「失敗したら笑ってあげる」

「失敗とか言うな」


 俺の方をみていたずらな笑みを浮かべると、カノンは自分の立ち位置に戻っていく。


「戸神は平気か?」

「問題ない。ちゃんと練習たし」


 自信満々に答えると鈴葉はむっとする。


「わかった。ヒロくん、失敗は許されないからね」

「だから失敗って言うなよ」


 異論はあるみたいだったが、渋々鈴葉は立ち位置に戻っていく。


「大丈夫。ヒロが失敗してもフォローできるから」

「ありがとう」


 口元を緩ませる戸神はこの場を楽しんでいる様子だった。もしかしたら、この短い期間で戸神が一番、成長しているかもしれない。

 ベースアンプの前に戻ると、深く息をはいて目の前の暗闇と対峙する。


 恐怖も不安もそこからは感じなかった。


 会場が静まるのを待ってカノン、鈴葉、戸神の順で合図を送る。


 少し早めのカウントから、ベースのテーマの曲をつま弾く。

 この曲を作曲したトランぺッターはマンネリを打破するために作ったと言われている。この曲は失敗作だと酷評する批評家がいる。


 しかし、彼は言うだろう。


「So What(だから何だ)と」

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